【♀】ヒキガネweb再録　EXTRA / Gang Gang Youngster. 05(last)

ねばつくアスファルトの海。
辺りに渦巻く亡者。
最早身に慣れたそれらに囲まれ、盗賊王は立ち尽くしていた。
違う。
状況はいつもと同じだ。なのに何かが、いつもと違う。さっさと逃げないと追いつかれるのに。恐ろしいあの影に食われてしまうのに。
だのに足が動かなかった。
黒い粘つきに足首を捕えられているから――では、ない。
足場があったのだ。
まるで水を弾く油のよう。青みを帯びた水銀の塊のようなものが、足裏を支えている。
亡者は、馴染み深いかつての同胞たちは、それを侵すつもりはないようだった
どうなってんだ、こりゃあ。
呟きは思念で、空気の無い筈の世界に反響して響く。
不可解の海の真ん中で、盗賊王は辺りを見回した。初めてのことだ。この恐ろしき名状しがたい世界で三百六十度を確認する暇など、今まで無かった。
世界は矢張り暗くて黒くて、じめじめとしている。タールの雨がぼたぼたと粘着質に滴り、遠くからは、やっぱり気配がする。あの黄金の軍勢の気配が。
逃げなければと反射的に思う。だがすぐに、近くで誰かが云った。
――逃げるのか？
声の在り処を探す。アスファルトの海に、クル・エルナのボスの変わり果てた姿があった。
――逃げるのか？
いつもの怨嗟の声ではなかった。爛れた脳みそを晒しても、それははっきりと、生前のボスのものだった。
だって、逃げないと死んじまうじゃねえか。
盗賊王は呻くように云った。
死にたくない、あんたらのところには行きたくない。裏切り者だと云われても構わない、オレ様は絶対に死にたくないんだ、影に殺されるなんてまっぴらだ。
そう繰り返し叫ぶ。だから逃げなければならない。動いていないとすぐに、この身体は海に沈んでしまう。
すると男は、ボスは、うまく噛み合わせられなくなった歯をカチカチと打ち鳴らした。
――お前はもう、ちゃんと立ってるじゃないか。
カタカタカタ。歯が鳴る。きっと笑ったのだろう。
指さされた先には乾いた水銀色の足場があった。
――ちゃんと居場所を見つけたんだなァ。
「おや、じ」
初めて、声が出た。喋ることが出来た喉を盗賊王は抑える。
肌は暖かかった。黒い血も流れていなかった。
――大方、惚れた女でも出来たんだろうさ。
無惨だったしゃれこうべが、生首が、惨殺された仲間たちが、それぞれひやかして笑っているのが見える。おぞましい外見であるのに誰が誰だと分かる。
懐かしい表情だった。
何故だろう、泣きそうになる。
――怖かったのだと、今更になって気が付いた。
復讐を誓いながら、自分はずっと怯えていた。一人一人と確実に刈ってゆく黄金の影、その首魁に、憎むべき相手に、他ならない自分がいっとう恐怖を感じていた。立ち止まったら死んでしまう。支えてくれる仲間はもういない。居場所はどこにもない――そう、思っていた。
そんな情けない自分に蓋をして、逃げた。
怨嗟の声も助けを呼ぶ声も、全て錯覚だった。良き仲間がそんなことを云うはずがない。現実、盗賊王を逃がしたのは彼らだった。命を呈してお前は逃げろと云ってくれたのは、他ならない同胞たち。
もう違うだろう、と、誰かが云った。
見下ろせば覚束なく危なっかしい、銀色の足場。恐怖の海にしっかと根を下ろしたそこは、角度を変えると青く輝いた。綺麗な深い青――まるで了の瞳のような。
――そこに居れば、踏ん張れるだろう。
ボスが云った。カタカタと歯を鳴らして。
黄金の影の気配が強くなる。ざわざわと、ぞくぞくと、囲みこんで迫りくる軍勢。とても一人では太刀打ち出来無さそうな背水の陣が目の前で展開されていく。
きっと、今までなら逃げていた。
それも、今日でおしまいだ。
腰の後ろに手を回すと、愛用の得物がちゃんとホルダーに収まっていた。馴染んだグリップを握る。力がぐんぐんと沸いてくる。
「ああ、そうだ、そうだよなァ」
呟きは雷に変わる。タールの天幕を剥いで、世界を破壊していく。ナイフが白い蛇のようにうねって伸び、囲みこんだ手先の影を蹴散らす。
爽快感。昂揚感。
萎えていた全てが爆発してゆく快感。忘れていたものが逆再生の映画のようにぎゅるぎゅると、高速で身体の中に戻ってくる。
ぎっ、と、上げた視線の先には復讐の相手がいた。初めてそいつを正面から睨んだ時、こみ上げて来たのは恐怖ではなく腹の底からの笑い声だった。
勝手に過去を引きずって。勝手に重たがって、苦しんで。怖くて逃げて。なんて滑稽だ。おかげで同胞に要らない迷惑を掛けてしまった。
背後を伺うと、彼らは生前と同じように頭の悪い言葉でもって盗賊王を激励した。懐かしい声。空気。それを奪った相手を、決して許しはしない。
そうだ、許さない。絶対に。
ぐっと膝に力を込める。そうして己を支えるのは、今、居るべきたった一つの居場所。
愛しい女と新しいボス。その視線を、感じた気がした。
「了が見てんだ――あの小生意気なボス様も」
全てを推進剤にして、盗賊王は跳躍した。
逃げるのではなく真っ向から向かって。
切り裂いた真っ赤な恐怖を外套に、漲り思い出した純粋なる復讐と、闘争への愉悦を、叫ぶ。
「みっともねえ姿なんざ――見せられねえよなァ！」

◆

「明日は槍でも降るんじゃねえの」
と、意地悪い言葉を投げられて、了は顔を上げた。
ソファの一角を占拠して寝ていたはずのバクラが目を覚ましている。釦が全て外れたシャツに首に掛けただけのタイ、ベルトをまとわりつかせたスラックスもだらしなく前が開いている。
相手の恰好に文句は云えない。了などまるっきり全裸だ。膝枕をしてやっている盗賊王もジーンズを辛うじてひっかけているだけでだらしないことこの上ない。
全員汗みずく。されど身体はすっきり満たされている。
当然だ。三人でがっつり交わったのだから。
目論見通り、朝方返ってきたバクラを巻き込んでのもう一戦。バクラはことを予見していたとでも云わんばかりの呆れ顔で、
『てめえらは発情期の猿か』
などど云ったが、手招きに応じた時点で同等だと思う了である。嫌がるのではと少しだけ心配していたが、思ったよりもあっさりとバクラは状況に乗り、了はたっぷり二人掛かりで貪られたというわけだった。
「てめえが事後に起きてるなんてよ」
「ホントお前って嫌な云い方するよね……」
肘掛けにもたれ、にやにや笑いのバクラを了が睨む。風が吹いたとも思わない彼は、テーブルに手を伸ばしミネラルウォーターのボトルを取った。中身を干して、ぽいと適当に放り捨てる――否、適当ではない。正確に、盗賊王の足に当ててきた。ぽこんと音を立てたが、よかった、目覚める気配はない。随分疲れているようだ。
或いは――普段よく眠れていないから、か。
「意地悪しないでよ。寝かしてあげればいいじゃないか」
「随分お優しいこって。てめえもそいつにマジ惚れか？」
「そうだね。お前と同じくらい好きみたい」
灰色の髪を優しく撫でて、了はバクラに、盗賊王に、二人に向けてそう云った。
本当のことだ。
二人とも好きだ。
盗賊王が教えてくれた、きっとバクラには教えてもらえなかっただろう恋愛感情。先天性で空気のように愛しい男と、後天性でもどかしいほど恋しい男、了は二人の大切な人を手に入れた。
「ボクって幸せ者かもね」
「おめでてえ奴」
鼻で笑ったバクラは相変わらず冷たい。そのことにいちいちショックを受けていたら身体がもたないし第一慣れた。こいつはこういう奴なのだ。その癖、やっぱり了を傍に置くことを止めない。
「お前が云ったんだってね、おっきいバクラに」
「何のことだ」
「とぼけないでよ。ボクに手を出していいって云ったんでしょ？」
「残飯処理してもいいって云っただけだぜ？」
「残すくらいならもう食べさせてあげないよ。それとも他の女の人のとこ行く？」
別に行ってもいいけどね。
強がりではない本音を云う。無意識だろうか、双子だからこそ分かる気配で、バクラは不機嫌になったようだ。
「おっきいバクラは駄目だけど、お前なら浮気してもいいよ。どうせここに帰ってくるんだから」
「大した自信だな。保険が掛かってると云うことが違う」
「どうしてそういう云い方しかできないかなあ」
可愛くない男をひと睨み。その不貞腐れた表情で機嫌が修正されたのか、バクラは再び皮肉そうな笑みを浮かべて肩を竦めた。
「保険なんかじゃないよ。云ったでしょ、同じなんだよ。
でも、何て云うのかな、好き方は違ってるみたい」
「てめえがどの男と寝ようが構わねえが、忘れんなよ。てめえの飼い主はオレ様だぜ」
そういう物言いに了が安心することを、バクラは知っているのだろうか。
きっと知っている。分かった上で彼は云う。了が安心してここに居られるだけの理由を、枷を、言葉と身体で作るのがバクラだ。
何もかもが、手のひらの上。
それもまた、幸福のうちだ。
「そうやって意地悪云ってる時が一番楽しそうだよね、お前はさ」
言葉と裏腹の幸せに浸りながら、了は目を閉じた。
バクラを独占したいとは思わないけれど、盗賊王のことは独占したいと思う。他の人に触ってほしくない。可愛がって欲しくない。名前の分からない感情が沢山で、正直了は少しばかり困っている。胸がいっぱいなのだ。もうちょっと乳房が大きければ心の容量も増えただろうか――などと、我ながら頭の悪い考えである。
そういえば、胸が大きい方が良いのだったか。
貧相な乳房に貧相な腿。硬いだろうに、盗賊王は三シーターのソファを横に使い了を枕に眠っている。
見下ろす寝顔は、こちらが微笑んでしまいそうなくらい穏やかだった。
（よく寝てるなぁ）
さらさらと前髪を撫ぜて、了は笑った。
こんなにだらしない顔で寝ているのを見るのは初めてだ。了が目にするのは眉間に皺を寄せ、魘され苦しむばかりの寝顔だった。
悪夢に追われて苦しむ、大きな子供。
あの日そう見えた、印象は今も変わっていない。苦しんでいない分余計に子供に見える。バクラに彼の年齢を聞いたことがあるのだけれど、知らないの一言で返されたきり不明だ。本当に年下だったらどうしよう。愉快な空想に口元が持ち上がる。
他の誰の寝顔を見ても、こんなに嬉しい気持ちにはならない。
長く苦しんでいる盗賊王だから、こんなに胸がほっこりとする。じわり広がる暖かさは裸の肩も胸も満たして、欠伸まで誘った。
ふわあ。
大きな口を開けて酸素を吸うと、バクラがブッサイクな間抜け面、と的確に捻くれたことを云った。
「お休みになったらいいんじゃねえの？　そいつを退かしてベッドに行けるんだったらな」
「んん、おっきいバクラが起きるまでは起きてるつもり」
「へえ？」
片眉を持ち上げるバクラ。きっと理由も御見通しなのだろう。健気なことで、と言い残した彼は億劫そうにソファから起き上がる。
「目覚まし時計は大変だな」
「誰かさんと違って、感謝してくれるからね」
云い返してもバクラは平然としている。ネクタイを首からしゅるりと床に落として進む、足取りはシャワーブースに向かっているようだ。
数時間前の一ラウンド目、その舞台である。全部やりっぱなしにしてきたのであちこちびしょ濡れ、シャワーカーテンすら引ていなかったのでウォッシュルームまで水浸しだ。ついでに云えばタンクの湯も使い切っているので、バクラは水を浴びることになる。普段はちゃんとバクラの分を沸かしておくので油断しているはず。
云ってあげた方がいい。
多分、いや、絶対。
そう思いつつも、了は無言で見送ることを選んだ。不意打ちで冷たいシャワーを浴びて悲鳴を上げたら面白い。普段声を荒げないバクラの絶叫を聞いてみたくなった。
「意地悪かなあ、意地悪だよね。でもいいよね別に。バクラだし」
小声で盗賊王へ囁く。眠りは深いらしく、返事はない。
「今日は悪い夢、見なさそうだね」
それならば嬉しい。可哀想な寝顔はもう見たくない。
十回目の悪夢はほんの十二時間ほど前のことなのに、悪夢の事実などなかったかのように静かな眠りだ。
何がよかったのだろう。三人でのセックス？　膝枕？　それとも――
「……好きだって、分かったからかなあ」
そうだったらいいなあ。
さらさらさら。バクラと似ていて全く違う、灰色の髪を撫ぜて、了は思う。
夢は心で見るもの。些細なことで形を変える。
世界の反対側で蝶がはばたくと台風が起きる、そんなばかみたいな理屈は夢の中では真実そのとおりだ。
爪の先ほどの小さな出来事で、心は変わる。
恋情を生み出すのが心なら、きっと、良いように作用する。
「もう悪い夢、みませんように」
お祈りついでに、軽いキスをあげた。盗賊王の鼻先にちょんとつけた唇。くすぐったかったのか、ふが、と変な音が出た。
さて、あとどれくらいで目を覚ますかな。
気を抜いたらがくりと落ちそうな微睡の中、了は顔を上げる。見慣れた室内、あちこちに散らばった衣類。バクラのスーツとネクタイとがヘンゼルとグレーテルよろしくシャワーブースに向かって道を作っている。
カーテンがレールを擦る音。そしてコックを捻る高い音――
「あ」
気が付いてないっぽい。
サァっと水が降る音。と、共に、バクラの鋭くしかし大きな、表現しようのない絶叫が響く。
奇しくもそれは、盗賊王を叩き起こす目覚まし時計の役割を担うことになった。