パンドラ・コール Case five call
地面の硬さを靴裏で感じるのは久しぶりだ。
夜の空気が肌に心地よい。足元に絡むコートを払いつつ、バクラは獏良了の肉体でもって現実の世界に立っていた。
ジオラマは遂に完成した。指定の場所に移した今、暗闇の中でゲームのプレイヤーを今かと待ち構えているはずだ。
あとは適当な人間の心を少しばかり操作して、遊戯の家へと侵入させ、神のカードを奪わせる。それをあたかも自分が取り返したかのように見せ、千年眼も手渡した。得意の嘘で理由をでっち上げ、挨拶と共に背を向けたのがつい先ほどのこと。夜を渡って獏良家へと帰還する。
勝負は明日。そう――この身体ともおさらばだった。
掌を眺める。獏良了の身体だ。白く細く脆く、そして、触れたことのない場所がないほどに犯し尽くした身体。
この身体を使うことはもうないだろう。目的を果たしたら用済みだ。獏良も本能的に悟っていた別れの時。それがもう目前にまで迫っている。
働きに応じたご褒美はちゃんとくれてやった。遊戯と会う直前まで、たっぷりと可愛がってやった。ジオラマ完成のご褒美と称して、実際には今までの働きを評価して、甘く甘く、今までにないほどに優しく、滴るほどに「愛して」やった。
察しているのかいないのか、意識がある間、獏良は偶に悲しげな表情をしていた。顔を顰め、けれどすぐに快楽に上塗りされて、されるがままに揺さぶられ、そうして意識を失った。
いつものように身体に戻られては困るので、今はこの内側、心の部屋に作った檻に入れてある。どうせ意識がないのだから閉じ込める必要もないのだが、些かの失敗も許さない今、大袈裟でも処置しておいた方がいい。
兎にも角にも、明日だ。全てが始まり、そして終わる。
終幕を思うと気分が高揚した。長い長い長い計画が遂に成就するのだ。足取りは自然と軽くなる。
ふと顔を上げると、馴染みのコンビニの前に辿り着いていた。
このコンビニには随分と金を落とした。正確には獏良がだが、自宅の最寄りにあるということで何かと立ち寄ることが多かった。
そこで思い出したのは、しばらく前の、黒電話の独白。
些細なことだ。バクラにとっては酷くどうでもいいことだ。
『コンビニのシュークリーム、美味しかったな』
『バクラも食べればいいのに、あいつ要らないって』
『誰かとおいしいもの食べたのって、いつだったかな…… もう、覚えてないや』
一緒に食べたかったな。
平坦な声がそう云っていた。
何故か足が止まった。コンビニのウィンドウの前、立ち読みしている中年男性を目隠しする形で、新作シュークリームの広告が張られている。
期間限定で、日付は今日までだった。
少し目を細めて店内を眺めると、丁度デザートコーナーが見える。一際賑やかにディスプレイされている一カ所に並んだシュークリームは、残り二つ。
バクラはその二つを、じっと眺めていた。
先程の昂揚感がすうと落ち着き、静謐とした気分になる。
ポケットには財布と鍵。
胸の内側で眠る獏良。
『一緒に食べたかったな』
電話の声。
明日のゲーム。
これで最後。
何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。
最後だから何だというのだ。
どうやら自分にも、ヒトらしい部分が僅かながら残っていたらしい。
最後の最後に、哀れな宿主の願いを叶えてやろうなどと――嘘で塗り固めた叶え方ではなく、本当の意味で、一つくらい。今までずっと騙してきた、それはまるで罪滅ぼしのように。
働きに応じたご褒美なら、そうすることが真実の労いなのではないかと思った。冷えた身体を重ねて偽りの温度をやり取りするよりも、本当に望んでいることを、たとえ些細な願いでも、叶えてやるのが正しいと。
シュークリームを二つ買って、眠る獏良を開放し、交互に身体を使って食べる。甘味は嫌いなバクラだが、それくらいはしてやってもいいような気がした。それくらい、獏良は良い働きをしたのだから。
そしてきっと、彼は笑うだろう。顔を顰めた後に浮かべるあの仮面の笑みではなく、心から喜ぶことだろう。
最後に笑ったのを見たのはいつだったか。
そんな表情など必要ないから、全く覚えていない。最近はずっとあの笑い方であったから、思い出そうとしてもそれしか浮かばない。
思えば、獏良もまた嘘まみれだった。
真実を告げたのはあの電話だけで、彼はずっとバクラに嘘をついていた。身体を重ねている時でさえ、本当のことは云わなかった。
叫びたかっただろう。あの電話の平坦な声ではなく、自身のその喉で。
そうさせなかったのはバクラだ。
何故そうさせなかったのかは――邪魔だからか、鬱陶しいからか。
本当のことを云ったら捨てられる、と電話は繰り返し云っていた。
卑屈な奴だと思っていたが、そんな性格にした張本人はバクラだった。
獏良了の精神はバクラによって作り替えられ、今はもう、形を変えつつある。ヒトの醜さを抱えた、限りなくヒトに近い、ヒトでないものに変容した。心に邪悪そのものを宿した者は、その時点でヒトとは呼べないのだ。
(だから何だ)
罪悪感?
そんなものを、感じるはずがない。
あれはどうしようもないほどにバクラの宿主で、バクラのもので、どう扱おうと自分の勝手なのだから。
使うだけ使って、捨てる。
飽きた人形が捨てられるように。
ただそれだけ。
なのに何故、人形の、最後の願いを叶えてやろうなどと思う?
胸を押えると、そこに獏良の体温を感じた。
熱に浮かされて重ねた肌ではなく、元来の彼の、低い体温。触れた記憶は笑顔と同じくらいおぼろげだ。
そんなものはとっくの昔に、見失ってしまった。
無くしたものだ。要らないからだ。
そう、だから、こそ――
「……チッ」
バクラは鋭く舌を打ち、いつの間にか瞑目していた瞼を開いた。
爪先は、コンビニの自動ドアに向き――そして、バクラは迷わずに進む。
コンビニのネオンを背負い、自宅のマンションへ向かって。