パンドラ・コール Case last call
もうここに来ることはないと思っていた。
いつもは手を引かれ、或いは抱え込まれ、 強引に引き立てられて訪れた心の部屋の真ん中で、獏良了はぼんやりと座り込む。
もうここに来ることはないと――本当に、そう思っていた。
心の部屋への行き方など、獏良は欠片も知らなかった。いつだってバクラが連れてきて、前後を無くして交わり、目が覚めると自室のベッドの上だった。
行き方も、帰り方も、獏良は知らない。
それなのに何故またここにいるのだろう。もう手を引く男はいないのに。ここで甘く苛まれることもないのに。何の用もないがらんどうの場所に。
否、何の用もない、わけではなかった。
足元、爪先。そのすぐ近くに鎮座した黒い電話機。それが獏良をここへ呼んだのだと、獏良本人は認識している。
古臭い型の電話だった。アナログという単語が似つかわしい、ジュラルミンの黒電話。ファックス機能や子機といった概念は、この黒電話の遥か未来の存在だ。
そんなものが何故ここに、自分の心の中にあるのだろうか。
分からないけれど、獏良は黒電話の前で、膝を抱えて待っている。
そう、待っているのだ。
電話が鳴るのを、ずっと待っている。
「どうしてかなあ……」
獏良は一人呟く。
バクラが居なくなって、一ヶ月。
千年リングを手放した時から数えての経過なので、正確には二ヶ月になる。
彼が消滅した瞬間を獏良は知らなかった。寝不足のある日、クラスメイトと共に美術館へ行った。天秤に弾かれ、泣きながら走ったことを覚えている。途中で意識が途切れ、心の部屋に突き飛ばされた感覚がして、同時に意識を失った。
気がついたら、全て終わっていた。
あのジオラマがどんな役目を担っていたか、バクラが何を企み、何をして、どうして消えたのか、それらはすべて事後に、遊戯や城之内らの口から聞いた。
最後まで蚊帳の外だったことを知り、悔しいとすら思わなかった。恐らくあれは静かなる絶望だったのだと思う。
あれだけ固執したバクラがいなくなっても、悲しいとも思わない。千年リングを手放すことにも抵抗はなかった。おぼろげに、ああもうボクはあいつのことで悲しいとか苦しいとかそういう思いをしなくていいんだなと思い――少しだけ、安堵した。
同時に、彼のことで喜んだり楽しんだりすることももうないのだと気が付いた時、二度絶望した。
それからのことだ。心の部屋に訪れるようになったのは。
時間は関係ない。授業中も、電車の中も、酷い時は街中でさえも、意識を失いここへ来た。実際の肉体は眠ったような状態になるので、数回、病院で目覚めた。往来で倒れたので救急車に乗せらせたらしい。どこも悪くないというのに、迷惑をかけてしまった。
クラスメイトも心配している。特に遊戯は、何かを察しているのか――同じように、心の同居人を失ったことで、分かることがあるのだろうか。しきりに獏良の具合を気にしている。
ありがたいと思うのが、正しいはずだ。
けれど何も感じなかった。
二度目の絶望の時、自身の中でどこかが決定的に壊れたのだろう。獏良はそう思っている。
パンドラの箱が自分の内側で弾けたようだ。あらゆる災厄が嵐のように舞い踊って、獏良の心を食い尽くして、そして、心の部屋は真っ白になった。闇まで食われてしまったのだ。
パンドラの箱には、最後に希望が残るという。
(もし本当になら、この電話がそうなのかな)
沈黙する電話を、獏良は眠たい目で見つめた。
ここ最近、あまり眠れない。眠ると心の部屋に来てしまうからだ。
身体はきちんと休んでいるのに、精神はずっと疲弊している。アクティブに疲れたと思うことすらもうないが、常に何となくだるい。億劫で、何もしたくない。
背中を叩いてくれる同居人はもういないのだからしっかりせねば。
何度言い聞かせたことだろう。その程度で復活できるならば、そもそも絶望などしていない。
希望かもしれない電話の前で、そっと溜息。
この電話のベルは、いつか鳴るのか。そして獏良に希望を齎すのか。
鳴った時、鼓膜を震わせるのは一体何だろう。
どんな音が、力の入らなくなった足を再び奮い立たせてくれるというのか。獏良には想像がつかない。
(ボクは何を待っているんだろう)
何を、ではなく、誰を――か。
本当は分かっているけれど、知らない振りをした。
そんなものはそれこそ希望、否、妄想だ。
一番望んでいる声はもう聴けない。二度と耳にすることはない。欲しい声も、言葉も、体温も、何もかもジオラマの向こう側だ。
最後まで、獏良は誰の仲間にもなれなかった。
クラスメイトは仲間だと思ってくれているだろうが、バクラのことを知りながら教えなかった時点で、それは真実仲間ではない。信頼されていなかったとしか思いようがない。彼らにとって獏良は被害者だったのだろう。
バクラとは共犯関係だったけれど、それすらかりそめだった。彼は何も教えてくれず、最後の戦いにさえ、獏良を置いてけぼりにした。計略を共にしあんなに尽くしたけれど、それでも駄目だった。
誰にも必要とされなかった。
ボクは最後まで、ただの部外者だった。
砂になった気分だった。そのまま風に吹かれて何処かへ飛んでいきたかった。あのジオラマの砂の一粒にすら、自分はなれなかったけれど。
「電話、鳴らないな」
声に出して云ってみる。漂白された伽藍の部屋に、空しく響いた。
もし鳴ったら。そして、向こう側にあいつがいたら。
知らない振りをしながら、求めているただ一人を思う。
そうしたら、第一声は何と発言しようか。
恨み言? 泣き言? それとも、云った傍から口が蕩けるような愛の言葉? どれもしっくりこない。再会には似つかわしくない。
だから獏良は、電話を待つ間、その最初の言葉を考えていることにした。
いつか来る着信を待つには、暇つぶしが必要だ。絶望しきった冷めた心は思考するのが難しく、一つのことを考えるのにも時間がかかる。かえって都合が良かった。肉体の目覚めが始まるまで、どうせここから動けないのだから。
つらつらと、静かに、ゆっくりと。
蜘蛛糸のように縺れ、微睡のように緩やかに、退廃の権化と化した獏良はもう居ない彼を想う。
その想いこそが、箱に残った最後の希望であることも知らずに。