【♀】斯くて匣庭は落日に消ゆ 第一話-01

どうかどうか、見たい夢を見せて下さい。
ぬばたまの夜に垣間見るより鮮やかな夢を。
そうしていつか、わたくしがてのひらで転がすよりも
なおいっそうの極色を纏った現実が、夢幻の翼でもってわたくしのこころをさらってゆくのです。

 細い腕に布を巻く。
  もともとは生成の、丁度いま身に着けている簡素な貫頭衣と同じ色をしていたのだけれど、年月を重ねるにつれ砂よりも濃い色になってしまった。だがかえって具合が良い、この地では異質なものとされる白い肌を隠すには好都合な色合いだ。雑踏の人々と同じ、太陽を浴びて焼けた褐色のそれと偽ることができる。
  指先まで覆ってしまうと用を成すことも出来なくなってしまう。だからそこには溶いた泥を塗った。丹念に、丹念に。裾から覗いてしまう華奢な両足も同様に布と泥。それが済んだら、石を砕いて作った染料で染めた黒髪を軽く撫でつけて整える。老婆のような白髪は長く目立つので、苦労して黒い溶き粉を塗りこめているのだ。時間がかかるので、リョウはこの作業が嫌いである。しかしのちの苦労を考えれば仕方がない。布で押さえつけて苦しい胸を一撫でしてため息だ。
  ふう。
  重たい息は狭い部屋の、石の壁に当たって散った。本当はこんなことはしたくない。若く細い手足は窮屈な拘束を嫌がっているようにも見えた。
  リョウという名の少女は己の歳を正確に把握しておらず、しかし未だ成長を続ける肉体からして、二十の齢は超えていないと確信している。恐らく十六、七、そのあたりだろう。痩せながらも女性特有のしなやかな手足やささやかながらも丸みを帯びた肩や胸は、成女と少女の間をおぼつかなく彷徨っている。なれば少女と表現するには些か歳が過ぎるが、彼女の身体のうちでいっとう深い輝きを放つ大きな瞳に大人びた雰囲気が欠片も存在しない為、そして、彼女自身に成人の自覚が全くの皆無である為、やはり彼女は少女、と呼ばれざるを得ないのだった。
  少女は憂鬱を抱いて、これから向かわねばならない繁華の市のことを思った。
  行きたくない。面倒くさい。だが生きていくには腹が減るし、外れとはいえ町で暮らすリョウにとって、この変装は不可欠だ。ここから離れた場所に、疎まれし者がひっそりと生きる辺境の地があると人の噂を聞いたことがあるのだけれど、そこへ移り住んだならこんなことをしなくて済むのだろうか――しかしそこに住んだとて食料や水を得る為には町へと向かわねばならぬ。それならばここにいてもそこにいても変わらない。肌を隠し、髪を染め、性を偽って手早く用を済ませるのが一番楽なやり方なのだ。これ以上に面倒なことなどなにひとつしたくない。
  たまに、生きているのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなる。
  どちらが楽になれるだろう、でもきっと、自分で命を絶つのは苦しいんだろうな、苦しいのは嫌だな――なら、まだ生きていよう。己では知覚していない刹那主義の思想を抱く少女は、抑えた胸から手を離した。
  気怠く思っていても仕方ない。手足と髪の支度を一通り終えたリョウは、顔を隠す為にすっぽりと頭巾を被った。
  肌も髪もだが、一番見られてはいけないのはこの瞳だ。空の青と草木の緑を混ぜ合わせた、深い青磁の両目は人々に疎まれる。石を投げつけられる趣味はないのだから、重ねた布のむこう、影を作ってそこへ隠しておかなければ。
  水甕を覗き込み、映る姿を確認する。憂鬱そうな人影、これでいい。
  ここに映っているのは世を疎んで隠棲している、手足に損傷を受けた哀れな痩せぎすの少年だ。華奢な身体も相まって、痩せこけて貧相な身なり。誰もが関わり合いになるのを避ける外見を装って、異形の少女は砂礫の市を目指し、土を踏んだ。

 

 リョウという名前は誰につけられたのか定かではない。
  名づけたのは父親なのだろう、と本人は思っている。
  脳の片隅にこびりついた残りかすのような記憶によってもたらされた名だ。父親らしき男がりょう、と唇を動かして自分を見下ろしている映像。男は笑っていた。そんな覚えがあるからリョウという名前をまとうことにした。ああ自分は幼い頃は愛されていたのかもしれない、そう思う。だが現在のリョウは身寄りもなく、父が残したのであろう幾何かの財産と小さな家屋で細々と生活している孤独な少女だ。
  貯えにも限界がある。道行く不埒者に奪われないよう頭巾へ隠した小さな貴金属の塊は、少女の心にひんやりと落ち着かない温度を与えた。あとどれくらい保つのだろう、こうして町へ出ている間に彼女の家へ物取りが忍び込んで、隠棲者には不釣り合いな輝きを放つ財産を奪っていくやも知れぬ。浅くではあるが地中に埋めて隠しているが、見つからない保障はどこにもない。そうしたらきっと自分は飢えて死ぬのだろうな。と、どこか他人事のようにリョウは思った。働くという選択肢が存在しない、そもそもこの白い身体をして働き口など見つかるわけもない彼女にとって、財産が尽きるということはそのまま死に繋がった。食料の源となる価値を持つものが無くなれば、人間は生命を維持できない。
  無一文になった後も生きられるような方法を考えたこともある。世の中には物好きな輩がいるらしい、この気持ちの悪い白い肌と青い目を珍しがって飼いたがる、金の有り余った富裕層があるという。いざとなったらそいつらに身体を委ねてしまうというのはどうだろう。うまくやって気に入られたら、もしかしたら今よりいい暮らしができるかもしれない、そんな方法だ。
  しかし、まだ彼女が肉体的にも疑いなく少女だった頃、偶然目にしてしまった光景はその夢想を許さなかった。月のない夜、闇に紛れて蠢いていた黒々しい影――身なりの良い男とその使用人二人の不穏な動きは、今も忘れられない。
  今でもありありと思い出せる。それは恐怖の光景に他ならぬ。
  男は二人に命じ、人気のない場所へ白い肌の肉塊を捨てさせていた。どさりと放られたそれにはさかさまになった頭がついていた。抉り取られた眼窩に夜の闇より深い暗黒がうずうずととぐろを巻き、残った左の目は空の青さを永遠に失った濁り色を浮かべていた。汚らしい色に染まった布の隙間から零れる捻じれ曲がった腕を見た時、リョウは声も上げられずに建物の影に蹲るしかなかった。跳ね上がる心拍数はこめかみでうるさく刻み上がる。息の音すら洩らせない、物音ひとつでも立てたなら、あの肉塊は二つに増えることになる。こわいこわいこわい。がたがたと震えながら足音が遠ざかるのを待つ間、生きた心地もしなかった。
  白い肌をした女は身を売るとああなるのだと、刻まれた認識は数年経った今でも色褪せることはない。
  だからだめなのだ。迫害を受けることも嫌だが、売られるのはもっと御免だ。身を売れば弄ばれていずれ殺される。痛いこと、苦しいことは何より嫌いだった。あんな無惨な姿になるまで痛めつけられるくらいなら、飢え死にした方がまだましだ。胸を布で潰し、口調を改め、性を偽るようになったのもその頃からだった。肉塊は乳房を持っていた――ずたずたに破壊されても分かる、豊かな二つのふくらみは奇跡的に形を保ってリョウの目に焼き付いた。その死肉の谷間を足の長い虫が這ってゆくのすら、目にした気がする。
  だからリョウは身を売る気はないし、働くこともない。先の見通しなど何もない、いかに今を楽に、苦しみ少なく生きるか、それだけを考えて足を動かした。
  それでもリョウは夢を見る。罪のない幸せな夢を。
  いつか何か奇跡が起こって、何一つ苦しくない、楽しいことだけで埋まった世界がリョウを包み込む日が来ると。舌の上でとろけるような極上の食べ物が尽きることなく現れて、浮いた背骨を預けても痛まない寝台で眠り、白い肌と長い髪と青い瞳を晒しても何の問題もない、そんな場所で暮らすのだ。泥を塗ったり染料を染み込ませたりする作業などそこには必要なく、硬く胸を押さえつける布の代わりにやわらかい衣をまとっていられる。笑っていられる。ああ、なんて気楽で幸せなのだろう――
  第三者の目で見れば、リョウは別段不幸な生を生きているということもない。明日食べるものにも困る者からしてみれば、鞭打たれ働く奴隷からしてみれば、財産と家があり生命を脅かされる危機もない生活をしていながらそんな妄想をする彼女はまさしく贅沢極まりない、我儘な娘であろう。たとえ未来に見通しがなくとも、彼女はいま、空腹を抱えて這いつくばっている訳ではないのだから。
  実際のところ、リョウ本人もまた己をそう不幸とも思っていない。ただ楽しくない、それだけだ。それだけだが、少女は妄想を止めない。生きる以外何一つすることがない彼女にとって、未来から目を背け思想を巡らせることは唯一の遊戯だったからだ。
  彼女の妄想は止めどない。先程のような怠惰な贅沢に身を埋めるというのも悪くないが、目まぐるしい冒険やあり得ない空想とてお手の物である。少女が持ち得る知識は些細で小さな世界から得たものだったが、類まれなる想像力はあり得ない生物や展開を生み出して物語を作り上げた。思いついた瞬間に、リョウの意識は異次元へと飛び現実からぐんぐんと遠ざかっていく。一度夢想が始まれば、こうして道を歩いていても、足裏が踏む土の感触は遠のいていった。代わりに伝わるのは彼女が生んだあり得ない世界の大地の硬さ。人目があろうとなかろうと関係ない。幸いまだ市は遠く、すれ違う人間もいない裏路地を歩いていたけれど――それにしても、無防備過ぎた。
  夢心地の歩みでは、自然、速度も遅くなる。
  霧散した注意力は前方の物陰に潜む気配を拾えない。
  リョウが辻を曲がろうとした時だった。踏み出した右足が土を踏むその瞬間、彼女の細い首に、素早い動きで硬く重たいものが差し込まれた。
「ひゃっ……!」
「喋ンじゃねえ、大人しくしな」
  驚いて上げた声は、熱い手のひらで口を塞がれ遮られた。草木でも引き抜くように彼女の身体は物陰へと引っ張り込まれ、振り返ることも許されない拘束――首に食い込んだのは男の太い腕だった――の中、小さく呻くことしかできない。じたばたと泳がせた足が男の脛を蹴り、両腕で、食い込む腕に爪を立てた。しまった、油断していた、なんてことだろう、そう後悔してももう手遅れだ。
  脳裏に浮かんだのは死肉となった同族の娘の、一つ残った瞳のうつろな青。
  自分もああなるのだと反射的に思う。
  もうどうにもならないのだ――苦痛を厭う少女は、諦めもまた、早かった。
  首を固定する腕へ食い込ませた爪を緩め、リョウはだらりと腕を垂らした。急に抵抗をやめた少女に、男が訝しげな気配を向ける。
「何だ、いきなりしおらしくなりやがって」
  男は低い声で呟き、腕の力を少しだけ緩めた。その隙に振りほどいて逃げるという選択肢は一瞬だけリョウの指先を震わせたが、結局、抗うことはしなかった。こちらは弱い女の足で、向こうは男だ。追われたらすぐに捕まるし、もし刃物でも隠し持っていたとしたら背後からそのまま刺されて終わる。どんな抗い方をしたところで結果が同じなら、無駄なことはしたくない。だったら大人しくしていて、痛い殺し方はなるべくしないで下さいと頼んだ方が頭がいいと思ったのだ。
  背中から伝わる温度は絶えて久しい他人のそれで、早鐘を打つように荒い鼓動をリョウに伝える。あの、と、リョウは思うままに唇を開いた。手のひらに覆われたままなので、口を動かすと上唇が男の硬い手のひらに擦れた。
「あァ? 何か云ったか」
  リョウの声が聞き取りづらかったのだろう。男が身をかがめて、こちらに顔を寄せたのが分かった。砂の匂いと血の匂いが混ざった、荒くれ者の不穏な体臭がリョウの身体を強張らせる。こわい。けれど一度開いた唇は閉じる方法を忘れてしまった。
  叫んだりしないから、手を放してください、苦しいです、そうくぐもった声で訴える。男は僅かに手をにじり、リョウが喋れるだけの、そして空気を吸い込むのに必要な空白を作って、何だと押し殺した声で云った。
「こっちは急いでんだ、命乞いなら後で聞いてやるよ」
「違う、そうじゃなくて――いたくしないで、ください」
  憐みを誘う意があったわけではない。だが訴えは切なさを含んで震えていた。
「いたいの、嫌いなんです、ひどいことしないで」
  繰り返し繰り返し、同じことを口にした。男は、はぁ? と頓狂な声を上げ、何だそりゃあと呆れた口調で云う。その声に交じって、辻向こうの通りを抜ける何人もの足音を聞いた。駆け足に交じって金属――おそらく兵の持つ槍――が石畳を蹴る硬い音が響く。
「もう追いついてきやがった」
  そう吐き捨てる男の言葉で、あの兵はこのならず者を追っているのだと理解した。男は舌を打ち、少しばかり焦った声音で、口を寄せた耳へ囁いてくる。
「話は後だ。ガキ、てめえ家はあんのか」
「あ、あるけど」
「てめえ以外に誰か居るか」
「ボク、一人暮らしだから……」
「好都合だ。ここで死にたくなきゃあてめえン家に案内しな。見ての通り、追われる身なんでな」
  顎をしゃくった先には兵の影が過ぎる路地がある。本来ならばリョウはこの道を通って市にまで向かうのだったけれど、どうやらそれは無理らしい。男は黙るリョウの首に再び強く腕を食い込ませ、このままへし折ってもいいんだぜ、と脅してきた。
「わかっ、分かったから、苦しい、いや」
  圧迫される苦しい呼吸の合間に訴えると、男は腕を離した。細い左の手首は油断なく捕らわれたままだったが、リョウは漸く空気を深く吸い込むことができる。軽くむせながら前屈みになっていると、ぼさっとすんな、と膝裏を蹴飛ばされた。
  思わず振り向いたところに飛び込んできたのは、鮮烈な赤。
  男は真っ赤な外套を纏い、鍛えられた長躯でもってリョウを見下ろしていた。
  だが目を奪われたのはその外套の赤さにではない、リョウの青い両目を焼いたのは、生成色の貫頭衣の脇腹をぐっしょりと染めた新鮮な血液――ぼたぼた、と、大きな雫が土の上へ模様を作る様だった。
  真っ赤な男。
  脳裏に浮かんだ死女のうつろな青を塗りつぶした生命の赤は、生々しい色彩でもって、リョウの言葉の全てを飲み込んだ。
「ぼうっとしてんじゃねえよ。てめえの住処、オレ様が有意義に使ってやる」
  呆けたリョウを引き戻す声が聞こえ、瞬きをした時にはぐいと腕を引かれていた。怪我、血、痛覚、罪人、赤、様々な単語がリョウの頭の中をぐるぐる回る。その回転を打ち消すのは男の乱れた呼吸と兵の足音。
  現実。
  が、一瞬だけ遠のいて、倍の重さで帰ってきた。
  とんでもないことに巻き込まれている。
逃げたがる理性を現実逃避の一歩手前で、男が急かす声に押しとどめられた。
  大きな足が通りから少しでも遠ざかるように、リョウをせっついて案内を命ずる。今しがた夢見心地で歩んできた道のりを、見ず知らずの道連れを伴って逆戻りすることになった。
(何、なんなの、こんなことって)
  一体なぜこんなことになってしまったのだろう。片腕を拘束されながら、頭巾の下でリョウは困惑に視線を落とした。あと数十歩進めば疎ましくもいつも通りの繁華の市へとたどり着いて、石畳を踏みつつ備蓄食料や必要なものを買い込み、さっさと居心地の良い住処へ一人帰れるはずだったのに、この現実はどうだ。負傷したならず者に引っ立てられるようにして歩いている――まるで悪夢だ。
  悪漢に巻き込まれる冒険譚を妄想したことはあれど、空想の中のリョウは腕利きの旅人であったり何か特殊な能力を持ち合わせていて、こんなことに巻き込まれても冷静に対処できていた。されど実際のリョウは武器など手にしたこともなく他人と争ったことすらない、ひ弱で脆弱な小娘に過ぎぬ。いっそ他人事のように思えたら良いが、いざ身のうちに起ってしまった事件は安易な逃避を許してはくれなかった。
  男が背中を向けた所為であの鮮烈な生命の赤は目から離れた。塗りつぶされたはずの青がまだ、赤の隙間からちらちらと顔を覗かせる。死の恐怖を感じないことは生来のものだから良いとしても、その死人の青は痛みと苦痛の恐怖を撫でて、リョウの心臓を不穏に慄かせるのだった。
  強張る足を無理やり動かす。男が道案内を訪ねる度に、右、左、真っ直ぐ、そんな単語の答えで応じて、兵の足音はだいぶ遠のいた。兵に見つかったとしても末路は好転するとは思えない。誰何され頭巾を取れば、青い目は衆人に晒され俄か染めの髪もすぐに暴かれよう。そうしたらこの罪人共々、ひどい目に合わされるのは目に見えている。どこまでもこの肌と瞳は偏見の格子越しにしか見られないのだ。
  身を隠し、人の目と声を避けて若干の遠回りをして進まなければならない。男は他人の気配を感じ取り、避ける能力に長けていた。急ぎ足で、周りを確認せずに飛び出そうとしたリョウは幾度も腕を引かれ、腕の中に抱え込まれて人が通り過ぎるのを待つことを経験した。その度に、背中にあたる熱い体温――早鐘の鼓動と止まる気配を見せない血潮を感じ、おそらくべったりと付着してしまっているのであろう己の服を嘆いた。だがそれと同時に、もう着替える間もなく殺されてしまうのだろうからあんまり関係のないことなのだ、とも思う。
  男は追われ、身を隠す場所を欲している。リョウを捕えたのは彼が口にした通り、隠れ家がわりに転がり込む為の都合のいい通行人を選んだ、それだけだろう。あれだけの数の兵に追われているのだ、生半可なならず者ではあるまい。
  となればねぐらを提供した後のリョウの行く末はやはり、死。
  目を瞑りたい先行き不安の未来は、急に明確な輪郭を持って目の前に現れた。夢見た妄想が現実になることではなく、憂う必要もなくなる生命の断絶。
(せめて痛くされませんように)
  それだけを願った。腕を掴む男の手は大きく、華奢なリョウの首などその気で掴んだら簡単に、それこそ枯れ枝のようにぼきりと折ることができそうだ。それなら痛くないかもしれない、痛みを感じる暇もなく、一瞬で逝きたい。ぐちゃぐちゃに腸を引き裂かれて死ぬような目にだけは合いたくない。恐ろしい想像にリョウは幾度も震え、そんな彼女を捕えた男は震えを感じ取ったのか、ちらりと視線をよこしては何も云わなかった。その沈黙がまた、恐怖を煽るのだとも知らずに。
  町から離れるにつれ、人を警戒する必要も薄れていった。もともと町はずれに住むリョウは近所に親しくする者もおらず、暗くじめじめとした彼女の住処のまわりには生き物の気配ひとつない。誰もいないよ、と小声で呟くと、男はそれでも油断せず辺りを見回し、それから素早く、リョウを引きずって室内へと転がり込んだ。
  入口にかけた布が大きく揺れる。窓の位置を確認した男は、狭い平屋の石壁に沿うようにして移動し、入口の死角にして窓の真下にずるりと腰を下ろした。覗き込む者があっても一見にして見咎められないように計算した場所取りだった。
  腕を引かれたままのリョウは、男の正面にべちゃりと無様にへたり込むことになった。褐色の手枷となった男の手はまだ離れない。警戒し、壁一枚向こうに追手の気配が無いかどうかを確認しているようだ。そんなことをしなくてもこの辺りには誰も来ない、住んでいるのは自分だけで周りに家もないとリョウが説明をすると、あからさまに穿った視線を寄越された。
「ンなこと云って、どっかに誰か隠れてんじゃねえのか」
「本当だよ、誰もいません。何なら家探ししてくれても構わないよ」
「その間にてめえが逃げて、余所に駆け込まれるって寸法か?」
「そんなこともしないよ。第一、あなたから逃げられるとも思ってない」
  悪い人なんでしょう、と、リョウは恐る恐る云った。
  男は、まあな、と嫌な感じに笑って、空いている方の手で脇腹の傷を抑えた。
  彼は脇腹を血で濡らしていたのだった――あまりにも平然と会話をよこしてくるので、リョウはべっとりと染みた傷跡の存在を置き去りにしていた。
  リョウは考える。空想妄想以外の思考は、得意ではない。しかし己の保身がかかっているとなれば真面目に脳も働こう。痛いのは嫌なのだ。死が確定ならば、することは命乞いではなく他にあると思えた。
  掴む手のひらに恐る恐る、手を重ねて、リョウは云った。
「取引を、しませんか」
「あ?」
  男は荒ぶった息を整えられない。心なしか顔色が悪いようにも見える。血が足りていないのかも知れない。
「傷、痛いんでしょう?」
「こんなモン、唾つけときゃ治る」
「血が止まってないのに、そんなわけないよ。ここには傷を覆う布もあるし、水もある。あなたの怪我を手当する場所と、手当ができるボクがいる」
「……何が云いたい」
  警戒の色を纏って、男はリョウの顔に顔をずいと近づけてきた。
  あまり接近すると、隠した青い瞳を見られてしまう。今それは得策ではない――男は白い髪をしていたが、青みを帯びたリョウの髪色とは少し違う灰色だ。肌も褐色であるし、同じ血族ではない。ならば異形の種であることは、知られると厄介だろう。
  逸らすでもなくすっと顎を引いて、リョウは口を開いた。
「あなたはボクを殺すつもりだ」
「まァ、その方が後腐れが無くて良いな」
「ボクは、死にたくないわけじゃないけど、痛いのは嫌なんだ」
  だから、と続けた言葉の先を口に出す前に、舌の上で確認する。相手の殺意を煽らないよう、慎重に。重ねた手のひらが一度震えた。
「ボクを殺すなら、痛くない方法にして。そうしたら、怪我が治るまでここにいてもいいし手当もします。あなたのことは誰にも云わない。本当に、痛いの、苦しいのは嫌なんだ」
  おねがいします。
  精一杯の必死さを込めて、云った。
  嘘は何ひとつ込めていない。屈強のならず者に捕らわれた自分の運命はもう変えようがない。たとえ逃げられても、いずれ捕まる。頼る身寄りも隠れる場所も、さまよう場所の土地勘すらリョウは持ち合わせていない。逃げることこそ、無駄な足掻きである。逃走することで、返って惨い仕打ちを受ける確率が上がるのだから。
  確定の死の上で望むのは、せめて苦しまないような人生の終わり。
  その為ならば罪人をかくまうのも手当をするのも何だってしようではないか、どうせ死に絶えるなら何をしたって問題あるまい。
  これが一番楽で、面倒が少なく、賢い冴えたやり方だ。
  無意識な刹那主義の少女は一寸のぶれもなく、そう思った。
  だから、取引を、持ちかけたのだ。
「どうかな、ならず者さん」
「……気持ちの悪いガキだな」
  必死の提案に、男は暫し沈黙した後、ぼそりとそう呟いた。
  睨み付けてくる瞳は鉱石のような紫色をしていた。その目が、リョウの真意を探るように無遠慮な視線を投げつける。言葉の裏に企みがあったなら何もかも見抜かれてしまいそうな鋭い目だ。
  偽りがない分、後ろめたさのないリョウは怯まなかった。これ以上重ねる言葉は思いつかない。
「普通は、殺さないでくれって頼むモンだぜ」
「そう云ったら、応じてくれるの?」
「楽しい命乞いをたっぷり聞いてから、ゆっくりあの世に送ってやるよ」
「そうでしょう。だったらそんな無駄なこと、しない」
  きっぱりと云う。男はふんと鼻を鳴らした。値踏みするように見つめる。
「逃げられると思うなよ」
「そんなつもりはないってば」
「てめえみてえな鈍臭ェガキ、逃げようと背中向けた瞬間に刃背負ってあの世逝きだぜ」
「わかってるよ」
「そうかい」
「そうだよ」
  奇妙な沈黙が下りた。
  じっと睨み付ける目に応える瞳は頭巾の影の中だ。男の視線は布地を透かして、リョウの目がある場所を注視しているようだった。
  やがて男は、強く握ったままだった手を、ゆっくりと離した。
  長い時間握られすぎて血の巡りが悪くなった手を振り、リョウも重ねた手を解く。
  立ち上がったリョウを、紫の目だけで男は追った。腰の刃物が牙を見せるように、薄暗がりの室内で光る。
  刃が放たれることはなかった。
  古布と水の小甕を携えたリョウが男の正面に膝をつく。無言の中で成立した取引を違えることなく、少女の手は手当を開始した。血まみれの衣を解いて水に浸した布を押し当てた時に上げた彼の声は、不思議と笑っているようにも聞こえた。