【♀】斯くて匣庭は落日に消ゆ 第二話-03
3
――時は少々遡る。
小さな足音が遠ざかっていく。ぱたぱたと軽い、鳥の羽音にも似たそれが耳をそばだてても聞こえなくなってから、男はむくりと身を起こした。
「……行ったか」
狸寝入りの演技を止めて、実際はちっとも眠くなどなかった目を眇める。吐き出すのは溜息――それも特大の、未だかつてこんなにも重たく、厄介な感情を乗せてついたことのない溜息だった。
枕代わりに丸めていた赤い外套に肘をつき、男はがしがしと頭を掻く。
「クソ、しくじった……」
女の匂いがしない女。禁忌の少女に歩み寄るべきではないと分かっていたのに。
結局決めた、深く考えるなという結論。間違っていたことに今更気がついてももう遅い。いつもどおりに思うがままに行動する前に、きちんと考えるべきだったのだ。対応の仕方を。そして徹底して、関係に線を引くべきだったと。捕縛者と捕虜としての関係を貫くべきだった。
少女は見ていて危なっかしく、獣をばらすことさえまともに出来なかった。ちまちまとした動きが見ていて非常に苛立たしく、男は『深く考えず』つい手を出した。何故か彼女は男になついてしまった。
話を強請る少女に自分の半生を話して聞かせた。本当に気まぐれだった。恐ろしい生き様に怯え、向こうから距離を作ればいいとさえ思っていた。これも『深く考え』なかったのだ。
少女はその話をいたく喜び、出会って一日、見せたことのないほど満面の笑みを浮かべてきゃらきゃらと声を上げた。
眩しい――と、思った。
思ってしまった。
こんな薄暗い家の中で、少女の目はきらきらと輝いていた。
自身の指や首につけた、それひとつを売れば何日も暮らせる程に価値のある宝石が急に色あせて見える。ねえもっと話して。強請る瞳の青緑は、どんな宝飾品にも見たことが無い色だ。なのにその目は黄金を眺めて、綺麗だ、すごいと賛辞する。
少女は聞き上手だった。ただ純粋に、楽しんでいたのだろう。男はついつい気をよくして、いろいろと語ってやってしまった。その度に瞳の輝きは増していく。白い手――男の前で肌を偽る必要がなくなった所為で、生のままのきめ細かい滑らかな手のひらを晒した少女が、その手でもって男に触れた。長い髪の先が身体に触れた。馴染んだ熱砂とも、金で買う女の熱い体温とも違うひんやりとした冷たさが夜のようで、不覚にも、心地よいと思った。
これは非常によくない。そう気が付いた時には手遅れだった。
少女の笑顔は男にとって非常に好ましく、笑う声が耳に心地よいと身体が覚えてしまった。
気に入った。
最大の問題は、この一言に尽きる。
更に云うならば、気に入ったことを、本人に伝えてしまった。
「……冗談きついぜ」
がりがりがり、と、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、男は呻いた。
大体、気に入ったと告げた後の反応とて一方通行そのものだというのも納得いかぬ。向こうは少年を装い切れていると信じ込んでいるのだから仕方が無いのかもしれないが、始末しづらいと説明してやったら、それとこれとは関係ないと来たものだ。関係ない訳がない。彼女は恐らく、自分自身のこと以外を考えていないのだろう。こちらの気分ややりづらさなど露程も気づいていない。無神経――というより、正しく子供だ。彼女は現在進行形で、殺し殺される間柄に変化が無いと信じ込んでいるに違いない。
それならば何故、会った時そのままの、気味の悪い子供でいてくれなかったのだ。
出会った時、奇妙な少女は死ぬことを恐れていないと云った。命を軽視する姿勢に男は嫌悪感すら覚えた。痛くしないで、殺してもいいから。繰り返される懇願は男の理解を越えている。言いぐさから鑑みて、てっきり世界を疎むじっとりとした陰湿で暗い思考の持ち主なのだろうと――そうあってくれたら、決して気に入りなどしなかった。
あんな顔で笑うからいけない。今になってみれば分かる、最初に頭巾を暴いた時から顔つきだけは既に気に入っていた。長い睫や細い手足、肉付きはもっと豊かな方が好みだが、補って余りある青い瞳。それが、笑顔を見たことで中身までもが気に入った。
異端の肌と瞳を持った、十六、七、の年頃の少女。擦れていない、男の好みの笑い方をする少女。
そう理解してしまえば、己の生命を軽んじる嫌悪感すら薄れて行った。逆に、何故そんな勿体のない考え方をするのか、あのような感じの良い顔で笑える癖に、と興味の種が芽生える始末だ。
これは非常に問題である。女にかまけている場合ではない。それに――自分の性癖をよく自覚しているからこそ、余計に駄目だった。
だから、買い物に行かせたのは言葉通りの意味ではない。
「――行くか」
男がこの家から離れる時間を、作るためだ。
こんな回りくどいやり方をせずとも、ここを離れると決めた時点で――好ましいと思ったその時、適当な理由をつけて出かけるとでも云ってしまえばそれで済む。行ってくると告げて、そのまま帰らなければいい。
だが、そうした瞬間、あの笑顔が曇るさまが脳裏に浮かんだ。
話の続きを強請る顔。出て行ったきり戻らずに居たならどんな顔をするかなどと考えては、足が動くはずもない。青い目が男を探して左右し、柔らかい声で男を呼び、それでも居ないと気づいたら?
きっと朝のように出かけたのだ、そのうち戻ってくると呑気なことを考えて、男の好みの味付けをした肉料理を作って待つに違いない。そうしてやがて時間が経過し、さめて冷たくなった肉を前に、もう話の続きは聞けないのかと残念そうに顔を曇らせるのだ。
これは妄想だろうか、気に入った女が己を待ち続けるという、都合のいい世迷言か。違う、あの少女ならきっとそうするはずだ。あんなにも楽しそうにしていたのだから。
なればこそ、少女を出掛けさせる必要があった。情けない話だが仕方ない。そうさせる程度には、男は少女を気に入ってしまっていた。
出て行ったものの、後ろ髪を引かれて戻ってくるような真似だけは御免だった。行くならもう戻らない、絶対に。ただでさえ自尊心が傷ついて腹が立つというのに、これ以上みっともなくなってなるものか。指輪はその代償だ。随分と高くついてしまった。
外套を纏い、男の手は自然と腹の傷に当てられていた。
少女が手当した腹の傷がじくじくと痛む。この傷が治るまでの短い関係。完治したら少女を始末する約束。
それもなくなった。このまま身を隠すつもりだ。まだ町中には見回りの兵がごまんといるだろう。だが、木を隠すには森の中。傷は塞がっていないが、派手に立ち回らなければ問題ない。要は見つからなければいい。
戸口をくぐる時、一度だけ振り向いた。少女の気配がまだそこに残っている気がした。
誰も居ない小さな家。簡素な台所にはまだ片づけられていない食器に、まだ少し残っている干した果実がいくつか。
ああ、美味い飯だった。そう思い、少しだけ躊躇い――布を払って家を出た。
そして、いつもよりも騒がしい市が広がる町、その裏路地で、男は見つけてしまった。
ぜいぜいと息を切らし、ぼろぼろになって蹲る、男が気に入ったあの少女を。
「何やってんだ、てめえ」
己の大きな影をかぶせられ、暗がりで見る少女は酷く汚れていた。
涙だけではない。泥や埃、それに乱れた髪。頭巾はどうしたのだろうか。あんなに必死に肌の色を隠していた癖に、白い肌はまだらに汚れて晒されている。
少女は声を掛けられたことに驚き、びくりと震えて顔を上げた。
泥だらけの頬に、大粒の涙。
頭の芯がかっと熱くなるのを、男は感じた。
――どこのどいつが。
咄嗟に沸き起こった爆発的な怒りは、しかし、少女の新しい涙であっという間に霧散させられた。
「ご、ごめんなさい」
ぼろぼろぼろ、と、滴が続けて零れ落ちる。
意味がさっぱり分からず、男は黙るしかなかった。
「ボクっ、追いかけられて、違うのに、でも、いうとおりにしなかったから、だからこんな」
文法は支離滅裂だ。分かるのは、彼女が何かへまをして追われている、ただそれだけ。
「違うって云ったんだ、でも聞いてくれない、逃げたけど、帰れなくて、あなたも捕まっちゃう」
ごめんなさい、ごめんなさい――
息を乱し、喘ぎながら繰り返す姿は痛々しかった。何かに対して哀れだとか可哀想だとか、そういった感情を持ったことのない男には、今感じているこの例えようもない感覚を表すことが出来ない。
ただ胸のあたりが痛み、胃が苛々とする。状況を説明できていない少女に対してもだが、多くは、少女をこうした存在に対して腹が立つ。そいつはどこにいる八つ裂きにしてやる、と、全く理性的ではない思考を男は吐き出しかけ、そして、四方から迫ってくる聞きなれた靴音に気が付いた。
「話は後だ」
云うなり、少女の手首を掴んで引き上げる。だが彼女はばっ、と、物凄い勢いでその手を払った。何故か右手で左手を覆い、放そうとしない。
苛立った男は、少女の腰を掴むとそのまま肩に担ぎ上げた。悲鳴を上げたその小さな身体、細い足から、一足だけ残っていた靴が転げ落ちる。汚れていない足裏は眩しいほど白く、眩暈すら起こしそうになる。
病的な白に心を奪われないうちに、盗賊はぐっと前を向いた。
「てめえは大人しくしてろ。オレ様が適当に撒いてやる」
「家、いえに、帰るの」
「足がついたらヤベエだろ。どっか他ンとこだ。走りながら考える、が」
これはちぃっとばかりやべえな――
口には出さず、男は舌打ちをする。迫りくる足音と怒号は、先日追われた時よりも数を増していた。同等の数ならば裏をかく自信があったが、相手は物量で攻めてきているらしい。恐らく男が少女の家に逃げ込んだ為に行方がつかめず、人数を増したのだろう。
頭の中に町の地図を描き、男は思案する。匿ってくれる場所はない。馴染みの宿や店はあるが、小娘を背負い明らかに面倒事を抱えた姿では望みは薄い。金払いのいい盗賊であるうちは彼らは笑顔を見せるが、追われる身となっては違うのだ。信頼しているのではなく、あくまで商売の関係なのだから。
あれも駄目、あそこも駄目だと、地図のあちこちが塞がれていく。そうこうしている間にも声は近づいてくる。いっそ立ち回りを演じることも考えた。女を背負い、負傷した身では賭けにもならない。
なれば最後の手段。状況を打破する方法は一つ残っていた。
男は己が胸を手のひらで抑える。此処に宿る強大な力を行使すれば、ひと塊の兵を余裕で蹴散らすことが出来るだろう。
だが――
(あれはを使うのは、今じゃねえだろ)
使うべき時は今ではない。こんな雑魚に使う為に闇を飼っているのでは、決してない。
憎しみを食い肥大する暴力。それを叩き付ける相手は別にいる――
「あ、の、今、いまね、思いついたんだけど」
男の思案を揺らす声。背負われ、男の後ろ頭あたりに頬を押し付ける形になっている少女が、まだしゃくりあげながらぽつりと云った。
「あァ? 何だこの忙しい時に!」
「さっきは焦ってて思い出せなかったんだけど、あのね、」
「いいから云え、何だ!」
思わず怒鳴ると、少女が震える。それでも小さな声で彼女は続けた。
「ひとつだけあるんだ、誰も知らない場所。――きっと見つからないと……思う」
清いせせらぎが疲れた身体に甘く染みる。
「こいつはすげえな……」
さしもの男も感嘆の声を上げざるを得ない。崖に隠匿された小さなオアシスは、何故ここだけがこんなにも緑濃いのかと驚愕する程に清く、涼やかで、そして何よりも豊かだった。
ひび割れた地などそこにはなく、心地よい湿り気を帯びた土と草木が男の足をくすぐる。滾々と湧き出る水は目に痛いくらいの透明。水底の砂は豊富な水脈を語り、湧き出る水に合わせて波打っている。
貧しい大地を丸く切り取り、まるでそこだけが異界だ。
奇跡というよりも浮世離れした薄気味悪さすら感じさせる、美しい世界だった。
「秘密の場所なんだ」
もう涙は止まっていた。男の肩に担がれた少女が小さく云う。
隠れ場所を一つ知っているという言葉に従い、辿り着いたのは彼女が水場にしているという秘密の水源だった。背の高い草木や崖に挟まれたここならば、確かにすぐに見つかることはないだろう。
「ボクは肌の色が違うから、隠れて水浴びとかしなきゃいけなくて」
「成程な。ここなら確かに、普通の人間は寄り付かねえだろうよ」
「何かよくないものがいるんだって。一回も見たことないけど」
「ふん、確かに妙な気配がしやがる。まあオレ様には痛くも痒くもねえけどな」
「分かるの?」
「何となくな」
男の物言いに少女は首を傾げた。男は分からないならいいとそのまま捨て置く。
彼女では視認できないものを、彼はきちんと感知していた。清水の底から、辺りの草木から、自然物から発せられるには強すぎる警戒の波が押し寄せてくる。それは男にとっては非常に微々たるもので、弱い獣が怯えながら唸っている程度の感覚だった。
恐らくここで、誰かがかつて、死んだのだ。
その者に宿っていた魔物が、まだここを巣にしている。宿す肉体が無くなっても思念は残り、水という器におぼつかない存在を定着させているのだろう。不自然に緑が濃いのは水脈があるからだけではない。常世とは違う理が働いて、ここはこんなにも豊かなのだ。もしかしたらその水脈すら、魔物の影響が働いているのやもしれない。
いずれにせよ、不愉快には違いなかった。痛くも痒くもない脆弱な気配でも、夜に耳元で飛ぶ羽虫程度には鬱陶しい。
「ちっと待ってな」
少女を手直な草の上に降ろし、男は泉に向かって真っすぐに立った。
すうと息を吸って、ぴたり。
溜めた息と一緒に、男は大型の獣に似た咆哮を上げた。
「っ……!」
突然のことに驚いた少女がすくみ上る。ごう、と響いた声、否、音ではなかった。あまりにも強烈だった為にヒトの脳は音だと認識するが、正確には裂帛の気合とでもいうべきか。音以外の何かがびりびりと泉の水を、草木を、隠れていた小さな水蜥蜴や虫を慌てさせる。水面はざわめき、まるで苦痛に身を捩るようにうねり――そして、何事も無かったかのように静かになった。
「な……何、いまの」
「残りカスを掃除してやっただけだ。それよりてめえ、何やらかした」
「っ……」
大気が落ち着くのを待ってからの問いかけ。対した少女はびくんと肩を竦ませ、泣きだしそうなくらいに顔を顰めた。つついたら零れそうな涙が青い瞳一杯に溜まり、男はうっと詰まる。
気に入った少女でも、泣かれるのは御免だ。女子供が疎ましいことに変わりはない。
男はぎっと少女を睨み、泣いたら殺す、という脅しの意思表示を叩き付けてやった。ひぐりと喉を鳴らした少女はわなつく唇をぎゅっと噛み締め、ずっと握りしめ続けていた左手までを震わせる。
暫しの沈黙。追手の気配も声もしない。
やがて少女は、隠していた左手を、男の前に晒して見せた。
親指には、代償に手放した青い指輪が輝いている。
「ごめんなさい、ボク、どうしてもこの指輪、手放したくなくて……」
「はァ?」
「だって、これにだって何か物語があるんでしょう? あなたがボクに話してくれた、冒険のお話」
「そいつを手に入れた経緯ならあるにはあるけどよ。それがどうしたってんだ」
「ボクはそれを聞きたかったんだ。……お話を聞く時に、あなたの指にあって欲しかった」
少女は大切そうに指輪を胸に押し当て、項垂れている。
「だから買い物、指輪じゃなくてボクが持ってるものと交換しようとしたんだ。そしたら、店の人に指輪を見られちゃって、これは盗んだものだろうって。それで……」
そこから先は聞かずとも分かる。少女の感情についてはさっぱり理解不能だが、要は指輪を見咎められて兵を呼ばれた、と、そういうことだろう。
それで逃げたというわけだ。頭巾や手足の布、靴まで無くしているのは、それだけ追手は肉薄していたはずである。たくさんの手が少女に伸び、小さな頭を隠す頭巾が掴まれ、引き剥がされていく様子を想像した男は非常に胸が悪くなった。何故かは分からないが、気にくわない。
「ボクがあんなことしなかったら、こんな風にならなかった。だから、ごめんなさい……」
「謝ってどうにかなる問題じゃねえだろ。ったく、たかが指輪に何でそこまでしやがる。
欲しいんなら初めっからそう云え。そうしたら――」
そうしたら、そんなちっぽけなもの、すぐにくれてやったってのに。
という言葉は飲み込んだ。女に物をやるなどと、生まれてこの方したことがない。そんなみっともない真似など誰がするか。
「欲しいんじゃないんだよ。確かに指に嵌めてみた時、すごく嬉しい気持ちになったけど……
ボクじゃなくて、あなたの指にあって欲しい。それで、その指輪を見ながら、たくさんお話して欲しかっただけなんだ……」
そこで――遂に涙腺が決壊した。
ぼろりと、目玉がそのまま零れたのではないかと思うほどに大きな雫が泥だらけの頬に流れ落ちる。
ざわりと男の胸の内が落ち着かなくなった。またこれだ。子供が泣くのは不愉快すぎる。
汚れて痩せた子供が泣いている。目の前にいるのは確かに少女であるのに、一瞬、姿が幼い己に重なった。
泣いても誰も助けてなどくれない。身を以てよく知っている。
そんな感傷などとっくの昔に、腹に巣食う闇に暮れてやったはずだ。もう覚えていないし覚えている必要もない。だから、これは違う。
(思い出すな、こいつは違う)
苛々と不愉快が込み上げ、男は奥歯を噛み締めた。ぎりりと小さく響く音にすら怯えて、少女は顔を上げる。泥だらけの顔は見るに堪えない。
顔を顰める男に何を思ったか、再度ごめんなさい、と少女は云う。
謝罪など必要ない。そうしたところで何になる? 何も変わりはしない。
男は鋭く舌を打つと、もういいとだけ云った。とにかくもう彼女を喋らせたくなかった。
「それ以上泣いたら殺すぞ」
「うん……そうしてくれた方が、いい」
「あ?」
しゃくりあげながらの言葉に、男は耳を疑った。
こいつは今何と云った? そうしてくれ、だと?
「何云ってんだ、てめえ」
「家もあなたの隠れ家に出来ないし、傷の手当もご飯も作れない。それに、もう走れない」
だから、いいよ。
少女は意を決したようだった。涙を零し、それを拭いもせずに男を見上げて云う。
殺してくれて構わないと。そうした方がいいと。男が好んだ綺麗な顔を歪め、一片の躊躇いもなく。
少女は出会った時から、生への執着を持ち合わせていなかった。
気味が悪いと思った。翌日には、何故そんな勿体ないことを考えるのかと思った。
そして今、殺してくれと云う。
意味が分からなかった。男には何ひとつ理解できない。死にたくなくてがむしゃらに這った、どんな汚いことでもやった男とは対極すぎる。不愉快で、そして、たまらなく――
ああ、名前が分からない感情が渦を巻く。
(このオレ様が気に入ってやってるってのに、その希薄さは一体何なんだ)
てめえはそんなことをだらだら喋っていいモンじゃねえ。第一こっちはもう殺す気なんざさらさらねえんだよだから勝手に出て行ったってのに何ふざけたことぬかしやがるこの糞餓鬼。こみ上げてくる言葉が形にならずにただ苛立ちになって溜まっていく――そして。
吹き溜まりは、あっけなく爆発した。
「黙れ!!」
男は少女の胸倉を掴み上げ、先程の裂帛の邪気払いよりも余程恐ろしい勢いで怒鳴った。
「ひっ……」
怯えた少女ががくがくと震えながら逃げようとする。身体が勝手にそうしたのだろう、常人がこの土器に耐えられるはずがない。恐ろしいものに出会った人間は第一に逃走を選ぶものだ。
しかし男は逃がさない。寝台で押さえつけた時と同じように手をまとめて封じ、圧し掛かる形で逃走を阻む。
細い少女に覆いかぶさる影はまるで魔物そのものだった。ぎらぎらと輝く紫の瞳だけが異様に際立ち、赤みが増したそれが少女を睨みつける。喉を詰まらせ、少女は震えた。ごめんなさい、と何に対してだか分からない謝罪をまた繰り返して。
出会い、過ごした短い時間の中で溜まりに溜まった理解不能の塊は、最悪の形で弾けてしまった。
「殺せだのゴメンナサイだの意味わかんねえんだよ!」
「や、やだ離して、こわいよ、痛いのやだよう」
「ヤダじゃねえ! いいか、オレ様はオレ様のしてえことしかしねえんだ、殺すかどうかはオレ様が決めることでてめえがうじうじ命令することじゃねえ!」
「っだ、だって、ころすって、さっきも、それに最初からそう、云ってた……」
「今は違ェんだよ! 殺したくなったらそん時ヤってやらぁ! オレ様は泣くなっつってんだ!」
分かったか、と、もう一度怒鳴り散らす。
云いたいことはとにかく云ってやった。感情任せだったがあれこれ考えるのが嫌いな男にとって、これが一等すっきりとする発散方法だ。
爆裂した苛立ちが言葉の力で体外へと発散されてゆく。力でねじ伏せ、したいことをする。禁忌など忘れて押さえつけた柔らかな肌は、震えも忘れて硬直していた。
耳に痛いほどの静寂を、乱れた男の呼吸が混ぜる。
少女はまた泣きだしそうに顔面全体を歪ませ――そして、ぐっと喉を締め、耐えた。
「ごめ、なさ」
「だからそれも止めろっつってんだ。聞いてなかったのか、あァ?」
「ちが、そうじゃなくて、泣いて、ごめんなさい……」
もう泣かないから、と、唇を強張らせて、少女は云う。
その声で冷静さが戻ってくる。押さえつけた少女の身体の細さや弱々しさ、好んだ笑顔の欠片もない表情。泥に汚れ、男の怒声に傷つき、震えることもままならない小さな存在。
すう、と、何かが頭の芯を抜けた。
――こんな顔をさせたいわけではないのに。
途端にこの状況が嫌になり、男は少女の上から退いた。少女は時間をかけて起き上がり、男の前にぺたりと座り込む。あの昔語りの時と同じ、近すぎるくらい近い距離で。
「ボク、は、死にたいわけじゃない。でも、もうあなたの役には立たないし、約束も守れない。邪魔なだけだと思ったから」
「それはオレ様が決めるこった。てめえが勝手に決めんな」
「うん…… それに、それにね。この先どうしたらいいのかも分かんないんだ。家がなくなったら、居場所なんてないし、あなたはもう逃げるでしょう?」
だったらその前に終わらせてほしかった。
怒鳴る前よりも小さな声だったが、余計な感傷や甘えが抜けたのか、はっきりとした口調で少女は云った。
(……ああ、そうだ)
そもそもこいつを連れて行く必要はなかったんだ。と。
男は少女の言葉で、漸く気が付いた。
今までそんな風に考えたことが無かった。置いていくとか始末するとか、そういったことは全く思考の外で、男の中で少女を連れて行くことは既に決定事項になっていた。逃げている間も疑問など感じずに細い身体を担いで逃げたし、ここへ置いていく心算も無かった。
判断する必要もないくらいに、当たり前だったのだ。役にも立たない、女としても使えない、しかし好みの笑顔を浮かべる少女を連れて行くことが。
家を出る前は遠ざけたいと思っていたのに、追手から逃げているうちに、自然と決定していた。
つまりそれだけ、捕らわれているということ――
「……マジかよ」
思わず天を仰ぐ。
この盗賊の王たる自分が、こんなちっぽけな小娘ひとりに本気になっているだと? 何という笑い話だ。あまりにも滑稽すぎて腹も立たない。
「どうしたの……?」
心配そうに少女が云う。涙の痕が残る赤い目元をして、男の顔を覗き込む。
禁忌の気配はまだ色濃く感じられた。希少価値を思わせる少女は見る影もなく薄汚れて、其れが一層、彼女本来に宿る不思議な輝きを際立たせる。
違うことは、その禁忌を避けようと云う感情が霧散していたことだ。
昨夜、肉欲と同時に忌避を感じたあの感覚が無くなっている。
二倍に膨れ上がるのは、少女を我が物にしたいという本能。
今更気が付いた。みすぼらしく丸まった少女を目にした時の怒りの正体も、泣く姿を見たくないと思ったのも、全部、根は同じだった。
泣き顔は幼い己を想起させるから、それだけではない。単純に嫌だったのだ。笑顔がとても好ましかったから、真逆の表情など見たくなかった。ただそれだけの話だった。
「ねえ、どうしたの?」
天を仰いだまま動かない男に、少女は尚も呼びかける。ねえと繰り返される不自然さは、そうだ、彼女は自分の名を知らぬのだったと思い当たる。そして、自分もまた、彼女の名を知らぬことを。
何も知らない、出会って間もない、ちっぽけな小娘。
認めたくない。認めざるを得ない。まだ足掻いている。
そんな女に、自分は――
「ねえってば えっと――バクラ?」
びきん、と、背中が攣った。
身体が反射的に、発条のように少女に向く。少女は困惑の色濃い様子で、上目使いに男を――バクラを、見つめていた。
「な、」
「違ってた? お墓を荒らした盗賊の名前がバクラだって聞いたから、あなたのことだと思ったんだけど……」
「――」
言葉が出ない。
既に名を知られていたことは問題ではない。そんなものは、そこいらじゅうで名乗って堂々と盗みを働いているのだからいずれ知れよう。別段隠していたわけでもない。それよりも、その――少女の唇から発せられた、己の名前の、その響きが。
「……バクラ?」
黙るバクラを訝しがって、少女は瞳を曇らせた。再び機嫌を損ねたと思ったのか、柔らかい指先がバクラの赤い外套をぎゅっと掴む。
「ひょっとして、嫌だった?」
違う、そうではない。驚いて、言葉が喉に詰まっているだけだ。
バクラ。自分の名前だ。追う兵が怒号と共に怒鳴り、人々がひそひそと声を潜めて悪人の噂をする時に呼ぶ名前だ。それが、少女の唇で呼ばれただけでまるで色を変えた。負の感情を乗せずに名を呼ばれることが、これほどまでに――ああ、何と表現したら良いのかもわからない。
少女が云う。
バクラ、ねえ、どうしたの。
唇の形そのままに、柔らかく呼ばれる。そうだ、これは、心地よさだ。
誰に呼ばれても何とも思わなかった。名前という記号が意味を持った、そんな感覚だ。
気持ち悪い。頭の芯がかっとなる。なのに、心地いい。
「バクラ、ねえ……」
何も云わないバクラの裾を引き、気弱な声で、少女が呼んだ。
その瞬間、心臓の奥の奥で何かが溶けた。あるいは柘榴が弾けるように、壊れた。
うじうじと益体なく迷っていた時間がはるか後方に遠ざかっていく。
確定した。
ああ、今、完全に、自分はこの少女に惚れたのだと。
「……ハッ」
何故か爽快な、愉快な気分になって、バクラはいきなり笑い出した。
苛立ちで膨れ上がっていた箇所はもう吐き出し切って空っぽだ。その空白に、別の感情が満ちていく。仕方ねえだろうこれは。これ以上足掻く方が余程滑稽だ。
バクラは一度、頭をかくんと地面に向けて落とし、そしてゆっくりと、顔を上げた。
その目は、少女が今まで見ていた彼の瞳とは、微細に色を変えていた。
いきなり破顔したバクラに、少女の方が驚くことになる。どうしたのねえ何。戸惑う顔をいと おしいと思った。つまりは開き直ったのだ。決定的な証拠を突きつけられて、なおも否定するなどと男らしくないことなど、盗賊の王はしない。
一頻り笑ってから、バクラはやおら、つり上がったままの口で云った。
「おい、てめえ」
「な、なに?」
「てめえの名前は何てぇんだ?」
「え……」
「そっちだけ知ってるのは不公平じゃねえか。教えろよ」
唐突な質問に少女は目を丸くする。だが、笑っている男が気分を損ねたのではないということは察せられたのだろう。やがて素直に、リョウ、と、小さな声で彼女自身の名前を口にした。
「リョウ。リョウか、そうか」
教えられた名前を、バクラは口の中で何回か呟いた。舌触りのいい音だと思うのは、惚れたことを自覚したが所以であろうか。ああもうそんなことはどうだっていい。
否定する僅かな隙間もないほどに、ぴったりと嵌った。よもやこんな小娘にとは思ったが、事実は事実であり揺るがない。好ましい笑顔、細い手足、名前を呼ぶ唇。それらすべてが隠しようもない魅力を持って、バクラの前に晒されている。
バクラは盗賊だ。欲しいものは必ず手に入れる。それが宝物だろうと、好いた女だろうと――必ずだ。この盗賊王たる自分が惚れたのだから相手にはその倍以上の熱さと勢いでもって惚れさせなければ名が廃る。
欲しいのは身体だけでも心だけでもなく、その両方。リョウという名のこの少女の全て。
「リョウ」
バクラは少女の名前を呼び、近い距離を更に詰めた。リョウはびくりと身体を震わせる。逃げることはしなかった。
一度触れようとして躊躇い、結局は髪をかき混ぜてごまかすに留めた手を、今度こそ頬に触れさせる。驚いた細い身体がひくりと竦むが構わない。そのまま迫って、腰ごと引き寄せる。
息が絡み合うほどの距離で、息を殺して、二人は見つめあった。
驚愕に見開いた青い瞳に、バクラの顔が映る。肉食獣の風体で笑っていた。吸い込んだ息が生ぬるい。
吐き出すと同時に、云った。
「リョウ、てめえに惚れた」
オレ様のモンになれ。
羞恥心の欠片もなく、自信だけが満ちて構成された声――これこそがバクラという盗賊の本来の姿である――でもって、バクラは有りの侭をリョウに伝えた。
リョウは丸めていた目を更に大きく丸くして、それからぱくぱく、と二度ほど、魚のように口を開いた。どうやら声が出ないらしい。
無理もない、口説かれたことなど一度もなさそうな風情の少女だ。それに今はこんな色恋沙汰を繰り広げている状況ではない。追手は撒いたと云えども逃亡者の身の上、リョウは満身創痍でまともに立ち上がれず、バクラの腹の傷も開いている。全く以て似つかわしくない、場違いな展開だった。
(それが何だってんだ)
二日間もやもやとしていたのだから、このくらいの好き勝手はさせてもらいたい。
もしかしたら、リョウははぐらかそうとするか混乱して泣くかするかもしれない。そうしたらその唇を唇で塞いでしまえば済む。中身が幼いとはいえ一応女、その先に何が待っているか、本能でわかるだろう。
開閉した唇がぐっと閉じ、そして、また開く。
軽く震えた。わなわな、と、表現するのが一等正しそうだ。
それなら塞いでしまえと、バクラが齧り付くようにその唇に近づくと――
「お、男の人が、好きなの……?」
青ざめた表情で、リョウがそう問いかけた。
そういえば、正体を見破っていることを告げるのをすっかり忘れていた。
しまった――そう思うがもう遅い。誤解をはらんだまま、今更止められない唇が、少年を模り震える少女のそれにしっかりと重なった。