【♀】斯くて匣庭は落日に消ゆ 第二話-02

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 一度会話という交流方法を手に入れてしまうと、今度は沈黙の方が退屈になった。
  もともとリョウは楽しいことを何よりも愛する人間である。無自覚だったが、今までの一人きりの生活は少女らしい年相応の楽しみの一切をそぎ落としたものだったと、この短時間で気が付いてしまった。人と言葉を交わすということがこんなにも愉快なこととは知らなかった。男はすぐに向こうを向いたりごまかしたりするので、それを指摘して会話を絞り出させるのがなんとも愉快だった。怒鳴られるのではないかとひやひやすることもあるが、彼はリョウが顔を緩ませていると何故か声を荒げない。恐らく、子供――男から見たらリョウの見た目は少年で通るだろう――が苦手なのだ。泣いた時もそんなようなことを云っていた。ガキは嫌いだ、泣けばいいと思っている、と。つまりは泣かれると弱い訳で、笑っているところを怒鳴れば彼曰く「ガキ」は泣く訳で、強く言葉を吐けないのではないかと推測された。
  そんな予想を付けられるくらいに、リョウは男と会話し続けた。食事を終え、手当を終えて並んで窓の下に座っている今も、少女の唇は休むことなく男を質問攻めにする。
「ねえねえ、あなたは何者なの? さっき教えてくれなかったじゃないか、悪いことしたの?」
「だからてめえに話す義理はねえっつってんだろうが」
「どうせ傷が良くなったらあなたの手でさよならするんだから、いいじゃないか」
「それ言えば何でも済むと思うなよ。空気読め、ガキ」
「ガキで結構だよ。じゃあさ、何したかは云わなくてもいいから、何か話してよ」
「話だァ?」
「ボクね、あんまり世の中のこと知らないんだ。ボクよりは人生経験が豊富なように見えるし、面白い話を聞かせてよ。なんでもいいから」
  ね? と手を合わせてお願いをしてみる。男がじっとりとした目でこちらを睨み、それからはあ、と浅い溜息が漏れた。
「よく喋るガキだ。これだから女」
「え」
  ぎょっとする。女、という単語で肩が跳ねあがった。ぎくりとした様子のリョウに男は驚いて言葉を切り、それからすぐに、
「……女みてえな奴は鬱陶しいんだ」
  と続けた。吃驚した、ばれてしまったかと思った。全く心臓に悪い。
  会話の楽しさにすっかり忘れていたけれど、少し近づきすぎて居たかもしれない。男を質問責めにするにつれ前のめりになり、二人の身体の距離はすっかり縮まっていた。手を伸ばさなくても肌に触れられる距離だ。胸を潰していても、頭巾をはずした顔はもう隠すものがない。まじまじと見れば、骨格や顔つきからばれてしまう可能性もある。肌と瞳の色で差別はされないが、女だと偽っていたことが知られれば再び厄介なことになるかもしれない。良い人そうだから大丈夫だとは思うけれど――念のため、だ。それとなく身体の間に隙間を作ってから、リョウは気にしていない風を装って、再び話を促した。
「聞かせてよ、ね?」
「わーったよ、ったく……」
  男ががりがりと頭を掻く。膝を抱えて、リョウは男が口火を切るのを待った。
  そうして綴られたのは、リョウの及び知らぬ摩訶不思議な世界の物語だった。
  少女の知る狭い世界のどこにもない、それこそ日々妄想するような夢に近い日々を、彼は生きてきたようだ。男は盗賊だと云う。それも、人々から小銭をくすねるようなせこいものではなくて、もっと大きくもっととんでもないものを盗む盗賊だと。彼は墓荒らしという冒涜的な行為を生業として、見たこともない黄金や宝石といった宝物を手に入れて生計を立てていた。リョウは宝物に全く興味が無い――金持ちになりたいわけではないのだ――が、彼が忍び込んだ場所に仕掛けられた罠やそこへ至るまでの冒険に、騒ぐ胸を押えられなかった。
  リョウが夢に描いた物語は、彼の元にこそあったのだ。
  蜘蛛の巣のように張り巡らされた恐ろしい罠の数々を、男は時には軽々と、時には命からがらすり抜けて、そうして盗み取ったもののうちの気に入った分を、彼は身に着けているらしかった。首や腕、指を飾った金色や赤や青、翠の石はそういった経緯で手に入れたのだという。本来ならば死者の弔いの為に奉納された宝飾品を身に着けるというのは全く涜神的極まりないのだけれど、リョウにとってはそんなことは関係なかった。死者はそんなことをされても喜ぶ心ごと消失しているのだし、中身のなくなった肉体を弔う意味さえよく分からない。それよりも、心躍るその冒険譚を聴き入ることに忙しい。
  初めは乗り気でなかった男も、リョウのきらきらとした目で見つめられ嬉しげに聞き手に回られて、段々と饒舌になっていった。不機嫌な表情が和らぎ、代わりに自慢げな、ともすれば幼く見えがちな程に得意そうな顔でもって、己の体験を語った。鼻を高くして話すその口ぶりに、リョウは幾度も頷きながら先を強請る。それでどうなったの、その迷宮には何があったの、その時手に入れたのがその指輪? すごいね、綺麗だね――世間を知らない少女は物語を聞きながら頭の中で得意の妄想を繰り広げ、男が歩んだ波乱万丈の人生を夢想した。両手に拳を作って振り動かしながら、興奮気味に笑う。
「すごいね、本当にそんな世界があるんだ! 知らなかったよ!」
「おっと、これが普通だと思うなよ? オレ様は特別だからな、そこいらの奴らじゃああっという間にあの世逝きさ」
「ねえ、ボクもそんな風になれるかな? あなたみたいにそんな面白い体験、してみたい!」
「そりゃ無理だろ、その細っこい足じゃお宝に辿り着くこともできねえよ」
「えー? ずるいよ、ボクも楽しいことしたいよ!」
「オレ様が語ってやるからそれで我慢しな。もっとすげえ話だってあんだぜ? 確かありゃあ一年前だったな……」
  随分と舌の周りが良くなった男は、その後も長々と話を続けた。片づけるのを忘れた卓の上の食器に取り残された付け合せの玉葱がすっかり冷めてしまっても、冒険譚は終わらない。ひょっとしたらリョウと同じように、男も退屈していたのやもしれぬと少女は思った。こんなに饒舌に喋ってくれるとは思っていなかったし、語る彼の横顔はしかめ面よりもずっとずっと似合う、軽く笑った表情を浮かべていた。男が笑っているのを見ていると、威勢の良い食べっぷりを眺めていた時と同じ、不思議な満足感が身体に満ちるのを感じる。男は喋るのがなかなかうまかった為、冗句を織り交ぜて語られるそれにリョウは何度も手を叩いて笑ったりもした。
  話は楽しく、胸は満たされている。笑いすぎて頬の奥の方が痛むくらいだ。
  途中、喋りすぎて喉が渇いた男へ今朝汲んだばかりの水を差し出し、無花果以外の干し果物を並べた時以外はずっと、リョウは男の隣に座り続けた。一度離した距離はまた詰まって、手のひら一つ分もない身体と身体の間から、ほのかに体温さえ感じ取れそうだ。リョウが頭を揺らして笑うと、男の剥きだした二の腕に髪の先が触れた。戦利品の指輪を自慢げに見せた時、リョウの細い指先は男の手の甲に添えられた。接触は、意識もしないほど自然に行われていた。
  太陽が中天から少し斜めに傾き始めた頃、さすがの語り部も疲労を感じたらしい。ふうと溜息をつく。
  久方ぶりの沈黙が、しかし気まずさも無く静かに訪れた。
  見上げたままだったリョウの瞳はそのまま盗賊を見つめ続け、盗賊も彼女を見ていた。
  まみえた二つの瞳の色は違う。青磁と紫、その二色は互いの顔を映すほどに近かった。
「――」
  何故か男が、ぐ、と喉を詰まらせた。
  了の眼に映る男の顔は不思議な表情を浮かべていた。名前のつかない感情が、歪めるでもなく笑わせるでもなく、不可思議な均衡を保ってリョウを見る。
  何を思ったのだろう。思って、いたのだろう。
  沈黙は心地よさを湛えたまま、ひたひたと、それ以外の空気を帯び始めている。
  リョウには分からなかった。そのような視線を向けられる意味も、何故彼が自分を見つめたまま微動だにしないのかも。
  年相応の女性ならば、この空気の意味を察せられただろう。男と女。近すぎる肉体の距離。目見交わす二人の身体の間に走る磁力――そうして男女は引きあうものだと。
  だがリョウの精神は未だ少女の領域を脱さぬままであり、いくら視線が絡み合っていても、そこに意図はなかった。話の続きを強請る子供の眼はどこまでも無邪気で、そのことを知ってか、男はふいと視線を逸らす。まあこんなところだな、と、わざとそっけなく、話を切り上げる言葉を添えて。
「オレ様の凄さがよくわかっただろ?」
「うん! ほんとにすごいよ! 見直したよ!」
  恐らく男の言葉は、おかしくなった空気を有耶無耶にするための冗談だったのだろう。しかしリョウは心から、大きく縦に首肯して手を叩いた。狭い世界の少女にとって、墓荒らしの盗賊の実体験はとんでもなく素晴らしい物語だったのである。あまりにも素直に肯定された男の方が面喰って、ぽりぽりと頬を掻く始末だ。
「すごい人だったんだね、あと、やっぱり悪い人じゃなかったんだね!」
  リョウは空気を混ぜられたことにすら気づかず、陽気に笑ってそう云う。
  悪事を聞いて悪人ではないと云う少女に、男は更に不可思議な顔をした。てめえは今まで何を聞いてたんだ? そう問うと、確かにやってることは悪いことかもしれないけれど、とリョウ。
「だって、ボクに楽しい話を聞かせてくれたよ。他の人にとっては悪い人かもしれないけど、ボクの中ではあなたは良い人ってことになったんだ」
「何だそりゃあ。……まあ、評価が変わったのはお互い様かもしれねえけどよ」
「?」
「わかんねえならあとでツラ見とけ」
  そう云ってから、男は参ったと舌を打った。ごまかしたはずの空気はまだ、リョウの知らぬところで男の精神を揺らがせているようだ。
「何が参ったの?」
「だからてめえの状況をきちんと分かっとけって……」
  言葉の意味が理解できず、リョウはきょとんと首を傾げた。もう近すぎて睫の長さまで確認できそうだ。そんな距離で、揺れた髪がまた男の腕に触れる。くすぐったかったのか、無骨な手がその場所を手のひらで擦った。一度言いよどみ、黙り、そして結局は云い捨てるように、厚めの唇が開く。
「始末するとか、やりづらくなるじゃねえか」
  ああ、そういうことか。短い言葉で察して、リョウは口をとがらせた。
「それとこれとは関係なくないかな」
「アホか、関係ありまくりじゃねえか」
「だって、怪我が治るまでの短い時間を楽しく過ごせたらボクはそれだけでいいんだ。あなたはボクにとっては良い人になったけど、普通の人にとっては悪い人なんだし、ボクを生かしておいたら後で困ったり後悔したりして、お仕事に障るかもしれないよ」
「んなこた分かってんだよ。分かってるから厄介なんだ」
「わかんないってば。云っておくけどボクは逃げたりしないよ」
「そうじゃねえ。――気に入ったって云ってんだ」
  てめえのことが。
  少しの躊躇いを溜めてから、不意に男が、そんなことを云った。
  気に入った? それは誰のことだろう。リョウは沈黙し、どう考えてもそれは自分以外に該当者がいないと気が付いて、目をぱちくりと瞬きさせた。
  男は横目でリョウを見ている。紫の鉱石のような深い色合いに自分の顔が鏡映るほど近くにいたことに今更気が付いて、リョウは慌てて顔を引いた。
  何故だかどうしてか、頬が熱い。いや待て男は自分のことを少年だと思っているのだから、そんな妙な意味合いが含まれている訳もないのにこれはどうしたことだろう。というか今までそんな気に入っただのそんなことを他人に言われた試しもない、こういう時は一体どんな顔をしたらいい? まず顔を赤らめるのは間違っている、男は男性で自分も男性を装っているのだからこれでは変だ。おかしい。でも身体は女性だから間違っていないのか? 本当に分からない、全く理解できないのにどうして顔が熱い――どうどうめぐりの思考の輪に陥っている間も、男の目はリョウをじっと見ていた。先程は目を逸らした癖に、今更そんな目で見ないで欲しい、というか何でそんな目で見る? ひょっとして男は噂でしか聞いたことが無い男色の気でもあるのか? ああどうしようどうしよう――遅れて漸く知覚したおかしな空気に硬直していると、不意に、男の手がリョウに向かって伸びてきた。びく、と、身体全体が震える。
「な、に……?」
  かすれた声で問う。答えはなかった。
  大きな手が一瞬、頬に触れそうになる。中指の先が少しだけ、少女の滑らかな肌に触れ――それからすぐに勢いをつけて、ぐしゃぐしゃと頭を掻き交ぜられた。
「な、え?」
「だから、気に入ったっつてんだろ」
  気に入ると人の髪の毛を引っ掻き回すものだろうか? 甚だ疑問だが、ともかく妙な雰囲気は今度こそ払拭された。男はぽんぽん、とリョウの頭のてっぺんを叩き、それから軽く伸びをする。
  つまりはあれか、弟とか、そういった感じの気に入られ方をされたと取れば良いのか――リョウは精一杯考えて導き出した結論に、証拠もないまま決定の判を押すことにした。これ以上考えると頭が爆発してしまいそうだ。胸をなでおろしていると、やおら男はごろん、と、床の上に横になった。
「ちっと疲れた。オレ様は寝る」
「え、もうお話しはおしまい?」
「オシマイだ。てめえは――そうだな、町行って飯の材料でも仕入れてこい。起きたら食う」
「まだ食べるの…… って、町?」
  状況を理解しろといった舌の根も乾かぬうちに、一体何を言い出すのか。リョウが訝しげに言うと、既に半分目を閉じた男が、逃げねえんだろ、と云った。
「逃げねえなら、買い出しに行かせても問題ねえな」
「信用しちゃっていいんだ?」
「何だ、やっぱり逃げる気があんのか」
「ないけどさ……」
  ないけれど、そう手放しにされると妙な気分になる。逃げたところで行くあてはなし、盗賊がいると告げ口するも、先程の野蛮かつ勇猛な手管で窮地を切り抜けた冒険譚を聞いた今では、そんなことをしても兵をかいくぐって平気で逃げて、裏切り者の自分を捕まえることなど容易そうだ。ますますもって、逃げる理由が無くなった。
「寝りゃあ傷も早く塞がんだ、おら、とっとと行け」
  躊躇うリョウに、男は獣を追い払うような仕草でぞんざいに手を振った。
  一体この男はどうしたいのだろうか、さっぱり分からない。立場をわきまえろと言っておきながら気に入ったと云い、だから始末しづらいと頭を掻き、しかし傷を早く治すと云って寝そべる――どれを優先したらいいのか理解不能だ。ただ単にリョウの言葉の反対のことを云って揚げ足を取っているのか、もしくは――これは全くの根拠のない予測だけれど、彼自身も、どうしたらいいのか考えあぐねているのかもしれない。
  だとしたらもしかしたら、殺されないという可能性もあり得るのではないか。
  それならば、先程聞いた目まぐるしい冒険の連れにしてはもらえないかな。我ながら呑気なことを考えて、リョウは傾げた首を元に戻した。
  どれにせよ、どうなるにせよ、そうひどい目には合うまい。楽観的な答えを手に取って立ち上がることにする。
  気に入ったのが本当なら、よくて殺されないで済む。悪くても、痛めつけて始末されることはなさそうだ。どちらにしてもリョウにとっては問題がない。ならば云うとおり、食事の買い出しに行くのが得策であろう。
  男の気が変わらないように、彼が好みそうなものを選んで買ってこよう。
  寝台に脱いだまま放置していた頭巾を手に取り、リョウは手足に塗る為の溶き泥を準備する為に、水差しと器を手に取った。その背中に、おいと低い声が投げられる。
  返事と共にリョウが振り向くと、
「持ってけ」
  ぽい、と、何か硬いものが投げられた。小さなそれをリョウは受け取り、まじまじと見る。男が指に嵌めていたもののひとつ、青い石がはめ込まれた指輪だった。
「モノ買うならそれで払っとけ」
「でも」
「その分食う。肉はケチんなよ」
  どうやら今晩も、食事は肉料理がいいらしい。
  随分と豪気なことだ。しかし、そう指示されたならば逆らう理由もない。肉を売っている店は一体どこにあったか、市の見取り図を頭に思い浮かべながら、リョウははあいと従順な返事をする。心なしか、いつもよりもずっと軽やかな足取りで、目的地へと向かうことが出来た。
  ――市は相変わらず賑やかで騒がしかった。
  穀物を売る女、果実を並べる男、その他にも布や日用品、何に使うか想像もつかない道具を売る者、その店と店の隙間に蹲る物乞いの子供――たくさんの人間の足音と話し声が混ざり合って、世界が太陽光を当てられてきらきらと輝いている。今までそんな風に感じたことなどなかったけれど、賑やかなのも悪くないことなのかもしれないなと、柄にもなくリョウは思った。
  昨日と今日では大違いだ。他人の気配がさほど煩わしくない。
  それでもやはり気軽に人々と接触しようとは思わないが、肩が触れるだけで何となく嫌な気持ちになりがちだったリョウが、そのように明るい思考で雑踏を歩くのは初めてのことだ。
  それもこれもあのならず者の影響だろう。渡された指輪を無くさぬように握りしめて、確信的に思う。
  彼と一緒にいるのはおもしろい。短い時間を一緒に過ごしただけで何度声を出して笑ったことか。他人との会話が全くない生活をしていたリョウは、楽しみと云えばお得意の妄想だけで、その妄想の中があまりに楽しくて含み笑いを漏らすという一見不気味な笑い方しかしたことがなかった。
  低く滑る声が話す冒険譚は極彩色の気配をまとってリョウを虜にした。こうして足早に歩くのも、さっさと帰宅して話の続きを強請りたいからだ。男の身に着けていた目にまぶしい宝飾品の一つ一つにまつわる逸話を聞き出すまでは落ち着かない。赤い指輪、金の腕輪、首飾り、それらに一体どんな危険で魅力的な物語が潜んでいるのか気が気ではない。
  そういえば、持たされたこの青い指輪にも物語があるのだろうか――ふとそんなことを考えた。
  まだ話してもらっていない楽しい世界がここに詰まっているなら、手放してしまうのは惜しい気がした。勿論これはリョウのものではなく男が買い物の代金として持たせたもので、いくら勿体ないと思っても、どうこうできる問題ではない。
(でも、なあ……)
  歩みを少し緩め、手のひらをそうっと開いて、リョウは思う。
  真っ青な空の色をした石が、蔓草を模した金と銀に支えられて輝いている。この石は一体何を見てきたのだろうと、想像するとたまらなくわくわくした。かつては誰のもので、どんな墓所に埋められて、そして男の手に渡ったのか。太陽光に透かして見たならかつての持ち主の人生を垣間見られるような気さえして、リョウは思わず、天空に向けて指輪を翳してみた。
  当たり前だが何も見えない。けれど、そんなことをしたら余計に惜しくて惜しくて堪らなくなった。
  指輪が欲しいのではない。ただ、この指輪にまつわる物語を聞く時に、語り部たる男の指に嵌った青い石の中を覗き込みながら聞いてみたい。そうしたらきっともっと楽しく聞ける。空想上手の少女は人ごみの中で、いつの間にか足を止めて陶然と妄想を始めてしまった。
「おい、邪魔だ」
  人のごった返す雑踏で立ち止まれば、当然、道行く者の邪魔となる。リョウの細い肩に向かいから歩いてきた禿頭の男が担ぐ荷物がぶつかり、指輪はきらりと輝いて空中を舞った。
「あっ!」
  金銀の反射をまとわせて宙を泳いだ指輪はしかし、慌てて手を伸ばしたリョウの指に引っかかった。奇跡的に落下を免れたそれは、くるくると中指の先で余韻の回転をしてから、やがて何事もなかった顔をして青く輝いて見せる。
「危なかったあ……」
  またぞろ突っつかれてはたまらない。小走りに人ごみを抜けながら、リョウは中指ごと指輪を胸に押し当てて息を吐いた。無くしてはたまらない、売るのすら嫌なのに、落として誰かに拾われてしまうなんて論外にも程がある。せめて手放すその時までは絶対に落とさないようにしようと、リョウは少しためらった後に指輪をそのまま指に嵌めておくことにした。
  とはいえ男が嵌めていたものだ、リョウの中指には大きすぎて、返って無くしてしまいそうではある。試しに人さし指に通してみたけれどさほど変わらず、親指ならばなんとか問題なさそうだ。痩せた少女の親指に無骨な指輪が嵌められているのは何ともちぐはぐな様子だったが、リョウ本人からしてみれば、まるで空想の中で夢見た強い旅人――そう、まるであの男のような冒険を潜り抜けてきたつわものにでも変身できたような気分だった。我ながらただものではない気分で、歩く足取りもいつもよりつい堂々となるのだった。
  短い間だけれど仲良くやろうよ、などという語りかけをしつつ、誇らしくリョウは歩く。
  肉を売っている店はこの大通りをもう少し進んだところにある。そこへたどり着いたらお別れだ。ああ惜しい、手放したくないなあ――
  そう躊躇った時、リョウの頭の中にまるで雷光のように鋭く、一片の記憶が輝いた。
(そうだ、確か昨日)
  此度は人に突き飛ばされないよう、道の端へと小走りに寄ってから、リョウは懐を探る。昨日、まだ男と出会う前に、自分は何をしにここへ来たのか。頭巾の中に手を突っ込むと、注意深く隠しておいた小さな貴金属に指が当たった。腰や手に持っていると落としかねないので、撓んだ布の間に縫いとめておいたのだ。夢見がちに歩く癖は己でもよく分かっているが故の隠し場所だった。
  男の指輪と比べれば、ひどくちっぽけなものだ。だが、これがあれば必要なものくらいはなんとか揃えられるのではないだろうか?
  無論これは、リョウの大切な財産だ。父親が残してくれたたったひとつのものだ。リョウがリョウの為に使うのが正しい。決して、ならず者の腹を満たす為に使うものではない。だがそれでも、このひらめきは彼女に欠片の躊躇いも思わせはしなかった。これを使えば指輪を無くさずに済む、この指輪の逸話を聞ける、きっとそれは楽しいこと。その事実だけが素晴らしい閃きとなり、手を叩きたくなるほど嬉しくなる。
(冴えてるなあ、ボクって頭いい!)
  これを服の中に隠し持って居たら叶わなかった。夜明けの水浴びで服は着替えてしまっていたし、頭巾を水場で洗っていたらうっかり落としていたかも知れない。偶然が重なった奇跡に、リョウは浮かれて店へと急いだ。目的の場所に辿り着く頃には、息まで上がっていた始末だ。
  戸口の布を手でよけて、辿り着いた店を伺う。肉を腐らせない為か、店の中はひんやりと冷たく暗い。狭さと暗さには慣れたリョウである、特に気にならなかった。
「こんにちは」
  いらっしゃい、と気のない挨拶をする中年の男にさえ、笑顔を浮かべてみせる。もっとも、頭巾を目深に被っているので口元までしか見えなかっただろうが。
  陰気な店だが品揃えは悪くない。吊るされた薫肉の生臭さも、昨日の生肉と比べれば可愛いものだ。男が好みそうなものを適当に見繕い、対価として父の遺産を差し出す。
  その手にはきらりと、まばゆく輝く青い石の指輪。
  男の黒い目が、目ざとくそれを見つけた。
「随分といい拵えのものを持ってるね、お前さん」
「え」
  しげしげと眺められ、リョウは浮ついた気分から引き戻される。中年男の視線はねちっこく、リョウの泥と布で隠された手指を見つめていた。
「ここいらじゃあ見られない、高価なもんだ。私はこういうものに目が利くんだよ」
「あ、え、あ、そうなんですか……」
「良ければ見せてもらえないかい。何、悪さをしようってんじゃあない、素晴らしい物だからとっくり眺めてみたいだけさ」
  男が粘着質な視線を、手指から了の顔に向ける。頭巾の下の瞳の色まで暴かれそうで、リョウは差し出した対価を握ったまま、知らず一歩、後ずさった。
  咄嗟に身をひるがえそうとしたその手首を、男の手が掴む。布越しに不愉快な温度がじわりと滲み、背中に悪寒を感じた。同じ他人でもあのならず者の温度は決して不快ではなかった。なのにこの肉屋の中年男に触れられると、まるで虫にでも這われたような錯覚を受ける。
「は、放して下さい」
「逃げようとしたのはそっちじゃあないか。お代を頂いていないよ」
  云われてハッとする。既に交換すべき薫肉の塊を包んだ布があるのだ、確かにこれでは物取りである。だが正論を聞いてもぬぐえない不信感――その正体は目だ。爬虫類の視線はまた指輪を見ている。親指に嵌った金銀の唐草と、刻まれた紋様。冴え冴えと煌めく青い石。その値打ちがいかほどか、そうして、どうにかしてこの子供からこの宝飾品を奪い取ってやろうと模索している顔。リョウの目にはそのように見えて仕方ない。
「いまお渡しします、から」
  そう云い、手を開いたのに、男はなかなか対価を受け取らなかった。強く手首を捕えたまま、これは本当に珍しいものだと云う。
「お前さん、一体これをどこで手に入れたのかね。王宮の方々でもおいそれと身に着けられない一級品だ」
「え……えと、その、父親の、形見で」
「ほほう。なら王家にゆかりのある家柄かね。とてもそうは見えないが」
「知りません、あの、放してください。急いでいるんです」
  口から出まかせも、嘘がへたくそなリョウでは逆効果だった。いよいよ怪しいと思ったのか、男は手首を握る力を強くする。ぎちりと筋が軋んで痛かった。それ以上に不快すぎる。
  ひょっとしてこれは非常に危うい状況なのではないか。ようやっと現状を認識したリョウは、遅ればせながら顔を青くした。無くさないようにと指に嵌めていただけなのに、こんな風に見咎められるなんて。
  舐めるような視線が指輪を見分する。しまいにはリョウの手首を捻って前後左右から、それはもうしげしげと眺め始める始末だ。とてつもなく恐ろしくなり、少女は抵抗の方法さえ考えることが出来ない。
「いやいや、これはおかしな話だ。身なりに合わないにもほどがある。ひょっとしてどこかから盗んできたんじゃあないのかい? 最近墓荒らしの噂をよく耳にするが、ひょっとして――」
「っ……は、はか、荒らし?」
「バクラとかいう盗賊さ。真っ赤な外套を着た男だと云うが、お前さんはそうは見えないねえ」
  ひょっとして、盗賊のお仲間かい?
  そう云われ、脳裏に浮かんだのは己が家で寝ころんでいるであろう、男の顔だった。
  赤い外套。墓荒らし。そして、彼が追われていたこと。どんなに疎い者でも、その要素をつなげられない訳がない。中年男が云っている盗賊とは、彼のことだ――粘着質な瞳はまっすぐに正鵠を射ていた。
  咄嗟に否定できず喉を鳴らしたリョウを見る目が変わる。みるみるうちに、男の顔に疑いと怯えの両方が広がった。
  もしかしたら彼は冗談で云ったのかもしれない。いわれのない疑いをかけて巻き上げようとしただけだったのかもしれない。リョウを墓荒らしの凶悪犯の仲間として認識した時、それが真実であったことに自分自身が驚き、そして、、初めて身の危険を感じたのだ。
  人を殺し、物を盗むならず者。その仲間が目の前にいると。
  だとしたら、秘密を知った自身がどのような目に合うか。
「ひ――」
  男が上ずった声を上げる。リョウの手を捕える力が緩む。
  反射的にリョウは手を振りほどき、指輪をもう片手で押さえて後ずさった。ちりんと涼しい音がして、対価が石床へと落下する。肩に、吊るされた肉の塊がどんとぶつかる。
  張り詰めた沈黙は一瞬だったかもしれない。けれど、ひどく長く感じた。
「だ、誰か――誰かきてくれ! 墓荒らしだ! 盗賊だ!」
  中年男は見た目にそぐわぬ金切り声で、店どころか外の通りにまで響くくらいの悲鳴を上げた。
  絶叫に弾かれ、リョウは駆け出した。昨日、男に組み伏せられそうになった時よりも必死に、店から飛び出す。通行人に思い切りぶつかったが、それに対して何かを思う余裕もなかった。
「誰か! 盗賊が逃げたぞ! 誰かあいつを捕まえてくれ!」
  腰を抜かした肉屋の男の悲鳴が道行く多くの人に怪訝な顔をさせ、その間をリョウは全速力で逃げる。
  なんだなんだ、盗賊? 誰だ? おいあいつじゃないのか。本当だ逃げてるぞ。見回りの兵がいただろ、呼んだ方がいいんじゃないのか――
  怪訝な空気は誰何に変わり、瞬く間に逃走者を捕えよという一個の思念に変わった。
  誰かがリョウに手を伸ばし、頭巾を掴まれ剥がされる。黒く染めた髪が晒され、青い瞳が暴かれることを恐れたリョウはぎゅっと下を向いたまま闇雲に走った。今まで全力で走ったことなどない。心臓が爆発しそうだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
  足が縺れる。たくさんの人間の手が自分に伸ばされ、掴まれそうになる。遠くから硬い靴音が響き、騒然となる市に兵が駆けてきたことをリョウは知った。ますます恐ろしい事態になってきた。
  捕まったらどうなってしまうのだろう。捕えられたら、一体。
(どうしたらいいの!)
  またあの、死んだ同族の記憶が過る。疎まれし白い肌と青い瞳を持っているだけでも恐ろしいのに、盗賊の仲間だと思われた。仲間なんかじゃない、ただ指輪を――綺麗な指輪を、手放したくなかっただけ。盗みなんてしていない。ひっそりと静かに暮らしていただけなのに。ただ盗賊のお使いを受けただけで、何もかも違うのに。
(ボクが悪いの)
  たくさんの人にぶつかりながら、どこをどう走っているのかもわからずリョウは喘いだ。
(ボクが、あの指輪を無くしたくないって思ったからいけないの?)
  どうしてこんな目に合わなければならない、と、被害妄想を思うことすらできなかった。空想好きの少女でも、自分のしたことくらい分かっている。分かりたくないけれど、状況は甘えを決して許してはくれない。
  ちゃんと云われたとおりに指輪を渡していれば、こんなことにはならなかった。対価として渡したなら、肉屋の男はリョウが帰った後にこれは願ってもいないお宝だと喜んで、それで済んだはずだ。あんな風に見分されなければきっと問題がなかった。少なくとも、リョウを指さして盗賊の仲間だと叫ぶことはなかった。彼はそう思って、対価にこの指輪を渡したに違いないのだから。
  欲を出して余計なことをしたから、おかしな疑いを掛けられた。
  どう考えても、贔屓目に見ても、全てがリョウの所為だった。
(そんな――)
  ぼろり、と、厭うべき青い瞳から涙が零れる。拭う余裕もなく白い頬を伝い、すぐに散った。
  どこへ逃げたらいいのかもわからなかった。このまま追われる身で逃げたら、兵を家に呼び込むことになる。家には彼がいるのだ。そうしたら今よりももっとひどい展開になることは目に見えている。
  だが、それならどこがいいのだろう。町のどこにも頼れる人はいない。
  蟻の巣のような道を適当に走り回っても、包囲されるのは時間の問題だ。ならばいっそこの指輪を捨てて、知らぬふりをするのはどうだろう――リョウは右手でしっかと覆っていた左手を、親指に嵌った指輪を見る。
  青い石はこんな時でさえ魅力的に、リョウの心を奪う。そして男の手をも思い出させた。
  駄目だ、捨てられるはずがない。
  結局、何もかもが袋小路だった。見たことも無い裏路地を駆け回り、ついには歩くことさえできなくなったリョウは、石畳の上に転ぶようにへたり込んだ。
  嵐のような呼吸が肺を苛めて、喉がからからに乾いている。もう一歩も歩けない。
  気づけば身なりはぼろぼろで、頭巾もなく靴は片方なくし、足布までほどけていた。塗った泥と浴びた土埃、滝のような汗が髪の染料まで溶かし始め、とにかく身体中汚れている。
  みっともない、みすぼらしい姿だった。先程とは別の意味で、リョウはぼろぼろと涙を零す。
  もういやだ、もうどうにもならない。
  ボクは捕まって殺されるんだ――
  俯き絶望したリョウは石畳に崩れ落ちる。その時、哀れな少女の上に、大きな影が被さった。
「何やってんだ、てめえ」
  影のあるじは、血のように赤い色をしていた。