【♀】ヒキガネ 06-16 / LadyPanther and WhiteKitten.(last)
「これが、キミを巻き込んだ事件の結末だ」
渇いた喉を、ナムは冷めたコーヒーでもって潤してから息をついた。
長い話になった。了のティーカップはもう空になり、放り込み過ぎて飽和した砂糖の粒が底にまばらに残っている。
夕方の橙色が斜めに差し込むカフェテラス。長居している客にウェイトレスは迷惑そうな視線をたまに向けるが、場の空気を察してかあからさまな文句は云ってこない。日が落ちるとビアガーデンに衣装替えする店にとって、こういった客は邪魔なのだろう。追加の注文などとてもではないが頼めない――しかし、
「すみません、ミニクロカンブッシュのミルクティーセットお願いします」
了は平気の平左でもって、迷惑顔のウェイトレスを呼びとめた。
「……え、あの」
「あ、ナム君も何か注文する?」
メニューを開いて差し出してくる了の表情は平然としている。
真剣であって然るべき状況だ。だというのにこの様子、ある意味不謹慎ですらある。否、これこそが『不思議な女』たる了という存在の在り方なのかもしれないが、しかし。
「そうじゃなくて。話、聞いてたかい?」
「うん。正直よくわかんなかったけど」
そんな風に拍子抜けの台詞を吐かれては、怒りだとか苛立ちだとかそういうものを通り越して口が開いてしまう。一般人ってこういうものなのだろうか、暗部に生きる自分の感覚の方がずれているのかと、ナムは悩まざるを得ない。
いやいや、首をかしげている暇はないのだ。誠意をもって接するべきだ。例え相手が空気を読まずに追加のスイーツを注文しようが、運ばれてきたクロカンブッシュがとてもミニサイズには見えない五段重ねでさながら悪魔の山の様子を呈していようが、それに対して逐一言葉を挟むべきではない。
ナムは再び乾いてしまった喉をコーヒーで潤すと、いま一度佇まいを正した。
「どんな意図があったにせよ、一般人のキミを巻き込んだのは、ボクらのような稼業の人間にとっては絶対にしてはいけないことなんだ。
許してくれなんて都合のいいことは云わない。だが、どうか――」
「でもボク、ゾーク・ファミリーの人だよ?」
「え」
ぱふん。
了がシュークリームを口に放り込むオノマトペの幻聴が聞こえた。
「え、え?」
「だから、ゾーク・ファミリーの人になったんだよ、ボク。一昨日くらいから。
あとナム君のことも怒ったりしてないから、許してって云われてもちょっと困るかなあ」
何を――彼女は、了は、何を云っているのだろうか。
一昨日から? なった? いや、仮にもしそれが真実だとしても、そのように軽々しく発言することではないだろう。自ら進んで暗部へと身を落としたい人間もいるにはいるが、そういった輩は金や女や麻薬や、そういった見返りを求めてのことが殆どだ。ハイリスク・ハイリターンを期待して、危険の代わりに利益を得る。後はバクラのようなトリガーハッピーか。そのどれにも、了は当てはまるように見えない。もしやこの柔和な顔の裏側に、と勘繰るナムだが、リシドによる彼女の調書には信用が置ける。あの報告を是とすれば、正真正銘ただの一般人、穏やかな生活を送る女なのだ。
それに、怒っていない、だと? あんな風に一方的に巻き込まれて?
混乱まっただ中で目を丸くするナムの前で、ぱくり。了は二つ目のシュークリームを口に放り込んだ。咀嚼し、ほう、と、それこそミルクティーより甘い溜息をつく。好物なのだろうか。
「ボクね、何でナム君があの時あんな顔したんだろうって、それが気になってここに来たんだよ」
「あの時……?」
「ボクとバクラが倉庫から出る時、なんか捨てられた犬みたいな顔してたから」
そんな表情をしていたのか。鏡もない状況で自分の顔など分からないナムは曖昧に首を傾げるしかない。
戸惑うナムを置いてけぼりに、了は食べては喋る、というえらく気の長い方法でもって言葉をつづけた。
「ナム君の家族の話はよく分からなかったけど、あの顔の理由は分かったから、ボクとしてはすっきりしたよ」
「理由、って、どういう」
「お姉さんが大好きで、認めてほしくってうまくいかなくて自棄になっちゃった、って」
「そういう云い方をされると身も蓋もないんだけど――」
否、それこそが正しいのかもしれない。
取り巻く環境の所為で命に関わる事件になってしまったけれど、結局は姉に、イシュタールの名に相応しくありたくて無茶をしたのが発端だった。そして、了は理解していないようだが、彼女への憧れと妬みもその中に含まれている。
子供じみた癇癪だ。捨てられた犬の顔が正に似合う。
いい加減そういったみっともない真似からは卒業せねばなるまい。その為に、イシズは修行の期間を設けてくれたのだから。
「キミの気になっていたことが晴れたなら、それは喜ばしいことだけれど」
こほん、と、ナムは咳払いをする。
「それじゃあボクの気が済まない。ボクはキミを酷い目に合わせたんだ」
「でも、そのおかげでボクはゾーク・ファミリーの一員になれたんだし、逆に感謝、かな」
「えーと……そうじゃなくて」
「ナム君はさっきからどうしたいの? ボクが何か企んでると思ってる?
もしそうなら、大丈夫だよ。確かに最初はどうなるかって思ってたけどさ、ほら」
そう云って了は、ティーカップを置いてナムに手招きをした。訝しがりながらもナムは席を立ち、呼ばれるままに彼女の隣へと歩み進む。
了は自分のスプリングコートのポケットを少し開いて、中身を指さした。
中にはデリンジャーが無造作に、それも銃口を上にして放り込んであった。
「!?」
身体に染みついた反射行動でもって、ナムは素早くバックステップで退避する。咄嗟の行動で付近の席を蹴っ飛ばしてしまい、またしてもウェイトレスに睨まれた。了はきょとんとしている。
ポケットに手を入れていたのは知っていた。てっきり録音機か短縮番号を押せる状態で携帯電話でも握っているのかと思っていたのだ。有事の際にはバクラか警察かに連絡ができるように。その程度のことならば当然の警戒であるし、気にも留めずに居たナムである。まさか武器の類だとは思わなかった。
「ちょ、キミ、」
「バクラが一応持っておけって。ここ来た時はずっと握ってたんだけど、もうその必要もなさそうだからほら、両手出してるでしょ?」
ひらひらと振って見せる両手は、銃など似合わないくらい白くて細い。
「つまりボクは、ナム君に対して悪いことは一切思ってないよって云うこと」
「そう、うん……ありがとう……」
ふらふらとナムは席に戻る。頭痛が痛い。文法も間違えると云うものだ。
「そいつに一般論を期待するだけ無駄だぜ?」
不意に影がテーブルに被さる。ナムと了は同時に顔を上げた。
いつの間にか、夕日を浴びた足長い影を作ったバクラがテラス席の脇に腕を組んで立っていた。
「あ、バクラだ」
「なァに呑気にお喋りしてんだよ」
勝手にテラス脇の低い垣根を越えて侵入してきたらしい。ウェイトレスはもうどうにでもしてくれといわんばかりに向こうを向き、カウンターの店員も悟りの境地に達したようだ。最早こちらを睨む者は一人としていない。
いつも通りの黒スーツ姿のバクラはすたすたと歩み寄り、了の頭をぽかんと叩いた。
「何時間かかってんだ。ったくこれだから女は面倒臭ぇ、どうせくだらねえ話べちゃくちゃ喋くってたんだろ」
「失礼だな、バクラこそどこ行ってたの」
「オレ様は誰かさんの姉上サマとサシでビジネスのお話さ。なあ、『ナム君』?」
と、揶揄をたっぷり含んだ青い目がナムを見る。低い声に棘はあったが、敵意はない。ナムはぐっと唇を引き結んでバクラの視線を受けた。
「イシュタールのボス――じゃあ、ねえよな。クビになったんだって?」
「……姉さんから聞いたのか?」
「ああ。ったく、面倒くさいことになりやがった。女狐相手にするのは疲れる」
てめえが頭の方がずっと良かった、と、慰めに見せかけた見え見えの嫌味をバクラは云う。彼の顔には色濃い疲労。今後の同盟関係での苦労を考えると先が思いやられる、といったところか。
「ま、てめえにゃもう関係ねえ話だったな。今回の一件も片が付いた」
「お前はそれでいいのか。自分の女を攫われたんだぞ」
「攫った本人がしつこく云うのは無作法だぜ。てめえが一人でやったこと、なんだろ?」
にやにやとバクラは笑いながら、了の座る椅子の背凭れに腰で寄りかかる。ちなみに攫われた本人である了はフォークを振るってシュークリームの牙城を最下段まで攻略したところである。
バクラの手が、クロカンブッシュセットに添えられてきたナイフに伸びる。その切っ先でシュークリームを刺そうとすると、あげないよ、と了が皿を掲げて逃げた。
「まァ、どうしても落とし前つけてえなら、てめえ個人にそれ相応の支払いを要求するけどよ」
「金か」
「いいや、そんなモンいくらでも他に稼ぎようがある。オレ様が寄越せっつってんのは――」
言葉の最後で、バクラの手が銀色に光った。
此度も身についた反射で、ナムは身体を横に流す。と、同時に、横手のつる薔薇の垣根が激しく揺れ、褐色の手が伸びてくる。手は人差し指と中指で、飛来した銀の閃光――クロカンブッシュにちょっかいを掛けていたあの食事用ナイフである――を受け止めていた。
タイミングは僅かに遅く、ナムの耳に掛かる髪が一房、はらはらと地面に散らばる。
バクラはくつりと嫌な風に笑い、
「それで貸し借りなしにしてやるよ」
「どういう――あ」
問おうとして、すぐに分かった。一房切り取られた髪の意味。バクラを呼び出す時に、了の髪を同封したことを思い出す。
組織間でのいざこざが解消され、残ったのはこの恨み一つ、というわけか。全く了はどれだけ愛されているのか。羨ましくはないが、ごちそうさま、の気分である。当人は矢張りクロカンブッシュ攻略に集中してこちらを見てすらいないというのに。
「それだけでいいっていうのか」
「てめえのボディガードと正面から向き合ってやりあうほど無謀じゃねえよ」
云ってバクラが指さすのは、垣根の穴。既に腕はなく、バクラ同様勝手に乗り越えてきたマリクがナムの隣に寄ってくる。腕がつる薔薇の棘で擦り傷だらけになっているが、本人は全く気にしていないようだ。
「危ないねえ。本当に当たったらどうするんだい」
「向こうに当てる心算がないんだから問題ないだろ。ていうかお前なんでここにいるんだ。ボクは大人しくしていろと命令したはずだぞ!」
「だから、『大人しく』お傍についてやってたさ。主人格サマを一人にするなんておっかなくてとてもとても」
「あ、あの時ボクのこと攫った人!」
完食した了がマリクを指さして割り込み、更に状況は混沌を呈してくる。
うんざり顔のバクラ。いつもの締まりのない顔でへらへらしているマリク。フォークを握ったままの了。そして自分。本格的に頭が痛くなってきた。えっとそもそも何をしにここへ来たんだっけ、それすら分からなくなってくる。
狙い澄ましたかのようなタイミングで、カフェの照明が白からオレンジに変わった。
ウェイトレスはこちらを見もせずに、遂に実力行使の退席申告を行ったようだ。時計を見ればもう十七時近く。なるほどこれ以上長居されては店を夜仕様に変更できないということか。
途端に気まずくなったのか、了はぽりぽりと頭を掻いた。
「えっと、続きはうちで、とか、どうかな」
空っぽになったティーカップとクロカンブッシュの皿を申し訳程度に綺麗に重ねた、了の提案。ナムはちらりとマリクを伺う。こいつもいいのかという意味を含めて。
「お邪魔じゃないのか?」
「もうボクのこと羽交い絞めにしたりしないならいいよ。バクラもいいよね?」
「駄目っつったら云うこと聞くのかよ、てめえは」
既にこの結末は予感していた。とでも言いたげなバクラの表情は依然うんざりだ。さっと踵を返し帰りはきちんと店の出入り口から出ていく、その背中には哀愁すら感じられた。けれど了はにこにこして、じゃあ決定、と手を叩く。
そして、ごく自然な様子で――ナムに向かって右手を差し出した。
「さ、ナム君も行こうよ」
「――」
白く小さな手を、ナムはまじまじと見る。
先程までデリンジャーを握っていた手。それを開いて差し出すことの意味を、きっと了は意識していない。
不思議な女だ。
本当に――こんな自分に、手を差し伸べるだなんて。
紫の瞳は白い手のひらを見、了の顔を見、少しだけ躊躇ってから、手を取った。
先を行くバクラの隣には、いつの間にか盗賊王の長身があった。
「いい顔してるじゃないか、主人格サマ」
「うるさい、云うこと聞かない犬は捨てるぞ」
腕をぺしゃんと叩いて云ったら、マリクは何が楽しいのかけらけらと笑って、定位置に――ナムの斜め後ろである――に陣取った。
◆
そうして、赤い煉瓦道に大小の影が伸びた。
ゾーク・ファミリーのボス。
その右腕たる男。
二人に愛される、不思議な女。
元、イシュタール・ファミリーのボス。
護衛にして、影。
この街で一等不可思議な組み合わせであろう五人は、喧しく喋り合い罵り合いながら歩いていく。
背中には崩れかけた太陽。向かう先には黒く蟠る喧騒の夜。
それにしては随分と不釣り合いに、彼らの表情は緩く――まるで長年の友人同士のようだった。