月のこども 02
守ってやろうだとか、大事にしてやろうだとか、そんな暖かい感情はもとから持っていなかった。
それを教わる前にバクラは了と二人、四方を石壁で囲まれた地下へと閉じ込められたのだから仕方が無い。感情が足りていないのは自分だけではなくもう一人の片割れ――たよりない双子の一人にしたってそのとおりで。自分が思いやりや愛情といった陽の感情をいまいち理解できないことと同じように、了も恨みや憤怒といった陰の感情をきちんと心に宿していなかった。
母親の胎内でくっついて、外の世界に生まれ出た時でさえそうだった二人だから、きっと一人でなんとか人並みなのだろうと思った。持ち合わせた喜怒哀楽を足して、ぎりぎり一人分。それにしたってきっと、完璧ではない。足りていない。
そんな双子だったから、別たれるということが我慢ならなかった。
いうなれば了はバクラにとって、二本の腕のうちの一つ、瞳の片方、そういったものだ。失ったらどうなるかわからない、無くしたらどうしていいかわからない。それは自分のもので、他の誰にも譲ることのできないものなのだ。
だから絶対に、離れるわけにはいかなかった。
贄のさだめを受け入れたのも、そんな些細な理由だった。
勿論、最初から大人しく従うつもりなんてこれっぽっちもなかったけれど。
鉄の扉の向こうの空気が日に日に変わってきていることに、気が付いているのはバクラだけだった。
心の足りない了は暇さえあればバクラの角を撫でては、一人になるのはいやだと呟く。そしてバクラはその度に何度も云った。死ぬつもりはないと。そう告げれば了は安心した表情を浮かべて笑い、眠る。繰り返し繰り返し同じことをするだけの毎日。それが色を変えたのは、扉の向こうから微かに聞こえる、贖罪の祝詞が途切れなくなったと気づいたからだ。
バクラにこの村の宗教の知識はない。無知のまま捧げられる決まりなのだから誰も教えない。気が付けたのは彼が生まれつき聡いこどもで、危険の匂いを嗅ぎつけることに秀でていたからこそである。何かが違う、何かが変わった、何かが近づいてきている――そう感じ取って、警戒に身を硬くし続けて三日ほどになるか。
何も気づかず眠る了の耳に、地を這うような祈りの言葉は届いていない。暗闇の密室でバクラは起き上がり、闇をじっと見据えた。薄いぼろ布の毛布を了の腹に押し付け、まるでそこに仇敵がいるかのように瞳を凝らす。
扉を隔てた向こうで続く、人の声。
それは彼の敵であり、憎い大人の声だ。
了の角を疎んじ、バクラと共に死の運命を与えた者たち。決して許しはしないと、バクラは幼子に似つかわしくない憎悪をそちらに向け続ける。誰が貴様らに殺されてなどやるものか、刺し違えて死ぬことすらしたくない、貴様らにくれてやるものなど何一つない――そうして睨み続けるうちに、いつしか憎しみは闇の糸を紡いで、自然とバクラの身の回りにわだかまっていた。
或いはそれが、運命を打破する存在を呼び寄せたのやもしれぬ。
忘れられない儀式の日、まるで引き寄せられるかのように手のひらに収まったあの黄金のナイフを手繰り寄せたのは、その闇の糸であったに違いないのだから。
「バクラ、ねえ、どうして別々なの、ねえ!」
遂に訪れた儀式の夜、背中で聞いた了の声の悲痛さをまだ覚えている。
何も告げずに背を向けたら了はひどい金切り声をあげて、幾度もバクラを呼んだ。無視することに胸が痛まないのはバクラ自身の感情が欠けていたからなのか、それともこれから起こることに向けた心情が精神を張り詰めさせて、とても応える余裕などなかったからなのか。
大人たちの手で引き剥がされ半身となったバクラは、今まで閉じ込められていた石の密室とは比べようもないほどに明るく、豪奢で、広い場所へと連れて行かれた。
壁に天井に、ずらり灯された蝋燭の炎。精緻な彫刻がなされた祭壇。それは部屋の真ん中に据えられ、正面に設えられた巨大な窓からは、空を喰らい尽くすような満月が覗いている。差し込む強い月の光が窓の色硝子の七色を吸いこんで、祭壇に色の洪水を作り上げていた。
美しいと表現して良いのかもしれない。けれどバクラにはそれが随分とグロテスクな紋様に見えた。祭壇の真ん中に巨大な一つ目とそれを囲む三角形の文様を見つけて、こいつらの信じているものは一体何なのだと思ったくらいだ。
神を知らぬ少年は、その極彩のモザイクが異変であることを知らない。青い礼拝服の男たちが祭壇の紋様に気づき、ひそひそと言葉を交わし始めたことで、ようやくバクラも気が付いた。どうやらこの一つ目は予定外の現象らしい、と。
それがどういった状況を指し示すのか、そこまでは分からない。明らかに狼狽している様子で祭壇を指さし言葉を交わすその様は、バクラには異国の言語としか受け取れなかったからだ。だがすぐに、奴らの会話などどうでもいいのだと思い直す。要は隙を見つけさえすればいい。ここまでしおらしくついてきたのは油断を誘うためだ。警戒が緩まった瞬間にここを飛び出して、了を見つけて逃げ出す。自分にできない筈がない。死なないと繰り返し了に云って聞かせたのは彼の為だけではなく、自分自身に刻み付ける意味もあったのだから。
ざわめきが波紋のようにひろがっていく。男たちの戸惑い。彼らは祭壇の上の一つ目を指してさまざまな憶測を言い交しているようだった。
不吉――このようなことはこれまでに一度も――神は何と――あの初子を選んだことは――今からでも遅くは――そんな言葉が断片的に流れていく。
やがて、ぱん、と手を打つ音が響き渡り、彼らのざわめきを打ち消した。
恐らくはこの場を取り仕切る高位の存在なのであろう、一際豪奢な長衣をまとった老人が男たちを見据え、そして、無言でバクラに視線を向ける。
(動くな)
咄嗟にバクラは己へ言い聞かせた。今反応すべきではない。しおらしく、諦めた、無力な子供を装うのだ。その為に顔面の筋肉を総動員させ、怯えた表情を作り上げる。
老人はじっとバクラを見、そうしてしばらく無言の時間が過ぎた。
やがて鬚を蓄えた顎が一度首肯し、儀式を遮ってはならぬ、としわがれた声が云う。
不安そうな顔をしている礼拝服の男たちは躊躇いながらもそれに従い、そうしてバクラは祭壇の上へと連れて行かれた。無理やり寝かされた胸の上に、グロテスクな一つ目が浮かび上がる。
動揺は水面下へと沈下されたが、周りを取り囲む男達の目はきょどきょどと落ち着かないまま。
これは好機だと、バクラは奥歯を噛んだ。
引きつけて、引きつけて、そうして蹴散らす。できない筈がない。
精一杯の怯えた表情を装う演技を、まだ続けておく。
周りを囲んだ男たちが、不可思議な韻を重ねた歌のような言葉を唱和し始める。言語の意味は理解できない。神とかいうよく知らない存在への感謝であることはなんとなく察しが付くが、そんなもののために殺されるつもりはさらさらない。
祭壇の脇に設えた二つの小箱のうちの一つが開く。中には赤く滑らかな布が張られ、一振りのナイフが収められている。もう一つは空。こちらの内側もまた赤かったが、もっと汚らしい、もっと生臭い色をしていた。何を収めるものだろうか。そんなことは考えなくったって分かる。今しがた唱和した男たちの祝詞の中に、心臓、という言葉があったのだから。
あのナイフで心臓を抉り取られ、あの箱に納められ、神とやらに献上するのか――ばかげている。とても付き合ってなどいられない。
(誰が、てめえらなんかに)
表情に張り付けた怯えを保つことが難しくなってくる。取り囲む男たちへの憎しみが腹の内側でごぼごぼと煮えたぎって、演技で抑えきれなくなってきたのだ。
あの紋様が浮かんだ胸のあたりが、焼け付くように熱い。そこで憤怒がうねりを上げている。
(殺されない、オレ様は、絶対に)
誰が殺されてやるか。何でてめえらなんかに――波打つ感情が許容量を超えて、心臓の中で荒れ狂う。握った拳が震えだす。瞼の裏で一瞬、了の頼りない横顔を見た気がした。
今傍にいない片割れ。あれは自分の本当の意味での半身で、片時だって離れてはいけないのに。
何故離れている? それは引き離されたから。 誰が引き離した? それはこいつらだ。
(にくい)
唱和が重なる。老人が黄金のナイフを振りかざす。
バクラの青い眼に金色の煌めきが翻る。
贄の山羊角を献上せん――低く滑る声に、最大級の苛立ち。
(こいつらが、にくい)
ああ、弾ける。もう我慢ならない―――
(殺す!!)
血反吐を吐き出すように、そう、きっと喉から叫んでいた。
その瞬間、バクラは今まで耳にしたこともない何かの笑い声を聞いた。どこから――それは自分の胸の位置から、あの一つ目が、まるで眇めるように歪んで笑って、そして肯定したのだ。
殺すことを。そうしていい理由を、バクラに与えた。
憎い男に向けて伸ばした手の内側には、何故か、光を反射した黄金の刃。極彩の紋様を受けてまるで真っ黒に染まって見えるナイフの柄は、幼い手のひらに異常なほどしっくりと馴染んだ。
握っていたはずのナイフを奪われたことに驚愕した老人が、祝詞を中断して後ずさる。ばらばらと男たちも唱和を止め、ざわめきながら輪を崩す。
祭壇の上で、バクラはゆうるりと立ち上がった。
大人たちは唇を震わせ、しかし驚きのあまり声も出せずにバクラを仰ぎ見ている。幼い子供に、まるで下々の者を睥睨するように見回されても、彼らは言葉ひとつ紡げない。
バクラの目には赤い光。
了と揃いであった綺麗な青い眼はなく、眼窩に嵌った瞳は、どこまでも深い真紅に染まっていた。
「……ひゃは」
胸にこみ上げてくる爽快感を抑え切れず、バクラは小さく笑った。
先程まで自分を取り囲み命を奪わんとしていた連中が、今は目と口で三つの円をつくり、震えながらこちらを見上げている。子供一人になんて様だろう、全員で飛びかかればどうとでもなろうに、彼らは何をそんなに怯えている?
「どうしたよ――オレ様を殺すんじゃねえのかよ」
幼い声が部屋中に響く。どこからか吹き込んだ獣臭い風が、壁の蝋燭を吹き消した。
いっそうざわめく男たちに重ね、バクラは一際高い声で笑う。積もりに積もった鬱積が爆発して手に入れた、震えるほどの爽快感。大人が自分を仰ぎ見て笑っている。たまらなく気持ちがいい。
蝋燭を失い、差し込むのは月の光だけ。その真ん中で立つバクラの影が、幼子ではありえないいびつな形に歪み膨れ上がっていることに、彼本人だけが気づいていなかった。
誰かが凍てつく声で、悪魔だ、と云った。
その声を拾い上げたバクラはぴくんと眉を跳ね上げ、はあ? と、年齢に釣り合わぬ皮肉な笑いを浮かべてみせた。悪魔という言葉の意味すら彼は知らなかったが、邪悪な響きは気に入った。
「アクマぁ? てめえらが云ったんじゃねえか、贄の山羊角ってよ。まあ――」
云いながら、バクラは祭壇を飾る支柱から伸びる緩やかな装飾の突起へと幼い指を滑らせる。
そして、がつん。
予備動作の一切なく、彼は右側頭部をその突起へと叩きつけた。
中ほどから折れ、砕ける太陽の右角。恐慌のざわめきが人々の間を走る。
「これでオレ様はもう山羊角じゃあねえ。てめえらの云うアクマとかいうのになってやってもいいぜ」
ぱらぱらと角の残骸が散る中で、宣言するようにバクラは云う。
今更のように青い礼拝服の男たちが、壁に並んでいた槍を手に取った。半分はバクラを囲み、もう半分は高位の老僧を守るように陣を取る。明らかに、こども一人に対抗する動きではない。
彼らは分かっていたのだ、目の前で笑う少年がもう贄などではないことを。考えうる限りで最悪の存在に変化したことを、信仰の徒たちはようやっと理解したのだ。
分かっていないのはバクラだけだった。自身の変化など、彼は何一つ自覚していなかった。
ナイフを手にできたのも、こうして大人たちを睥睨できるのも、自分の力だと信じていた。ずっとそう言い聞かせてきたのだから無理もない――自分になら出来る、絶対に死なないと云い聞かせ続けてきたのだから。一つ目のモザイクのことなど、もう頭の隅にすら残っていなかったのだから。
銀の穂がバクラに向かって、一斉に向けられる。
それでもバクラは笑い止まない。止むわけがない。絶対に死なない自分に刃を向ける相手の愚かさに、声を張り上げて嗤う。
こんなところでぐずぐずしている暇はない。あの泣き虫を拾ってさっさとこの忌々しい場所を離れなければ。
その為にはどうしたらいい?
簡単だ。
手の中には、この上なく肌に馴染む黄金のナイフがある。