【同人再録】たぶん人生は上々だ。A-2
2.
獏良が会話できるほどに気分を落ち着かせるまでには、少しばかり時間が必要だった。
思いがけない状況に茫然自失した後、全く表情を変えずにぼろぼろと泣き出して嗚咽も上げずに黙ってただ涙を零すものだから、バクラはこいつオレ様の居ない間に変な病気にでもかかったんじゃないかと見当違いな疑いを抱いてしまった、それくらいの奇妙な泣き方だった。
それは何か言ったり動いたり反応したりする機能やら何やらが全部泣くことに集中したせいだと獏良本人は思うが、口には出さない。それほど嬉しかったのだ、などと思われるのは癪だし、黙っていなくなった過去は帰ってきたそれだけで許せるほど軽い罪ではないのだ。心を込めて罵倒してやりたい気持ちは満々。だが、同時にやっぱり嬉しいもので、そしてこんな状況になっている理由もまた知りたいわけで、どれを優先していいのか分からなくなってしまう。
結局罵倒は後回し。謎解きの方を先に済ませることにして、獏良はベッドの上に座りなおした。バクラはフローリングの上にあぐらをかいて座り込み――靴は脱がせたがしかしその腰巻き?がきわどい部分まで捲くり上がるのは止めていただきたい、成人男子の腿チラなど嬉しくもなんともない――堅そうな膝に肘をついて掌で頬を支え、実に似合いの行儀の悪い姿勢でことの経緯を話し出した。
問うてみると、どうしてこんなことになったのか、バクラ自身にも全く分からないらしい。
忌々しい敗北の後、何も分からなくなり、気がついたら辺りは真夜中、かの王墓に程近い場所で砂に半ば埋もれた形で倒れていた。もう数えるのも億劫な大昔、ヒトだった時の肉体を持って目覚めた時には本当にわけが分からなかったのだ、と彼は言う。
その状況が、バトルシティで瓦礫の山に埋もれて目覚めた自分とどこか似ている気がして、獏良は少しだけ笑った。
「気がついたら腹ン中がスカスカになってやがった。あんだけ憎かった王サマのこともどうでもよくなってんだからよ、こちとら何の為に今までやってきたんだか、って話だぜ」
「それで、何もすることがないからボクのところに帰ってきたわけだ」
どの面下げて、と付け加えたいのは今は我慢だ。それでも声に棘は表れていたようで、バクラはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。謝る気はないらしい。まあ謝られても気持ち悪いからそんなのは必要ないのだけれど。
「オレ様が居なくなって、宿主サマはさぞかしサミシイ思いをしてんじゃねえかと思ってよ。船乗り継いで戻って来てやったんだぜ」
密航に密航を重ねてな、と、言い放つ口元には犯罪者の笑み。
「…まさか、ここ来るまでに物騒な事件起こしたりしてないよね」
前科持ちを匿うなんてごめんなんだけど、と獏良。
「そう言われると思ったぜ。安心しな、刀傷沙汰は起こしちゃいねえよ。ちいっとばかり盗みは働いたがな」
「善良な一般市民としては、このまますみやかにおまわりさんに突き出すべきなんだろうね。しないけど」
「そりゃあどうも」
「でもさ、ちょっと思ったんだけど、お前の身元ってどうなってるの? エジプトに戸籍みたいなもの…は、あるわけないか」
もしも問題起こして警察のご厄介になったらそれこそ大問題だね、と獏良は言う。
「ここに住むつもり、なんでしょ。手続きとかはいらないっていうか、出来ないんだね」
「宿主サマが嫌がるなら、他の寝床を探してやってもいいけどなァ」
「ホームレスになったら可哀相だから置いてあげるよ。感謝してね」
追い出すつもりもないけれど、そこは隠してひとつ意地悪を言ってみた。が、バクラは獏良の内心などお見通しなのか、どこ吹く風でああそうかよ、としか言わなかった。そりゃあそうだ、先ほど恥ずかしい言葉を何度も言ってしまったしみっともなく泣いてしまった。お前のせいで眠れなかったのだとさんざん繰り返して告げてしまったこの口では何を言っても皮肉にすらなりはしないのだ。お前が居なくて辛かったと大声で叫んだようなものなのだから――失敗した、とんだ弱みを握られてしまった。今さら恥ずかしくなっても遅い。手遅れだ。
その辺りを蒸し返されたらそれこそ自決したくなるくらい嫌なので、話題を転換。
「お前、そういう見た目だったんだね」
褐色の肌に灰のような髪の色、そして、鍛えられた体躯は獏良とは似ても似つかない。実際がこうであるのに軟弱極まりない獏良の身体に入っていたことを考えると、とんでもないギャップだ。さぞかし扱いづらかったのではなかろうか。かくいう獏良自身もこの筋肉男をバクラだと認識している材料は仕草と目つきだけで、どうにも扱いあぐねている。鏡映りした姿で記憶した存在はもう居なく、二度とまみえることもないのだと思うと少し寂しい気がした。
慣れるだろうか。
頭のてっぺんから爪先までをまじまじじろじろと眺めて、獏良はううんと唸った。
「ごつい」
「なよっちくて生きていられる世界じゃねえよ、あん時は」
「あと、なんか太い」
「筋肉だっつうの」
「タウンページとか縦に破ける?」
「知るか」
呆れた顔でそう言われ、獏良は笑った。会話のテンポは以前と全く同じ。ならばきっと、慣れられる。
そんな確認を一人して頷いていると、相変わらずわけわかんねえな、とバクラは低い声で呟いた。
「ンなことより、何でこうなってんのかとか考えねえのかよ、てめえは」
こっちはまだ落ちつかねえってのによ――大きな手で首の後ろを擦りながら言われ、獏良は首をかしげた。
「落ち着かないの?」
「何年カラダ持ってねえと思ってんだ」
「ボクの身体使ってたじゃないか」
「ありゃあ借りモンだろ。自分のだ、自分の」
そういう彼は先ほどから、どうにも手足の動かし方がぎこちない。身体を得てからどれくらいかけてエジプトから辿り着いたのかは定かではないが、恐らくそんなに時間は経っていないのだろう。持て余している様子を眺めて、獏良はあ、と小さく声を上げた。
バクラの話を聞いて、ひとつ思い当たることがあったのだ。彼が肉体を得た理由。消滅したはずの魂がこうしてここにある理由。それは。
「ボクのせいかもしれない、お前のこと」
「あん?」
「千年リングは持ち主の願いごとをひとつかなえてくれるんでしょう? お前がまだボクに寄生してる時に、ずっと願ってたよ。お前の嘘がずっと続くように」
闇の中でまぐわいながら、短い共同生活を送りながら、獏良は長いこと願っていた。どうかもう二度と一人きりにはなりませんように、友達をなくしても構わないから、この嘘つきがいなくなったりしませんように、と。
だからその願いがかなえられたのかもしれない。千年リングに宿っていたのはバクラそのものなのだから本人がその願いをかなえたというのは考えにくいけれど、どこかの気まぐれな神様かもしくは悪魔か何か、なんでもいいがとにかく人智を超越した存在が獏良の願いを聞き届けてくれたのではないか。
だとしたらまるで夢物語だ。ひょっとしてまた、今この状況も都合のいい夢を見ているのではないかとさえ思う。
だそれにしては存在感を持ちすぎている目の前の褐色の男はふんと鼻を鳴らして見せて、その息が明け方の空気を伝って獏良の髪を揺らせるのだから、現実だと思う。思いたい。
獏良の意見を聞いたバクラは、そんなもの信じられるかといった顔で皮肉に唇を曲げていた。随分と夢見がちだこと、と意地の悪いことを言って笑う。
むっとしたので、ベッドからぶらさげた足で蹴ってやった。裸足の爪先には温度まで感じられる。
「だって考えても本当のことなんかたぶん分からないよ。だったら一番都合のいいように考えておいた方がいいじゃない。
これでもね、ボク、今すごく嬉しいんだよ」
そう続けてから、もう一言、
「あと少し、恐い」
そうぽつりと追加する言葉は、擦れた小さな声に変わっていた。
神様の力ならそれは奇跡で、奇跡なら間違いじゃない。だから、たとえば正義の味方か誰かがこんな状況は正しくないバクラは存在してはならないのだ、と二人を引き剥がしにくることもない。そう思っていないと、まだ不安だ。青く丸い瞳のなかにある揺らぎにバクラは気づいたらしく、あぐらの姿勢のまま鋭い視線を獏良に向けて放ってきた。
「…本当に本当に、夢じゃないんだよね、お前」
ここにいるんだよね?
右手で二の腕をぐっと押さえて震えを押さえる姿を、彼はどう思ったのか。不意に、視線が温く角度を変えた。
そんな目をした顔などついぞ見たことがなかったので、獏良はぱちくりと瞬きをして、それから、勝手に熱くなる首の裏の熱に驚いた。何だこれは、今ちょっとときめいたような気がする。バクラ相手にそんな? しかし心音は不安と良く分からない何かでばくばくと速度を上げている。
ひょいと手を伸ばされ、頬のすぐ近くでぴたり。
「触ってみりゃあ、分かるんじゃねえの」
多分消えねえと思うぜ、と、バクラ。
肌のまわりの空気をひと撫ぜしてから、指の先がひたり、と獏良の頬に触れた。
伝わる温度は知っていたそれよりも随分と熱く、思ったよりも乾いていた。心の部屋で触れ合った時、姿かたちは獏良と同じものを共有していたバクラは馴染んだ冷たい体温とそれなりの弾力のある肌をしていたけれど、ほんものの身体を得た彼の指先は全く他人の、自分よりも堅く大きなものだった。
ぺたぺたと二度叩かれてから、その手は顔から腕へと目標を変えた。冷てえな、そう言ってから、震えていた左の腕、手首をぐっと掴んで。そうして獏良はベッドの上からバクラの上へと強制移動させられた。
強く抱え込まれる。抱きしめられているなんて甘優しいものじゃない、これは拘束だ。押し付けた鼻先に真っ赤なコートが触れる。重たくて汚れた生地から胸へ吸い込んだ空気は、どこか砂の匂いがした。エジプトへ行ったのは一度だけ、それもとても短い時間だったけれどその匂いはどこか懐かしいような気がして、ひょっとしたらバクラが獏良の中に残して行った感覚なのかもしれない、そう思った。
背中に回された腕がしゃり、と音を立てて、獏良の髪の先を指先でねじる。いつかされた髪弄りを思い出して、不覚にも、鼻の奥がつんとした。
今までのことが大津波になって押しかけてくる。初めて声を聞いた時から、衝突と戦いと、やがて深まって行った依存と、つかの間の平穏な共同生活。夜ごと重ねた冷たい身体、打ち込まれた熱、傷をつけられた痛み。ジオラマを作ったこと、そのジオラマを作り終えてすぐ、唐突に訪れた別離も。最後に訪れたのは一人きり取り残された空虚な時間――そして今、こうして、帰ってきて、触れている。ほら消えねえだろ、と、バクラが言った。そのかったるそうな言い草は昔と全く同じだった。
おかえり、という言葉が喉元まで出掛かる。ぐ、っと押さえたのは、言うべきではないから。
おかえりなんて言葉は、いってきますと言った相手に伝えるものだ。バクラは勝手に居なくなって勝手に戻ってきたのだから、そんなお迎えなどする必要はない。絶対に絶対に伝えてやらない。
だから、代わりに言ってやったのだ。鼻声になりそうなところをうまくごまかして、はは、と小さく笑った後に。
「お前、すっごく汗臭いよ」
「…仕方ねえだろ、暢気に風呂入ってる暇なんざなかったんだからよ」
途端、不機嫌な声が頭の上から降ってきた。確かに密航者の身の上でしかもあからさまに奇妙な扮装をまとった悪目立ちする外見で、銭湯にでも行かれていたら普通に引く。そこまで無神経な男と同居は難しい気がすると思う獏良である。しかし、どれくらいの時間をかけてエジプトから童実野町までたどり着いたのか定かではないけれど、少なくとも一週間以上は身体を洗っていないのではないか。そう思うと抱えられているのが何だか居心地が悪くなった。とことん情緒のない考え方だったが気になるものは仕方が無い。気分的には抱き合っていたい。ずっとこのままでいたいとさえ思う。でも気になる。
どうしたものかと考えていると、沈黙を何がしかの肯定と勘違いしたバクラの両手が不穏な動きを見せ始めた。髪の房を弄っていた手がじりじりと下って、腰あたりに纏わりつく。寝間着の裾をさらって背中に直接滑り込んだ指先がつう、と背筋を撫でて、もう片手は下肢をどうひん剥いてやろうかと画策しているようだ。
「ちょっと待って」
本格的に本気になられる前に、獏良は両腕を突っ張って身体をもぎ離した。
「何だよ」
「何だよ、じゃないよ。このままするつもり?」
「空気読めよ、そういう流れだろうが」
「お前に空気がどうとか一番言われたくないよ。このままするのは嫌だからね」
するならちゃんとお風呂に入って身体も頭も綺麗にしてから!
語尾を荒めて鼻先に指先を突きつけると、バクラはものすごく面倒臭そうな顔をした。両目にはやる気が漲って、まるで発情期の獣のようだ。こいつこんなにあからさまに顔に出すやつだったっけ、と首を傾げたくなるほど、直線直情の欲情を真正面からぶつけられて、流石の獏良も少しばかり目を逸らしてしまう。
さっきからちょいちょいと感じるこの照れくささは非常に困る。以前のように軽くあしらったり足蹴にしたり一刀両断したりしたいのに、姿かたちが違うからか、それにしたってバクラの目は昔よりずっとずっと雄弁になっていて、強く言う前に首の後ろや耳が熱くなってどうもうまくない。現に今だって一瞬流されそうになってしまった。
これは非常にまずい。己を叱咤し、獏良は突っ張った腕を更に伸ばして、褐色の拘束から抜け出した。勢い良く立ち上がったせいでくらり、視界が揺れる。すっかり忘れていたけれどこの身体はいまものすごく頼りないのだった。ぐらぐら揺れて座り込みそうになって、そこをバクラの腕にぐっと支えられてその手が軽々と獏良の手首を握ってありあまるほど大きくてちくしょう何故か悔しい。多分同じ男として、生白い自分の身体にみっともなさを感じたのだろう。そう思っておくことにした。
真っ青な顔色を見つめて、バクラはひとつ鼻から息を吐き出した後にわかったよああかったりいな、そう文句を言いながら立ち上がった。てめえは寝てろ、とベッドに突き飛ばされる。実にあっさりと後頭部から倒れてしまって、更に頭が揺れた。
しまった、という顔をして、バクラは自分の手を見下ろした。力加減を誤ったらしい。
「…せいぜいよく休んどけよ。手加減はしねえ」
不穏な捨て台詞を寄越して、目を回した獏良にバクラは背を向けた。どすどすどす、と、朝っぱらからやかましい足音を立てて、赤いコートが翻り部屋を出て行く。仰向けに寝そべったまま、獏良はそれを見送った。
暫くして、シャワーがタイルを打つ音が聞こえ始める。使い方分かるかな、と考えて、その必要がないのもすぐに思い出した。勝手知ったる獏良の家だ、同じ身体でいた時に日常生活を常に重ねていたのだから、風呂場の位置も分かるだろうしガスの付け忘れもしないだろう。ラックに並んだボトルの左がシャンプーで真ん中がコンディショナーで右がボディソープだということも、いうまでもなく理解しているはず。
だったら世話を焼いてやる必要はない。獏良はごろりと毛布の上で寝返りをうった。あんな風に捨て台詞を残されたのだから言葉のとおり覚悟を決めておかなければならないだろう。以前とは違う。体格差は言うまでもなく負けていて、向こうは形のいい筋肉がむきむきと詰まったごつい肉体を有している。自他共に認めるもやしっ子である自分とその写し姿でまぐわった時とは状況が違い過ぎだ。あれが上に乗っかってきたらひょっとして自分は潰れてしまうのではないか、と、獏良はわりと本気で心配した。先ほど手首を掴まれた時に、褐色の手の親指と人差し指は一周してなお余っていた。手からしてもう大きさが違うのだ、それに拘束された時に感じた胸板もやけに分厚くて、むき出した胸に直接触れた手にはまるきり知らない感触が残っている。耳に滑り込んだ声だってよく響いて、きちんと育った男の声だった。そういえば喉仏がごくりと鳴ったのをちらりと見たけれど何故か背中がぞくりとした、そのことはばれてしまっただろうか? それに、それに――と、思い募ってはっとして、獏良は慌てて首を振った。
体格差の心配をしていたはずなのに、いつの間にか余計なことまで考えてしまっていた。ああ顔が熱い。いやだいやだこんな感覚は気持ちが悪い。自分とバクラの間にあるのはどろどろした執着が凝り固まったものだというのに、これではまるで恋をしているようだ。
もしかしたらそうかもしれないと思うこともある。とっくに自分は相手に惚れてしまっていて、相手もまたそうなのかもしれないと。しかしそもそも獏良は恋とか愛とかいうものがいまいち良く分かっていなかったし、それはバクラだって同じだろう。馴染み深い名前がついている関係のほうがずっと安定する、そうに決まっている。だから顔を赤くするのは間違いだ。だいいち向こうがそうなるならまだしもなんだってこのボク獏良了がこんなことで体温を上げたりしなきゃならないんだ。
一息にそう思って、獏良はもう一度頭を振った。調子が狂ってうまくいかない。ほかのことを考えよう。寝返りついでにごろごろとベッドの端から端まで転がって、ふと、サイドボードに目が行った。携帯のランプがメールの着信を示してちかちか点滅している。
液晶表示は八時と半分を過ぎた時刻を示していた。ということは、メールの主は恐らくクラスメイトの誰かだろう。ホームルームが始まってもからっぽのままの席を心配してくれたに違いない。携帯を手にとって開くと、思ったとおり本田の名前が送信元にあった。返信しようとして、文章が思いつかない。ぱちり、閉じて放り捨てた。もともと学校に行くつもりは全く無かったけれど、こんな状況、ますます登校する気にはならない。
それでも起き上がって顔くらい洗ったほうがいいかもしれない。ここ数日の間でいっとうまともな考えを思いついて、獏良はゆっくりと身体を起こした。眩暈はなし。シャワーがタイルを叩く音が響くバスルームと扉一枚隔たった洗面所へと足を向ける。リビングからバスルームまでの間に、赤いコートと生成色のよくわからない布や貴金属の類が、ヘンゼルとグレーテルよろしく道を作っていた。うわ、と思わず嫌な声を出して、獏良はそれをいやいやながら拾って進んだ。からっぽの洗濯機にぶち込んでスイッチオン。ごうごうと回転し始める音を聞いて、それでようやく鏡台の前に立つことができる。
鬱陶しい前髪もそのままに、わざと冷たい水で顔を洗った。肌がじん、と痺れる。頭を冷やしたかったのだが、触れた頬はやっぱりまだ熱かった。
(やりにくいなあ)
水音をたてるバスルームをいまいましく睨みつけて、獏良は溜息をついた。モザイク柄のすり硝子がぼんやり透かすのはその向こうにいるバクラの褐色の肌の色。お前はほんとうに厄介な奴だと口に出さずに舌を出す。
三色虹の歯磨き粉を塗った歯ブラシを口の中に突っ込んでがしがしと掻きながら、ふ、と獏良は目の前の鏡台を見て思い出した。
シャンプーの位置は分かっても、ボディソープがどれだか分かっても、歯ブラシは風呂場においていない。使うのは自分ひとりなので失念していた。口もすすがない相手に噛み付くようなキスをされるのは御免である。本当のことを言うと、抱き込まれたときに何だかにんにく臭かったような気がするのだ。潔癖症でなくとも嫌がるレベルだった。
一見そうと分からないが、鏡台は隠し戸になっていて、ここに越してきた時から全く使っていない。いや、使っていなかったと言うべきか、なぜなら今は数ヶ月前にバクラがたまに使っていた歯ブラシが無造作に放り込んであるからだ。同じ身体でも意識が違うため、そういった生活用品は別々にしておいたのである。いなくなってからはラックに二つの歯ブラシが並んでいるのを見るだけで苛ついたので、棚の中に隠していた。捨てられない自分の弱さを認識してはいたけれど、まさかこんなところで役に立とうとは。
そんなことを考えながら、自分自身の歯を磨く。口の中を漱ぎ終わってから、獏良は歯ブラシを歯磨き粉とステンレスのコップの三点セットにして手に扉へと近づいた。男同士でのことである、何も言わずにノブを回す。
さぱあ、と景気のいい音がして、獏良の目の前が真っ白になった。
「…あー」
視力をなくした世界で、バクラの声が反響する。瞬き二回で膜がはったかのような目の前がひらけて、まず飛び込んできたのはシャワーヘッドを掴んだ姿勢でこちらを振り向いているバクラの背中だった。