【同人再録】たぶん上々環状線。-1

発行: 2011/05/04
「たぶん人生は上々だ。」の続き的な日常本。シリアス皆無で出来うる限りの甘々。二人で外出>電車で軽く痴漢プレイ>ラブホコースのえろ本です。免罪符のように使ってしまう言葉ではありますが、とても俺得な内容です。B6サイズなのでちっちゃいよ!

・小説:書き下ろし
・表紙:平純久至様


1.

「バクラが帰ってきてくれて本当に嬉しいんだよ」
と、獏良は耳にやっと届くか届かないかの声で囁いた。
這わせる掌の位置はちょうど、心臓の上。獏良が選んで買い与えたダウンジャケットの向こうに、まぎれもなく彼が生きている証拠がとくとくと響いている。
その心音を確かめるように、掌だけではなく頬も寄せる。
心の部屋で記憶した薄っぺらな身体はもう、ここにはない。あるのは彼がヒトとして生きていた頃の褐色の肉体。鍛え上げられて、分厚く、硬く、男として羨ましくなるほどの逞しさ。少々の衝撃ではびくともしない。
「ありがとう、バクラ」
寄せた頬をすりりと擦りつけ、獏良は目を閉じた。
「ボク、今、すごく幸せだよ――」

 

「そりゃあシアワセだろうなァ、その状況じゃあよ」
うっとり陶然。甘い声ですっとぼけた言葉を連ねる獏良の耳元で、ギリギリとバクラは歯軋りをした。
顎のすぐ下の白い髪が跳ねかえりの先っぽで肌をくすぐってくる、その鬱陶しい感触すら払いのけられないバクラの胸の中で、獏良は最高にご満悦のご様子だ。
当たり前である。休日の夕方――いっとう電車が混む時間帯の下り電車の中、一人だけ他人と顔をかちあわせることなく、しかも手ぶらでいられるのだから。
「ああ、本当にお前がいてくれてよかった。ボクすっごい快適」
背中に車両の角、正面にバクラの胸という完璧な配置を手に入れた獏良が笑う。
バクラが生前の肉体でもって六〇一号室に現れ、物理的な二人暮らしが始まって一ヶ月が経過した。それからというもの、完璧なインドア人間であった獏良は週末ごとに外出するのがいたくお気に入りだ。うんざり顔のバクラを連れ回し、いつになく元気にあちらこちら。まるで春の陽気に浮かれる蝶のよう。
何の報告も予兆もなく帰還した為に、獏良家の生活用品が一人分ずつ足りなくなったのは確かで。必要最低限、あれこれと買い揃える必要があることくらいはバクラにも分かる。だが獏良とバクラの「最低限」というボーダーラインは大分差があるようで、一ヶ月経っても買い物は終わらない。――いや、本当は分かっているのだ、買い物なんて口実で、獏良が二人暮らしという初めての状況をいたく楽しんでいることなど。
知らぬ素振りで面倒くさい行きたくないと云ってしまえばそれまで。だのに突っぱねられない理由は、獏良が見たこともない顔で緩く笑って楽しい楽しいと口に出すから、それがいけない。その顔でぐっと喉が詰まる。まるでこれでは色惚けだ。全く、昔は楽しいと云ってもすぐに沈下する刹那の生き物だったくせに、全ての事象が終了した今になって浮かべる幸せそうな笑顔は一体何なのだ。そんな顔を向けられたことがないバクラには、もう騙す必要がなくなった関係の宿主サマのいなし方すら分からない。
そんな有象無象が折り重なっての、満員電車なのである。
理解しがたい分量に膨れ上がった荷物は、箸より重いものが持てないというわけのわからない獏良の言い分で両手に押し付けられた。その代わり電車の切符を買ってあげようなどと云いながら童実野町に帰るべく特急電車に乗り込んだのが十分ほど前のこと。停車した大きな駅からどっと流れ込んできた人波にさしもの褐色の肉体も耐えきれず――つり革にすら掴まれないのだから当たり前だ――獏良ともども車両の隅まで追いやられた。かくて、ビニール袋をぶら下げつつも壁の手すりに掴まるその身体と壁の間にうまく収まった獏良は、全ての他人から自分を守る壁として働くバクラに満面の笑みを向けるのだった。
「便利だなあ、その身体。すごいねえ」
胸に頬を寄せたまま、獏良が感嘆の声を上げる。ちっともすごくない。否、人間何人分なのか考えたくない圧力に耐えているのだからちょっとすごいかもしれないが、そんなことはどうでもいい。この身体は獏良を人ごみから守るためにあるのでは、断じてないのである。
重さに圧縮されたビニール袋の持ち手が掌に食い込んで、地味に痛い。あと右後方で携帯をいじっているらしい女子高生の肘がさっきから脇腹に刺さっている。反対側の中年男性の靴に足を踏まれてこれも腹立たしい。しかし悲しいかな、結果的に獏良の傘になるように立って居る為、この呑気な宿主にバクラの状況の一切は伝わらないのだ。
「……宿主サマ、気遣いって言葉はご存じで?」
「うん? 知ってるよ。なんでいきなりそんなこと聞くのさ」
「目の前で壁ンなってるオレ様に、そいつを向けては頂けませんかねえ」
具体的には荷物を持つとか。持つとか持つとか。食い込む取っ手に血流を遮られ、指先が冷たくなっていくのが分かる。痺れて持てなくなったら袋は落下するだろう、むしろもう落としてしまいたい。しかし具合の悪いことに中には生卵が二ダース入っている――だから近所のスーパーで買えと云ったのに。たった十五円の金額差にこれだけ苦しめられる理由を誰か分かりやすく説明して頂きたい。
「気遣い?」
限界が近いバクラの指に気が付かず、獏良は首を傾げて問いかけてきた。吊りがちの丸い瞳が長い睫を伴って瞬きをする様はなかなか悪くない。窓から差し込む夕日の所為で橙に色づいた髪が揺れるのも視覚的に大変美味だ。
などとうっかり味わっている場合ではない。バクラは紫の瞳を細めて、見りゃあ分かンだろと己の手を目で指した。
つられて獏良もまた、そちらを見る。不自由な手をまじまじと見、思案顔。
――そして、呆れた眼差しがバクラに向いた。
「お前…… 本当にどうしようもないよね」
「はァ?」
「この状況で、本当信じらんない。ここどこだと思ってるんだよ」
どこって満員電車である。荷物を片方持って頂くというただそれだけで、何故そんな目で見られなければならないのか。そんなに持ちたくないのかと言い返してやるつもりで、バクラは口を開く。
その開いた口が、言葉を発する前にひくりと固まった。
当然である。獏良の掌が、つるりとバクラの腿を撫で上げたからだ。
「……何やってんだ、てめえ」
「何って、やらしいことしたかったんだろ。お前がしてほしがる『気遣い』って、いつもそうじゃないか」
いくら両手塞がってるからって、ボクに痴漢して欲しいとか本当変態だよお前。
と、獏良はぶつぶつ文句を云いながら、何故か満更でもなさそうに身体を寄せてきた。
ちょっとまて意味が分からない。紫の瞳と口を丸くしたままバクラは暫し呆然とした。誰がそんなことをしろと云った? そりゃあ確かにベッドの上で常時マグロ運行の獏良にてめえちょっとは気ィ遣えよと云ったことはある。それで半ば無理やり口を使わせたり上に乗せたりとまあ、楽しい時間を過ごしたことは否めないが、この状況で「それ」を「そう」取り違えるのは天然電波の獏良であってもおかしい。
大体痴漢など、するならまだしもされる趣味はさらさらない。この状況が逆であれば――身動きできないのが獏良であり、バクラの両手が自由であったならば手を出すのもやぶさかではないが、何が悲しくてガタイのいい褐色の男が生白いもやし高校生に満員電車で痴漢されねばならないのだ。絵面を想像すると、いろいろ通り越して泣けてくる。それでは気遣いではなく気違いだ。
ともあれその手のサービスは帰宅してからベッドの上でやって頂きたい。手を手で止められないバクラは、仕方なく口を開いた。
「……宿主サマよォ」
そりゃあ違うだろもうちょっと考えろよ――と。
云おうとした口がまたしても言葉を無くす。
斜め上の俯瞰から眺めた獏良の表情が、口ではあんなに呆れたと、変態だと云っていた獏良の表情が、存外に濡れた風情をまとわせていたからである。
「ちゃんと立ってよ、見つかっちゃうだろ」
そんな風に云いながら、獏良の目は心なしかとろんとしていた。
この目は見たことがある。ここ一ヶ月の内でわりかし頻繁に見るようになった、いわゆるサカり顔だ。青い眼を潤ませて、こちらと視線を交わらせないようにしている時。それは獏良が自主的にいやらしいことをしたくなっている合図なのである。どうやら本人は無意識にやらかしているようなのだけれど、これに遭遇した夜は非常にバクラが愉しい思いをすることになる。つまりは積極的になって下さるというわけで。
いつから盛っていたのか定かではないが、よく考えたら向こうから胸に頬を押し付けてくる時点でおかしかった。例え満員電車で楽できていることへの感謝を述べていたとしても、普段、獏良はそういうことをしない。
したくて仕方なかったのだ。気遣いという言葉を、いやらしい方面に取り違えるくらいは。
(なんとまあ)
このタイミングを吉と読むか、凶と読むか。間違いなく吉である。
先程まで舌の上に乗せていた静止の言葉を飲み込み、代わりの台詞を練り上げる。両腕は塞がっているが、幸い足には余裕がある。踏みつけられている足を強引に引っこ抜き、バクラはするりと、獏良の足の間に膝を割り込ませた。
「あ、何、」
「ナニ、じゃねえよ」
気ィ遣ってくれんだろ? という囁きを、耳孔に直接吹き込んでやった。軽く首を動かせば獏良の首元に顎が触れる、この身長差も非常に好都合だ。電車の揺れを装って距離を詰め、近距離になるのも致し方ない風を装っておく。
「珍しいじゃねえか、宿主サマがこういうサービスしてくれんのはよ」
「……ボクが普段何にもしない奴みたいじゃないか、その云い方」
「滅相もない。いつもいろいろアリガトウゴザイマスって思ってるぜ? 腰振ったり、イイ声上げたりよ」
「っ……!」
「おっと、ここでは上げてくれるなよ。周りに見つかったらオレ様が加害者にしか見えねえ」
なよやかな美少年を痴漢する男と思われるのは心外である。実際は逆で、獏良は先程からずっと、割り込ませた足とは逆の腿をさすっているのだけれども。
平素から体温の低い、冷たい掌がワークパンツ越しに肌を滑る感触は悪くない。だがもうちょっと分かりやすく動いて頂けると大変助かるバクラである。電車のカーブに便乗して腰を押し付けると、掌が丁度、股間に触れた。
「う……」
冷たい手が一瞬怯む。それでもおずおずと布越しにそこをさすってくるあたり、向こうも相当興奮している。割り込ませた膝に押し付けられた獏良の腰も、緩く揺れていた。
「直には、触らないからね」
「そりゃあ残念」
「手が汚れるのはやだ」
「舐めて綺麗にしてやってもいいぜ」
「もっとばっちい。絶対嫌だ」
ひそひそひそ。レールが起こす轟音の隙間で、二人以外の誰にも聞き咎められない会話が続く。ひたひたと密やかな気配が言葉と言葉を繋いで、狭いスペースで空気が湿りゆくのを止められない。
乗客のうちの誰一人気が付いていない現状が、獏良を大胆にさせた。ぴったり寄せた身体と身体。ダウンジャケットの下、襟の広いシャツから覗く鎖骨の辺りに、薄い唇が軽く触れた。
「ン」
くすぐったさの後、ちくりと沁みた痛みにバクラが鼻を鳴らす。視認出来ないが、どうやら獏良がそこを吸ったらしい。
猫のような薄い舌が刻まれた痕の上を軽く行き来する。この動きはバクラの癖だ。いつも逆のことをされている獏良はそれを覚えていたのだろう。音を立てないように吸い上げては軽く舐め、偶に噛む。ベッドの上でされたら物足りない軽い刺激も、パーソナルスペースに他人がごまんと押しかけた電車の中でされると味わいが違う。尾骨に滴る危うい快感に、バクラの口元が持ち上がった。
「宿主」
囁きで呼ぶと、髪の先が揺れる。返事の代わりに掌がさすり、ジーンズを撫でる。
「もうちょっと大胆になって頂いてもバレねえぜ、多分」
ガタゴトと派手に揺れる特急列車。加えてやたらカーブの多いこの線路は揺れに弱い人間なら即酔うだろうというくらいに左右に忙しない。周りも踏ん張るのに必死で他人のことなど気にしない。だからどうぞ、と、押し付けた膝を軽く揺すると、獏良が切なげに息を吐いた。
少しだけの躊躇い。それから身体の位置の微妙性。
肉の壁、誰にも見えない内側で、獏良がバクラの腿を深く挟み込む。入れ違いに噛み合わせれば、お互いに股間と腿が擦れ合う。分厚い布地に阻まれてはいるものの、状況が手伝い興奮した獏良はそれだけで十分の快楽を引き上げた。密やかに、甘く、腰を捩って性感を追う。
「ぁ、は、」
腿を撫でていた手がバクラの腰あたり、ジャケットの裾をぎゅっと掴む。腰に重点を置いて腿に性器を擦りつける様は、視認できなくとも想像するに容易だった。きっと浮かべているのであろう表情、きゅっと眉を寄せ声を上げないよう唇を噛み、緊張感を引きずって腰を前後に擦りつける様――ああ堪らない。お綺麗な顔をして全くいやらしいことだ。
その想像がバクラの快感をも引き上げる。獏良が腰を擦りつける度に微弱な電流がバクラにも響く。苛立ちに変わる一歩手前のじれったい快感。もういっそこの場でひん剥いて犯してやりたい気持ちと、このスリリングな状況をもっと長く続けたいという欲求が電車の振動と同じ速度で交互に揺れて、頭の中が熱暴走を起こしそうだ。
それは獏良も同様らしい。か細い声が、あつい、と呟くのを聞く。
「あたま、クラクラする」
「ん」
短く肯定してやると、獏良の頭が擦り寄ってきた。段々と遠慮が無くなって、あからさまに寄り添う動きに変わる。これは見咎められるだろうかと思ったが、よく考えなくても獏良の容姿は一見少女と見紛う長髪にお綺麗な顔であるので、女で通せないこともない。莫迦なカップルがいちゃついていると誤解されるくらいで済むと見た。
実際の関係を考えると、カップルというのはうすら寒い話だ。しかしそれならどういう関係なのかと問われたら答えられない曖昧な二人であることも分かっている。恋とは違う依存で繋がりあっているこの関係に、名前はない。
などとうっかり関係のないことを考えてしまいそうになった。勿体ない、こんな状況は滅多にないというのに。つまらない思考遊戯に陥る道を緊急封鎖。バクラは細い息を吐いて、依然嵩を上げる頭の熱に全てを委ねることにする。
考えることを放棄したそのタイミングに重なって、電車のアナウンスが響いた。これよりカーブの為車内が揺れます、手すりつり革にしっかりおつかまり下さい――終わるか終らないか、言葉のとおりに車体が大きく斜めに傾いだ。
多くの乗客が重力に耐えきれず、バランスを崩す。バクラの脇に延々と肘を食い込ませていた女子高生も例外ではなく、右後方からの重みが一気に増した。
お、と思った時にはもう、金属の手すりから掌が滑っていた。もとより指が痺れていた所為もあり、勢いよく前方へ前のめり。驚いた獏良があげる声をひどく近くで聞いた。
「わ……」
急に体重を掛けられた獏良が呻く。それでもビニール袋を手放さなかったのは奇跡である。中でプラスチックがひしゃげる音がしたので卵は無残なことになっているかもしれないが。
「ちょ、重いよ」
「しょうがねえだろ、こっちも痛え」
まるで抱き合うように――というよりまとめて圧縮される形になった二人の間で、より一層膝が絡み合う。重ねた胸と胸で鼓動が伝わるほどの近距離。足を踏ん張るスペースすらないので容赦なく股間を押し合って、そこに車体の微振動が加わるのだからたまったものではない。
文句もそこそこに獏良が切なげな息を吐く。吐息はバクラの耳に掛かる髪を揺らして、耳孔に甘く滑り込んだ。
ゾクゾクと興奮する。偶然を装って唇を合わせてしまっても周りにはばれないのではないかと思うくらい、いろいろと危険だ。
(やべえな、こりゃあ)
背中に食い込む他人の温度と感触の不愉快さを、腹側で得る獏良のそれが塗りつぶす。擦れる肌、もどかしい刺激、耳を擽る息。思わずバクラも息を吐いて、それが同じように獏良の耳孔を過ぎる。
「ひゃっ」
きゅっと腿を竦める動きがまた良くない。いや、これは悦いのか。
ぐらぐら揺れる頭のままで、片手で身体を支えられない。バクラは滑り落ちた手でどこかに捕まれないものかと壁と獏良の隙間を探った。どこでもいい、このままでは転ぶか獏良を押しつぶすかのどちらかだ。掌から手首にずれたビニール袋の持ち手に血行を妨げられながら、そうして辿り着いたのは――ある意味幸運なことに、獏良の尻だった。
「わっ!?」
問答無用でそこを掴む。びくんと全身で驚いた獏良の声が耳にきんと響いた。
「でけえ声出すなよ」
「だ、だってお前、後ろ」
狼狽えた反応がなかなか新鮮だ。そりゃあそうだ、普段尻を触ることなどない。女ならともかく高校生男子の硬い尻など触って何が楽しいものか。現に掌の中には柔らかい感触などほとんどない。
だが獏良の反応は大変おいしい。くつりと笑って、至近距離の囁きをもう一つ。
「捕まるとこねえんだよ。それともこのまま押しつぶされてえか?」
まあてめえの尻なんざ硬くてつまんねえけどな。云いながら、少ない肉を思い切り掴む。
「っ!」
声を上げるわけにはいかない。獏良はぎゅっと唇を噛んで耐えたようだ。
堪えている間にも、無駄に大きな手を駆使して尻に悪戯をしてやる。片尻の肉をまるごと掴む勢いで捕えたそこを、指が食い込むほど揉んでやった。ジーンズ越しで何かとやりづらさを覚えつつ、勝手知ったる獏良の尻である。普段お邪魔している入口の辺り、狭間の丁度上にある縫い目を指で辿ると、あからさまな動きで細い腰が悦んだ。
「ッあ、や、……!」
小さな悲鳴と小刻みな震え。咎めるようにぎゅっと引かれるジャケットの裾。
何もかもが甘い。普段どうにも淡白な獏良が戸惑い困惑している、それだけでも酷いのに、加えられる仕草が凶悪に堪らない。だめ、と訴える癖に物欲しげに腰を振る――非日常の接触と温度、恐らく獏良もこの状況に酔っている。満員電車で痴漢されるというアダルドビデオか成人向け漫画あたりの御用達のシチュエーションに流されて、正常な思考は行方不明だ。
もともとは獏良にサービスして頂くつもりだった。それがいつの間にかこちらが加害者側になっているが、それもどうでもいいことだった。目の前の旨そうな餌をいかにおいしく頂くか、それしか考えていない。ああオレ様の頭もそうとう参っているとバクラはぼんやり自覚した。どうもこの肉体を得てから、即物的な性的欲求が三割増しになっている。鼻孔をくすぐる髪の匂い、そんなものですら興奮の種になってしまう程度には。
「あ……!」
ぐっと食い込ませた指が、慣れた入口にまで届いたらしい。反った背で髪が翻る。
声はともかく派手な動きは周りにも伝わる。先程から不穏な動きを繰り返す二人組に、乗客もちらほらと視線をよこしてくるようになってきた。ひと睨みすれば目をそらすが、気づけば獏良は身体を硬くして拒むだろう。それは楽しくない。
獣に近い欲望を抑え抑え、尻を膝を存分に味わうのが堪らないのに。軽く舌打ちをすると、肩に額を押し付けていた獏良が伺うようにジャケットを引っ張ってきた。
「……バクラ」
しまった、気づかれたか。続く二の句にもうやめてという言葉が乗るのが惜しく、バクラはしらじらしくも素知らぬふり。
「ねえ、ねえってば」
それでもしつこくばくらばくらと小さな声で呼んでくるのが、耳に毒だ。切羽詰って甘くて掠れて、そんな声で呼ばれても欲望を増長させこそすれ、鎮静剤には成りえない。だが、無視するのは難しくなってくる。
「……ンだよ」
結局三分も耐えきれず、バクラは耳元にぶっきらぼうな返事を投げてやった。無論、尻に仕掛ける意地悪は止めないままで。
「水差すんじゃねえ、楽しめよ」
それともヤメテって懇願ですかァ?
先に退路を封じて、嫌味な口調で囁いてやる。吐息に震えた獏良はぶるぶると、否定とも肯定とも取れない仕草で首を振った。表情を拝めないのが残念極まりない、小動物のような動きだった。
「そうじゃなくて……」
「あ?」
「が、我慢」
がまんできない。
――と、泣きそうな声で獏良はそう云った。
その声の切なさに、不覚にも喉が鳴った。同時に理性の糸が焼ける音も聞いた。じゅっと音を立てて切れた糸のうち、繊維の何本かが辛うじて残っている。そうでなかったら本気で、この場で襲い掛かっていたかもしれない。三割増しの欲望が目の前の白い首に喰らいつけと獰猛に急き立ててくる。
「どうしよう、バクラ……」
切羽詰った声で云い、もぞもぞと腰を揺らす。男子高校生がそんな動きをしても気持ち悪いだけである筈なのに、今のバクラの目にはこれ以上もないほど扇情的に見える。ああこの眼球を一度取り外して磨いて嵌め直したら治るだろうか。否、治る気がしない。
黙るバクラを何と思ったのか、獏良はぐいぐいと裾を引っ張って訴え続けた。蚊の鳴く声で、もう無理、我慢できないと繰り返し、切なげな息を吐く。
ああもうダメだこっちが我慢出来ない。
周りなど知ったことか鉄道警察なんぞ蹴散らしてやらあ、という我ながら頭の悪い啖呵を脳内で切ったその時。
停車を告げるアナウンスと共に、右脇の扉がぷしゅうと音を立てて口を開けた。