【同人再録】廃墟と鏡のメルクルディ-3【R18】

「分かってるって――ちゃあんと操立てしてたんだろ」
 他の男に股開いてんだと思ってたんだぜ、と、いじわるは尚も続く。操立てとは何のことなのだろう。
 頭を撫でる代わりに、軽く中を揺さぶられた。
「いい子にしてたじゃねえか、忘れてやがるくせによ」
 どうやら自分はとんでもない淫売だと思われているらしい、うろんな意識で獏良は思った。彼の言うとおり自分がすべてを忘れているなら、疑うだけの材料がない。
 否定もできずにに、じれったい腰を浮かして唸る。問答をしている場合じゃない、このままでは焦れて狂う。
 そんな訴えまで肌で理解できるのだろうか、バクラははいはい、と適当な返事をすると――一気に腰を引いて、その勢いのまま、突き込んできた。
「ひィ…――ッ!!」
 脳の回路が焼き切れたかと思った。それほど、強烈だった。
 内臓の内側にこんな風になる器官があるなんて知らなかった。一度ではない、何度も何度も、腹の皮膚を押し上げるような、斜め上に向けた注挿で抉られる。
 言葉を忘れた。小型の獣が上げる断末魔の高い悲鳴が、開きっぱなしの喉から幾重にも重なって漏れる。思考などもうどこにもない。先程された手淫とはまったく異質の快感に、獏良は後ろ頭を座面に擦りつけて悶絶した。気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。一つの感覚だけで身体の中身が破裂しそうだ。
「ひあ、あ、あぅ、う、ばく、ばくら、あ、ア、ぁ!」
 鼓膜を通り過ぎて聞こえてくる声はまるで他人のそれだった。自身で上げている自覚はない、こんな甘ったるく爛れた声など今まで上げたためしもない。けれどバクラは懐かしそうなため息を耳元に吹き付けて、相変わらずひでえ声、と言う。
 どうやら彼は顔を上げたいらしい。両腕と片足を絡めてしがみついているせいで、バクラは腰以外の場所を動かすことができないのだ。だが筋肉と骨は溶接されたように獏良の意思を受け付けなくなっている。放すことはできない、もう二度と――
(にどと?)
 かろうじて無事でいる、脳の幽かな一辺が疑問を浮かべた。
 二度と――二度と。放してはいけない、なくしてはいけない。
 それはどういう意味、と、問いたい部分は快感に支配されて動作不良を起こしていた。その間にも容赦のない注挿は続いている。中を擦られる快感、重なった腹に性器を捏ねられる快感、そして、目の前のバクラが呼吸を乱して感じているさま、それらが混ざって波になる。疑問は霧散した。
「き、もちいい、ぃい、あ、もっと、ッ、しんじゃう、」
 粘着質な音が暗がりのソファを濡らす。細かく突かれて、獏良はぶんぶんと首を振った。汗ではりつく前髪が鬱陶しいが、それを払える手はしがみつくのに忙しい。
 ぐん、と首を曲げると、姿見に映った自分と目があった。
 先程は見えなかったものが映っている。自分に圧し掛かって腰を動かしているバクラが見えた。
「あ――」
 錯覚かどうかを確認できる余裕はない。それよりも、重なり合って絡んでいる二つの身体のいやらしさに眩暈がした。
 主に触覚で興奮していたところへ、視覚という新しい刺激が追加される。こんな恰好で、みっともなく足を開いて絡めて、自ら腰を押し付けて――そんな、自分の姿を、目にして。
「んんっ…!」
 射精とはいかないまでも、ぶるりと震えた反応にバクラが顔を上げた。思わず緩んだ拘束をうまく解いて、彼もまた割れた鏡を見る。そして、ああ、と、納得の声を上げた。
「てめえのやらしい恰好見て、興奮してんのか」
 随分といいご趣味をお持ちで。
 バクラは言うと、埋めた性器はそのままに身体を起こした。離れるのを嫌がる両手の先にはそれぞれ軽く甘噛みをして宥め、ぐいと体制を変えてくる。されるがまま身体をねじられた獏良は、いっそう羞恥心をかきたてられることとなった。
 跨がれた足はそのままに、横腹を座面につける形で横転させられる。もう片足は高く持ち上げられ、今まで密着していた部分――精を垂らす性器と結合部分が、差し込む陽光で明るみに晒された。眩暈がするほどのいやらしい姿が、鏡を通して獏良の目に映る。
 恥ずかしい。目を背けたくなるはずなのに、見入った。
「こういうのがお好きとはな、羞恥プレイは範疇外だと思ってたぜ」
 小突くように中を苛められて、鏡像の腰が跳ねあがった。
「ちっと見ねえ間に、淫売に磨きがかかったな」
「や、しらな、こんなの、や…」
「ヤダヤダって言いながら、無理やりされてえんだろ。放置が過ぎてマゾになったってか?」
 いじわるは止めどない。罵られているはずなのに、言葉の節々に厭われている要素など見当たられなくて、ああこれはこうやって気持ちよくなって、気持ちよくさせられているんだとすぐに理解した。
 昔から、そうだ。人が嫌がることをするのが大好きで、どうしようもないサディストなんだ。お前がそうだからボクはこんな風な性癖がついちゃったんだから責任とって気持ちよくしてよ――と、獏良は自身でもよくわからないことを漠然とした口調で言った、つもりだった。
 伝わっているかどうかは分からない。バクラは何も言わなかった。
 言わないまま、ひときわ強く突き上げてきた。
「あうッ!」
 緩いゆさぶりはおしまいだった。内臓を突き破るつもりに違いない、注挿は暴力に近い。弱者をねじ伏せる暴君の動きで、バクラは腰を叩きつける。死にそうな悲鳴を上げて獏良は応えた。身体は覚えているという、彼の言葉通りに。
「あっやッ、う、あァ、あ、あ、あ、!」
 細かい突き上げのタイミングで、母音が喉からこぼれだす。目を閉じるということができなくて、眼球には己の痴態がくっきりと刻まれた。担ぎ上げた足にバクラが唇を寄せる。内側の柔らかい部分にちくりとした甘い痛みを覚えて、訳もなく嬉しかった。
 身体中が緩んでいる。栓があるなら抜けているに違いない。ぐりぐりと内壁を擦られて、三度目の射精は意識すらなかった。己が精を吐き出す様子というのをはじめて目にして、また興奮する。ぼたぼたと糸を引く精液がまるで涎のようだ――腰を咬むバクラの手が伸びて、搾り取るようにそこを揉む。
「んっあダメ、また出る、でちゃう、っ!」
 搾乳される牛の気分だ。袋に溜まった中身をすべて押し出すつもりらしい、バクラは突くに合わせて柔らかな膨らみを絞った。もう出すものもないはずなのに、少しだけだが、勢いのない白濁が垂れた。それでもまだ、手指は刺激するのをやめない。
「もう、やぁ……」
 遂に泣き声が漏れた。その声が何の刺激になったのか、バクラがぐ、と、息を詰める気配が濡れた室内を伝う。
「………ッ!」
 勢いは全く弱まらなかった。注挿を続けながら内部に叩きつけられた熱に、身体中の筋肉がひきつる。
「ひ――ぅ、あ、ぁ!」
 熱液が容赦なく、内臓を灼く。青い天鵞絨をがりがりと引っ掻いて、獏良は指の先を反らせた。
 ばちばちばち、と、目の前で火花が散る。
 ああ流れ込んでくる、熱くて死んでしまう、焼き殺されてしまう、でももうそれでもいいや――長い時間をかけて注ぎ込まれるかたまりが、とんでもない充足感と疲労感を運ぶ。
 舌の先が痺れて何もしゃべれない。かろうじて開いている目で見た鏡の中に、バクラが荒い息を吐いている横顔がちゃんと見えたのを確認して、獏良は心底、安心した。

3,

 身体を包む知らない感触に肌が違和を訴える。ざわざわとした心地悪さで、獏良は目を覚ました。
 瞬きを三回。鼻で感じとるのは古い布の匂い。頬に触れているのは劣化した蒼い天鵞絨、重たい布でくるまれた裸の肩。
 くい、と頭皮を引っ張られて、視線が持ち上がった。
 鏡に映る自分の姿を見る。日に焼けて色あせた生成り色の厚い布――おそらくはカーテンか何か――で身体を巻かれて、カウチソファに寝そべっている。ソファの傍らには、汚れた床を気にせずに座り込んだバクラが、片膝に顎を乗せて手を伸ばしていた。
 伸びた手の先には、座面からこぼれた白い髪。
 指先で弄う動きに見覚えがあった。ふと笑うと、バクラがこちらを見た。
「…おう」
 起きたか、と、低い声で彼は言う。手はぱっと離れ、髪なんぞに触れてなどないと言いたげに、ぞんざいな仕草で床に置かれた。
「…ボクの服は?」
 問いかけに答えたのは声でなく指だった。示された方向に、捨てられた衣類が一式、丸まっている。ズボンはともかく上着や靴下までが捨てられているのは疑問だ。
「なんで?」
「てめえが自分で脱いだんだろ」
「…覚えてない」
「どこから」
「お前が出したところまでしか覚えてない」
「じゃあその後の二回戦も記憶喪失か」
 は、と鼻を鳴らして、バクラは人の悪い顔をした。
「宿主サマが足んねえ足んねえって泣くからよ、後ろからたっぷり可愛がってやったじゃねえか。すげえ腰使いだったぜ?」
 そう言われて、うっすら何かを思い出した。思い出すことを頭が拒否しているらしいあれこれが、ぼんやり獏良の頭の中に浮かぶ。
 やだ、いい、しんじゃう、きもちいい、もっと、こすって、いかせて――それ以外にももっととんでもない、聞くに堪えない言葉を叫んで腰を捩った記憶。そういえば下腹に違和感がある。中に出されたなら後始末をしなければ――そう思って、緩んでしまった入口を引き締めるが、おかしなことに、中に溜まっている精の感触がしなかった。
 あんなにたくさん出されたのに。首をかしげると、疑問を察知したバクラがついとそっぽを向いて言った。
「後始末ならしといてやったぜ」
 なるほど、そういうことらしい。
 しかし水も電気も通っていなさそうなこの廃屋で、いったいどうやったのだろう?
 考えてから、そんなことはもとから必要ないと気が付いた。だって相手は身体を持っていないのだ。どういう作用かは分からないけれど、彼が吐き出した精やら何やらは、実体をもたないのではなかろうか。だとしたら、違和感だけが残るのも頷ける。質問されるのが面倒で、バクラは後始末をしたと適当なことを言ったのだろう。
 ああ、面倒くさがりなのは変わらないんだね。
 口に出そうとして、やめた。
「…ねえ、バクラ」
「何だよ」
「ボクね、ほんとに、覚えてないんだ」
 お前のこと。
 バクラは向こうを向いたまま、そうかよ、と、ここへ来て何度も口にした返事を返した。
 鏡からも見えない角度で顔を背けられて、その表情は伺えない。けれど分かる、きっと眉間にしわをよせているのだ。悔しいようなそうでないような、曖昧な顔をしているはず。
「だから、思い出したいんだ」
「…必要ねえよ」
「お前がどう思ってるかなんて関係ないよ。ボクが、思い出したいんだ」
「は、随分と物好きなっこった」
「もともとボクは、噂の幽霊のことを知りたくてここに来たんだ。間違ってないよ」
 差し込む陽光は色を橙に変えて、濃くなっていた。
 夜の気配を含んで、日中の眩しさ熱さと対照的な静けさとともに、長い影を作っている。
 帰れよ、と、今までの会話を断絶させてバクラは言った。
「日が落ちると山道は厄介だぜ」
「お前は帰らないの」
 無言。
「まだ、聞きたいこといっぱいあるんだ」
 無言。
「知りたいことも、したいことも」
 無言。
 枝と葉が作る影は伸びて、部屋のなかほどまで達している。カウチソファと獏良のそれもまた、壁に張り付いている。
 バクラの影だけが、ない。
 彼の実在を否定する形で、どこにも、ない。
「帰れ」
 もう一度、バクラは言った。
「噂とやらの検証ならもう十分だろ。てめえのいう『幽霊』はちゃんといたじゃねえか」
 しっしっ、と、犬を追い払う鬱陶しげな手の動きまで向けられても、獏良は起き上がる気にはならなかった。実際に手足は重たく、腰なんてまるでこの場に根を張っているようだ。この洋館に絡む蔦のように、ソファと一体化してしまいそう。
 それならそれで、いいと思った。
 死ぬまでここで寝そべって、怠惰な快楽をむさぼり続けるのも、悪くない。
 けれど、同時に――そうできないことを、知っていた。
「約束してくれたら、帰るよ」
 重たい腕を持ち上げて、獏良は言った。伸ばしても届かなそうな目測にあるバクラの肩を、しかし手のひらはちゃんと捕まえられた。
 そりゃあそうだ、だって彼は、

 

「――また来ても、いい?」

 

 己の思考を遮って吐き出した言葉は――肯定代わりの接吻けの間で、甘く苦く、解けた。
『わかってるんだ』
『お前は絶対に、来るな、なんてボクに言えない』

 

 訪れた時よりも重たく感じる山道を下りながら、口の中で、獏良は呟いた。
 そう、彼は自分の望むことに、抗うことなんかできない。
 バクラに触れられると、剥落していた記憶が一瞬にして流れ込んできた。目にも止まらない速さで把握なんかしきれないと思っていたけれど、深く繋がって、内側を精で灼かれた時に、奔流は脳まで届いた。
 その時に、獏良はすべてを思い出していたのだ。
 千年リング。心の部屋。依存。執着。ジオラマ。戦い。消失。そして、最後に置いてけぼりにされたこと。
 あの日から獏良は、悔しくて悔しくて、腹が立って。幾夜も続けて嗄れるほど泣いた。恋でも愛でもない執着が首を絞めて、息もできないくらいに苦しんだ。そんな生きた地獄から救い出す為に――人間が持ち合わせている生存本能は、獏良が精神と肉体を壊す前に、改竄という優しい選択を選ばせた。
 脳は完全な忘却と別離を提案した。心はそれを拒んだ。
 忘れなければ壊れてしまう。けれど失いたくはない。
 折衷案はこうだった――バクラに関する記憶は書き替えが行われ、思い出しそうになるキーワードは全て心の奥深く、もう開くこともできなくなった心の部屋の内側へと隠されることになった。ではバクラ自体のことを失ったのかというと、そうでもない。獏良の意識では感知できない無意識で行われた、彼自身の脳内会議で可決された計画は、ある日静かに実行された。
 脳は獏良が好きそうなオカルトめいた噂話を捏造し、居もしないクラスメイトにそれを話させ、覚えてもいない、どこぞの怪奇スポットとして雑誌の片隅に載っていた廃屋を舞台に選ばせた。
 もう一度、出会いを演出するため。
 永遠に続く、別離のない関係を再構築するため。
 作り上げたのは、実体を持たない彼の幻。
 「同じ顔の幽霊」など存在しない。それは、獏良の為だけの妄想の産物なのだ。
 あの日、訪れた運命は関係ない。別れなど訪れることはない――影のない、そこにいていない、超越した存在としてのバクラを、脳は作り上げた。
 それに気づいた時、獏良は思った。
(思い出したと言ったら、消えてしまう)
 本当にそうなのかどうかは分からない。この幻は獏良の無意識が、獏良のいいように、獏良が幸せになるために作り出しているものなのだ。消えるなんてことはないのかもしれない。
 けれど漠然とそう思ったのだから、言いたくなかった。
 忘れていると言い張った。
 バクラは自分自身が妄想の産物であることを認識しているのだろう、思い出してほしくないと彼は言った。その実、思い出してほしいのだと顔に書いてあった。
 そんな風に思って欲しいから、彼はそういう顔をしたのだ。
 獏良がしてほしいように、彼は行動する。そういう風に、できている。バクラの思考は獏良の思考だ。無意識や口に出さない願望でも、それが心からのものなら、望みはそのまま形になって現れる。
 たとえばここで、追いかけてきてほしいと願ったらきっとバクラは来るだろう。引き留めてほしいと求めたらそうするだろう。こうして思考しても現実にならないのは、本当に願ってはいないから。追いかけてくるなんてバクラらしくないと認識しているから。あくまでこれは、たとえの話。
 これは、何もかもが、心地よいようにできている世界なのだ。
(だってそうしないと、ボクは壊れてしまう)
 手が自然と喉を押えた。バクラに歯を立てられたそこには赤い鬱血があるはずで、ない。
 脳で作り上げられた幻は脳の支配する箇所である五感に作用して、触れたり見たりという錯覚を与えることはできるけれど、現実に干渉することはできない。だから鬱血はどこにもないし、事後にカーテンを引きむしって身体にかけたのも、覚えはないけれどきっと獏良自身のやったことだ。
 そんな風に冷静に分析できていることがおかしかった。
 自分は狂っている。居もしない人間を作り上げて、廃屋で交わったと思っている。実際にはあそこには誰もいなくて、緑の絨毯を見て驚いたのもカウチソファで快感に狂ったのもすべてがすべて一人芝居。誰かの目に触れることがあったなら、滑稽で気味の悪い光景に違いない。
 そして、そういった自身の状況や客観的なところまでを正確に認識しているにも関わらず、この幻を手放す気にならないというのが、度を越した狂人だという証拠、なのだろう。
 片手をこめかみに当ててみた。この頭蓋骨の中に入っているものは、とんでもない欠陥品だ。
 その欠陥品の中にバクラはいる。あの館にではなくこの頭の中にこそ、彼はいるのだ。

『――また来ても、いい?』

 甘えた声で願った。
 口づけで肯定を寄越したバクラは、好きにしろよとくっついた唇を動かした。
『いつ来ればいい?』
『いつでも』
『いつもここにいるの?』
『ほかに行くとこがねえからな』
 だから好きにすればいい。
 そう言って欲しかった。昔、心の部屋で交わった時に、そう言って欲しかった。
 だから、今、言ってもらったのだ。
「…ふふ」
 耳に笑い声が聞こえて、獏良は自分が声を立てて笑っていることに気が付いた。
 足で踏み分ける草の音しか聞こえない場所で、響く笑い声は心の底から楽しげだった。
 幸せ? そう、幸せだ。
 完璧な楽園を、手に入れたのだから。
 狂っていてもいい。壊れなければいい。バクラがいればそれでいい。偽物でも――それは、バクラなのだから。
 不意に、思考を遮るノイズを感じた。車が通り過ぎる排気音と闇夜を切り裂くヘッドライトが目と耳に不快に響く。顔を上げると山道はもう終わって、一車線だけの狭い道路に辿り着いていた。
 スピードを落として走っていたらしい運転手が、山から下りてきた学生服姿の青年を見てぎょっとする。訳もなく手を振ってみると、余計怪訝な顔をされた。
「…さて、と」
 失敬な乗用車を見送り、獏良は大きく伸びをした。
 明日はきちんと学校に行こう。退屈な木曜日をきちんと終えて、その足でまた、この山道を登って行こう。
 そして、あのカウチの脇で待っているバクラに嘘を言うのだ。
 ――お前のことを思い出せない、いったい誰なの、と。
 彼はきっと顔をしかめて、さあな、とお得意の言葉を吐き捨てるだろう。
 ちくりとも痛まない胸は彼が虚像だからではない。現実を認めた上で、獏良は彼をバクラだと認識している。これは純粋に、意趣返しの快さというものだ。
(だってお前は嘘つきだから)
(ずっと嘘をついてたんだから)
(今回くらいボクが嘘をついたっていいでしょう?)
 しかめた顔をして、ボクを睨んで。苛立ちがこもった腕で乱暴に抱いて。交わった後に、こっそり髪を梳いて。
 絶対に、好きだなんて、言わないで。
 よくばりを全部、かなえて。だなんて。
 ああ、本当にくるっている。

 

 夕日が落ち切ると辺りはもう真っ暗だ。空と一体化して巨大な闇になった山を背に、獏良は今まで浮かべたこともないくらいの満面の笑顔で、道路へと身を躍らせた。
 翻る髪を軌道が闇に泳ぐ。白い光に、獏良は眩しそうに目を細めた。

 

 ――今夜の月は、やけに真っ白できれいだな。