【同人再録】たぶん上々環状線。-3【R18】
なら何なのだと問われても答えられないけれど、肯定はしたくない。その間にも、窄む入口を舌が突き薄い肉を揉まれた。
電車の中でも尻を揉まれた。そんなことをしたってお互いに気持ち良くないはずだ。せいぜいがくすぐったいだけで、肉体的ではなく精神的に恥ずかしい思いをする程度。それなのにひどくいたたまれない気分になる。
「おら、サボんな。それとも穴弄られンのがそんなにたまんねえのか?」
腰を押し付ける動きはほとんど恐喝だ。まるで刃物を突きつけられているよう。
凶悪な肉の刃を口の中に迎え入れることはどうあがいたって出来なさそうだった。せめて唇を寄せるくらいは、と、半ば自棄になった獏良は筋張った竿の側面に唇を押し付ける。生臭いにおいと湿った感触は、お世辞にも気持ち良いとは言えない。
意図せず、ちく、と濡れた吸い音がした。濡れた唇はぴったりくっついて、軽く食めばバクラが笑う。できるじゃねえか。そう云って、ご褒美の強引な侵入。
「んッ、あ……!」
舌ではなく親指が食い込む。たっぷり絡め、流し込まれた唾液のおかげで痛まない。
汚いだとかそういう思考は、交わるようになって一週間ほどで忘れた。陰部に口をつけるのは別段おかしいことではないと、思わなければやっていられない。自分は排泄孔に舌を差し込むなんて死んでもしたくないけれど、バクラは特に気にせずそういうことをするのだった。今も、まるでそこが雌の穴だといわんばかりに抜き差しをしてくる。
「く、ぅあ、ッ、ばく、ら、ッ……!」
深く潜り込む指が、いつもと違う角度で曲げられる。おかしなところに当たって、膝が震えた。
もう性器自体に強い愛撫は与えられていない。バクラは口淫よりも入口に悪戯を仕掛ける方に集中しているようだった。もっとも、後ろだけでむず痒い快感を覚えられる程度には開発が進んだ身体のこと、不満よりも疼きが強い。
こじ開けられて抜き差される、硬い指の感触。ろくに脱いでもいないせいでひどく身体が熱い。擦れる布さえ刺激と感じる、火照った身体は始末に負えない。コートも脱がずに、こんなあられもない恰好で――改めて認識すると、首の後ろから尾骨にかけて、甘い痺れが帯になって走った。
ぼんやり開いた目の前にそそり立った性器があって、それに唇をつけている。惰性でだらしなく舌を絡めようとして幾度も失敗して、生ぬるい糸が舌とそれを繋いで。なんて恰好で、なんてありさまだろう。
いけない、状況を認識すると余計にたまらなくなってくる。猫のように疼き上がる腰を留められない。
「腰振ってもコレ以上入ンねえよ」
察して笑われても、腹も立たない。ぐっと押し込まれて腹側の脆い箇所を掠める。
あ、だめだ、と、熱で崩落しかけた脳が白旗を上げた。
「出ちゃ、ァ、ひ……ッ!」
我慢を知らない下腹が大きく引きつる。性器に頬を押し付けるままに、獏良はだらしなく射精した。
「は、ッ、ん、んんっ……」
四つん這いの重力で、ぼたぼたと精液が滴る。多少は斜めに吐き出しても白濁は下向きに零れ、バクラの頬にも飛沫が飛んだ。見なくてもそれくらいは分かる。自分は今、バクラの顔に思い切り射精してしまったのだと。
「あ……」
彼が今どんな顔をしているか、想像したくない。自分だったら間違いなく怒る。いくら傍若無人な獏良でも流石に何と云ったらいいか分からなく、されど射精は一度で終わりそうになかった。ぶるっと震えて、勝手に悶える腰が勢いのない種を吐く。
バクラは――しかし、どうやらくつりと笑ったようで。
「やってくれンじゃねえの、宿主サマ」
そんな上ずった笑い声と共に、べろりと内腿を舐められた。
滴る精液を辿り舐めて、そうして彼は獏良の見えないところで、頬の端に飛んだ飛沫までをも舐めとって見せる。
「まさか顔射されるたあ思ってなかったぜ」
「だ、ってお前、あんな、風に」
「弄られたら我慢できねえって? 宿主サマのここは随分と締まりが悪ィな」
云って、バクラは意地悪く性器をつつく。何か言い返す前に、やおら腰に衝撃。
わ、と悲鳴を上げた時には、獏良の身体は滑るように移動させられていた。寝そべっていたバクラが上半身を起こした所為で体勢がずり落ちて、しかし完全に別離しないよう、捕えられた腰が重なる。背中にコート越しでも分かるほど熱い体温を感じて、背後から抱え込まれたことに気が付いた。
「先にてめえ一人でスッキリしてんじゃねえよ。サービスしてくれるんじゃなかったのか?」
「っ、した、でしょ、口で、したじゃないか」
「あんなもんフェラのうちにも入らねえ。まあ――」
と、言葉の間で、ぐっと入りこむ圧迫感。
「必死にしゃぶりついてくるのは、悪くねえけどよ」
おかげさまでいい感じに硬くなったし、と、上ずった声でバクラは云った。密着した腰と腰の間で、境界が無くなる。斜め後ろから強直に潜り込むのは、明らかに異質な熱だ。
「それに、宿主はコッチの口のが上手でいらっしゃるからなァ」
「っ――う、あ、ァ!」
ぐぷ、と、粘着質な音が響く。いっとう太い部分が入口をめいいっぱい広げ、そうして内部に収まってしまったことを獏良は感じた。射精したばかりで力の入らない身体、それが都合が良かったのだろう。いつもよりも抵抗なく、肉に馴染んで潜り込んでくる。
指の、舌の、何倍も感じた。微かな痛みが痺れになって、それすら気持ちがいい。
爆発しそうな心音は二人とも同じで、上がる呼吸の早さも同じ。背中を反らせる隙間もなく重なり、バクラのダウンジャケットが擦れてがしゃがしゃとやかましい衣擦れを立てた。
獏良の右頬に、バクラのそれが重なる。粘つく頬を摺り寄せて、また笑う。
「汚ねぇツラ」
お互い様だ。獏良の吐き出した精液を浴びた頬と、バクラの滲ませた先走りが汗と唾液とが絡まった頬。べたべたと気持ちが悪い。耳を齧る犬歯だけがやけに滑らかだった。
「ばく、ら、ぁっ」
揺すりながら進んでくる、内臓の刺激が苦しい。バクラが腰をしっかりと掴んでいなければ勢いに負けて崩れてしまいそう。
なんとか身体を支えようと、獏良も後ろ手にバクラを掴んだ。右手を捩じって返せば、湿って張り付くダウンジャケットに手が届く。ぎゅっと握って、嘆息。
後ろから抱え込まれて貫かれるのは、先程の恰好よりはましかと思ったけれど――今のこれだってなかなかにひどい。
胡坐をかいたバクラの上に乗せられ、膝はだらしなく開いたまま。片足にまとわりついたジーンズ、もう片足には靴が引っかかる。着乱れて湿ったコートが肩でわだかまり、髪を頬を汚して、背後からなすすべもなく揺さぶられる。
どうあがいたってみっともない。理解したら余計にいやらしい気分になった。
ふと獏良が目線を上げると、そこにはダブルサイズのベッドが、綺麗にベッドメイクされた状態で鎮座していた。本来ならばあそこで交わるはずなのに、まだ床の上にいる。まともに脱ぎさえしないで。
「ベッド……」
思わず呟くと、あァ? と、耳のすぐ横で声。
「ベッド、あるのに、」
「運ばねえぞ。面倒くせえ」
そっけなくバクラが云う。別にそうして欲しいわけではなかったので、うん、と返す。
素直な返事に驚いたのか、耳横の唇は暫し黙って――そうかよ、と、曖昧に甘い声で笑った。そしてすぐにまた、ずん、と重たい衝撃。
「ひうっ!」
切っ先が容赦なく、腹側の弱い箇所を突いた。指で愛撫された時に一度掠めた、そんな生半可な刺激ではない。太く熱く硬い、濡れた先端がその場所の肉をまるで抉るように突き上げてくる。
堪らない、耐えられない。
今日初めて、獏良は何ひとつ抑制されていない、高い悲鳴を上げた。
「あ……――ッ!」
長く伸びて、最後は音にもならずに掠れる。自宅では絶対に出せない絶叫だった。
バクラが満足そうに、ひでえ声と囁いてくる。とても愉しげに。
「宿主、ココ抉られンの大好きだもんなァ?」
「ん、ァ、す、き、ッ、とか、わかんな、っぁ、すご、響く、ッ」
正直、気持ち良いのかすら分からないくらいだ。叩き付けられるとじんと痺れて、足の指の先まで響く。その刺激がたまらなくてたまらなくて、下腹が勝手に引きつって、硬い肉を更に締め上げる。絡みつく内臓のうねりに対して微塵の遠慮もなくバクラは腰を引いて、そうしてまた叩き付ける。繰り返し。
今日は獏良を乗せている分、深く突いて深く抜くいつもの動きが出来ない。一度限界まで押し込んで、中で細かく引いて刺す。短い間隔で何度も弱い箇所を苛められるのはたまったものではなかった。膝をがくがくと震わせ、獏良は悲鳴をあげるしかない。
ああ、頭がおかしくなりそうだ。
「あ、ぁぅ、あッ、やァ……ッ!」
もっと何かに縋りたくて、獏良は掴んだジャケットを頼りにバクラの身体を引き寄せた。
頬が擦れ、こめかみを擦りつけて喘ぐ。限界まで開いた足を、バクラの手が意味もなくさする。
甘い甘い甘い――気持ちが悪い。まるで仲良し、まるで恋人。睦まじいような錯覚。そんなものでは決してないのに。
それはバクラも同じだったようで、くふ、と吐き出した鼻笑いに、微量の違和が混じっていた。
「っとに…… 今日は、おかしいぜ、てめえは」
そんなに息切れしているくせに――自分を棚に上げるバクラにそう云おうとして、息にのまれてうまくいかない。
「何か変なもんでも、食ったンじゃ、ねえの」
「おまえ、こそ、ッ、優しいの、変だよ」
痴漢ごっこの、続きのつもり?
せめて皮肉に云ってやった。バクラは鼻を鳴らして、そうかもな、と云う。
ますます気持ちが悪い。素直だ。あのバクラが。
「そういうプレイだって思えば、悪かねえ」
「電車のなかで、あ、こんな、ッ、こと、するの?」
「は、そりゃあとんだ変態だ――」
云うなり、きゅ、と、掌が返る。
足の上にあったバクラの手は蜘蛛のように素早く這い上がり、釦を外しただけの獏良の胸へと滑り込んだ。肋骨を奏で、布と擦れただけで硬く芯を尖らせた乳首に、爪が引っかかる。
「んうっ」
「ココくらいは、いじってやれたかもしれねえなァ? 電車ン中で」
尤も、声我慢できねえで回りにはバレちまうかもしれねえけどよ。
後ろから突くタイミングと微妙にずらして、バクラの指が乳首を捻る。中指の先に先端をかりかりと引っ掻かれて、掻痒感と紙一重の快感がじわりと脳を濁らせる――思わず吐き出すのは、甘ったるい溜息だ。
電車の中でされていたら。確かにバクラの云うとおりだ。我慢できるはずがない。それでもどうしても想像してしまって、ぞくぞくと背中から感じた。こんな風に背後を取られて、あの時のように壁際に追い詰められて。人知れず貫かれて?
現実に、出来るはずがない。けれどこれは、妄想で。
「っだめ、ぁ、バクラ、っ」
まるでその場にいるように、自然と口にしてしまった。
もしここでバクラがからかって、おいおいノリノリじゃねえかなどと云って水を差したら、電車の妄想はすぐに霧散していただろう。しかし彼は軽く片眉を持ち上げて、楽しそうに唇を吊り上げるだけだ。
「宿主」
寄せた耳元で、脅すような演技の囁き。びくんと身体が跳ねあがる。
「我慢しろよ、バレちまうぜ」
その一言だけで、世界が境界を無くした。
空想と妄想は獏良の得意分野だ。そして催眠と暗示はバクラの得意技。ダブルサイズのベッドもオレンジの灯りも、ぬるいフローリングまでもが輪郭を失う。薄く目を閉じればそこは夕暮れの満員電車で、都合よく、乗客はこちらに気が付かないシチュエーション。
縋るバクラが着乱れていないことも相俟って、感触だけを追えば十分だった。バーチャルの世界に半身を浸して、獏良は震え上がる。
今日は二人ともおかしくなっているから。この世界はバーチャルだから。ちょっと遊んだって構わない。いつもどおりじゃない二人になれる――だなんて。
どうしよう、なんだか楽しくなってきてしまった。
「バクラぁ」
普段では決して上げない、甘い声。悪乗りしたバクラが身体を摺り寄せて、シィ、と、耳元で声を抑える合図を出す。
「そんな声出したら、あっという間に気が付かれるぜ。それとも見られた方がいいか?」
「あ、ッだめ、やだ、」
「後ろから突っ込まれて、乳首弄繰り回されて、みっもとねえなあ、ええ? 宿主サマ?」
露出狂の趣味など欠片もない。他人に肌を晒すのは嫌だと思う。平常の思考がそれだ。
今は違う。危うい妄想で遊んでいるのだから構わない。見られたい願望はないけれど、バクラがそうやって与えてくる羞恥にぞくぞくと興奮した。尤も、そうやって嗜虐の言葉を吐いているバクラの方が、愉悦が深そうだ。
電車の揺れやレールを擦る音。幻聴が聞こえる。
不意にバクラの腰が、鋭角に引きつった。低い呻きと共に動きが乱雑になる。
限界が近いことは身体ですぐに理解した。射精が近くなると小刻みに変わる癖は、心の部屋で交わっていた時から変わらない。見た目が変わっても癖はそのままで、一緒に暮らし始めた時はそれで何故か安堵したものだ――変わったのはやけに精の保ちが良いこと。その分、吐き出される熱量は比べ物にならないが。
「ば、くら、ッ、駄目、こんなとこで、出したら、っ」
獏良の意識はすっかり電車の中である。バーチャルに便乗したままのバクラも忍び笑って応じてみせた。
「零さなきゃいいんだろ。てめえが下のクチ、良い子に締めてりゃあいいんだよ」
「無理、できな、」
「聞こえねえ」
問答無用だった。ぐっと抉り込んで一番深い場所、ごり、と抉られる前立腺。
情けなく悲鳴を上げた獏良を押し込めるように――肉の密室で熱が弾けた。
「ひぅ、う、ァ……!」
ぶるぶるぶる、と、まるで絶命する小動物のように震えたのは獏良の方だった。容赦なく叩き付けられる熱い飛沫に内臓を焼かれて、臓腑が燃える。意図してではなくきつく締め上げてしまうのは、それだけ刺激が強いからだ。睫の先まで痙攣させて、しかしそれでも従順に、流し込まれるままに受け入れる。
「く、ぁ」
喉を反らせる獏良と裏腹に、ぐっと背中を丸めたバクラが呻く。搾り取る蠕動に任せ、全て中へ。
打ちこんだ性器と吐き出した精と、濡れた内臓と。ぐちゃぐちゃに粘ついて絡む絶頂に、吐き出すのは満足げな溜息だった。
「――良く出来ました、宿主サマ」
零さず咥え込めたご褒美に、バクラは回した手で喉から胸を撫でる。爆発しそうな心音が、皮膚一枚の向こうで暴れていた。意思と関係なしにひくひくと跳ねる、細い身体は全身で泣きだしそうだ。
「やっぱり、上より下のクチのがお上手だな」
「は、ぁ、っあ、う……」
「腹ン中、ひでえことになってんだろうなァ?」
胸から降りた手が、下腹を撫でる。この奥の腹の内側に、バクラ自身とそこから吐き出した白濁の塊が揺蕩っているのだ。本来受け入れる場所でない箇所に。不快感の一歩手前の快感に、獏良は短く乱れた呼吸を抑えられない。
出されてしまった。『電車の中』で。
動いたり抜いたりしたら、とぷりと溢れて腿を伝うであろう白濁――車両の床に卑猥な水たまりを作るそれ。
抜けきらない妄想思考が、掠れた声で、だめ、と云わせた。
「あン?」
「ぬいちゃ、だめ、あ、出ちゃう、ッ」
「ああ――溢れちまうってか? 宿主サマの尻から、オレ様の出したヤツが涎みてえに」
「だから、だめ、そこに、居て、」
抜かないで、だなんて。
今まで一回も云ったことが無い台詞を口にして、獏良は濁った眼で鈍い瞬きをした。
不規則に引きつる腿の間で、一度吐き出したはずの獏良の性器も漲りつつある。妄想のプレイと物理的な快感の板挟みですっかり骨が抜けていた。まともな思考などどこを探しても見つからない。
たたん、たたん、と、規則的に響く電車の音を、確かに聞いた。
バクラはそんな己が宿主を、細めた瞳でとっくりと眺めて――
「……なら、二ラウンド目も食い零すんじゃねえぜ?」
そう、つまりはバーチャル続行。
張り詰めた獏良の性器を緩く握ってやりながら、バクラの目もまた、ありえない電車の窓を見ていた。
3.
「…………何やってんだろ」
「…………うっせえ。云うな」
ずうん、と重たい空気が、部屋の天井から床に向けて圧し掛かっていた。
重力に潰されるように肩を落とした獏良の傍らでは、バクラも同じように項垂れている。お互いにベッドの上で、ひどい有様の半裸で、そして背中を向けあっている。
とても顔を突き合わせられない。
双方ともに、己のしたことに最大級の自己嫌悪である。
「痴漢プレイとか……」
「……黙れって」
我に返ると、痛すぎる。
ハズカシイを通り越して、激痛。
いい年をした男が二人、痴漢プレイで三ラウンドも遊んでしまっただなんて。そりゃあ確かに始まりの始まりは実際に電車の中でした痴漢もどきの接触だったけれど、わざわざラブホテルにまで足を運んで切羽詰って交わり合って、楽しんでしまったのがそう云うプレイである。
お互い口淫し合ったくらいならば、ばかなことしたなあ、で済んだのに。
厄介なことに、云ったこともやらかしたこともしっかり記憶に残っている。いっそ前後不覚に吹っ飛んでしまっていたら良かったのに。あられもなくみっともなくこっぱずかしかつく痛々しく、甘い強請りに甘い嗜虐に仕草にあれこれ。抱きしめた感触や頬を寄せた温度まで覚えているからたちが悪い。お互いにすっきりした後、いわゆる賢者タイムにのしかかる自己嫌悪の重圧は半端なものではなかった。
二人の間に滲んでいた不思議な感覚――らしくもなくくっつきたいだとかキスをしたいだとか、曰く「気持ち悪い」感情も霧散していた。
残っているのはいつもの獏良と、バクラ。
沸騰しそうな熱は、とっくの昔に冷めていた。
「何でこんなこと…… ボクあんまりいろいろ気にしない性格だけどさ、これは、ないよ……」
ああもうなんでこんなことしちゃったんだろう。
自分が原因だとは思いたくない。自然、バクラの所為だと云わんばかりの咎める口調が唇に乗った。聞き捨てならねえな、と、背中を向けていたバクラが剣呑な目でもって振り返る。
「てめえが乗ってきたんだろ。オレ様のせいみたいに云うんじゃねえよ」
「だってお前が云ったんじゃないか、電車の中がどうとかさ」
「その方が宿主サマに楽しんで頂けるんじゃねえかって、優しい気遣いじゃねえか」
「バクラだってノリノリで変なこと云った癖に! 何だよ見られるって! 誰も居ないよ!」
「勝手に視線妄想して悶えてたのはソッチだろうが! 抜くなだの甘ったれた声で云いやがって!」
「わざわざ蒸し返さないでよ最低だよ! そんなこと云ったらお前だってバレるとか零すとか馬鹿じゃないの!? 大体――」
と、ヒートアップしそうになったところではたと気が付く。
とてもじゃないが顔を合わせたくないと思っていた、相手の顔がすぐ目の前にあることに。振り返って云い合っているうちに口喧嘩の工程で近づいた、その距離は掌一つ分ほど。
お互い色濃い情欲の欠片を目の縁にひっかけて、されど自己嫌悪でどんより濁って。
全く同じ、いたたまれない顔で睨み合っていた。
「……やめた。云い合ってもしょうがないよ、もう」
ふうとため息をついて、獏良はがくんと頭を落とした。
近い距離の所為で、ごつん。バクラの肩に額がぶつかる。未だ着たままのダウンジャケットは汗を吸ってじっとりとしていた。さっさとクリーニングに出さないと、いつまでもこの記憶を引きずりそうで嫌だ。
ナイロンの生地が濡れた肌に張り付く。それが不快で、ぐりぐり頭を擦りつけながら鎖骨辺りまで移動した。
吸い込むのは、交わった後の生々しい匂い。混じって、バクラの髪から、いつまでたっても消えない遠い砂の匂いを感じた。
「……宿主」
「なに」
「まださっきみてえなことしようとか思ってんじゃねえだろうな」
「蒸し返さないでってば。お前が云ったんだよ、忘れろって」
だから知らない。もう忘れた。
努めて言い聞かせるように強く、獏良は呟いた。
それならこの接触は何なのだろうか、という自問自答は心の中で。
確かにこれなら気まずい顔を突き合わせなくてもよいけれど、触れあう必要はもうなくて。ついでに云えばあの甘やかな面はゆさもどこかへ飛んで行ってしまったのだから、この先どうしたらいいのかもわからない。
数時間前の自分なら、ありえないことを――抱き着いたり、キスを強請ったりしたのかもしれない。
なんと恐ろしい。怖気が走る。
それはバクラも同じようで、額を押し付けられたまま微動だにしなかった。
「ねえ、バクラ」
くっつけた額をまたじりじりと持ち上げ、上目に彼を見る。バクラは不機嫌かつ疲れた声で、何だよと応じた。
その先の言葉をどう続けるつもりだったのか、獏良自身よく分かっていなかった。
ただ、そういえば電車を降りてからこっち、まともにこいつの顔を見てなかったなと、そんなことに気が付いただけだ。
ホテルまでの道のりはずっと爪先を見ていたし、部屋に入ったら即、重なり合ってしまったし。キスをした時でさえ顔の距離が近すぎてよく見えなかった。口淫の時も挿入の時も、見えることが出来る体勢ではなかった。
だからなのか、ついじっと見てしまう。
短い髪。赤紫の瞳。瞼を縦断する傷に褐色の肌。腹が立つくらい男らしい骨格まで。
目を閉じていた時、顔が見えない時、想像していたそのままに違わない姿。一か月前、バクラが帰ってきて間もない頃は、目を閉じるとどうしても心の部屋でのことを思いだして、長い髪に青い瞳に白い肌――を想起して。そうして目を開いた時に飛び込んでくる褐色の男に違和感を覚えたりした、のだけれど。
今はそれもなくなった。バクラは、鏡写しの獏良ではなくて、彼そのものになった。
ああ、しっくりくるようになったんだな――と、えらく場違いに、獏良は思った。
「呼んどいて黙ンな。何だよ、まだ文句言おうってか?」
「別にいいじゃないか。見てるだけだよ」
「てめえがぶっかけた面見て、ご感想は?」
「そっちこそ、ボクのほっぺたと髪の毛汚してくれたことに関する言葉はないのかな?」
再び拮抗。ぎりぎり睨む。
それも無駄なことだと分かっているから、結局は溜息で終わる。どちらともなく風呂、と呟いて。
幸いここはラブホテルだ。妄想の電車の中ではないのだから、ベッドルームと繋がってやけに広いバスルームがある。二人並んでも余裕のあるバスタブに何故硝子張りの壁に、明らかに身体を洗うためのものではないものが入ったボトルが所狭しと並ぶ、そんなバスルームは目前だ。
「もうこのままご宿泊にしちまおうぜ。三時間経ってんのかも覚えてねえし」
「ばか云わないでよ。お風呂入って少し休んだら帰るよ」
ちらとベッドサイドのデジタル時計を見ると、時刻は七時を少し過ぎたところ。今から十分帰宅できる時間である。
これで電車が動いていない時間というのなら宿泊も止む無しだが、獏良は明日、学校がある。とてもじゃないがゆっくりなどしていられない。
デジタル時計の脇には小さな小箱とボックスティッシュが並んでいた。意識すると何とも言えない気分になるので見なかったことにする。ついでに云えば、部屋の片隅に設置されたピンク色の自販機――スイッチを入れると振動するアレとかコレといった気まずい玩具が並ぶ機械や、やけに巨大な薄型テレビの前にぶらさがった肌色率の高い番組表も、見なかったことにしたい。今はとにかく、アブノーマルな性癖を少しでも匂わせるものから遠ざかりたい獏良だった。
とにかくさっぱりして身ぎれいにして、そして帰宅して忘れたい。具体的なプレイの一部始終を。
「うち帰っても、もうしないからね。今日は」
念の為に云っておくと、バクラもああ御免被るぜと手を振ってきた。お互いのダメージは計り知れない。
もしあの甘い空気が残っていれば、一緒に風呂に入ったのだろう。今はもうそんなつもりはさらさらない二人である。いやらしいことをする気分でなければ男の裸体などむさくるしいだけだ。
どっちが先に入るかという問答もなく、獏良はさっと立ち上がった。とりあえず一旦コートを脱いで、どこかへ失踪したままのジーンズを探す。左右を見回し、見慣れたそれが玄関に丸まっているのを発見。片足だけ靴履きというおかしな恰好で回収に向かう。
と、そこで、
「あ」
立ち止まって、強張った声。どうしたよと、ベッドの上に寝転がったバクラが云う。
獏良の視線の先には、丸まったジーンズと脱げたスニーカーと――墜落した買い物袋が、あった。
「買い物……」
呆然とした呟きに、バクラの方もあ、と声を上げる。
すっかり忘れていた。正確には、このホテルに来る途中から存在自体忘れていた。
二つの買い物袋のうち、一つには冷凍食品が詰まっている。遠目に見て明らかに自然解凍されているそれは、大量の水滴をビニールの内側に湛えてパッケージを湿らせていた。暖房の効いた部屋が仇になったのか、それとも二人のまぐわいが室温自体を底上げしてしまったのか定かではないが、すでにそれは冷凍食品とは呼べないレベルである。
だがもう一つの袋に比べれば、まだましだった。
袋の口から頭を出した葱が半ばから折れている。半透明ごしでも分かるのは、潰れた生卵の海。ひしゃげたプラスチックの隙間からたぷたぷとでろでろと、白身と黄身のまだらなスープが溢れる。
その海に半没しているのは、今晩の夕食予定だった野菜と生肉。
発泡スチロールの器が、まるで舟のように浮かんでいた。
「……忘れてた、よね」
「……忘れてた、な」
二人そろっての、間抜けな沈黙。
先程の自己嫌悪よりもぐっと響く、極大の脱力感だった。
ラブホテルという非日常で、日常の象徴の如く存在感を放つ買い物袋。それが見る影もなく絶命していることが、精神的にも肉体的にも疲労した二人に留めを刺した。
痴漢ごっこになりゆきホテル、そしてそのホテルで痴漢プレイ、終われば最大級の自己嫌悪。
買い物荷物を全滅させて、今日得たものがそれである。
ああ、ああもう、本当にもう、何をやっているんだか――
今度こそ言葉もでない。怨嗟にすら似た長い溜息を吐きながら、獏良はその場にぺたんと座り込む。
そんな絶妙のタイミングで、ベッドサイドの電話が鳴った。
明日は学校。服はぐしゃぐしゃ。月末、財布もそこまで元気ではない。
けれどもそれでも、今、ご宿泊ですかと確認されたら――はいと応えてしまっても、誰も咎めないと思う二人だった。