【同人再録】遣らずの雨は静かに長く、(バク獏)-1

発行: 2015/12/29
「 欺瞞、雨、プレゼント。 」
半田氏とちるこさんとの不穏な感じのバク獏合同誌、の西尾分再録です。


雨、が。
 単調な音を立てて振り続ける岐路を、獏良了は歩んでいた。
 藍色の折りたたみ傘は糸のような雨を柔らかく受け止めてはしずくとなってふちから零れ、まるい水玉を時折、獏良の肩に落とす。やわらかな白い髪に音もなく吸い込まれてゆく感覚は遠く、濡れもさほど気に留めない獏良は、片側の肩を湿らせながら、片手に学生鞄とスーパーの袋を揺らして歩く。
 部活動に属していない獏良は、クラスメイト達と比べて帰宅が早い。それでもやれゲームセンターだ、ハンバーガーショップだと寄り道をするのがよくある高校生なのだけれど、それは帰宅した後に洗濯や掃除や、夕飯を作る手間のない自由な専業学生にのみ許された道楽であり、獏良了はそれではなかった。朝干してきてしまった洗濯物のことを考えると気が重い。この重たい気持ちより、たっぷり雨水を吸ったバルコニーの衣類の方がよほど重たくなっていることだろう。となるともう一度朝のやり直しをしなければならない。洗濯の手間、そして夕食の支度。掃除機をかけるのは、夜は階下に配慮すべきなので明日帰ってからの作業としよう。そんなことを考えながら、手抜きできる惣菜が入ったスーパーの袋を、獏良は逆手に持ち替えた。
 一人暮らし。
 そして、今はもう、摩訶不思議な喧噪の日々も過ぎた平和な世界。間延びするように続いてゆく日常の中、誰も見ていないのだから、別に怠けたっていいじゃないか――
 と、頭では分かっている。
 父親は滅多に帰らない。三日分くらい洗濯物を溜めようが、食事を抜こうが外食しようが、家事を放り出して補導時間ぎりぎりまで友人たちと遊ぼうが、誰も咎めず見る者はいない。
 そこまでしっかりと理解していても、獏良は常の通りの整頓した生活を、惰性のように続けてしまう。
(誰も見ていない、んだけど)
 その、はずなのだけれど。
 雨の音はさあさあと絹布がふれあうほどのささやかさであるが、密度は濃い。数メートル先の世界は輪郭をなくして、透け布を越して色彩をだけをかろうじて映すほどの霧のような雨だ。その、肺が雨水を溜めてしまいそうな空気をひゅ、と短く吸い込み、獏良は一瞬、足を止めた。
 このまま進めばすれ違う四辻の角に、見慣れた人影が立っていた。
 雨の紗幕に包まれて、形をおぼろげにしたそれは獏良に背を向けている。世界に溶けそうな白い髪、黒い外套。
 獏良は傘を前に傾け、いっとき止めたつま先を踏み出した。ぱしゃんと水が跳ねる。スニーカーの隙間から浸み込んだ冷たさがすぐに不快な生温かさに変わる。
 心は冷えていた。
 本当は心音がうるさいくらいだった。
 「それ」の隣を通り過ぎる時、いつだって獏良の心臓ははちきれんばかりの早い鼓動を刻んでいた。
(そうだ、誰も見てないんだ)
 スーパーの袋を握る手の内側にひやり、湿った冷気が滑り込む。まるで誰かに手を滑り込まされたかのような感触だが、これは違う。雨粒が隙間を縫って入り込んだだけだ。
 通り過ぎる時、「それ」は何もしてこない。
 ただ背中を向けてそこに居る――或るだけ。
 何もしない。
 そうとわかっていても、手を掴まれる気がした。肩を抑えられ、髪を引かれ、こちらを向けとあの耳慣れた声で囁かれる気がした。
(あるわけがない、そんなの)
 唇が冷たい。噛みしめて、血のめぐりが悪くなってくる。
(ない、ない、ない、ないんだ)
 一歩近づき、そして、すれ違い、一歩離れて。
 十歩も離れた時、息が上がっていた。自然と呼吸を忘れてしまう。身体が勝手に口も鼻も閉ざすのだ。吸い込んだ空気のなかに「それ」が溶けて、また身体の内側に入り込まれてしまったらどうする、と、危惧している。
 ――そんなわけがないのに。
 獏良は顔を上げ、来た道を振り返る。
 四辻には誰もいなかった。
(……当たり前だ、だってボクは)
 荷物を持ったままの手でもって、ぴたり、と、胸をさする。
 なめらかで凹凸のない胸板に、黄金の一ツ目と五条の鋲はない。雨で湿った制服の向こう、肌に残っているのは傷痕だけで、あの重たくて忌々しくて、されど絶対に手放すことができなかった――できないと思っていた千年輪は、ここにはない。
(もう宿主じゃ、ないんだから)
 わかっている、だから。
(あれは、ボクの頭が作り出した、まぼろしみたいなものなんだ)
 ざあざあ、ざあざあ。
 霧のようだった雨がにわかに強さを増して、獏良を苛むように傘を強く叩く。
 紺色の傘のふちに隠れて、獏良の表情は見えない。
 笑っているのかもしれなかった。
 泣いているのかも、しれなかった。

 昔の話だ。
 バクラのたくらみの詳細も知らず、しかし、この男がひどく邪悪で、悪いもので、放っておけば町中に、否、世界中によくない影響をまき散らすことになると、獏良は直感的にわかっていた。
 ひどく残酷で、ひどく嘘のうまい、悪魔のようなものだった。
 獏良のさみしさを心の中から目ざとく摘み上げ、ながい舌に乗せたバクラは、最後の最後までその舌の上で獏良をころころと転がし、舐り、心を魂を想いを深く摩耗させては、減ったものの代わりに、一夜限りの甘ったるい愛のようなものを塗して獏良をだまし続けた。
 途中からは、自覚的に騙されていたといってもいい。
 欲しいものを全て与え、ぽっかりと空いたさびしい穴を埋めてくれるのであれば、嘘でもいいと獏良はそのとき、本気でそう思っていた。それくらいに寂しくつらかった。苦痛の半分は今までの人生で積み重なった小さな孤独の蓄積だが、もう半分はバクラのせいで降りかかった痛苦であった。そもそも彼が獏良とつながりさえしなければ、自分を友と呼んでくれるクラスメイトを裏切り、悪の腕に抱かれる矛盾に陥ることもなかった。そんな辛さから逃れるために、獏良はバクラに願った。楽しいことを、気持ちいいことをくれ、塗りつぶしてくれと願った。バクラは笑って応じ、心の部屋は矛盾と逃避と快楽でたゆたう海となった。
 そんなひどく曖昧で、危なっかしい、誰かに背中を押されたら崩落してしまうような心もとない楼閣の上で生活していた短い時間。
 獏良了には、忘れられない光景がある。

 ざあざあ、ざあざあ。
 叩きつけるような雨が降っている。何故ここに来たのだっけ、そうだ、バクラに見せてやろうと思ったのだ。この町で一番よい景色を。
 関係は相変わらず名前のつかないものだったけれど、獏良は意図的に、バクラに友好的であるようにふるまった。単純に、そうでないと辛いから、苦しいから、現実に目を向けてしまうのが怖いから――胸を張れる理由ではないが、人に備わっている自己保全の力がそうであるように仕向けた。バクラはある時は兄弟で、ある時は家族で、ある時は親戚で、ある時は恋人で、ある時はクラスメイトだった。その場で一番具合のいい名前をつけて、そうであるように獏良はふるまった。バクラはというと、それは彼なりの付き合いの良さだったのか、手管の一部だったのかは与り知らぬことだけれど、何も言わずに望まれるままの役どころを演じていたように、獏良は記憶している。
 その時はクラスメイトくらいの距離感で、いいものを見せてあげると言って彼を連れてきたのだ。小高い丘公園の展望台、眼下に町を見渡せる絶好のスポットだった。
 雨さえ降らなければ、完璧だった。
 到着の寸前に降り出した雨に、気が付いたのは獏良が先だった。舗装されていない土の道にぽつり、小さな雨粒が落ち、獏良はあわてて学生鞄の中から折りたたみ傘を取り出した。ばつんと大きな音をたてて傘が広がるか広がらないかのタイミングで、俄かに強い雨が降ってきた。
 間に合ってよかった。息を吐く獏良の横を、地面を歩む必要のないバクラがすう、と通り過ぎて行った。人間でいう速足くらいの速度で彼は進み、ぴたり、と、展望スポットの柵の前で止まった。
 濡れちゃうよ、バクラ。
 そんな風に、言ったのだと思う。
 冷静に考えればバクラに肉体はなく、獏良の青い二つの瞳を通してでないとその姿は認識できない。豪雨も身体をすり抜けて、その足元の泥を跳ね上げるだけ。獏良を模したスニーカーを汚すことはない。
 濡れちゃうよ、ねえ。
 近寄りがたく感じて、獏良はその場から動かず、同じ言葉を繰り返した。目前のバクラの姿は、見ていてなんだかとても息苦しくて、目をそらしたくなるほどだった。気まぐれなにわか雨を降らせる空は明るく、少し経てばすぐに止みそうだったけれど、その分力強かった。短い時間でどれだけ地面を、建物を、緑を、人を濡らし困らせることができるか、天の上の誰かが競っているようにさえ感じられた。
 容赦のない直線の雨は、遮る術を持たないバクラの上にどうどうと降り注ぐ。実体がないのだから冷たくも痛くもないはずだ。しかし、半透明に景色を透かす身体を貫通し地面を叩くそれはまるで、バクラを幾億もの光の矢で突き刺しているかのようにも見えた。
まるで処刑のようだった。
世界がぼやけすぎて現実感が乖離した、残酷で美しい宗教画の中の出来事に近い感覚を、確かに獏良は感じた。
ねえったら、こっちにおいでよ。もう帰ろうよ。
いたたまれずに声を荒げた獏良に、バクラはわずかに振り向いた。濡れていない髪が邪魔で顔がよく見えない。ただ持ち上がった唇の端だけはよく見えて、笑っていることだけは察せられた。
 濡れやしねえよ。
 やかましい雨音に不思議とかき消されることのない、静かな声でバクラは言った。
 てめえだって、そこに居れば濡れねえさ。
 それは――どういう意味だったのだろう。
 その時の獏良は、その状況のままに受け取った。深く考えることもしなかった。実体のない存在は、現実の影響を受けない。雨にも濡れないし、風に吹かれても寒くない。泥の道を通っても靴は汚れない。傘なんかなくても何の問題もない。獏良の方とて、そもそも傘があるのだから何の心配もない。そういう意味だろう、と。
 彼が実体どころかその魂、その欠片さえもなくなり、獏良が認識できるこの次元から消滅した後の話だ。あれはどういう意味だったのだろう、だなんて――柄にもなく考えてしまったのは。
 あの時お前は、なんであんなことを言ったんだ。
 あの時ボクは、何を思って、お前の背中を見ていたんだ。
 雨煙の向こうの景色と同じ、記憶は徐々にだが忘却の向こうに去り始めている。鮮烈に残っているその光景だけはかろうじてよく覚えているけれど、その前後はあやふやで、帰り道に何を話しただとか、その前のバクラはどんな様子だったのかだとか、そういったことは記憶の抽斗の深くにしまわれて引き出せなくなっている。
 いずれきっと、この光景も霧の向こうに消えてしまうのだろうと、獏良は思う。
 それまでに答えを見つけ出したかった。何故かそれが、自分に残された最後の役目だと感じていた。
 今までずっと、故意に思い出そうとしなかったバクラとの日々を、獏良は紐解き始める。
 それからのことだ。
 決まって雨の日、帰路や逢魔が刻に、視界の端に黒い影が現れるようになったのは。

 はじめこそバクラの再来か、何か仕掛けがあって、獏良の思考をスイッチに復活を遂げたのかと恐ろしくも途方に暮れたものだけれど、バクラの影――「それ」は、バクラそのものではないとすぐに知ることになった。結局のところそいつの正体は脳みそが作り出した幻で、獏良の頭の中にしか存在しないものだった。誰にも、そう、クラスメイト達にも見えていないのだ。見えないというのは以前からそうだったけれど、聡い彼らが気配や何かを少しも察せられないのは不自然に思えたし、第一「それ」は彼らに何かしようとするそぶりもなかった。ただ獏良の視界の隅に居て、背中を向けて立っているだけだ。バクラらしくない、ぽつんと立ち尽くすようなそれがバクラ本人でないことは間違いない。その事実に獏良は安堵し、ほんの少し、ほんの少しだけれど残念だと思った。もし本当に彼だったなら、問うことができたからだ。あの時言った言葉の意味を。未だ出ない答えを、彼だけが持ち合わせているのだから。
 物言わぬ幻はただ現れ、通り過ぎれば消えた。
 そうとわかっていても、遭遇すると獏良の心臓はぎゅっと縮まる。息が止まる。昨日までは幻だったけれど、今回は本物かもしれないと思う。恐怖と隣り合わせに、ティースプーン一杯分の期待があることは否めなかった。
 すべてが終わった後であるのに、獏良はまだ、矛盾の海に足を浸している。もう存在しない者のなぞかけのことばに迷い、その幻に翻弄されている。
 それでも、止める気にはならなかった。
 霞み掛けている彼との記憶を、獏良は今日もたどり始める。きっとどこかにあるはずの、あの焼きついた古写真のような光景の答えを今日こそ見つけたい。あの幻にもう出会わないように。とっくに世界が過去にした平和な世界に、足をつけて生きるためにも。
 誰も助けてくれない、最後の最後、一人でやらねばならない試練だ。あの幻は、すべてを終わらせるために現れる鍵のようなものなのだと獏良は思う。
 こうなれば雨に濡れたままの洗濯物も、テーブルに置きっぱなしの惣菜もどうでもよかった。湿った学ランを椅子の背に投げ捨て、獏良はベッドへうつぶせに倒れ込む。
 思い出すときは、眠るように。
 心の部屋に引きずり込まれてゆく時の、落下と浮遊を混ぜたあの感覚を思い出しながら、獏良は記憶の抽斗に手をかける。