【同人再録】遣らずの雨は静かに長く、(バク獏)-2【R18】

 昔の話だ。
 その日も苦しくて苦しくて泣いていた。切欠は些細なことだったように思う。妹を思い出したとか、急にこの家に住んでいるのは自分一人で、頼れる人間は誰一人身近にいないのだとか、今日もみんなはゲームセンターに行ったんだろうか、ボクはいけなかったけど何の話をしていたのだろうかとか、そんなようなものだった。夕食を片付けている時に唐突にネガティブな気分になって、目聡く鼻も聞くバクラがすう、と、背中に寄り添ってきたのだった。
「御辛そうだなァ、宿主サマ」
 半透明の手指は獏良に触れることはできない。それでも輪郭を辿り、背中から脇腹を伝って胸まで。這い上がってきた手は白く、獏良と同じ白茶けた傷痕が残っている。
「是非とも慰めて差し上げてえんだが、いかが?」
「……よく言うよ、本当はボクのことなんてどうでもいい癖に」
 言葉は拒絶し、身体は固まり、心は喜んでいた。獏良了という存在の中で反発しあう塊が三つあり、ぶつかりあってはじけあって、内部をぐちゃぐちゃにかき乱してしまう。バクラが触れるといつもこうだった。穏やかなリズムで回り互いにぶつからないように巡っている星が、バクラの指先ひとつで掻き乱される。
 だが、それが心地よかった、楽だったのは本当だった。内側の騒乱からの逃げ道に、犯人の白い手が差し伸べられる。あの手は掻き乱した張本人であるが、同時に非常口でもあった。あの手を掴めば今だけは何もかも忘れられる。目覚めた後吐き気がするほど後悔しても、その直前までは文字通り、とろけるような快感の沼に沈んでいられるのだから。
 アルコールに依存するのはこういうことだろうか。それとももっとたちの悪い薬物だろうか。
 唇を噛んで振り向くと、バクラの瞳が少しの笑みを湛えて獏良を見つめ返してくる。青緑をした同じ色の瞳。そのはずなのに、病毒の色に見えた。
「御手をどうぞ」
 触れられない手を差し伸べられ、重ねたら、それが合図だ。
 突き落とされる、急激に浮遊する。天地のない感覚に引き回され、沈む沼の底のような場所が、獏良とバクラの秘密の場所だった。ほかの誰も入り込めない聖域、ただ四方は無限に広く、狭く、遠く、近い。
 必要がないから、衣類も存在しなかった。ここでしか触れ合えない手をバクラが伸ばして来、からめる指と指。隙間を埋めて、人差し指の腹が獏良の指と指のやわい部分をなでる。むき出しの心は敏感すぎて、それだけでぞくりと首の後ろが熱くなった。
「全部吐き出しちまえよ、オレ様が聞いてやる――ぜぇんぶ、良いようにしてやるからよ」
「うん……うん、」
 そこから先は、ただただ好きなように、楽なようにしていれば良かった。
 裸の背中を支える闇がとぷんと暖かく、自分の平熱と同じ温度だとおぼろげに理解した。肌と闇の境界がなくなる錯覚。安楽椅子に、なだらかに背を預けて薄く目を閉じる。覆いかぶさるバクラの温度もまた同じ。ここには不快なものは何一つない。首筋を甘く食むバクラの唇だけが少し、冷たかった。
 白く広がる長い髪を、バクラの指がくるくると巻き取る。嫌なことがあったんだろう、それとも何か思い出したか。いや、オレ様のせいか? 促す言葉は全部当たっている。そうだ全部それだ。もういやだ、くるしい、つらい、そんなようなことを切れ切れに、微睡みながら獏良は訴えた。そして最後に、
「ずっとここに居たい」
 と、言った。
 バクラは少し黙った。その後に、少しふざけた調子でそりゃあ無理な相談だ、と答えた。
「どうしてダメなんだ、ボクの心の中なのに」
「大好物の甘いモンが食えなくなっちまうぜ。耐えられるか?」
「……やだ」
「だろ。宿主は我慢ができねえ素直な性格だからよ、難しいこった」
 甘やかす声音だった。今やしっかりと目を閉じてしまって、バクラの顔は獏良には見えない。瞼を透かして想像できる――程に、彼のことを理解してはいなかった。瞼の裏側は闇であったし、きっと開いても同じような闇がそこにあるだけだ。バクラの表情を、正直なところ獏良はよく覚えていない。顔を見合わせることが少なかったのだ。記憶しているのは嫌味な笑みいくらいで、他の顔を思おうとするとぼんやりかすんでしまう。
 我儘をそらせる動きで、バクラの唇が移動してゆく。首筋で散々遊んだあとは浮き出た鎖骨を軽く噛んで、唇よりも舌の働きが顕著になる。表情より、この舌のかたちの方がよほどよく覚えていた。自分と同じはずなのに、薄くて長く、蛇のそれのように感じられる。たっぷりと唾液を含んでなめらかに這い下がり、どこにたどり着くのかも獏良はよく知っていた。性別にあるまじき躾を受けて、性器と同じくらい過敏になってしまった乳頭に、尖らせた舌先が触れる。
「ひゃ、ぁ」
 抑える心算もない。喉からせりあがるままの声を上げると、バクラが笑う。息があたるのですぐに分かった。
「ココがお好きで?」
 知ってるくせに。
「ちが、ちがう、好きじゃない」
 本当はすきなくせに。
 耳を塞ぎたくなる甘ったるい声で否定して、首を振るのはこんな茶番が気持ちいいからだ。見え見えの嘘をバクラが暴いてくれる。そうやって一枚ずつ花弁をひん剥いて、むき出しになった本能を舌でべろべろと舐めて癒してほしかった。強引な力で、抵抗や隠し立てなど無駄なのだと、無理やり引き裂いて欲しい。だってそうなったら誰だって抗えない、どうすることもできないのだから、沈んでしまうのは仕方のないことだと思えるからだ。口だけの抵抗をしながらこみあげてくる自己嫌悪を、バクラの舌が舐めとって、なかったことにしてくれる。
「嘘はよくねえな、オレ様は宿主に、こんなに正直に接してるってのによ」
 愛撫の合間にもバクラは揶揄をやめない。表情は――やはり、わからないままだった。
「しょうじき、って、何だよ、」
「てめえのココを可愛がって、女みてえに悦がらせてえってことさ」
「……お前は、それがきもちいの」
「ああ、気持ち良い」
 即答と、甘噛みが同時に与えられた。
 整った前歯の列が膨らんだ乳頭を挟み、柔らかい力で扱きあげてくる。歯の内側に捉えられた先端は舌の先でこれでもかというほどに細かく舐られ、弄られ、その痺れが甘くて熱くてたまらない。ねっとりとした闇を敷布替わりに掴みなくなったけれど、滑ってうまく出来なかった。察したバクラがすぐにその手を、バクラ自身の背中に導いてくれる。白絹の滝越しに生ぬるい背中に爪を立てる。またバクラがくつくつと笑う。
「ゃ、だァ、そこ、先っぽ、だめぇ」
 言葉の裏側にもっとだとか、強くしてだとか、そういった意味の甘い滴りがべったりと張り付いているのがわかる。胸焼けがしそうだ。
 前歯でゆるく扱かれると腰が浮く。浮いた箇所にバクラが隙なく手を差し込んで、腰を引けないようにしてしまう。いよいよ捉えられて逃げ場がない――逃げる気もないけれど、逃げられないようにしてもらわねば困る。獏良はどうしようもなくてこうしているのだ、望んでやっているのではないのだと、思わなければ辛くなる。
「バク、ラ、あ、止め、それ、」
 ちるちると音を立てて、硬い肉の芽を赤くなるまで吸い上げられて、こんな悲鳴を上げているのは逃げられないからだと、ちゃんと理由がなければならない。
 ――だって、ボクは皆の友達でいたいんだ。
 思い出したくない、今は忘れるべき事柄が頭の後ろの方でちかちかと理性の警報を鳴らしてくる。こんなことをしてはいけない、今すぐ拒んで突き放せ、じゃないと皆と友達ではいられなくなるぞと叫ぶ。
 警報は左腕を動かして、バクラの肩をぐい、と押した。右手は甘く爪を立てたままだ。
 目を開けなかった。
 舐る動きが止み、押してくる手をバクラが横目で眺めているのを想像する。どんな顔をしているのかは解らない。怒っているかもしれないし、嘲笑っているかもしれない。いずれにせよ、怖くて瞳を開けられない。
「――宿主サマ」
 声は胸の近くから聞こえた。
 震える無言の抵抗を、バクラの手はやんわりと包み込んだ。嘘っぱちだからこそ無尽蔵に優しく、気遣うような動きでそっと手の甲を撫ぜられる――古傷の上を摩られ、誰のためについた傷だったかを一瞬、忘れた。それほどにいたわりを込めた動きだった。獏良の葛藤もこの左手の意味も、何もかもを理解しつくしているかのように感じられた。
 嘘、なのに。
 それなのに、手を緩めてしまって。
 隙間に滑り込む蛇の動きで手首を捉えた力は、先ほどの優しさなど微塵も感じさせない強さだった。捻られ、無理やりに下肢へと左手が押し付けられる。ひ、と声が上がってしまったのは、指が触れた自分の性器が、みっともない熱をもって斜め上を向いていたからだ。
「嫌だ、なんて今更聞こえねえよ。ココの方が正直なんだ、ようく確かめな」
 声が笑っている。怒ってはいない、むしろ面白がっている。胸板をまた舌の先が這う。汗ばむ肌には冷たく感じる舌先がまた獏良の乳頭に絡み付いて、性器も腰も、跳ね上がる。
「や、やだ、こんなのさわりたくない、ボクは」
「カワイソウなこと言うなよ、宿主サマご自身だぜ? それも一番正直で一番健気な所だ。優しくしてやらねえと――ほら」
 バクラの手が獏良の手に重なり、絶対的な力でもって無理に握らされる、自身の性器ははしたないほど濡れて熱かった。優しくしてやれなんて言いながら、擦り上げる動きを促してくる。いいように乳頭をいじくられ、自分で性器を扱くなんて真似、とてもじゃないができない。いやだいやだいやだ――ぐるぐると頭を回しているうちに、いつの間にか抵抗の意味も理性の警報もどこかへ霧散していた。バクラの手で簡単に取り除かれたそれは、ぽいと捨てられこの部屋の闇のどこかに溶けていくのだろう。もうそれもどうでもいいこと――なにもかも、余計なものははぎ取られて捨てられてゆく。
「そうそう、お上手……オレ様が教えてやったとおりにな」
 熱くなる耳にバクラの囁きが滑り込む。もう補助は必要なく、獏良は口では嫌だと言いながら、両手でぬるぬると自涜を繰り返していた。バクラは覆いかぶさり、耳を、首を、乳頭を、鎖骨を、指と粘膜で舐りいたぶるのを止めない。やがて言葉の上の拒否も薄れ、はしたなく膝が開き痙攣しはじめる頃には、獏良の上半身は生ぬるい舐め跡と歯型でほんのりと赤く染まっていた。蕩けた表情筋は欠片も自制が効かない。ゆるい口元から舌がはみ出て、喃語じみた声が垂れてくる。
 教わった通りの手淫では絶頂にまで達せられない。そのようにバクラが教えたので、濃い先走りを垂らしていても、射精には満たないのだ。もどかしくて腰を揺すっても、バクラは許してくれない。
「楽になりてえか?」
 嘘くさい優しさを絡めた手指が、獏良の頬に張り付いた髪を解く。こんなにも熱いのに、指は冷たい。
「ら、らく、なりたい、苦しいのは、いやだ」
「今だけか? それとも――」
 ずっとか。
 問いかけは、脳の中に直接響いた。
 ずっと。ずっとって、どういう意味だろう。もう手も疲れてきた。でも止めると気持ちよくなれない。最早半泣きで、つま先を丸めて腰を振り性器を弄る獏良に、正常な思考は宿っていない。
 バクラは言う。
「ずうっと、楽でいたくねえか。宿主サマ――さっき言ってたじゃねえか、ずっとここにいたいってよ」
「い、わかんない、それよりもう」
「駄ァ目だ、オレ様の問いに答えてからだ。そしたら一番気持ちいいのをくれてやる。どうだ、一生楽で居てえか? オレ様ならてめえの望みをかなえてやれるんだぜ」
 甘いモンは我慢しなくちゃなんねえけどな、と、冗談めかした声が続く。
 わからない、わからないわからないわからない。
 とにかく今気持ちよくなりたくて、首を縦に振ってしまえばいいと思った。そうしたらそれで御仕舞で、楽になれる。それもこの先ずっと。甘ったれて強請ったずっとここに居たいなんて我儘も、かなえてくれるという。あの時ダメだって言ったくせに――ああでも、今を逃したらまた無理だと言われてしまうかも。今しかチャンスはないのかも。達しきれずもどかしい性器を、バクラの指がつう、と通り過ぎ、本来入口ではない場所を軽く撫ぜる。身体じゅうに期待と歓喜が爆ぜる。
「あ、中、なか、」
「どうしたい、宿主」
 ぎゅっと瞑った目の中で眩暈がばちばち散る。辛い。うなずいてしまいたい。でも。
(でも?)
 はがされて捨てられた警報はもう頭の中にはないはずなのに、獏良はどうしても頷くことができなかった。気持ちよくなるために、忘れるためにこうしているのに、肯定の甘えた言葉も出ず、軽く顎を引くことすらできない。舌の根っこが固まって、うん、と言えない。心はとっくに膝を折っているのに、どうして。
「ぅ、ううう」
 泣き声だけが漏れた。ぐに、と窄まった箇所をこじ開けられて、もう何も言えない。
 バクラはしばらく黙っていた。
 それから、感情を察せられない、低く小さな声音で――
「強情め」
 と言うなり、内側に熱を押し込んできた。
「ひ、ぃゃああァ、ッ!」
 ずるずるずる、と、何の抵抗もなく入り込んでくる暴力的な肉の塊に、身体が二つに裂けたかと思った。快感というより衝撃で獏良は射精してしまい、自らの腹にぱたぱたと白濁した精液を飛び散らせる。バクラの腹にも飛んでいるだろう。そんなことは気にせずに、蹂躙者は腰を打ち付ける。ぱん、と、汗ばんだ腿と尻がぶつかる音が響く。
「あぁ、あ、ヤ、やだ、しんじゃう、やだぁ、っ!」
 間断ない叩きつけはどこか無機質で、今までの――嘘と演技とはいえども暖かく優しい、気遣わしげな愛撫はどこにも見当たらなかった。機械的とも言っていい動きでバクラは腰を振る。それでも気持ちよくなってしまう獏良の内部はもうぐずぐずに溶けて、痛みも快感だった。肉をえぐられ、腹側を突き破られそうに突かれるのがたまらない。肉の剣はナイフで脅すような動きで獏良を怯えさせ、為す術もない獏良はだらしなく腰で応えるほかなかった。
「ったく――てめえは本当、そこから動かねえんだから、よ!」
 どういう意味なのか獏良にはわからない。何か怒っている、のだろうか。それとも、腰を働かせているせいで息が上がっているからそう聞こえるのだろうか。
 訳もなく涙が出てきて、獏良は汗と涎にもうひとつ、水分を足したくしゃくしゃの顔を両腕で覆った。ごめんなさいと言いたかった。理由はなく、怒らせたことにもでもなく、獏良は謝りたかった――誰にも、何にもわからなかったのだけれど。
 ごめん、ごめん、ごめんね。
 戦慄く唇でそう言いたいのに、関係のない爛れた声ばかり漏れた。だめ、そこ、もっと、いや、やめて、やめないで、いきたい、みないで、もっとして――ばかみたいだった。
 バクラが声もなく、獏良の内側で射精した時、獏良ももう一度吐き出した。ぎゅっと丸めたつま先のせいで足がつりそうで、膝の裏に溜まった汗が垂れてきて気持ちが悪い。死にかけの喘鳴に似た息を吐いて痙攣するさまを、バクラがどんな目で見ていたのかも、獏良は知らない。
 ずっと目を閉じていたから。
 きつく閉じた瞼の隙間から新しい粒が込み上げてきて、ぼろりと頬を伝う。不意にそのしずくを生温かいものがぬぐって、ああ、舐めとられたのだと気が付いた。
「泣くんじゃねえよ」
 呆れたような、慰めるような声だった。だからたぶん、嘘なのだと思う。
 くしゃりと湿った髪を?き雑ぜでなだめる仕草も嘘だ。だが今は、その嘘に縋っていたかった。
 どうしてこんなに、苦しいのが解けないのだろう。
 抱かれる前に胸を沈ませていた原因はもうどこかへいってしまったけれど、バクラに抱かれた時にたまに感じるこの息苦しさだけはどうにもならない。
 ならない、と、わかっているのに、どうにかしたくてキスを強請る。仕方のない奴だなんて偽物の甘さで言われても、痛みは増すばかりだった。

 吐き出す息が重たかった。
 しばらく呼吸を忘れてしまっていたのかもしれない。雨で濡れた身体で飛び込んだベッドはもう冷たく、記憶の抽斗から無理やり引っ張り出したバクラとの夜の一篇、あの場所のように生ぬるくない。
 どくどくとこめかみで心音がうるさい。喉が渇いて、カラカラの口内が気持ち悪い。
 おっくうに起き上がり、獏良は軽く頭を振った。
 ここは現実で、現在で、思い出していたのは過去だ。何をしていたんだっけ――そうだ、あの言葉の意味を、あの時自分が何を思っていたのかを、どうしても知りたくて、やっていたことだったっけ。
 湿って気持ちの悪い靴下を脱ぎ棄て、獏良はぺたぺたとフローリングを歩いた。まだ頭が痛い。水が飲みたい。室内は暗く、何もかもが帰ってきた時そのままの形でただ時間だけが過ぎている。冷蔵しなければならない惣菜がテーブルで物寂しげにひっくりかえっているのを直すのは、明日の朝でいいだろう。明かりをつけていない室内は、掃出し窓から差し込む町の明かりでぼんやりと薄暗い。時計と冷蔵庫の働く音ばかりが勤勉で、あとは、そう。
 雨の、音が。
「まだ降ってたんだ……」
 枯れた声で呟く。霧雨だった雨は依然強さを増したまま、バルコニーに激しく突き刺さっている。もともとルーフのない作りであるから、雨の日は洗濯物を干せないのだ。叩きつける雨のせいでモザイク柄になった窓越しに、物干し竿に吊るされた無残な洗濯物が揺れているのが見える。
 あめ。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口飲んで、獏良は窓を見続ける。
 あんなに雨が降っている。
 バクラは濡れていないだろうか――そんなことを、考えた。
 ばかばかしい、彼はもう存在しないし、あの幻だって脳が作り出したものだ。どこにもいやしないし、濡れもしないのだ。
(そうだ、ボクみたいに)
「――ボクみたいに?」
 ごとん。
 手に持っていたペットボトルが、すり抜けてフローリングを打った。とくとくとくと音を立てて水が床にあふれていったけれど、どうでもよかった。
 今、いま何か、とても大事なことに気が付いたような気がする。
 落ち着き始めていた心音が再び早鐘を打ち始め、痛いほど高鳴るのを、獏良は胸のあたりを掴んで抑える。
 ちかちかとあの光景が蘇る。何度も見た、幻の「それ」との邂逅を思い出す。
 小高い丘で、明るい雨の下、バクラの背中。泥を跳ね上げる大地。わずかに見えた笑み。あの――言葉の意味。
 いつだって雨の中だった。
 いつだってバクラは傘も差さずに雨の中にいて、いつだって獏良は、雨に打たれない安全な場所で――傘が、屋根がある場所で、それを見ていた。
 見ている、だけだった。
 本当はどうしたかったか。
 あの時、どう思って、いたのか。
「ボクは――ぼくは」
 どうするべき、だったのか。
 息が苦しい。あの夜と同じ、ぎゅっとなる感じがする。
 ふらふらと獏良は窓に歩み寄り、ぺたりと冷たい硝子に触れた。バルコニーにあの背中を見たような気がした。
「ボクは、どうすべきか、って、ずっとそれで、出来なくて」
 独白は雨音に負けてしまう。絞り出す声で、獏良は言う。もう届かない彼の背中へ、叩きつけるように、絞り出したむき出しの声で言う。
 言葉が勝手に――滑り出す。
「ボクはお前の共犯者で、みんなの友達で、だから、お前の敵の友達で、どっちでもなかった、どっちかにもなれなかったから」
 だから、してはいけないことばかりが頭をよぎって、ぐるぐる回っていた。
 バクラの仲間になりきることも、遊戯たちにすべてを打ち明けることもできなかった。どちらかになりたかったけれど、どちらかを捨てるのが怖くて動けなかった。自分から何一つできずに、大きな川の流れに取り残された中州で立ち尽くしていた。
「あの時も――ただ、お前の背中を見てたんだ」
 半径六〇センチの傘に守られていた自分の足元は乾いていたけれど、水煙で霞む向こうのバクラはまるで消えそうだった。

…濡れちゃうよ、バクラ
口元だけが見えて、哂う。
濡れやしねえよ
口元が歪んで、言う。
『てめえだって、そこに居れば濡れねえさ』

 またある時は、甘い嘘の夜。
 どうしたい、宿主
 楽になりたいかと、問われて。
 強情め
 答えを放棄して、泣いて。
『てめえは本当、そこから動かねえんだからよ』

 

 あれは――あれらは。
 突き刺さらんばかりの皮肉だった。

 

「………っ」
 唇が震える。
 解って、しまった。
 理解することが恐ろしい。もう絶対に解決しない問題を今更掘り返したって、正解の丸をつけてくれる人間はどこにもいない。獏良の震える喉を宥め、嘘でもいい、忘れてしまえと甘やかす男はどこにもいない。
 それなのに、止まらない。
 奔流となった答えがとめどなく、頭の中からあふれてくる。
 バクラはいつだって、獏良を皮肉っていた。そこから動こうとしない、どちらにもつかず曖昧な立ち位置から動かない獏良を見ていた。その不安定さを、揺らぎを、傷つきやすい本質を、彼は手玉に取ったけれど――幾度かは彼の意思でもって、手を差し伸べていたのだ。
 こちらにおいで、と。
 あの雨の中、見せた背中の切なさと言葉も。
 夜ごとの交わりで、楽になりたいか、此処に居たいかと囁いた声も。
 その乾いた足場を捨てて、「あちら側」へ堕ち切る切欠を、バクラは時たま指し示していた。気が付かなかったわけじゃない、獏良にだって分かっていた。だから泣きたくなって、謝りたくなって、でもできなくて、手を払いのけることをも選ばなかった。
 ただ、気が付かない振りを、した。
 獏良はどちらでもなかったから、選ぶことができなかった。
 ――否、違う。
 それすらも、詭弁だ。
「どっちでもない、じゃない。ボクは――どっちにも、なろうとしなかった、んだ」
 友人たちだって、いつだって手を差し伸べていた。何かあったらすぐ言って欲しい、絶対に助けるから。一人で悩まないで。優しい言葉をかけてくれた。天秤はずっと水平を保って、どちらかに傾けることができるのは、天秤の持ち主だけだった。
 それを放棄したのは、自分だ。
 だからバクラは笑ったのだ。
『てめえだって、そこに居れば濡れねえさ』
 傷つかない。汚れない。絶対の真っ白な被害者。
 きれいな手を一生汚さないことを、選んだ。
 その手で――獏良は、冷えた硝子窓に爪を立てた。
「ボクは、ボクは、ほんとうは」
 今更言って何になる。聞いてくれる人はおらず過去は覆らないのに。
 それでも獏良は絞り出した。ぼたぼたと涙を垂らしながら、震える手で、窓の鍵を、開ける。
 大きく窓を開いた時、激しい雨音が一斉に獏良に襲い掛かってきた。斜めに降り込む雨の槍は裸足を叩き、痛いくらい冷たい。顔を顰めるが、後ずさりたいが、耐えた。
「今更だ――今更、だけど」
 目の前に黒い外套の背中が見える。あの日のように、顔が見えない。笑っているのか、怒っているのか、呆れているのか、無表情なのか。
 当たり前だ。バクラの顔を真正面から見たことなどほとんどない。いつだって目をそらして、目を瞑って逃げてきた。直視したら気づいてしまう、自分自身の愚かさに、どこまでも利己的な傲慢さに。
 安全で、きれいな場所。
 ――ずっとそこにいたかったのは、うそじゃない。
「でも、でもね、本当はね……
 あの時、ボクはこうしたかったんだよ」
 こうするべき、ではなく。
 こうしたかった、こと。
 怖くてできなかった、今更過ぎることなのだけれど。
「お前の世界で――いっしょに、傷つく勇気が、ボクにはなかった」
 足の裏で水がはじけて流れていく。あっという間に全身を濡らした雨は、バルコニーに身一つで飛び出した獏良を容赦なく殴りつける。
 こうしたかった。出来るなら、一緒に雨に濡れたかった。豪雨の中に飛び込んで、その顔をきちんと見たかった。
 そうするには余りにも獏良は弱く、臆病で、卑怯だった。怖くて仕方がなかった。肌を刺す筵の中に身を躍らせる勇気がなかった。傘を捨てられず、バクラがこちらに来てくれるのを――待って、しまった。
 その結果が、これだ。
「面倒くさい宿主で、ごめんね」
 言葉は涙声になってしまった。
 幻が振り向いた。悲しいけれど、そこに顔はなかった。真っ白な仮面をつけたのっぺらぼうが、口だけ見慣れた皮肉な笑みを浮かべていた。
 雨よりもその方がよほど痛い。痛感する。自分はどれほど、バクラを知らないまま、終わってしまったのだろう。
 彼の戦いの意味も、生の意味も。
 何一つ、知らないままだった。
 手を伸ばすと、幻は消えてしまった。あっさりと、何の言葉もなく、あっけないほど簡単に黒い外套はそこから消えた。
 もう、この幻が現れることはないのだろう――ずぶ濡れた獏良は確信して思う。
 答えを知ってしまったから。
 最後の役目を終えてしまったから。
 苦しかった。辛かった。こんなことに気が付かなければよかったとも思った。けれどそれと同じくらい、気が付けてよかったとも思う。少なくとも、バクラのことを一つ理解できたのだから。
 あの悪魔が。嘘つきで悪の化身の、人のようなばけものが、こちらに手を差し伸べていたこと。嘘まみれの甘ったるい愛撫は、数々の性交は、全部が全部偽りでは、きっとなかった。もしかしたらそれは、バクラも獏良を憎からず思っていたのかもしれない。そうでなければ、あんな風に回りくどい真似をする必要もそもそもなかった。心の中に閉じ込めて、その抜け殻の肉体をいいように扱えばよかった。そうしなかったのは、もしかしたら、きっと。
 ――そんなものは、知ってもつらいばかりの、取り戻せない過去だ。
 だけれど、知らないままよりは、ずっといい。
 もう二度と会えない、喋ることも幻を見ることも、夢に見ることも、きっとできない。獏良には、ただ焦がれるだけの未来しか、この先に残されてない――ああ、本当に今更だ。きっとこれが恋だったのだ。
 臆病者は自分の恋情も気が付けず、永遠に対象を失った。
「好き、だったのに、ねえ」
 ぼたり。また一つ、大粒の涙がこぼれる。
 恋を失うと書いて失恋と読むのならば、別れの言葉もまた、この口で紡がねば。
 獏良はしゃくりあげそうな喉を抑えて、つい先ほどまでそこにあった幻に向けて、震える声で呟いた。
「ばいばい、バクラ」
 口に出すと、また泣けた。
 もうおしまい、これで最後だ。
 つながりは絶たれ、残るのは恋の残骸のみ。
 残骸は涙だった。後悔だった。悔やんでも悔やんでもなお足りない、悔恨は涙の形をしていた。嗚咽があふれてくる。恋しくて、悲しい。
「う、ぇええ、ぇ」
 排水溝に流れてゆく雨に交じる涙はどれくらいの量になるだろう。両手で顔を覆って、雨ざらしの獏良は子供のように泣き続ける。
 雨脚が弱まり始めても、涙は止まりそうになかった。