【同人再録】アラート-2

19:45

 

「不機嫌なツラしてメシ作んな」
 暴言を吐かれたのは、その日の夜のことである。
 了にそんなつもりは全くなく、通常どおりの表情でもって鍋の下ごしらえをしていた。冷蔵庫の前のバクラはじっとりとした目でこちらを眺めている。不機嫌なのはどちらだと云いたいのを飲み込んで、了は首を振った。バクラがつまらなそうな顔をしているのはいつものことだ――多分。
「そんな顔してない」
 不安を押し殺しそう云い返す了に、バクラはとんとん、と己の眉間を人差し指で叩いて見せた。野菜くずがついた手を洗い、了もならって眉間に触ってみると、細い眉と眉の間はきゅっと寄って、縦の皺が一つ。ステンレスのシンクを鏡に見てみたら、なるほど確かにご機嫌な表情とは程遠かった。
「作るのが面倒なら出前でも取りゃあいいだろ」
「白菜安かったんだから、いいの」
「オレ様は鍋って気分じゃねえけどな」
「じゃあ食べなくていいよ」
 自身の無意識な不満を目の当たりにさせられ、了はいよいよもって自覚的な不機嫌となっていた。つんとそっぽを向き、長葱を斜めに切る作業に戻ることにする。
 ――不機嫌なんかではないのだ、本当は。
 ただ不安で、落ち着かない。いくら双子でもバクラには理解できないはずだ。当人たる了にさえどうやって片づけていいのか見当もつかない、極めて難解な状況なのだ。
(十年以上一緒に居る相手のことが、曖昧だなんて)
 脳の病気なのかもしれない。否、そうであればいいとさえ思う。原因がわからないままは気持ちが悪い。了は医者にかかることがあまり好きではない――通院するのが面倒くさい、というのが理由だが――けれど、こうなってしまっては専門家に相談することを真剣に考えるべきだ。状況が悪化してからでは遅い。
(記憶障害、っていうのかな)
 真摯に思考していても手は動く。包丁の音色はリズミカルだ。料理が得意な了である、この程度のながら作業なら集中せずともきちんとできる。
(一時的なものならいいんだけど、長引いたらどうにかしないといけないよね。バクラにもちゃんと云わないと)
 実はそれが一番億劫だった。
 切り終えた長葱を笊に移し、続いて本日の特売で購入した白菜を半分に裂く。芯の部分はうすく削ぎ切りにして、火が通りやすいよう、早めに鍋に入れるようにしておく。ああ、悠長に料理などしている場合ではないのに。
 もし病気だったりしたなら、朝の反応からして、きっとバクラは面倒くさがる。いや、違うかもしれない、もしかしたらすごく心配するのかもしれない。分からない。
(どっちにしたって、云いたくない)
 バクラに云いたくない理由は二つあった。
 ひとつは前者、疎ましがられるのが嫌だからだ。家族にして恋人たる唯一無二の相手に嫌われるのが怖い、などという健気な思いからではなく、誰に対しても同じように向ける感情として、ただ単に、他人に面倒くさがられるのは嫌だ。友人たちとて同じである。
 後者は、そう、心配させてしまうかもしれないという思いからだった。心配されるということそれ自体は、おもはゆくこそばゆく、申し訳ないと感じながらも嬉しいものだ。相手の意識がどれだけこちらに向けられているのか、いっとう簡単に知ることが出来る。
 だったら一層、心配させてしまえばいい――けれど。
(バクラはボクを心配するような奴だっただろうか)
 バクラの性格の認識が揺らいでいる今、どちらになるのか了には分からない。たぶん、きっと、心配しないけれど、気にかけたりなんてするわけないけれど、確信なんてどこにもなかった。
(昨日のボクは、こんなじゃなかったはずだ)
 戻りたい。
 出来る訳がないけれど、そう思って止まない。
 きっと昨日の自分なら、こんなことで迷わなかった。バクラの性格など知りつくしていたはずだ。そして、自分にとって一番良い結果を導くやり方で、この不安を暴露していたことだろう。
 だが悲しいことに、時間をさかのぼることは出来ない。今刻んだ白菜と同じ、切り離した後にくっつけるのが不可能なように、昨日と今日は彼岸と此岸だ。
「はぁ……」
 と、思わず漏れてしまった溜息に遠慮はない。どうせ誰の耳にも――冷蔵庫から飲み物を引っ張り出して向こうへ行ってしまったバクラの耳にも入らないのだ。
 そう思っていたからこそ大袈裟に吐き出した息は、しっかり拾い上げられていた。真横でバクラが舌打ちをしたのだ。
「ひゃっ!?」
 裏返った驚声を上げ、了が焼き豆腐のパックをシンクに取り落とす。
「吃驚した、いつからいたの」
「てめえがブツブツ云ってる間、ずっと隣で白滝結んでましたけど?」
 こちらを見もせず、嫌味な口調でバクラは云った。
「随分丁寧に白菜細切れにしてやがるから、いつお声をかけようか考えてた所だ」
 云われて見れば、まな板の上にはそぎ切りのはずが、みじん切り一歩手前のこま切りにされた哀れな白菜の山盛りがあった。これでは鍋に使用できる代物ではない。
 了はそれらを見おろし、しばし考えた後、見なかったことにすることを選んだ。どうせ最後には雑炊にするし、口に入れてしまえばかわるまい。
 それよりも大事なのは、了自身の独り言とやらの方だ。頭の中で考えていたつもりが、口に出ていたのだろうか。
 だとしたら厄介なことになる。
「あのさ」
「あ?」
「ボク、独り言喋ってた? 聞こえた?」
「聞き取れたって意味不明だろうよ」
「ってことは、聞こえなかった? 全然?」
「っせえな、知らねえよ。どうせ下らねえ妄想でもしてたんだろ。シナリオ書きも大概にしろっての」
「そう……そっか」
 それならばいい。バクラの勘違いは正さないままにしておいた方がよさそうだ。了はカセットコンロを棚から引っ張りだし、ダイニングテーブルに持っていくことで彼と距離を取った。バクラはもう独り言のことなどどうでもいいらしく、最後の結び白滝を器に放り投げ、手を洗っているところだ。
(手伝ってくれて)
 ありがとう、と。
 云いそうになり、了ははっと口を噤んだ。
 そうだ、バクラは偶に料理を手伝ったりしてくれると、自分自身で云ったのだ。杏子が昼間に話していたではないか。キッチンに並んで立つのも、白滝を結ぶのも、別に珍しいことじゃない。
 これは普通のことなのだ。だったら礼を云うのは、きっとおかしい。自分の性格からしても、日常から見ても。
(でも、)
 でも、何だというのか。
 コンロをテーブルに置いた姿勢のまま、了はつよく目を瞑った。
 分からないことだらけのバクラ。彼について確信を持って云えることなど何一つないのに、それでも頭のどこかに、バクラが手伝ってくれたこのことを珍しがり、喜んでいる自分がいた。当たり前なのに、これが普通なのに、嬉しいと思う。本当に訳が分からない。頭が痛い――ああ、また、音が

――じりじりじり

 急かす音色を耳にして、了は勢いよく顔を上げた。
「何の音!?」
 半ば叫ぶ形になってしまった声に、バクラが珍しく目を大きくしていた。
 キッチンカウンター越しに目が合ったバクラはひとつ瞬きをした後、またいつもの不機嫌な顔になり、コレだろと指をさした。キッチンタイマーが目盛りを遡り、あと1分でがなり立てることを主張している。
 そのタイマーを無理やりオフにし、バクラは鍋に目をやった。
「土鍋の方にタイマーかけてたんだろ。もうそっち持ってっていいか」
「うん……」
 不穏に心音を高鳴らせる心臓を抑え、了は一歩後ろへ下がった。鍋つかみを嵌めた手で、バクラは二人前用の中型土鍋を持ってこちらにやってくる。カセットコンロの上に置き、火をかけ、それから了をじろりと見て。
「ぼうっとしてんなよ。とっとと野菜持って来い」
 ぽいぽい、と鍋つかみを放った彼は、そのまま自分の席についてしまった。もう働く気はないらしい。
 了は曖昧な返事と共に、スカートを翻してキッチンに戻った。バクラの結んだ、意外と小奇麗にまとまった白滝と、細切れになった哀れな白菜。そして長葱と焼き豆腐。鍋の中では鶏ささみが煮えている。脂っこいものが好きではない了は、肉と云えば大抵ささみである。バクラの好みがどうだったかは――今の了には、分からないのだけれど。
 もやつく思考に捕らわれないように、了は意識して息を吐く。
 ゆずぽん酢の瓶と小鉢。それらと一緒に野菜の笊をトレイに乗せ、テーブルに戻った時、バクラはつまらなそうにテレビのチャンネルを変えているところだった。
 了が戻っても、箸を並べたりすることはない。どうやら手伝いは本当にあれだけだったようだ。はい、と手渡した茶碗を受け取る時にも、ん、としか云わない。
(ありがとう、は、云わなくて正解だな、やっぱり)
 そうして、喧しいだけのバラエティ番組をBGMに、二人きりの食事が始まった。
 もともと食事中には黙るのか、それとも会話する雰囲気ではないからなのか、バクラはほとんど喋らない。ぐつぐつと鍋が煮える音と湯気が会話の代わりだ。一言二言、単語だけのやりとり――茶だの皿だのと云われたくらいで、その癖妙に時間の経過が遅く感じる。
 そうして暫くしてから、おもむろにバクラが席を立った。まっすぐにキッチンに向かい、醤油の小瓶を持って戻ってくる。ぽん酢を使わず薄口醤油で鍋の具材を食べ始めた様子を見て、了はひどく動揺した。
(バクラの好みなんて知っている筈なのに)
 些細なことだ。それでも――今の了にとって、大きな失敗だった。
 きっと怪訝に思っているはずだ。昨日の了なら、最初から分かっていて、醤油を出せた。こんな風にとらえるのは大袈裟かもしれない、滑稽かもしれない。たかが調味料の問題だ。でも。
 ――悟られた、だろうか。
 上目にちらりと覗き見るバクラの表情は読めない。
 それでも心音は激しくなって止まない。
(しんどい、こんなの嫌だ)
 苦しくて堪らなかった。
 云いたくないけれど、云わないでいたらもっと苦しい。
 今の自分は、きっとバクラの眼から見て、明らかに異常だ。
 了とて己の性格は理解している。分類されるならきっと我儘で、繊細とはほど遠い。相手よりも自分を優先し、やりたくないことをやらないのではなくやりたいことだけをやる。云いたいことも云いたい分だけ云う。それが許されるのはどうやら平均よりも良く出来ているらしい見た目と、他人曰く「何だか許せてしまう」「獏良だしなあ」という、よくわからない評価の為せる業だ。
 だから今日の了は、バクラにとってさぞかし異質に見えていると了は思う。
 今朝から今まで、バクラに反論した覚えがない。風邪でも引いたかといわれるくらいに大人しい了を、彼はどう感じているだろう。
「……ボクだって好きでこんなもやもやしてるわけじゃない」
 無意識にぽつり、呟いてしまった。
 バクラは聞こえなかったのか、何も云わないまま長葱を咀嚼していた。
 関わりたくないのか、どうなのか。
(分からないことがこんなに不安だなんて)
 茶碗の中身は半分も減っていない。ちっとも進まない食事をこれ以上己に強いるのが嫌で、了はぱちんと箸をおいた。
「……ごちそうさま」
 我ながら覇気の無い声で伝える。
「雑炊食わねえのか」
「いい、お腹いっぱいだから」
「そうかよ」
 バクラは深く追求しなかった。有り難いような寂しいような、複雑な気分だ。
 片付けをする気も起きずソファに向かう了の視界の端に、まだ食べるらしいバクラの横顔が映り込む。こんなに悩んでいるのに、そして食事ものどを通らないというのに平然と鍋を平らげるバクラに、了は何だか腹が立って、
「鍋の気分じゃないとか云ってたくせに、随分よく食べるね」
 ぽつりと、八つ当たり気味のぼやきを零した。
 バクラは視線だけでこちらを見、すぐにテレビの方を向いて鍋の底を攫い始めた。ひとりで雑炊を食べる気はないらしい。可哀想なくらい小さくなった白菜を無視して、最後の具材である鍋底に沈んでいた椎茸を口に放り込む。
「てめえが作ったモンだからな」
 ――と。
 その意味を解りかねて、了はソファの前で立ち止まった。
「何それ」
「云った通りの意味だ」
「だからそれが、わかんないって」
「ならいつも通り、都合のいい解釈でもしとけ。得意だろ、ポジティブなのはよ」
 さらりと云うバクラには分からない。いつもどおり――今その言葉がどれだけ、了にとって重たく響くのか。
「ごちそうさん」
 似合わない一言を残し、バクラも箸を置く。
 了と同じく片づける気が無いらしいバクラは、テーブルの上のコンロの火だけを消して、さっと席を立った。無愛想この上ない。
 これが平素のバクラなのだろう。それでも了は、その物言いに酷く腹が立った。
「いつもなんて、分からないもの」
「何だって?」
「ポジティブなんかじゃない。ボクはそんなんじゃない」
 俯いた視線の先が歪む。噛み締めた唇が痛い。宿主、と呼ぶ声が、近いようで遠い。
 人の気も知らないで。
 今朝からずっと、分からないことだらけで、落ち着かないことだらけで。
 知っているはずのことが抜け落ちている状態がどれだけ恐ろしいか、身代りに教えてやりたい気分になる。どうせなら分からないことそれ自体まで、忘れて居たかった。大切なものが入っていた箱、その中身はからっぽだ。それが大切なものだということは分かるけれど、肝心の正体がとんと検討がつかない。そんな状態なのだ。中身のない箱を抱えて途方に暮れる以外に、了に出来ることはなかった。
 不安で仕方がない、口に出そうにも何と吐き出したら良いかすら思いつかないこのモヤモヤを、少しぐらい理解してくれたっていいじゃないか――我儘で自分勝手な本心が積乱雲のように渦を巻く。こんなのはただの八つ当たりだ。そう、冷静になれるほどの余裕など、頭の中のどこを探しても見つからなかった。
(一人になりたい、でもこわい)
 本当は、これ以上醜態を――ぼろを出す前に、早急に一人になった方がいいのだろう。これ以上不自然な姿をさらしていては、今以上にこんがらがった状況になりかねない。冷静な自分はそう訴えるけれど、本心としては一人になりたくない――のだった。
(だって恐いんだ)
 まるで自分が、自分ではないみたいで。
「ッ……」
 ぎゅん、と、心臓が痛くなった。
「宿主?」
 訝しげに呼ぶバクラに、返事ができない。今行き交った自分自身の思いに、他でもない了自身が動揺したのだ。
(ボクが、ボクじゃない?)
 あるわけがないそんなこと。
 だのに、胸の痛みはまるで確信の矢で貫かれたかのようだ。
 今朝からずっと、まるでバクラがバクラでないような、よく似た他人といるような気がしていた。けれどそれはおかしい。バクラは普通に生活している。平素でいないのは了の方だ。
 記憶がかみ合わない。バクラのことが分からない。多分こうだな、と思う彼の人となりに、自信が持てない。
 おかしいのはバクラじゃない。
 それなら――
 偽物なのはバクラではなく、自分ではないのか?
(ば――か、じゃ、ないの)
 吹き付けてくる雪の嵐のように、瞬く間に積み上げられる煉瓦のように、了をせめて止まない思考。
 昨日のボクと今日のボクは、同じではない。時間の経過による哲学的な話ではなく、そっくりまるごとそのままに、存在自体が違うのではないのか。まるでよくできたTRPGのシナリオのように、平行世界のあちらとこちらに似た非現実的な出来事が、本当に起こっているとしたらどうだろう。
 了は幻想を愛しているが、幻想と現実の区別はしっかりついている。夢をリアルに持ち込むことは百害あって一利なく、あれらは非現実であるからこそよいものだからだ。こんな夢語り、あり得ない。
 ならば他にどんな理由が、この齟齬だらけの狂った歯車を正当化できるのか。
(だとしたら、本物のボクはどうしちゃったんだ)
「……いや、ボクだって本物だけれど、ここにいなきゃいけない本来のボクはどうしたんだ、って、何云ってるんだ」
「おいコラ宿主、宿主サマ」
「ちょ、黙って」
 バクラを遮り了は頭を抱え込んだ。辻褄が合いすぎて、急に恐怖が増大し出す。たしかに存在している自分自身が偽物なんて、それならこの身は、こうして怖がっている自分は一体何なのか――
 遠くでまた、耳鳴りに似た秒針の音が響きだす。遠い? いや、近いかもしれない。耳と耳の間、脳みその中で鳴っている。急かすように、何かから気づかせるかのように――
「宿主!」
 転げまわりたくなる焦燥感を、バクラの手が捕えた。
 強く掴まれた両肩。目の前には青い瞳と白い髪の房。バクラの顔が、手のひら一つ分の距離で迫っている。
 青い瞳は鏡となって、了の表情を映していた。恐怖と焦燥。見たくなくて、了は手を振り払う。
 そして、苛立ちのままに、手元にあったものを向かって投げつけた。
「来ないで!」
 ぼすん、と、バクラの胸に叩きつけられたのはソファに転がっていたクッションだった。
 軽く弾んでフローリングに落ちたそれを、バクラは目で追い、そうして了へと視線を移す。正面から合わせた瞳に耐えきれず、了は胎児のようにその場にしゃがみ込んだ。またあの音が聞こえた気がして、両手で耳を覆う。
「わかんないわかんない、わかんないけど苛々するんだ、何か変なんだ、落ち着かないんだ! ボクはここにいるのにボクはボクじゃないかもしれないなんて、どうやったら理解できるんだよ! ねえ分かってよ、ボクに分からなくてもバクラは分かるでしょ!?」
「宿主」
「触んないで、嫌だ!」
 拒否にもかかわらず、バクラは腕を伸ばしてくる。手首を取られ、引き上げられた了はなおも力任せに手足をばたつかせた。子供の癇癪に似た甲高い悲鳴は、さぞかしバクラの不愉快を買うはずだ。バクラでなくとも誰だって、八つ当たりをされて快いとは思わない。
 けれど、バクラは手を離さなかった。
 離さないまま、今朝、了を導いて投稿したように――手首を引いて、ダイニングを出た。
「やだって云って――」
 引っ立てられた了は、言葉の途中でどんと突き飛ばされた。軸足を崩して背中から倒れる時の、気持ちの悪い浮遊感は一瞬だけ。勢いよく、しかし柔らかく受け止められた感触で、場所がベッドだと分かった。
 文句を云う隙を与えず、バクラが了の上に馬乗りになる。暴れる四肢をぐっと抑え、そして、そのまま――抱擁された。
「う……」
「落ち着けよ、ったく」
 バクラが喋ると、首筋のあたりに息がかかる。
 明りを落としたままの部屋。ベッドがあるということは、ここは了の部屋だろう。開け放したままのカーテンから熟れたオレンジのような色をした満月が覗き、鈍い月光がおぼろに二人を照らす。
 どくどくどく、と。
 重なった胸と胸の間で響く心音の所為で、秒針の耳鳴りは掻き消されていた。
「てめえがトチ狂った時は、コレが一番効きやがる」
 低く掠れた声は、どうしてだろうか、甘く感じた。
 さり、と音がして、髪を浚われたのだと気づく。柔らかくて癖のある髪は双子同士同じ質で、手慣れた仕草でバクラは髪を梳く。
 面倒そうに、宥めるように――
 そして、優しく。
「ばく、ら」
「黙っとけ」
 頬が燃えるほど熱い。抱きしめられているそのことに、了の心音は上がり続ける。
 だってあのバクラが。
(――どのバクラが?)
 苦しい息を吐き出す為、首を反らせたところにバクラの唇が掠った。びりりと痺れる感覚。思わず肌が震える。
(バクラがこんなことするはずないって、今のボクに云い切れるの?)
 忘れているだけで、これが自然なんだ。
 そうでも思わないと辻褄が合わない。冷たくて面倒くさがりのバクラ――だと思っていたけれど、恋人だ。だからこういうことだってする。ヒステリックに喚き散らした時、耳を塞いて放置するのではなく優しく抱きしめ、宥めてくれる。
(いいじゃないか、それなら)
 バクラは、こういう奴なんだ。
 そう思ってしまえばいい。過ぎた優しさは毒だというけれど、その毒が蜜より甘いなら、了は拒めない。
「何があったかなんて聞かねえからな」
 口調だけはぶっきらぼうなバクラは、言葉とちぐはぐに、抱く力を強めた。
 抱擁を嬉しく感じる。喜びに、左と右の耳の間で響く鈍い痛みは、紅茶に落とした角砂糖のようにざらざらと溶けていった。
「云いたくねえなら云うな。てめえはいつも通り、へらへら笑ってりゃあいいんだよ」
「そんな、へらへらとか、してない…」
「してるじゃねえか。こちとら腹ン中からてめえの面見て生きてきてんだぜ」
 宿主のことは、宿主以上によく知ってる――と。
 きっぱりとした、それは断言だった。
 此度は故意に、だろう。バクラの唇が首筋を柔らかく食んだ。緩慢な快感が脳を浸す。
「分かる、の?」
「分かるさ」
「ボク、いま、すごくこわいんだ」
「みてえだな」
「うん……」
 乾いた声が、だんだんと湿気を帯びていくことを、了はおぼろげに感じていた。
 ぎちり、と、音が響き、バクラがよりベッドに体重をかけてくる。
「あ……」
 だらしなく開いた足の間に、いつの間にか、バクラの膝が挟まっていた。了は制服姿のままだ。短いスカートが捲れ上がり、バクラのジーンズの感触を内股で感じる。
 指先から麻薬でもしみ出しているかのように、バクラの手つきが了の心を溶かす。何重にも硬く結ばれ、ひとつの塊になっていたぐしゃぐしゃの思考は、ほどけないままぐずぐずに煮崩れて行った。
 何もかもどうでもいいと思わせる指。声。吐息。身体の重みすら。
 それら全てが、了から思考を奪い取った。
「する、の……?」
 どうして、までは、言葉に出来なかった。する必要も無かった――そういうものなのだ。もう考えなくていい。バクラがすることに任せて、溺れていればいい。
 バクラは了よりも了のことを知っていると云った。だったら、バクラのすることが正解なのだ。
「うるせえ、空気読め」
 髪を梳いていた指がこめかみを伝い、頬に触れた。硬く細い中指がかたちを確かめる動きで上から下へ。流れる動きで、了の反らせた喉へ向かう。
 きちんと留められたシャツの釦を軽く爪で引っ掻き、それから、ぷつん。小さな釦は三つ分、素早く容易く外される。薄い乳房の間、谷にならない胸へ掌が触れた時、動きは愛撫に変わっていた。
「つめた、ぃ」
 呟きに意味はない。どうせすぐに、上がった体温を吸ってバクラの手は温くなる。了の体温と全く同じになれば、境目も分からなくなる。
 肌に心に馴染む、そんな温度に。
「セックスすりゃあ、わけわかんねえご機嫌斜めも吹っ飛ぶだろうよ――何せ宿主サマは、いやらしいことされるのが三度の飯よりお好きでいらっしゃる。
 気持ちいこと、大好きだもんなァ?」
 甘い揶揄は、反論する気をまるごと削ぐ。素直にうん、と、頷いてしまう――羞恥心はもう、どこにもない。
「ばくら」
 我ながら、頭も舌も足りていない声だった。甘ったれた呼び方でもって、了は双子の、恋人の抱擁を強請る。
 肌が重なっている所為で伝わる。砂糖菓子の声音に、バクラの喉がこくんと嚥下の形に動いた。唾を飲むその意味は、きっと、彼も自分と同じように興奮したから。
 はしたなくてもいい。このまま、都合の悪いことをすべて忘れてしまえるなら。
「宿主、」
 低い呼び掛けに、了は身体で応じた。
 脚の間に捻じ込まれた膝を、両腿で挟んで擦りあげて――極めつけに、鼻にかかった声でもって。
「して」
「……何を?」
 意地悪だ。近距離すぎて見えないが、きっとバクラは笑っている。
 そして、了もきっと、弛緩した笑みを浮かべていたはずだ。これからするおねだりに良く似合う、蕩けきった笑みを。
「――全部どうでもよくなるくらい、やらしくてひどいこと、してよ」