シイ・シイ・ホワイトタイル
「何やってんだ、てめえは」
低くそれでいて呆れた声に鼓膜を揺さぶられ、獏良は目を開いた。
目の前が真っ白だ。見下ろしてくるバクラの姿が霞んで見える。吸い込む空気が湿って重たい。ついでに手足も重たい。という現状を整頓する必要もなく、反射で動かした手がぱしゃんと水音を立てたことで状況判断は完了した。
ここは浴室で浴槽の中。ざあざあと雨のような音は出しっぱなしにした蛇口から出る大量の湯のせい、目の前が霞むのと息が重たいのは湯気のせい。おかしいなちゃんと止めてから浸かったつもりだったのに、と首を捻っていると、起きろバカと罵声を浴びせられた。浮遊するバクラは腕を組んで、何か怒っている表情だ。
「…どうしたの?」
と問えば、それはこっちの台詞だと溜息。指をさされた方向は床のタイルの上。
顎の下まで湯に浸かりきっていた頭を動かして指された方向を見やると、思わずおお、とおかしな驚嘆の声が漏れた。
「大洪水だー」
「…他に言うことねえのか」
床というよりもう水面、二十センチほどの浅い海の上でバクラが呻く。ぷかぷか浮いているプラスチックの洗面器が、浴槽にこつりとぶつかった。
「いつまでたっても出てこねえから見に来てやったってのに、何だこの有様は」
洗面所まで浸水してんぞ、と言われ、獏良はぼんやりする頭でえーと唸った。ドアが閉まってるのになぜ浴室以外に水が漏れるのだろう、と、のぼせてたりない頭で考える。三十秒がんばって、リタイアした。
「何目瞑ってんだ、起きろ」
「んー」
「大低てめえが面倒くさがって風呂掃除しねえからこうなるんだろうが」
「んー」
「排水溝つまってんだよ」
「んー」
「んーじゃねえ湯止めろ!」
さもなくば身体を代われ、とバクラは物体に触れられない手でもって獏良の頭を叩いた。無論感触など何もなく、のぼせかつまどろんだ脳みそを覚醒させるには至らない。というか邪魔をされたくないのだ。
だって、
「おもしろーい…」
「はァ?」
「だって、めったにないよこんな状況」
家の中が海みたいと、ふにゃふにゃした声で獏良は言った。
とても不思議な眺めなのだ、邪魔されたくない。白い世界で身体中が湿気を吸って重たく、なのにあったかくて気持ち悪いようないいような。そんな中で自分と同じ顔に見下ろされて罵倒されているのだ、もうちょっと楽しみたい。こんな世界、見たことない。
「心の部屋みたい」
なんにもないように見えるよと呟くと、バクラは呆れた仕草で頭をがしがしと掻いた。
「てめえの部屋は真っ黒じゃねえか」
「そういう意味じゃないよ」
ならどういう意味か、と問われても答えられないのだけど。
百パーセントフィーリングで発した言葉に、バクラは律儀に首を捻った。こいつなんだかんだで面倒見いいなあと、上目遣いに視線を投げてみる。
「何だよ」
「んー」
「それはもう聞き飽きてんだよ」
「やー」
「うるせえ」
いいからとっとと身体代われ、と、空中をすいと泳いでバクラは獏良の目の前に下りた。存在しない身体は湯の中に沈んでも濡れはしない。それもまたおかしく見えて、獏良はきゃらきゃらと笑った。
「おもしろい」
「こっちはおもしろくねえ…」
「なんか現実じゃないみたいじゃない?」
こんな状況。と、触れられない頬へ、だるくて重たい手を伸ばして、言う。
「なんにもないよ、まっしろ」
「そりゃあてめえが見えてねえだけだ」
「見えてないならないのとおんなじだよ。なんにも、ない。何にもないんだから、口うるさいこといわないで」
「あとでてめえが一人で掃除すんならほっといてやるよ」
「ほっとくのはだめ」
「じゃあどうしろってんだよ」
「一緒にまっしろになろうよ」
全部忘れて、まっしろ。
甘くねだるように、口が勝手に動いた。バクラは眉をひそめて、何だそりゃあと言う。
「めんどくさいこととか全部忘れて、今だけボクとまっしろになろ?」
「意味わかんねえ」
「夢みたいだから」
立方体の箱庭は全てから隔絶されている。そんなつもりになってみたら、世界は狭い。二人しかいなくて他には何もない。現実とつながっている扉は閉ざされて、開くまでここはどこでもない場所だ。現実のようで、現実でない。まるでよくできたつくりもののよう、曖昧な輪郭のせいで余計そう見える。仮想世界、そんな言葉を思った。
「…逃げてえのか」
現実から。
ふと、バクラがそんなことを言った。ちがうよ、の形に唇を動かしかけて、やめる。なあにと問い返すと何でもねえよと彼は言った。それらも全部、 滝のような水音のせいで聞こえない、そういうことにしておいた。
不意に胸を突かれたような感覚と共に、身体が軽くなる。追い出される形で身体の支配権を奪われた獏良は、肉体を得て蛇口に手を伸ばすバクラを、つまらなそうに見つめた。
きゅ、と音を立てて捻られた蛇口から、水音が消える。続いて詰まった排水溝も片付ける。そこまでしてから、くそ重てえと手をぐーぱーしたバクラは、向かい合って水没する半透明に向けて、大きく溜息をついた。
「水が抜けるまでだ」
低い声は反響しずぎて、本当によく聞こえなかった。
目を凝らす。バクラはもやの向こうで、それこそ半透明に――まるで二人とも肉体がないような姿に見えるその外殻を浴槽の中に沈めていた。
ぱしゃん、と、湯をかけられる。反射で目を細めたが、実体のない姿に影響はない。
不思議そうな顔をして黙る獏良に、バクラは面白くなさそうな顔をして、
「付き合ってやる」
「へ?」
何に、と問うと、鋭い目が 脱力したように瞑目。
それから、獏良がしていたように、顎あたりまでを水面に沈めて、彼は現実逃避、と言った。
「――その真っ白とやらに、今だけ付き合ってやるよ」