【同人再録】601号室の亡霊-2

 ――まるであの日に戻ったかのようだ。
 他人事のように獏良は思った。
(確か最初も、夜だった)
 残暑のにおいを残し、少しだけ足元に日中の熱気を感じる。初めてここへ訪れた時の季節は覚えていないけれど、足元にまとわりつく感触は思いがけないほどに濃い懐かしさを引き出した。
 確かあの日は、一人でいることが急に恐ろしく感じられて。
 童実野町に引っ越してきた当日、父親は不在だった。父を悪い人だとは思わないけれど、愛されていないなどと思っていないけれど、息子より研究を優先する人間と獏良は理解している。過干渉されるよりはずっとよい、と、バクラを知覚できていなかった獏良はひとりぼっちで荷ほどきを始めた。
 捨てられず持ってきてしまった妹の遺品をどこに置こうか迷っていた時、ふと、時計の音が気になった。
 ああ、ひとりだ、と。
 不意に強く自覚した瞬間、何もかもが嫌になった。
 あちこちに散らばる中身を残した段ボール箱やビニール紐。そろっていない食器。カバーを被ったままの観葉植物。カーテンがかかっていないベランダの窓から覗く眉のような細い三日月。
 何も整頓されていない様が、まるで自分の心境で。
 誰もいないから、誰も助けてくれない。
 恐ろしさと苛立ちに急き立てられ、獏良は突発的に家を飛び出した。地理を知らない童実野町を闇雲に走り、辿りついたのがこの小さな山の中程だった。
 誰かが管理しているのだろう、荒れてはいない。すぐ近くに遊具があるので大き目の森林公園といったところか。夜間に解放されているのはおかしいが、立ち入り禁止の札を見落としているであろうことは想像に難くない。目を瞑って走っていたようなものだ。
 そう遠くない場所に池があるらしく、耳を澄ませると魚が跳ねる音が聞こえる。孤独は恐ろしかったけれど、この場所には人の気配が残っており、町の喧騒との距離感は悪くなかった。
 息を切らせてこの場所へたどり着いた獏良は、そこでようやく、まともな呼吸をすることが出来た。
 それから、何か胸の詰まるようなことが起きた時にはここへ逃れて息をするのが、獏良のほどよい休息になっていた。紆余曲折の末仲間に入れてもらった高校の友人たち――遊戯達も知らない、秘密の場所だ。
 それも、バクラと深い関わりになってからは、足を運ぶこともなくなった。
 ここよりももっと気楽に、息を吐き出せる場所を手に入れていたからだ。深く甘い快感というおまけつきの、そこは何も考えなくてよい完璧な秘密基地だった。二人きりしか在れない絶対領域――心の部屋があればすべて事足りた。
 バクラはこの場所を知っていたかもしれないが、口に出したことは一度もない。彼にしてみれば、依存させたい対象の逃げ場所が己以外にあるのは疎ましいことだったのだろう。
 そのバクラは、もういない。
 いないからこそ、獏良はここへ来たのだ。
「変わらないなあ……」
 立ち並ぶ樹木の様子は四季で違うけれど、空気はまるで変わらない。少し狭くなった気がするのは、残暑といえど緑が濃いからだ。
 誰かが蒔いているのか、種が落ちて繰り返し咲くのか、獏良のお気に入りの隠れ家には毎年向日葵が咲いた。日当たりが悪いせいで数本しか育っていないが、今年もその役目を全うし立ち枯れている。花弁は散り、茶色く干からび、うなだれた頭はひどく重たそうである。
 まるで、墓標だ。
「おあつらえ向きじゃないか」
 獏良は小さく呟き、向日葵の根本にしゃがみ込んだ。
 手には玩具のようなシャベル。
 ざくり、と、土に差し込むと、土は具合よく湿っていた。
「お前のお墓に、ちょうどいいよ」
 胸と鎖骨の間に、話しかける言葉は独り言ではない。今もまだここに居座っている、厄介な相手の残影に向かってのことだった。
「もうさよならするんだ。お前とはもうこれっきりなんだ」
 そう。もう、終わりにしたい。
 やつれた頬を少し持ち上げ、獏良は枯れた向日葵のように笑った。
 忘れたいから、ここに来た。忘れる為に、思い出にする為に、ここへ来た。
 ――我ながらそれは名案だった。
 すべてが終わり、バクラが消え、もう一人の遊戯もいなくなり、町に学校に世界に平和が戻った。誰もが新しい歩みを始め前に進んでいる中で、獏良だけが未だに、影にとらわれたままだった。
 友人は優しく逞しく、前向きで、獏良を励ました。きみのせいじゃない、もう終わったことだから。誰も獏良とバクラの間にあった奇妙な共犯関係を知らず、被害者として慰めてくれる。その度にそうじゃないボクは、と叫びたくなり、しかし、その先の言葉が見当たらない獏良は笑うしかなかった。
 結局誰の味方にもならなかった獏良は、誰の敵でもなかった。彼らの手を振り払うことも手を握り返すこともできかねて、宙ぶらりんのまま、ひたすらにバクラを思い続けた日々は苦痛の連続だった。
 もう忘れたい。そうしたらきっと楽になれる。
 でも、どうやって忘れたらいいんだろう。
 バクラが居た時は、負の感情はすべて彼が食べてくれた。悲しみ苦しみ悩み叫ぶ苦痛を、悪食の悪魔はぺろりと難なく舐めとり、その分空白になった心に闇や快楽や、そういった都合の良いものを詰め込んだ。それがよいことなのか悪いことなのか、その時の獏良には判断がつかなかった。ただ楽になったことが嬉しく、されるがままにしていた。
 片付けてくれるバクラが居なくなったら、どうしたらいい?
 悲しみの忘れ方を忘れてしまい、そうして思いついたのが、
(ああ、そうだ、お墓を)
 墓標を立てて、そこへ埋めよう。
 思い立ってすぐに、獏良はシャベルを手に家を飛び出したのだった。
 全部なくそう。土に返そう。
 あの蝉のような男を土の中に返してやろう。
 心の部屋で蝉の声を聴いてすぐに、彼は羽化し、絶命の歌を高らかに歌い、そして消えて行った。その鳴き声はまだ鼓膜から離れない。幼い頃、妹とした蝉捕り遊びの時と同じだ。
 たしか大きな油蝉だった。残酷な遊びはしなかったけれど、狭い籠でいいようにされた蝉はヒトの手に触れられて弱っていたのだろう、すぐに死んでしまった。自分たちのせいで死んだと思った兄妹は、両親にも言えず罪悪感から蝉を机の引き出しに隠してしまった。
 その日の夜は、ベッドに潜り込んでもまだあの油蝉が鳴いている気がして、恐ろしくて眠れなかった。
 耳から離れない油蝉の歌に困り果てた幼い獏良は、夜中にこっそりと庭に出て、蝉を土に埋めてやった。
 そうしたら、ベッドで蝉の声を聞くことはなくなった。
「その時と同じだよ。罪悪感があるかは、わからないけどさ」
 寝不足で重たい瞼を細め、不規則な生活で細くなった腕で、獏良はざくりざくりと土を掘った。
 獏良の中で未だにずんぐりと居座っているバクラにも、同じことをしてやれば。
 そうしたらきっと自分の中でも決着がつく。
 穏やかな日を迎えられる。忘れられる。前を向ける。
 ヒトは後ろを向いたまま歩くように作られておらず、踵を爪先にしていたらいつか転ぶ。その時に助け起こしてくれる人はいないのだから、いい加減、どうにかしなければならない。
 苦痛の片づけ方を忘れ、負の感情の処理の仕方を忘れた不恰好な生き物になってしまっても、前を向かないと生きられない。
 獏良はバクラを葬るために、ここを訪れたのだ。
「泣けたらね、ちょっとは話も違っていたんだろうけど」
 これで最後になるであろう、バクラへの言葉を獏良は吐き出していく。
「お前が居なくなって、泣けなかった。悲しいのに、寂しいのに、悔しいのに、怖いのに、憎いのに、ダメだったよ。今も」
 さよならだと思っても、涙が出てこない。
 バクラを失った後、彼に対して涙を流すことはなかった。せめて泣けたなら楽になれたのだけれど、自己を慰める為ですら一滴も、涙は零れていない。こうして埋葬の為の穴を掘っていても、悲しいとは思わなかった。
 空虚な気持ちで、しかし、決して軽い気持ちになどなってはいなくて。
 表現できない矛盾を孕んだ、ガスの塊に似た気持ちが獏良の内側を支配している。
 なんとなく、ああ、これで楽になれるのかな、とだけ、思った。
 なぜかちくりと喉のあたりが痛んだ。理由はわからなかった。とがめるような痛みだった。
「なんだろうね、お前のことで、苦労しなかったことなんて一度もないや。……いなくなった後もさ」
 ざく、ざく、ざく。
 話す言葉すら無くなって、そうして土を掘る音だけが響く。
 一定の音と静寂と。
 ゆっくりと思考が漂白されてゆくのを獏良は感じた。麻痺してゆくような、すべてが遠のくような感覚だ。心音までが遠く感じる。動かしている手もまるで他人のそれで、機械か何かが接続されて勝手に動いているのではないかと思う。
 いつしか、シャベルを握る感触すら無くなっていた。
 頬が冷たいのは土が飛んだからか。地味な労働に汗をかいても、拭うことも頭の向こうに飛んで行った。爪の間に入り込んだ粘土質の土は洗い落とすのが面倒だろうな、などと、全く関係ないことだけは思いついたりするのだけれど。
 そうして掘り続けた墓穴にも、限界が来た。
 深くに埋まった大きな石に爪の先を強く引っかけてしまい、痛みで獏良は自意識を取り戻した。
 出来上がった穴は、八十センチ程度の深さになっていた。
「……できた」
 喉がからからに乾いていた。手が疲れた。とても冷えている。
 なんとなく見上げた空は不穏な曇り具合で、月明かりはなかった。
「できたよ、バクラ」
 死んだ人はなんとなく天にいるような気がするものだけれど、バクラがそうだと思えない獏良は、空を見るのをやめた。
 視線の先には奈落に似た闇。ぽっかりと口をあけて、まるでどこまでも深くへと連れて行ってくれそうだ。
 これならいい。
 満足そうに頷いた獏良は、首にかかった紐を解こうとして――
「あれ」
 指先は、宙を掻いた。
 間の抜けた声を出して、獏良は己が胸を見下ろした。
 青と白のボーダーのシャツ。
 土だらけの指でぎゅっと胸元をつかんでも、錐が触れ合う涼しげな音はしない。
「……ない」
 そこには、何もなかった。
 バクラが宿る千年輪など、どこにもない。
 当たり前だ、あの金色の輝きは、本物の奈落に落ちて行った。
 この手で手放して、エジプトの地で、離別をした。
「あ、れ、あれ?」
 忘れて――いたのだった。
 この胸に、首に、バクラはいない。
 随分と軽くなった首に紐の痕は残っていても、肝心の千年輪はここにない。別離の日から今までずっと、どうして気が付かなかったのか。ほんとうに肌身離さず身に着けていたから、離れるなんて思っていなかったから、あることが当たり前だったから。
 だから忘れてしまっていたのだ。
 そうだ、ずっとなかった。
 在るつもりで、生活していただけで。
「そんな、だって、じゃあ、何を」
 突き刺さるような痛みに、獏良は土の上でうずくまった。
 背中に冷たい汗がにじんで止まらない。瞼の裏側に白い星がちかちかと点滅し、頭だけが熱いのに首から下がひどく寒い。
「ボクは、どうしたら」
 急に怖くなった。底知れない恐怖だった。
「何を埋めたら、いいの……?」
 墓穴は、主を今かと待っているのに。
 バクラを埋めるつもりだった。まったく無意識に、それは千年輪を埋めることだと思っていた。他に何もない、彼をイコールでつなげられるものはそれだけだ。
 その千年輪がもうないことを、忘れていたことがまず異常だ。いくら苦痛の日々を過ごしていたとはいえ、おかしすぎる。そんな精神は狂っているとしか表現できない。
 そして何より、その異常よりも。
「このままじゃ、バクラのこと、どうにもできないじゃないか」
 埋葬――出来ない。
 出来なれば、ずっと、このままだ。
 前を向けず、苦しいまま、真綿で首を絞められ続けて、後ろ向きに影を眺めて生きていく。
 それが嫌で、こんなことをしたのに。
「や、だ、嫌だ、嫌だ!」
 獏良の声は叫びだった。しかし枯れた喉では満足な声量も出せず、無様に瞑れて夜に消えた。
 わけもなく見上げた空は今にも泣きだしそうで、あたりの木々はまるで獏良を取り囲み包囲しているように感じた。息が詰まる圧迫感。息を吐ける秘密の場所が急に牙をむき、獏良を苛んでくる。ぬるい風に吹かれてざわつく木々から聞こえる、責めるような幻聴。言葉ではなく概念で、ひどいことを言われている気分になる。
 獏良は汚れた両手で耳をふさぎ、墓穴もそのままに逃げ出した。あの日、引っ越しの夜と同じ――否、それ以上にでたらめな逃走だった。
 ひと気のない深夜の森林公園から市街地へ。
 泥だらけで駆ける白い髪の少年を、雑踏の人々は奇異の瞳で眺めたが、誰も声をかけなかった。かけられなかったのだろう、明らかな異常性に対して、たいていの人間は差し出す手をおろす。
 そのような人の目すら、獏良に感じ取る余裕はなかった。瞳はせわしなくあたりを見ているようで何も見ていない。
 探しているのだ、バクラの、千年輪の代わりになるような何かを。
 彼そのものである千年輪がないのなら、他にかかわりのあるものを埋める。それでどうにかけりをつけないとならない。
 ちらりと背後を伺う。森林公園はもうビルや建物の向こうに見えなくなっていたけれど、夜の闇がそのままあの墓穴の闇に化けたように感じられた。主を探してずるずると這い回るイメージがあった。
 何か埋めないと。
(そうしないとボクは一生、あいつの影と生きることになる)
 視界の端を抜けていく町並みに、バクラにかかわるものはなかった。一緒に行ったコンビニや本屋はあっても、そんなものは概念的すぎて話にならない。第一、そういった日常的な行為にバクラが同行したのは獏良が望んでしたことであって、バクラがそうしたいと願っていたのかどうかなど知る由もない。
 きっと、そこに彼の意志はなかっただろう。
 ならば埋葬しても意味がない。童実野町にバクラの名残はない。
 息を切らせて闇雲に駆けても無駄だと気付いた獏良は、噎せながら自宅へ戻ることを選んだ。
(町の中なんかにあるわけがない)
 あるとしたら、家の中だ。バクラが生活した場所だ。一緒に生きた場所なのだ。
 きっと何かがある。
 最初に思いついたのは、彼が着ていた黒いコートだった。だが、コートは獏良が遊戯達とエジプトに渡る前に手を離れていた。すべての戦いが終わってすぐに、バクラが残したものだからまだ仕掛けが残っているかもしれないと千年輪やデッキと共に回収されてしまったのだ。
 マンションのエントランスを超え、一階で待機していたエレベーターに飛び乗った獏良は六階のボタンを押す。上っている間に息を整え、混乱する頭を整頓することに必死だ。
「ひとつくらい、なんでもいいんだ、何でもいいから」
 呟きは祈りに似ていた。六〇一と刻まれた自宅の扉を開き、靴を脱ぐのももどかしく部屋中をひっくり返す。
 バクラが気に入っていた場所はなかったか。
 好んでいた食べ物は、本は、テレビ番組は、ゲームは。
 記憶を引っ張り出し、獏良は次々と物入れを開いていく。ソファによく座っていたような気がしたけれど、それもコンビニと一緒で獏良が望んだからだった。ダイニングチェアも一人分しかない。冷蔵庫の中には獏良自身の好物しかない。そもそもバクラの好物など知らない。
 服も、ペンも、歯ブラシも。
 すべてが獏良のものしかなかった。
 身体を持たない彼に、日常の品など必要ない。
 この世界にバクラが確かにいたことを、証明できるものは――一つとして、獏良の手の届く場所に、存在しなかった。
「うそ、でしょ……?」
 酷い嵐の後のように荒れた室内に、獏良は呆然と立ち尽くす。
 めくり返されたラグ。斜めになったソファ。引出という引出を暴いてひっくり返されたチェスト。開けっ放しの冷蔵庫。
 皮肉なことに、その様子は引っ越しの日の夜とよく似ていた。
「何か一個くらい、ねえ、あっても」
 ――何も、残してくれなかった。
 涙どころか、瞳は乾いていまにも干からびそうだ。
 震える喉をそらせて、いつもバクラがいた場所を――自分の斜め後ろの中空を、獏良は見上げる。長い髪が翻る幻覚すら、見ることは叶わなかった。
 ここは、今は、どこまでも現実で。
 どこまでも残酷だった。
『くれてやってるじゃねえか、キモチイイのを毎晩よ』
 呆然と、獏良はあの夜の皮肉を思い出した。
『それとも女みてえに指輪だ何だって、そういうモンが欲しいのか?』
(ねだっていればよかった)
 みっともなくてもいい、こんなことになる位なら、そうと知っていたなら、女扱いされたって耐えられた。悲しいほど未来のことはわからない――彼の残滓は、現世のどこにも見つからなかった。
 最早、空虚な笑いさえ起らない。
 よろけて寄りかかったチェストから、生き残っていた引出がごとんと音を立てて落ちて行った。
「……手、を」
 洗わなきゃ。
 空っぽになった頭から、全く関係のないことがぽろりと生まれて唇からこぼれた。
 それは思考力がぶつんと切れ、停電する感覚だった。ふらふらと、壁に手をついて獏良は洗面所へと向かう。
「こんな汚れてたら、怒られちゃう」
 そうだ、身体は大切にしろだとか、身ぎれいにしろだとか。大事な宿主だからと言っていた。病気になると文句を言われたし、風呂上りに髪を乾かさないだけで怒られたこともあった。
 そんなにボクが大事なの? と、からかって聞いてみたら、はいはいそうですよと適当に返されたのも覚えている。あれは軽口だったけれど、真実の意味で、バクラが大事にしていたのは獏良ではなくその肉体の器だけだった。
 わかっていたけれど、知らないふりをしたかった。
 大事にされていると思いたかった。
 だからこそ、うるさい小言にもなんだかんだと応じていた。外から帰ってきたら手を洗わないといけない。こんな土だらけの手をしていたら、ものすごく怒られる。
「ちゃんと殺菌して、爪の間まで、きれいに」
 心は全力で、現実からの逃避を求めていた。
 どん、と肩で扉を開け、幽鬼のような動きで獏良は洗面台の前へ立った。ひねった蛇口から勢いのよい水があふれる。
 冷水は肌に優しくなかった。
 一瞬の痛みと麻痺。偏執的なまでに、獏良は手を洗う。爪の間に入り込んだ泥を丁寧に掻き出し、手首までしっかりと水で流す。背後からバクラが見ているのだからと、しっかりやらないと怒られると、そう思いたくて。
 そういえば顔にも泥が撥ねたのだった。思い出し、白い手が水を掬って頬を流す。汚れたシャツも脱いで洗濯してしまおう。
 そうして、獏良は濡れた顔をあげて。
「これでいいでしょ、バクラ――」
 顔を上げると、鏡に自分の顔が写っていた。
 逃避したがる心を一気に引き戻す、そこにはやはり現実があった。
 細い首と痩せた胸に、千年輪はない。
 どんなに逃げ出したくても、それが真実だった。
 ただ、五条の白茶けた傷跡だけが、胸に残っているだけ――
「……きず」
 疵。
 ぽたん、と、前髪から雫が垂れた。
「傷、そう、傷跡だ」
 獏良は冷たい指先で、鏡像の胸を撫ぜる。続いて二の腕を探り、最後に左の掌を見下ろす。
 何も残してくれなかった、バクラが。
 ひとつ、だけ。
「あった……」
 あったじゃないか。
 掠れた声で、獏良は呟いた。
 共に過ごした街中の景色にも、自宅の日常にも、置き土産を残さなかったバクラが唯一残したもの。
 傷跡が、獏良の身体にしっかりと残っていた。
 彼が間違いなく存在した証は、獏良のもっとも近くにあった。
 湧き上がるのは、バクラのことで一度も泣かなかった獏良が、今なら泣き出せると思うくらいの安堵。
 と共に、絶望がまた、黒い波のようにかぶさってくるのを獏良は感じた。
「よりにもよって、こんなもの」
 二の腕をぐっと抑える。傷はもう痕だけを残すのみで、痛みはない。
 痛むのは胸だ。
 探していたものは見つかった。けれど願いはかなわない。
 自分を埋葬することなど、どうできるというのか――
 がくん、と砕ける膝に抗わず、獏良はその場にへたり込んだ。
「ああ、そう、そうなんだ。最後までお前は、ボクに苦しめっていうんだね」
 忘れたくて、過去にしたくて。
 穴を掘って埋めてやろう。埋葬して、蓋をして、忘れて。
 そうして前を向こうと思った。しかし遺品は何一つなく、血眼になって探し、見つけたそれは自分の身体にあった。
 一緒の墓に入ろう、なんて、いまどき流行るはずもないナンセンスな口説き文句だ。
 埋葬は叶わない。
 獏良が、傷跡ごと、土に埋まる以外に――方法などないのだから。
『オレ様を忘れようなんざ、出来やしねえよ』
 彼が居たらそんな風に言っただろうか。
 ぽとりと床に落ちた手のひらは、まるで他人のそれだった。
(逃げられない)
 六文字の絶望が、獏良をさらって引きずり込む。嵐の海に投げ出された小舟のように、あっさりと沈んでゆくのがわかる。
 絶望はしかしどこか甘く――これ以上苦しまないようにと脳が分泌する麻薬物質の味だろうか――諦めは残酷なほどに優しかった。
 忘れなくていいのだ。
 だって、忘れられないのだから。
「わすれなきゃいけないって、思ってたんだ。でもどうしようもないなら、しかたないから」
 瀕死の魚があえぐ動きで、獏良の唇はぱくぱくと動く。
 何故だろう、悲しく苦しく、未来は閉ざされたというのに、どこか安心していた。打ちひしがれた絶望の裏側をめくると、そこには免罪符があった。
 仕方がないのだから、構わないのだ。
 忘れなくても、いい。
 ずっとずっと、バクラと共に、惰性のように生きていい。前を向かなくてもいい。無理をしなくてもいい。助けてくれた友人たちへの恩に報いようと、まともな人間でいる必要もまた、無くなった。
 葬られたのはバクラではなく、獏良の中に残っていた、バクラ以外のすべてだ。
 バクラ以外のものがなくなった自分。
 無駄なものがなにひとつない、漂白された心になった今になって、獏良はようやく理解した。
「本当は、忘れたくなんかなかったんだ」
 ずっと一緒にいたかった。
 いなくなってもなお、忘れたくなかった。忘れたら、きっと誰の心にもバクラは残らない。バクラなんてものはいなかった、夢だったのだと言われたら、それこそ泡のように消えてしまう。そんな風になって欲しくなった。せめて、自分ひとりでもいいから覚えていたかった。
 覚えていれば、夢にはならない。
 彼が確かにそこにいた――ここにいたという現実を、失いたくはなかった。
 『忘れなければならない』。
 でも『忘れたくない』。
 相反するふたつの感情がぶつかり合い、軋んでいた。
 けれど、その戦いは既に終わっていた。免罪符が『忘れなければならない』を打ち破り、まるきりひとつの純粋な、己の未来さえないがしろにした強い想いが、今、獏良の胸に染みてゆく。
「何でそんな風に思うかも…… もうボクは知ってるんだよ」
 依存の殻すら流されて、えぐり出された感情はひとつの形を浮かび上がらせる。
 かつて否定し、認めてはいけないもの。
 敵でも味方でもない、蚊帳の外の自分が――ただの器でしかない自分が、感じてはならないもの。
 もし暴いたなら厄介なことになる。傍観者から舞台に上がる勇気のない者が、それを抱くことは許されない。それに、今更認めてしまっても何も生まない。
 だから無いものにしていた方が良いと、無意識に押し込めていた感情。
 だのに、もう止められない。
 その、感情の名前は――
「ボクは、お前のことが好きだったんだ」
 ただ、いつからか。
 どうしてかもわからないくらいに自然に。
「好きだったんだ」
 口に出したら取り返しがつかないと思っていた言葉――
 獏良は繰り返し、二度、吐き出した。
 禁忌の暴露と共に、獏良の心は、身体は、弛緩するようにして解放された。
「あーあ、いっちゃった、言っちゃったよ」
 か細い声で獏良は呟く。
 羽根でも生えたかのように、一気に楽になった気がした。同時に、明確な痛みが喉から胸へと走ってゆくのが分かる。
「ねえ。どうしてくれるの? お前は本当にひどい奴だね」
 気が付かないままの方がよかったことじゃないか。
 ごうごうと音を立てて、開いたままの蛇口からあふれた水が排水溝に飲まれていく。窓の向こうではついに降り出した雨が窓硝子を叩き、水音がすべての音を掻き消した。
「あはは」
 塞がれた世界で響く笑い声は、誰の耳にも届かない。
「苦しいよ、これ」
 責める口調とは全く裏腹に、いとしげに獏良は瞳を細めた。
「お前がいないいないって、辛がってた昨日までがかわいく思えるくらい……何これって文句を言う相手もいないんだから、ひどいよ」
 指先は甘い動きで傷跡を撫ぜる。手のひらと、二の腕。
 そして胸を、己が両手できつく締め付けるように、切なく強く抱きしめて。
「お前が好きで、すごく、胸が苦しい」
 そこにあるのは、自身の心の虫食い穴。
 バクラの形をした空虚に向けて、獏良は優しく優しく囁いた。
 嬉しい、苦しい、辛い、
 好き。
 数多の感情で粉々に砕けた心が作り出す笑顔は、蕩けるように甘く――涙でぐっしょりと濡れていた。
「……会いたいよ、バクラ」

――どうすれば、お前にもう一度逢える?