【同人再録】601号室の亡霊-4
――ああ、そうか。
――こうすれば良かったんだ。
「獏良くん、今日も休みかな」
遊戯を中心に、城之内、本田、杏子。
馴染みの面子でもって机を囲む、朝のホームルーム前の空き時間。遊戯が誰にともなく呟いた言葉に、城之内があー、と否定とも肯定とも取れない声で応じた。
「一週間になるよなぁ、あいつ学校来なくなって」
背もたれを前に、さかさまに座った城之内の背後では杏子が携帯電話を確認している。いくらか操作して男子組に向ける画面には、五日前の日付で獏良とのやりとりの履歴があった。
「ほらこれ、ただの風邪って言ってるのよね。うつったら大変だからお見舞いは遠慮するってあるけど、心配だわ」
「獏良の奴、一人暮らしだからな。ぶっ倒れてなきゃいいけどよ」
「折角、獏良くんが好きそうな噂話が流行ってるのにね」
「うぇ」
城之内が嫌な呻きを漏らす。察した杏子はそんな友人をちらりと覗って、それから意地の悪い笑顔を浮かべた。さっと城之内が距離を取る。
「し、知ってんだろ! オレそういうの駄目なんだよ!」
「誰も怖い話だなんて言ってないじゃない」
「違うのかよ」
「そうだけど」
「あ、そういう関係の話なんだ」
遊戯が幼顔によく似合う様子で、軽く首を傾げて言葉を挟む。杏子の視線が遊戯を向き、何だ知らないの? と意外そうに言った。
矛先が変わった。絶妙なタイミングの助け舟に、城之内はこっそりと、本田の影に隠れつつ耳を塞ぐ。
「クラスじゃけっこう有名になってるのよ。幽霊の話」
「幽霊? 学校に出るとか?」
「あーあーあーあー」
「城之内うるさい。学校じゃないわよ、この辺一帯での目撃情報があるけど、そういえば校内で見たっていうのは聞いたことないかも」
杏子の話はこうだった。
最近、童実野町のあちこちを真っ黒い人影が徘徊しているという噂が広まっている。顔の目撃情報はなく、姿形はひょろりとしたシルエットでコートを着ているようだった。まるでこの世のものではないようなふわふわとした足取りで、コンビニや、本屋や、そういった場所に出没するようだ。何か悪さをしただとか、関わる事件が起きただとか、そういったことはない。ただそこにいるだけで、しかし誰もが、ふと視線をそらし戻した時には視界から消えているというのだ。
とりわけ多いのは、夜の出没。闇に紛れるようにして、深夜の童実野町を彷徨っているその存在はいかにも不気味で、娯楽に飢えた学生たちの間ではさまざまな憶測が飛び交っていた。
「この辺で殺された人の幽霊が犯人を捜してるだとか、自分の身体を探してる幽体離脱した浮遊霊だとか。こういうの、獏良くん好きじゃない? お見舞いついでに話したら元気でるかなーとか思うんだけど、行かない方が良いって言われちゃってるし」
「病気で寝てる奴に怪談しにいくってのも、どうかと思うぜ…」
女子らしく噂好きな杏子の発言に、オレだったら寝たふりして聞き流す、と、本田は苦笑いした。
「ボク、後でまたメールしてみるよ。お昼くらいになったら、具合悪くても起きてるかもしれないし」
「そうね、それがいいわ。――城之内、いつまで耳線してんのよ!」
ぱこん! と気持ちの良い音を立てて、杏子が城之内の後ろ頭を叩いた。一時間目の英語の教科書を丸めた武器は結構な硬さで、金髪の旋毛にむけて見事な一撃が入った。掌の耳線を外し、頭を押さえた城之内はきょろきょろとまわりを見回し、誰が殴ったんだよ! と騒がしい。
その、犯人捜しの忙しない視線の先に――白い髪の房が入り込んだ。
「獏良ぁ!?」
素っ頓狂な声に、他の視線も集まる。最初は城之内に、そして、今ちょうど教室の引き戸を開いた姿の、獏良了に向けて。
「あ、皆おはよう」
「獏良くん、風邪もういいの?」
やはりここも女子の力である。もともと根が優しい所為もあるが、一番に心配していた杏子が駆け寄った。続いて男子組が、自分の机に鞄を置く獏良を囲む。
「今日やっぱ見舞い行こうかって話してたんだぜ。大丈夫か?」
「ありがと、本田くん。でももう治ったから、全然平気なんだ。元気そうでしょ?」
椅子に座って、にっこり。獏良の笑顔は大層機嫌よく健康的で、よく知るその表情は、心配顔の友人たちを安心させた。気遣わしげに見ていた遊戯も、ほっとした息を吐く。
「うん、顔色も良さそうだし、安心したよ」
「一週間も休む風邪なんて、すげーの当てちまったんだなあ」
「あは、運が悪かったね」
一同のほがらかな笑いが、めいめいに賑やかな教室の一角を温かくする。
「元気なんだったら早速教えてあげなきゃ。あのね、獏良くんが好きそうな噂話が流行ってるのよ」
「せめて放課後ンなってからにしろよ……」
「城之内、そうしたらアンタ逃げるじゃない」
「オ、オレに聞かせる必要はねーだろ!」
隙あらば向く矛先に、城之内はとうとう逃げ出した。面白がった杏子は机の隙間を縫って逃走する背中を、待ちなさいよ! と笑いながら追いかけて行く。止めに本田も後を追ってしまい、残ったのは遊戯と獏良だけになった。
「何かあったの?」
「うーん、ほら、城之内くん怖い話苦手だからさ」
不思議そうな顔をする獏良に、遊戯はかいつまんだ説明をする。
獏良が学校を休んでいる間に、ある噂が流行っていること。人影が徘徊しているというその内容、場所、それから飛び交っている憶測のこと。
(あんまり話さない方がいい気がするな)
杏子から聞いた詳細は、獏良には刺激が強いのではないか。黒いコートの人影という単語で思い出す存在を、遊戯だけがそっと危惧していた。
噂話をした杏子、怖がった城之内、止めに入った本田。友人たちは連想される人物のことを思い出すことはなかったようだ。少なくとも、噂を聞いてすぐにはっとした表情を浮かべたりしない程度には。
黒コートの連想人物――バクラ。
忘れるのではなく、軽んじているわけでもなく。
彼との戦いで思い出されるすべて、失ったものや得たもの、もう会えない人へ向けて、遊戯たちに後悔も後ろ暗さもなかった。ただ純粋に、今は過ぎ去った日々として認識している――それは記憶として当たり前のことなのだ。
友人たち。そして遊戯自身もまた、かつて起きた出来事よりもこの先自分たちが歩んでゆく、輝かしい未来を見ているが故に。
けれど、獏良はどうだろうか。
エジプトからの帰還以来、彼のことを一言も口に出さなくなった、獏良は。
(忘れているならそれでもいいんだ)
忘れようと努力しているなら、尚更。
遊戯は噂話の内、人影の色だけは――黒いコートを着た細い人影、という情報だけ、口に出さずにしまっておくことにした。
オカルト怪奇現象、その類の話題に目がない獏良のことだ。残りの噂話だけでも十分楽しんでくれるだろう。即座に返ってくるテンションの高い反応に、遊戯は微笑ましい気分で身構えた。
しかし――
「へえ、そうなんだ。ボク休んでたから全然知らないや」
あっさりと言い、獏良は鞄から教科書やノートを出す作業を始めた。
あれ、と、遊戯が口の中で小さく疑問符を呟く。
覗う獏良の表情に変化はない。不機嫌でもなく、むしろご機嫌な微笑を浮かべ、英語の教科書をぱらぱらと捲っている。
「獏良くん、あの」
「ん?」
どうしたの、いつもだったらもっと――
違和を感じた遊戯の言葉を遮る形で、始業のチャイムが鳴り響いた。
廊下まで逃げていた城之内たちが大急ぎで戻ってくる。担任が教室に現れ、遊戯も席に戻るしかない。
朝のホームルームが始まり、起立、着席、礼。
有耶無耶のまま断ち切れてしまった獏良との会話に、遊戯は落ち着かない気分を拭えない。
(なんだろう、嫌な予感がする)
きっと誰も気づいていない。自分だけだ。
ちらりと忍ばせた視線の先で、獏良は先ほどと全く変わらない、薄い笑みを湛えて前を向いていた。
●
こんなことはよくない。
そうと理解していても、遊戯はどうしても、獏良を注視せずにはいられなかった。
幸いなことに、一時間目が終わった頃には城之内たちも噂のことをすっかり忘れていた。話題にならずそれきりで、獏良の耳に黒コートの情報が渡ることはなかった。
だが、遊戯が朝感じた嫌な予感は、昼食を食べても嚥下されずに喉の途中に詰まっていた。
まるで張り付いたかのように、微笑のままの獏良の表情。
いつも通りに見えるのだけれど、何かが決定的に違っている感じがした。何がおかしいのかと問われても答えなれない、不可視の違和感は霧のように獏良の周りを囲んでいる。
(これが獏良くん以外の人だったら、気のせいでいいんだけど)
ただ、振り払っても振り払えない思考が、遊戯の足を動かして止まない。
よくないとわかっているのに。
授業が終わり、ゲームセンターに行くという城之内たちの誘いを断った獏良。風邪がぶり返すとまずいからと言って先に帰った彼の後を、つけるような真似を――友人たちにも、用事があるだなんて嘘をついて。
(ああ、ボクは疑っているんだ)
そんなこと、あり得ないというのに。
黒コートの人物と聞いて、とっさに思いついた人物のことを思うと、歩みを止めることなどできない。
すべてが終わったと信じている、その気持ちに偽りはない。もう一人の自分と完全に別たれた今でも心は繋がっていると信じているし、過去は過去であり、進むべきは未来だ。
その未来に鋭い影が差す。特徴的な髪の形と、翻るコートのシルエットをつくる。
(バクラくんが)
まだ、獏良の中にいるんじゃないか、なんて。
(あるわけないよ、そんな事)
遊戯は身を隠す電柱の裏側で、ぶんぶんと首を振った。
あるわけない。千年輪はもうここにないのだから、彼が存在できる理由がない。
けれどもしかしたら、自分たちも、千年アイテムをよく知るイシュタールの人々にも察知できない秘密の仕掛けがあって、バクラがまたこの世界に降り立っているのではないか。
おかしいではないか。獏良が学校を休んでいる間に広まった噂。登校してきた獏良の反応。うまく繋がりすぎている。
遊戯は確かめたかったのだ。この疑いが杞憂であると。
獏良が何事もなく帰宅してくれたなら、きっとこの不安も晴れる。ボクは何を恐れていたんだと笑って、ゲームセンターで遊んでいるはずの皆と合流したい。
(そうだよね、獏良くん)
電柱と電柱、その間と同じ程度の距離の先を歩く背中に向かって、遊戯は祈るように思った。
病み上がりとはいえ、完治しているからだろう。獏良の足取りは想像以上にしっかりしていた。いつものコンビニと本屋、歩道橋を渡ってマンションへ。寄り道もせず振り向きもしない獏良は、どうやらイヤホンで音楽を聴いているらしい。たまに頭が左右にひょこひょこと揺れる様子が微笑ましい。
あっという間に目的地まで到着した。
獏良がマンションのエントランスに入ったところで、遊戯は足を止める。関係者以外立ち入りを禁ず、というお約束の看板を見ると、どうにもその先に進めない気分になってしまう。特に悪さをするわけでもないのに、マンションそのものが他人の敷地であるという認識が、それ以上の侵入を拒むのだ。
どのみち、そこまで深く入り込んで様子を覗うつもりもない。扉の向こうへ消えて行った獏良の背中を確認し、遊戯はようやく、長い息を吐き出せた。
「やっぱり気のせいだったんだ」
心のなかではなく実際に口に出してみると、それだけで随分と安心した。
小さな背中にどっと、安堵と疲れが押し寄せてくる。普段後ろ暗いことなど一切しない遊戯だからこそ、誰かの後をつけるなどという行為自体が負担だったのだ。それでも見極めなければならないという強い思いで足を動かしていたが、杞憂と知った今、倍の力で帰ってくる。
マンションの前で一人喋っているわけにもいかない。遊戯はひとつ大きな伸びをすると、繁華街に向けて爪先を躍らせた。
時刻は十六時半。ゲームセンターでは高校生は十八時以降の滞在を禁じられているが、きっと皆はぎりぎりまで居座るはずだ。ならば今からゆっくり向かっても十分間に合う。もし間に合わなくても、十八時を過ぎたらどこかのファーストフード店か、それこそ自分の家のゲームコーナーで、カードを広げることになるだろう。
どうせ行くなら、おととい取り逃したUFOキャッチャーの景品を今日こそ手に入れよう。遊戯は財布の中身の乏しさと相談しながら、その場を離れた。
(ああ、すっきりした)
後をつけて歩いた重苦しい道を、今度は軽快な足取りで引き返していく。
歩道橋を渡り、いつも店主が転寝をしている小さな本屋の前で漫画雑誌を読んで少し道草。新商品ののぼりが賑やかなコンビニで一度寄り道。残暑の厳しさにアイスを買い、齧りながら遊戯はゲームセンターを目指す。
「あ、皆と分けられるもの買えばよかったかな」
だけどあんまり無駄遣いしたら、ゲームするお小遣いなくなっちゃうしな。
などと、穏やかな日常の独り言を、つい口にした時だった。
コンビニに引き返そうかと振り向かなければ、気づかずにすんだことだった――
二車線の道路を挟んだ向かい側。
黒い人影が、すっと、路地の向こうへ。
「!!」
手から、ソーダ味のアイスキャンディーが滑り落ちる。
ぐしゃりと無残に落下する前に、遊戯は駆けだしていた。勢い余って車道に飛び出しかけ、激しいクラクションに怒られる。あわてて横断歩道へ向かうが、信号の点滅は終わり停止の赤が灯ってしまう。
「待って……ねえ!」
思わず叫んでいた。あたりの人々――夕方の買い物に向かう主婦や下校する学生たち――は驚いて遊戯を見るが、すぐに視線はめいめいに戻って、誰も遊戯を呼び止めたりはしない。
進行可能の青に変わった途端、遊戯は再び走り出した。
「待ってよ、ちょっと!」
見失うことだけは避けたかった。もともと足の速くない遊戯は、体育の授業でもここまで力を振り絞ったことがない程の必死さでもって、人影を追った。
幸い、彼の歩みはおぼつかなくゆっくりとしていて、ふらふわと、漂うような歩き方だった。それでもなぜか追いつけない。
遊戯が道の角を曲がると、彼もまた、角を曲がってしまう。
黒いコートの裾と白い髪の先だけが視界に残り、すぐに消える。されど見間違えようのないその姿は、どう考えても、
「バクラ、くん!」
友人ではない方の、バクラのそれであった。
叫び呼んだ時、角の向こうへ消える一瞬、俯き具合の横顔が笑った気がした。くふり、と含み笑う、口元の吊り上り方をよく覚えている。
「どうして、そんな」
息を切らせ、走る遊戯の頭の中は爆発しそうに乱れていた。
杞憂ではなかったのか。
ついさっき、獏良が家へ帰るところを見届けたはずだ。獏良はたしかに獏良だったはずなのに。
「何で君が、ここにいるんだ」
切れ切れの訴えがうわごとのように響く。
気づけばどこを走っているのかわからなくなっていた。人影の進む道は裏通りばかりで、この一帯に詳しくない遊戯にはもはやここが童実野町のどこなのか全くわからない。そんな遊戯が迷わぬよう、人影は別れ道できちんと裾の端を残している。
弄うような悪意を、そこに感じた。
従うしかない遊戯は、日暮行く道をひたすらに追い続け――
彼は、獏良の住むマンションの裏口から、中へと這入って行った。
「獏良くんち……」
ということは、もう、疑いようもない。
噴き出してきた汗を拭い、遊戯は泣き出しそうな顔で呟いた。
裏口にも例の立ち入り禁止の看板はあったが、構う余裕などありはしない。一瞬だけ躊躇したものの、遊戯の足は敷地へと進む。一基しかないエレベーターは既に階上へ昇り始めていた。六階でランプが止まったことを確認し、いよいよ確実となった事実に遊戯は唇を噛む。
エレベーターを待っている時間はない。残り少ない体力を奮い立たせ、遊戯は階段を駆け上がった。
「バクラくん!」
マンションの外廊下、まっすぐに伸びる道の先に、彼は居た。
立ち止まった背中、黒いコート。
白く長い髪は夕日に染まり、今は薄いオレンジ色だ。日が落ちれば残暑は身をひそめ、急に秋の冷たさが忍び込んでくる。
黄昏の気配を帯び始めた空気の中、彼と、自分と、それ以外のものが遠ざかっていくのを遊戯は感じた。
「バクラくん、なんだろ? もう一人の……」
戸数にして四つ分。
その距離を渡る、遊戯の緊張した声。
応じるように、彼は振り向いた。
眇めた青い瞳と、酷薄を浮かべる薄い唇に、笑み――
「ッ……!」
息を飲んだ遊戯の斜め上で、急に灯りがついた。
自動で点灯するのだろう、ジジ、と、電気が走る音と共に、戸と戸の間に備え付けられた灯りが順番にともってゆく。
一層オレンジに、そして明るく変わった世界で、彼は口を開いた。
「遊戯くん」
その声は、獏良了のものだった。