【同人再録】ラプンツェルは蜜髪を垂らす-3

嘘と秘密と嘘

 

 対峙した獏良の表情は、全てを悟ったかのようだった。
 息を切らして駆けた美術館の廊下が急に奈落へ変わった時こそ声を荒げたものの、そこに――底に、黒いコートの裾を引きずったバクラが立っていると知った瞬間に、顔色は変わった。
 驚きと、悲しみと、それから、寂寥に。
 夕日を透かしたオレンジの髪を思い出させる変化だった。
 それも、見納め。
 一歩分の距離を置いて、バクラはすう、と息を吐いた。
「その面じゃあ、もう全部分かってます、ってとこだな」
 バクラが軽く肩を竦めて見せると、獏良は力なく首を振った。
「全部じゃないよ、一つだけ」
 青い瞳に、睫毛の影がかかる。
「ああ、終わりなんだな、ってことだけ」
「それだけ分かってりゃあ、全部と同じだぜ」
 決して歩み寄らず、バクラは答えた。
「ままごとはおしまいだ。悪くなかったぜ、宿主サマ」
 そう――もう、最後だった。
 全てが終わり、始まる日。
 舞台は盤石、計画は完璧。これから幕が上がるゲームに、獏良了の居場所はない。そしてこれから先の未来にも永劫、バクラの隣に彼の席は用意されていない。
 この日の為の駒であり、この日の為の日々だった。
 悪くない日々だった――と、告げたバクラに、獏良はあいまいな表情を見せた。
「うそばっかり」
 はかなげな笑みが、白い髪によく似合う。
 場違いに、不意に、思ってしまうのはその感触。白く豊かでもろくて柔い、バクラの中のヒトの部分を揺り動かす、その白い髪の味すら、覚えている。
 強烈な官能と支配欲を見たし、夜に穢れて朝に輝く。幾度汚しても汚れない、愛しくて憎いこの髪に、この先触れることはもう、ない。
 惜しくない、と言えば、それこそ嘘になった。
 思えば嘘ばかり与えてきた。優秀な操り人形を作り上げるために、獏良の心を食い荒らし、都合の良いものだけを植え付けた。それで獏良了という人間がどのように歪み、壊れ、一人で立ってすらいられない欠陥品に落ちぶれるか、理解した上で行なった。結果は予想通り、目の前に立つ少年は今にも掻き消そうなほど危うい。
 嘘に甘い砂糖をまぶして、麻薬の飴を舐めさせて。
 恨み言ひとつ言わない獏良の仕上がりはまさに上々。
 だからこれは、そんな綺麗な人形への最後のご褒美だ。
 挨拶くらいの時間は、残しておいた。
「言い残したことがないか考えてみな。鬱陶しい繰り言以外なら聞いてやらなくもないぜ」
 決して歩み寄らない、あちらとこちらの間の境界線。手を伸ばせば届く距離だが、あまりにも、遠い。
 獏良は物言いたげに、大きく口を開いたが――く、と噤むと、少しだけ、と答えた。
「どうぞ、ご自由に」
「……全部、嘘だった?」
「全部ってな、どこからどこまでだよ」
 視線は交わらない。獏良の青い瞳は、バクラの爪先を見つめている。
「全部は、ぜんぶだよ。
 何よりボクのことが大切だって言ったこと。嫌いなところなんかないってこと。いい子だって褒めたこと。ボクのこと欲しいっていったこと。やらしいことしたいって求めてきたこと。
 それと……ボクの髪が、好きだって、言ったこと」
 さあ、と。
 風もないのに、獏良の髪が揺れた。
 春の夜の、散り際の桜のようだった。
 頼りなく、そして、綺麗だった。
「答えてよ、バクラ」
 不覚にも――言葉を、失う。
 今にも消えそうな魂の色、青い瞳はこちらを見ていない。幸いだった。見せたくない。今の自分の表情は、きっと誰にも知られてはならないものだ。
 獏良が挙げた問いかけは、言うとおり、殆どが嘘の塊だった。
 たった一つを除いては。
 嘘まみれの中で、一つだけ。
 あの髪にだけ、嘘はつけなかった。
 矛盾した快楽を満たせること、ただそれだけだったなら、即物的な欲の掃出し口として道具扱いもできた。実際、途中まではそうだったのだ。
 惜しいとまで思ってしまうのは、ただの欲の対象だからではなくなってしまったから。
 バクラも自覚していた。気づいていた。
 獏良との生活で芽吹いたヒトらしさが、あの髪に触れる度に育っていったことを。
 復讐と、野望と、目的と。一つに繋がっているその塊とは全く別の場所で、個が生まれた。それは三千年という年月をかけて膨れ上がった闇の化身ではない、一番初めの愚かな盗賊でもない、全く新しいバクラだった。
 獏良了の為の、『バクラ』だった。
 ままごとを続ければ続けるほど、それは形を大きくした。水をやった芽が花へと化けるまで、それはあっという間だった。
 その『バクラ』は、獏良の髪に倒錯した欲望と違う、もっと単純な感情を持っていた。打算も計算も性欲もない、ただあるがままに、好ましい、という、ただ一つの感情だ。
 ヒトが美しいものを見て、感嘆の溜息を吐くように。
 守りたい、汚したくない、大事にしたい、と、思うように。
 たったそれだけの、まっとうな想いが確かにあった。手入れをされて艶を増す髪を、いじらしいと思った。そうして健気に尽くす獏良をも、いとおしいと――思って、いた。
 脆く、弱く、綺麗で染まりやすい。
 白い髪は獏良そのものだった。
 だからきっと、恋だったのだろう。
 髪への恋慕は、イコールで獏良へと繋がっていた。性別や、関係や、立場や、そういったごちゃごちゃしたものに全て目を瞑った、純粋な思い。
 只の『バクラ』は獏良了を、確かに恋しいと思っていた。
「答えられないんだね」
 沈黙してしまったバクラに、獏良は諦めたかのような表情を浮かべた。
 沈黙は何よりも雄弁な肯定である。そう教えたのはバクラだ。細めて見つめた視線の先で、獏良は唇をかみしめている。
 悔しそうに、悲しそうに。
「最後のだけはね、……本当だって、思ってた」
「やど、」
「あんなに気持ちよさそうだったのも嘘だって、お前、すごいね。演技うますぎ」
 今にも砕けそうな笑みを浮かべた獏良。
 腹の内側で、『バクラ』が暴れているのをバクラは感じた。抱きしめたいと思っている。切り捨てたくないと願っている。連れて行きたい、手放したくない。数えるのも億劫なほど生きてきた長い時間の中、後にも先にも、こんなにも欲しいと願う相手は見つからない。
 引かれた境界線を越えて、手を掴んで。
 そう、できたら。
 そう、してしまったら――どうなる?
(どうにもならねえよ、クソが)
 なんだってこんなにも、厄介なことになってしまったのだろう。
 良く出来た人形への最後のご褒美のはずが、足元が揺れる。おぼつかなくなる。こんなところで障害にぶつかるとは、予想だにしなかったトラブルだった。
「でもね、いいんだ。ボクだってバクラに秘密、あったしね」
「秘密?」
「そう、秘密」
 笑顔を浮かべても唇は震えたままだ。
 泣きたがっている。泣き喚いて癇癪を起したがっている。耐えているのは、爆発させればもうそこで、このささやかな問答に幕が下りてしまうからだろう。獏良の中では、面倒なことをすればバクラはすぐに自分を捨てる。そういう風に、なっているのだ。
「何を隠してやがったんだ? 最後に教えてくれよ」
 話を逸らしたいバクラは、これ幸いと話を繋げた。獏良はくだらないことだよ、と目を閉じる。
「お前の演技に騙されたって話。お前がさ、ボクの髪触って、やらしい意味で気持ち良くなってるの、見てさ。……ボクもそうなってた。嬉しかったから」
 そうして獏良は、ぽつぽつと続けた。
 バクラの倒錯した快感と同じように、触れられることで恐ろしいほどの快感を得ていたこと。髪を整えることすら何だか恥ずかしくなってしまっていたのに、やめようとは思わなかった。いつだったか顔に精液をかけられてしまった時、髪にもかかって、それで絶頂してしまうくらいだったと。
「お前が変態で、ああボクもそうだーって思ってた。結局、ボクだけだったんだけどね」
「……へえ」
 倒錯した快感は隠していたつもりだったが、どうやらすっかりばれていたらしい。察せられてしまった不愉快さと己の甘さに腹が立ち、バクラは短い言葉だけを返した。
 内心に気が付かない獏良は、言葉まで震えないよう抑えた声で続けていく。
「我慢するの大変だったんだよ。言っちゃいそうで。でも絶対駄目だって頑張ったんだ」
「何で駄目なんだよ。そう言ってりゃあ、髪弄りまくってもらえたかもしれねえだろ」
「それじゃ駄目だよ。何て言うのかな……ボクの為にじゃなくて、バクラがバクラの為にしてるから、気持ちよかったんだと思う。それにお前に知られたらいいように利用されるに決まってるじゃないか。墓穴掘るだけだよ」
 その言葉に、バクラの中で『バクラ』が奥歯を噛みしめたのが分かった。
 獏良の言うようなことは起きただろうか――利用、しただろうか。
 少なくとも『バクラ』は、喜んだことだろう。もしかしたら、その暴露をきっかけに、二人は今とは全く違う関係になっていたかもしれない。
 机上の空論、だけれど。
 もう遅い――の、だけれど。
「話はもう、おしまい、かな?」
 黙りがちになったバクラへ、獏良は小声で問いかけた。
 バクラもまた無言で肯定する。これ以上、ここにいると頭がおかしくなりそうだ。揺らぐはずなどない自分自身、その足元がぐらついて落ち着かない。
 結局全て切り捨てるのだ。獏良も『バクラ』も。
 その為のナイフを、隠した手にしっかりと握っている。
「最後の最後にお願い、聞いてくれる?」
「ンだよ、相変わらず図々しいな、てめえは」
「何とでも言って。難しいことじゃないし、時間もかからないからさ」
 と、言いながら。
 獏良は制服のポケットから、銀色の鋏を取り出した。
「切ってくれないかな、ボクの髪」
「はァ?」
 間抜けな声が出てしまった。バクラは怪訝な視線を、獏良の泣き出しそうな瞳と鋏に向けて前後させる。
 何の変哲もない鋏だった。自室のペン立てに立てかけてある文房具だ。美容師が腰に下げている多種類のそれでは、決してない。
「何でそんなもん持ってんだよ」
「結構前からずっと持ってた。自分で切ろうと思ってたから」
 でも出来なかった、と、獏良は言う。
「この髪切ったら、バクラは怒るだろうなって。怒ったら嘘じゃないって分かるじゃないか。だから。
 ……でも、怒ってくれなかったらって思ったら怖くて、結局出来なかった」
「オレ様が切らなきゃなんねえ理由はどこにある?」
「バクラの為の髪だから、捨てるのもバクラの役目だよ」
「意味わかんねえ。てめえでやれ」
「お願いだから。……そしたら、おしまいに出来る」
 何を、とは、問わなかった。
 問わなくても分かっていた。
 バクラが獏良を、『バクラ』を、切り捨てるように、獏良もまた、捨てたいのだ。
 今までの生活が全て嘘だったと。
 騙されていたという証拠を以て、全て捨てたい。
 期待など欠片もしたくない、と、物言いたげな唇は訴えていた。
「そんな事しなくても、てめえの未来なんざ何もねえよ」
「どういう意味?」
「言ったとおりの意味さ。だからそのお願いとやらも聞く必要がねえ」
「適当なこと言って、実はやりたくないだけなんじゃないの?」
 こればかりは嘘ではない。バクラの計画が全て上手くいけば獏良了の未来はゾーク・ネクロファデスの支配する混沌の世界へと繋がる。恋だの依存だの執着だの、そんなものに取り縋るような生温い環境などどこにもなくなる。
「どう疑おうと結構だがな、とにかく意味がねえんだ。オレ様は無駄なことをするほどお人よしでも暇でもねえんだよ」
「……駄目かな」
 獏良は食い下がる。獏良は鋏を差し出す手はだんだんと下って、諦めの秤となって心境を映した。
 最後なのに、意地悪。獏良がそう悲しそうに呟く。
 ちくり、と、胸が痛んだ。
 『バクラ』の部分だろうか。そうだ最後、さいごなのだ、と、繰り返してしまう。思いたくもないのに思ってしまう。
 あとわずかな時間で、幕が開く最後のゲーム。
 始まればもう二度と、獏良と会うことはない。
(だから何だ、名残惜しいとでも?)
 それとも、置き土産の最後の優しさか。
 鬱陶しくわめくヒトらしさが煩わしい。思考が絡まる。どうすべきかは分かっても、どうしたいのか、が、分からなくなる。
 弔い、が。
 獏良の為の『バクラ』への弔いが、必要だった。
 今まさに切り捨てる前の、まるでそれは花だった。ひとつの枝に咲いた複数の花は、たったひとつを大きく育てる為に摘花される。三千年を超える邪望の前ではヒトらしさなど無力だ。
 花の名は恋慕。まだ開ききっていない、盛りを迎えていない花。
 なればせめて、最後の時間を。
 それをピリオドに、バクラの中から消えるのなら。
(ああ、クソ)
 もう、どうとでもなれ。
「帰ったらやってやる」
 苛立ちのままに、バクラは言葉を吐き捨てた。どの自分がそうさせたのか不明な、それゆえに適当な言葉だった。
 結局は、そう、嘘だ。
 ばればれの、稚拙な――バクラが吐くにはあまりにも幼稚すぎる、下手糞な嘘だった。
「今、なんて?」
 獏良は聞こえなかったのか、鋏を握りしめたまま首を傾げる。
「うるせえな。全部終わったらてめえんとこに帰ってやるから、そん時に髪でも何でも好きなだけ切ってやるよ。それでいいだろ」
 顔も見ずに投げつけた了解に、獏良は戸惑っているようだった。当然だ、バクラ自身も理解の範疇を越えている。
 獏良の目がまん丸く開かれ、数秒の沈黙。
 そうしてすう、と、鋏は下向きになり――
「……あはは」
 暖かく濡れた、笑い声がぽつり、落ちた。
 彼岸と此岸。彼方と此方を分ける一歩分の距離を、獏良の細い腕が越える。
 伸びてくる獏良の手に、バクラは抗わなかった。
 幾度も触れたが触れられたことは少ない。さらり、と、肩にかかる髪を撫でられて――それは、存外に悪くない心地よさだった。
「笑える嘘、だね」
 とん、と。
 越えられなかったはずの境界を、お互いの半歩で、越える。
 今二人は、境界線の上に立っていた。
「嘘じゃねえ」
「嘘じゃないっていう、うそ。お前にしてはへたっぴだ」
 ぎこちない抱擁は、やり方を共に知らないから。
 愛し方を知らない。慈しみ方を、恋情を伝える方法をバクラは知らない。知っていても忘れてしまった。
「へたっぴだけど――ああもう、悔しいな」
 こんなに喜んじゃう自分が、ばかみたい。
 肩が細かく震えている。しゃくりあげるのを我慢して、バクラのコートの胸に顔を押し付ける。じわり、ぬるい涙が染みた。その温度が肌にまで届いて、胸のどこかが不愉快に痛い。閉じた瞼の裏側が熱い。
「初めてだ」
「何がだよ」
「ボクの為の嘘、ついてくれたの」
 思えば全て、あの砂糖菓子の嘘はバクラだけの為のものだった。バクラにとって都合がよくなるように、与え続けた嘘だった。
「お前の嘘はいつだって甘かったけど、今のは美味しかったよ。いつも甘いだけで、不味かったからね」
「そりゃあ悪かったな。こちとら甘味は苦手でな」
「一回もシュークリーム、一緒に食べてくれなかったもんね」
 小さな笑い声は泣き声だった。切なそうに、嬉しそうに、獏良は泣く。
 バクラはただ、髪を撫ぜることしか出来なかった。
 屈服させたい欲望がどこにも見当たらない。汚したいと思えない。
 官能ではなく、もっと純粋な想いでもって。
 砂糖ではなく天然蜜のような、気持ちが悪いほどの優しい嘘を――滴るほど秘めた指先で、バクラは白い髪を梳いた。
「ずるいなあ、今までの全部、捨てたいから切ってって言ったのに。これじゃあ意味ないじゃないか」
「切らなくていいならしねえよ」
「ううん、切って欲しい」
 また、会う為に。
 獏良は肩に額を押し付けて、鼻を啜る。
「嘘でもいいよ、信じる。……帰って来たら、絶対やってね。綺麗に切って」
 それは、叶うことのない夢だ。
 獏良は愚かだが、そこまでわからないほど莫迦ではない。バクラは何も言わず、ただ頭をくしゃりと掻き回した。言葉で返すよりもよほど伝わるはずだ。
 撫ぜた髪はやはり、どこまでも脆く、柔らかい。
「待ってるから」
 告げる獏良の目を、バクラの掌が塞ぐ。
 その覆った手に、獏良の手が触れた。髪と同じ、男とは思えない綺麗なきれいな指先だった。
 嘘。うそ。ウソ。
 偽りだらけの生活で、一つだけ、真実は枯れなかった。
 掌から溢れて頬を伝う涙が、震える唇を濡らす。みっともなくわなないて、今にもしゃくりあげそうな己が宿主を、バクラはそっと、切り離した。
 水面に沈めるように。
 摘花された花が、ぽとりと、落ちる。
「大好きだよ、うそつきバクラ」
 最後の最後に、泣き笑い。
 とぷん、と、音を立てて、獏良了の意識は心の部屋の奥へと沈んで行った。
 言葉なく、バクラは顔を上げる。
 心の部屋ではない。ここは美術館。現実の世界。
「――さあて」
 弔いは、終わった。
 開いた瞳の色は青ではく、復讐の金色か紫か――最早、この身に恋慕と寂寥はない。
 あるのは闇、ただひとつ。
「ゲームが、始まるぜ――」
 無数に散らばるヒトらしさ、その花を踏み付けて、バクラの爪先は終わりの始まりへと向けられていた。