【同人再録】ラプンツェルは蜜髪を垂らす-5

白絹問答・再

 

　幾度かの冬を越えた。
　正確に数えたわけではないけれど、それなりの時間が経過したものだ――と、髪を括りながら獏良は思った。
　カレンダーを見るよりも、己の頭で測った方が早い。年月が経てば経つほど頭皮を引っ張る力は強くなるし、それだけ重みも感じられる。
　背中を流れる白絹の長さは、ついに腰骨を越えた。
　最近は椅子に座る時、きちんと払っておかないと尻に敷いてしまう。だらしなく流しておくのも鬱陶しいので何かといじくりまわしていたら、結ったり編んだりするのもうまくなってしまった。町を歩くとその長さに奇異の目を向けられたりするのだけれど、もともとの顔立ちも相まって、奇抜なウィッグによるファッションと受け取られているらしい。男前に生んでくれた両親に感謝、である。
「実際面倒くさいことばっかりなんだけど、ね」
　ソファの上で三つ編みを作りながら、獏良は独り言を言う。
　伸ばしたままの、長い髪。
　あの日、バクラから貰ったたった一つの優しい嘘を糧に、獏良は今も生きている。彼はこの先未来など何もないと言われたけれど実際にそんなことはなく、世界は平和だ。少なくとも、獏良の周りにトラブルはない。
　遊戯とバクラ。戦った二人のこと。
　顛末を聞かされたのは、全てが終わった後だった。ジオラマテーブルの上に突っ伏して倒れていた獏良を介抱した友人たちは、今まで黙っていてすまなかったと言った。彼らにとって獏良は巻き込まれた被害者で、それ以上でも以下でもなかった。
　悔しい――けれど、それでもいい、と獏良は思った。
　それよりも守りたいものがあったから、ただ微笑を浮かべて、助けてくれてありがとう、とだけ告げた。
　大切な友人は、大切な人を獏良から奪った。
　そこに憎しみはない。
　ただ、忘れることは、できそうにもないけれど。
　本当の意味での仲間にはなれなかったが、彼らは今でも獏良を友人の輪に入れてくれるし、一緒に過ごせば楽しい。友を作ることが難しかった獏良にとって、一生ものの交友関係だと思う。
　そんな彼らにも、この髪を伸ばし続ける理由は語らなかった。いわばひとつの意趣返し、ささやかで可愛らしい仕返しだ。
『獏良ぁ、お前いい加減その髪切れよ、スゲー長ぇぞ？』
　城之内が会う毎に軽く引っ張ってきても、首を振った。
『何かのおまじない？　それにしても綺麗よねー』
　杏子が首を傾げても、笑ってごまかすだけ。
『何だっけ、童話もあったよね、タイトル忘れちゃったけど』
　遊戯が悩んだ時には、ラプンツェルじゃないかな、と答えた。
　そのうち追及されることもなくなって、今に至る。
　不思議がった友人たちのうち、的を射た言葉を投げかけたのは遊戯だけだ。
　ラプンツェル――髪長姫。
　王子様との逢瀬に髪をロープに使った、あのエピソードと自分たちに、重なる部分は少なからず、ある。
「姫が髪を切っちゃったら、王子様にはもう二度と会えないもんね」
　まあボクは姫ではないし、あいつも王子って柄じゃないけど。
「ポジション的には魔女だよね。髪結い、は、出てこなかったっけ」
　ゆるく甘く、編み終えた三つ編みを適当に背中に払って、獏良はごろんと横になった。
　帰って来たら、切ってくれる。
　その為に、あれから一度も鋏を通していない。
　手入れは欠かさなかった。以前よりももっと手間をかけて梳る白い髪はそれはもう見事な長髪へと成長した。寝る時に枕替わり、どころかちょっとした上等な毛布のようでもある。寒い時は束ねて頬を預けて寝る。いい匂いがして、気持ちがいい。
　それもこれもバクラの為。
　嘘、だと、分かっているけれど。
　いつか帰ってくるんだと、信じている。
　愚かで悲しい、縋りついた願いではない。その日が来るのを穏やかに待っているだけだ。そして、彼が戻って来るのは、どんな朝なのか、どんな時間なのか、もう確信じみて知っている。
「たとえば今日、みたいな――ね」
　うつらうつら。
　獏良はソファに寝そべり、長い睫毛を少し、伏せた。
　適度に眩しくて暖かい、静かな昼さがりだ。両手で持ったマグカップは落とさないように腹の上に。爪先はソファのひじ掛けでゆったり伸ばして、そんな気持ちの良い午後。
　レースのカーテンが、開けたままの窓から吹く風に揺れている。きらきら光る埃。今朝水をたっぷり撒いたので、元気のいい観葉植物の緑色が見える。
　ティースプーン一杯分の甘さを含む、柔らかな空間。
　ゆっくりと目を閉じる。
　この日をずっと前から、知っていた。
　あれは過去で、未来で、今、だった。
　だって――ほら、

 

「随分長くなっちまってんなァ、おい」

 

　――この声を、ずっと、待っていた。

 

「……大変だったよ、重たいし、枝毛とかできるし」
　軽口を、なんとか返せた。
　瞳は、閉じたままだ。
　目を開いたなら、消えてしまうような気がして。夢になってしまう気がして、まだ怖かった。
　ぱたん、きぃ、と、リビングの扉が開いて閉じる音がして、ひたひたと足音が近づいてくる。確かな気配と重みを持って、そこに――ソファのすぐ横に、立っている、ヒト。
「バクラ」
「何だよ」
　声は変わっていなかった。
　微かに砂の匂いがする。心の部屋で感じたことのある、彼の匂いだ。
「遅いよ」
　最初の挨拶は文句、から。
　そう決めていた。思った通りの思った声で言うことが出来た。バクラは特に悪びれた風もなく、そいつは悪うございましたと適当な言葉を返してくる。
「お怒りかよ、宿主サマ」
「お怒りだったけど、許してあげるよ。お願い聞いてくれたらね」
　マグカップを持ち上げたら、察したバクラが持って行ってくれたらしい。ことんと音がしたので、テーブルにでも置かれたのだろう。
「お願いなんざ、言われなくても分かってるぜ」
　切ってくれって言うんだろう。と、バクラは言った。
「鋏寄越しな。嘘じゃなくしてやるからよ」
「せっかちだなぁ、ちょっと待ってよ」
「何の為に帰ってきたと思ってんだ。おら、起きろ」
　くい、と引っ張られたのは、ソファの座面から零れた長い三つ編みだった。
　ああ、本当にラプンツェルみたいだ。何だかおかしくて笑ってしまって、そうしてうっかり、獏良は目を開いた。
　そこには――ちゃんと、いた。
　忘れるわけがない。鋭い瞳と薄い唇、いつも不機嫌そうな眉間。同じ顔かたちをした、全く違う表情の彼。
　違っていたのは、髪がないこと。
　伸ばし続けた獏良と比べるまでもないのはともかくとして、その長さは肩口に届かないくらいに短い。
　それでも確かに、バクラだった。
　ラプンツェルの髪を引く、王子だった。
「……塔にしては、ソファじゃ高さが足りないけどね」
「はァ？」
「ううん、こっちの話。
　髪――切ったんだ」
「てめえと違って伸ばす理由がねえからな」
　問うべきことは他にもあった。どうやって戻ってきたのか、何故帰ってこられたのか。肉体があるのは、触れられるのは、いったいどんな奇跡の力が、彼をここに連れ戻してくれたのか。
　きっとバクラにだって分からないだろう。
　分からないなら、知らなくていい。
　不安になるだけだ。だったら真実だけあればいい。バクラがここにいること、それだけでいい。
　獏良はソファから身を起こし、立ったままのバクラに、そっと鋏を差し出した。
　あの日からずっと持っていた。玩具のような文具鋏だけれど、これは約束の証だ。
　嘘を本当にする、たったひとつの魔法の鋏。
　獏良はバクラを見た。もう透けたりしない、ここに在るたしかな形を、涙でぼやかさないようにするのが難しい。
　バクラは眉間の皺を深くし、居心地悪そうにそっぽを向いた。
「泣くんじゃねえよ、みっともねえ」
　そうしてぐしゃぐしゃぐしゃ、と、頭を掻きまわしてくる。
　夢じゃ――なかった。
　鋏を受け取るバクラの指先は、記憶より少しだけ、暖かかった。

 

 

 

 

　さく、さく、さく。

　器用なはずの指先が、ぎこちなく髪を梳いて切る。
　鏡はなく、散髪用のシートもない。日当たりのいいベランダにダイニングチェアを持ち込んで、セーターだけ脱いだ獏良は空を見ながら散髪を受けた。
「ねえ」
　と、問いかけると、
「何だよ」
　と、バクラが律儀に応じ返してくる。
　そんな些細なことが嬉しい。触れる指先が心地よい。官能ではなくただ嬉しく清らかな、色があったら薄い桜色を帯びた歓喜が胸を満たす。
　幸せとはこういう気持ちを指すのだろう。今辞書で幸福の項目を調べたら、獏良の名前がそこに書かれているに違いない。
「お前さ、興奮したりとかしないの？」
「は？　しねえよバカ」
「だって髪にやらしいことしたじゃないか。触ってて大丈夫？　あ、ああれは演技だったんだっけ」
「触ってるだけなら何もなんねえ。ヤってる時は別だ」
「……演技じゃなかったの？」
「生憎ガチだ。こっちにもいろいろあるんだよ」
「うわ、本物の変態だ……」
　こんな軽口すら愛しいだなんて、誰が予想できただろう。会話は下品だけれど、内容はどうでもいい。

　さく、さく、さく、

「どれくらいかかりそう？」
「……さあな」

　さく、さく、さく、

「切るの、嫌じゃない？」
「……うるせえ」

　さく、さく、さく、

「切っちゃった髪、捨てていい？　とっとく？」
「もう黙れ」

　怒られてしまった。
　獏良はついと唇を尖らせたが、質問は後でもできる。それよりこの幸せを堪能しよう。
　演技ではなかった、という喜びが、じわじわと後から染みてくる。
　バクラが何故、この髪に特別な執着を向けていたのか。その理由は未だ不明だ。思い返せば、あの熱烈な視線と触れ方には、はいやらしい意味だけでなくもっと深い何かがあったように思える。
　触れることが禁忌であるような。
　憎らしいまでの神聖視、というのは言い過ぎだろうけれど、それに近い何かがあった。
　そんな特別な髪に鋏を入れるのは、どんな心持がするものなのだろう。嫌ではないのか。それともスッキリするのか。両方だろうか。疑問は尽きない。これも幸せな考察だった。
（もう一度会うために、ってだけ、だったんだけれど）
　音は止まない。随分丁寧に、バクラは髪を切っているようだ。
（ちょっと違うな。意味が、増えた）
　長く長く伸ばした髪を切ってもらう。長さのリクエストはしなかったが、きっとバクラは分かっている。
　元の通りの長さに、してほしい。
　バクラが異常な欲を向けた、いとおしんで憎んだ、あの時の長さに戻してほしい。
　そうすることで何もかもを、思い出に出来る気がした。
　最後の日、獏良は過去との決別を望んで髪を切ってくれと願った。今は決別ではなく、穏やかな過去に変える為に切って欲しいと望んでいる。
　辛いことだらけだった。嘘だらけだった。
　けれど、捨てたいとは――思わない。
　思い出として、持ってゆきたい。バクラと一緒に、胸に抱いて生きていきたい。
　日々を歪ませたのがバクラなら、変化を与えることができるのもまた、バクラだけ。
　その為に、この髪は伸びたのだ。
　そんな風に考えながら、獏良はうっとりと、髪を梳く指先に目を閉じた。
「きもちいい」
「黙れっつってんだろ、刺すぞ」
　降ってくる声が少し狼狽している。あ、興奮させてしまったかもしれない。獏良はくくくと笑って、謝罪の代わりに手を振った。
　閉じた瞼を陽光が透かして、世界は綺麗に真っ白だ。
　再び瞳を開く時、きっと、いろいろなものが動き出す。
　倒れていた砂時計が元に戻るような、そんな感覚だった。昔と同じようで違う、一歩進んだ新しい自分と、バクラがそこにいる。それに成る。
（そうしたら、新しいボクはお前に問いかけるんだ）
　質問は、とっくの昔に決まっていた。

 

　さく。

 

　鋏の音が、止まった。
　バクラの手が、首や背中に散った髪を払う。仕上げにぽん、と頭を叩かれて――獏良は目を、開いた。
　頭が軽い。心が軽い。まるで髪に花でも咲いたみたいだ。
　振り向くと、まんざらでもなさそうな表情で、バクラは仕上がった髪を見ていた。手を伸ばして、肩にかかる柔らかなひと房を、しゃり。指の先で味わって見せる。
「悪くねえ、な」
　初めて笑った顔を見た。
　悪どくもない、嘘もない、緩んだような笑み。
　もう堪らなくなって、獏良はバクラに飛びつく。白い髪がきらきら光って、春の風に吹かれていった。
　用意していた質問を問うのは、いま。
「ね、教えてよ」
　いつかした問いかけを、今度はちゃんと、はっきり教えて。

 

 

 

「――バクラはさ、ボクのどこが好きなの？」