【同人再録】HOLE-1


発行: 2010/12/30
「ある日、宿主サマの心の部屋に、ぽっかりと大きな穴が開いていた」という本。
甘くも苦くもなく、わりかしいちゃついてますが薄暗いグレーゾーンな内容。中編程度の長さです。

・小説:書き下ろし
・表紙:696


0.

 

 籠城。
 逃避。
 拒絶。
 表わすのはそんなところだろう。
 裏側をひっくり返すと、願望。
 姿を消した主の、思うところがそのまま形になった、ここは心の部屋。
 探して、構って、ボクを見つけて――だから穴が空いている。ほんとうに誰にも見つかりたくないなら、このように目立つ入口を隠さずに置かない。ぴっちりと、冬の窓のように閉めて鍵をかけておくはず。いなくなったことすら誰にも分からないようにするものだ。そうして誰にも邪魔されない場所でひっそりと一人になりたがるなら、それは真実、孤独を望んでいるということ。
 なのにこんなに大きな穴が開いていたら、全く無意味だ。誰かに見つかってしまう。
 隠しておきたい、隠したくない。
 知ってほしい。知ってほしくない。
 水面に映る鏡面作用は呼吸の度に揺れて、あちらとこちらをひっくり返す。
 きっと分からなくなってしまったのだろう。どちらを望んでいるのか。
 だからこんな、心の部屋に直径七〇センチの穴をあけて、そのくせ姿を見せないなんて状況が出来上がってしまった。
 探してくれと穴は云い、見つけないでと暗闇が云う。
 その穴の縁に立つバクラの表情がどんなものなのか、彼は考えただろうか。
 腕を組み、穴を見下ろす、その瞳の色を。
「今度は何始めやがった?」
 裸足の爪先で縁をこんこんと突き、バクラは云った。
 がらんとした穴は答えない。反響もしないその声は唇から放たれてもすぐに失速し、穴の中に落ちていく。落下の最中にみるみる小さくなり、音も立てずに消えてしまう。
 それではきっと、聞こえない。
 穴の奥にいる獏良に、聞こえない。
 否、その向こうに獏良が居るのかいないのか、ほんとうのところはバクラにも分からなかった。
 この暗闇は獏良の心の部屋なのだから、天地左右から獏良の匂いがする。甘いような苦いような、正反対のものを掛けあわせて相殺し合い、最後には何も残らない無臭。それが獏良の匂いだ。その匂いが気配とよく似て、バクラの嗅覚を鈍らせる。
「出てこいよ。なァにひきこもってやがんだ」
 それでも長年の付き合いから、バクラは獏良がこの穴の中にいると確信してやまない。
 腕を組みかえ、穴を見下ろしてくつりと笑う。
(さて、何があったんだか)
 自堕落で苦しみのない空想の中に生きたい獏良に、現実の世界は少しばかり住みづらい。本人は自覚していないようだが、同年代の者たちと獏良の間にはなにがしかの、些細ながらも確実なずれが生じていた。
 ずれは摩擦を起こす。誰にも気づかれないほど小さな音を立てて、擦れ合って不穏な粉をまき散らす。そいつは獏良の躁と鬱の波の狭間で研ぎ粉になり、ときたま、彼の心を削るのだ。
 その波が今回は大きかったらしい。
 摩擦の粉がきらきらと雲母のように、穴の縁で輝く様子をバクラは思った。爪先で蹴ると微細に輝きながら穴の向こうへ落ちて行く。
 穴の底で膝を抱えた獏良の頭に、その金銀の粉が積もってまるで金冠のようだ。心の部屋の王様。誰だって、自分の心では自分だけが王様だ。
 さて、此度はどんなすれ違いが「オトモダチ」と獏良の間に摩擦を起こしたのか。
 心当たりはなくもない。というか日常、常にある。
 どうせ勝手に自分で自分を追い込んで、相手が何とも思っていないことに無理やり理由をつけて鬱に浸っているのだろう。なのに「オトモダチ」は気づきもしないで笑ったり話しかけたりして来るので余計に獏良は傷ついて、耳を塞ぎたくなってこんなことになっている。今回が初めてのことではない。こんな穴ができあがるのはさすがに一回目のできごとだけれど、獏良が自分で作った妄想に傷つくことはそう少なくない。それらは大抵、一晩経てばあっけらかんと治ってしまう――此度はそう簡単に、もとにもどりそうにない。
 長丁場を感じ取って、バクラは縁に腰かけた。
 ぶらんと爪先が振り子の動きで闇を蹴る。足の裏の先は満天の闇。この穴の向こうに降りてしまえば、獏良を引きずり上げることは容易だ。闇の中であの白い髪はひどく目立つ。探す必要すらないほど分かりやすい旗印である。そいつを掴んで、必要なら頬の一発でも張って、穴の上へ叩き上げればいい。
 と、方法は思いついても手は動かない。
 思いやっているのではない。
 恋ではなく、愛でもない。
 相手を顧みず己の為だけに必要としているのだから、これはそういった正の感情から発生しているものではない。
 問。
 ではバクラにとっての獏良とはいったい何なのか。
 回答。
 それは、限られた時間の中での遊び相手。
いずれ全て駒になる。その時間までの、下らない人間ごっこ遊び。
 そんな戯れをするくらい構わないだろう、とバクラのどこかが云っている。たくさんの他人の負の感情を紬糸にして出来たバクラの、本来の彼の一部だろうか。
 最後に指先を狂わせず切り捨てられるなら、少しくらい楽しんだっていい。一線さえ踏み越えなければ構わない。
 だからバクラは遊んでいるのだ。穴の縁で足をぶらつかせながら、自分の寄生先の人間のわがままな苦悩を眺めて、それを吊り上げるゲームをしている。
 餌は甘い言葉がいいだろうか。
 それとも滴るような官能の滴がよかろうか。
 苦い餌では吊り上げられない。太公望さながら思考しつつ、バクラは瞑目する。
 まずは原因を探るとしよう。そしてそこから効果的な餌を見つけるのだ。
 餌はルアーでなく生餌が望ましい。新鮮な言葉を探して、バクラはここ最近の彼とのやりとりを、まるで夢を思い出すようにゆっくりと再生していった。?

 

1.

 

 ――三日前。

「ねえバクラ、ちょっといい?」
 声が耳でなく脳に直接響く。
 こちらが精神だけの存在となって、半透明の幽霊のようないでたちで空間に浮遊している時には必ずそうなるおきまりのエコーを伴って、それはわんわんとバクラの頭を揺らした。
 興味もなく眺めていたテレビの画面から目をそらし、バクラは声のあるじの居場所を、まるで犬がそうするようにふんふんと鼻を蠢かせて探る。
 部屋ではない。キッチンでもない。どうやら風呂場にいるご様子。
 妙にはしゃいだ声は、裏腹にバクラをげんなりとさせた。こういった口調で呼ばれた時の、後の面倒くさい展開の打率は八割を超える。それでも律儀に向かってやるのは、無視をすると更に面倒かつややこしい事態になると身をもって知っているから。
 それでもなるべく辿り着くのを先送りにしたがる、移動の動きは緩慢に。一人暮らしにしては広すぎる家では五分と掛からず、億劫なバクラはバスルームの扉をすりぬけた。
「遅いよ」
「うるせえ、気安く呼びつけんな」
 軽口を一往復。それから、軽く目を見張る。
「……何やってんだ」
 バクラが訝しげに口を動かすのも無理はない。獏良はからっぽのバスタブに、服を着たまま体育座りをしていたのだ。
 よく見れば身体はずぶ濡れ。長い髪の先からまるい水滴を滴らせ、シャツは身体に張り付き肌の色を透かす。制服のズボンも深い群青色になって重たい皺をつくっていた。本来ならば湯気でくもるバスルームは冷え冷えとして、浴びたのが湯ではなく水だとすぐに分かった。
「へへへー」
 眉を寄せるバクラと対照的に、獏良は得意げに頬を緩ませた。
「名案だと思わない?」
「意味わかんねえ」
「それは後で説明するから、とりあえず部屋につれてってよ」
「部屋だあ?」
 そんな恰好で自室に行ったら、廊下から部屋までの間になめくじが這ったような水の線が出来上がってしまうではないか。ここは獏良の家なのだから水浸しになろうがそこから腐ろうがバクラにとってはどうでもいいのだけれど、何やかんやと強引な理由をつけられて掃除をさせられるのは御免である。こじつけと穏やかなゴリ押しは獏良の得意技だ。
 嫌な顔をするバクラに、獏良は違う違う、と手を振った。
「そっちの部屋じゃなくて、こっちの部屋」
 とんとん、と指で叩くのは、胸の真ん中。リングの下がる心臓のあたり。
「寒いんだよ。早くして」
 お前が連れてってくれないとあそこにいけないんだよ、と獏良が云うのを聞いて、漸くバクラは理解した。心の部屋に連れて行けというのだ。
 獏良は一人で心の部屋に降りるのが苦手らしい。できないこともないようだが、大抵は甘ったれて、手を引いてつれていってくれと強請る。
 さっぱり状況が分からないまま、バクラは逆らうことの無意味を口の中で三回唱えて獏良の手を取った。
 肉体の手ではない。すり抜けて精神を掴むのだ。
 ぐいと身体ごと潜り込んで、しっかり手首をつかんだまま胸の中へ沈む。
 視界が一瞬白く眩み、それから真っ暗になった。
 水の中を沈むような錯覚はそう長く続かない。目を開けば心の部屋、扉の内側に辿り着く。
 ぱたぱた、と音がした。獏良が頭を振ったらしい。
 現実で受けた影響がそのまま精神体にも表れていた。獏良は制服姿で、ぐっしょりと水に濡れている。
 その様子を自分で見下ろし、獏良はくしゃり、と顔をしかめた。
「……失敗した」
 名案じゃなかった。
 と、彼は言う。
「いい方法だと思ったのに」
「いい加減種明かしをしな。何やってんだって聞いてんだ」
 掴んだままだった手を離し、その手で後ろ頭を掻きながらバクラは云った。
 情けない顔の獏良はうん、としおたれて頷き、
「風邪をひこうと思ったんだ」
「ああ?」
「明後日、マラソン大会があるから」
「ああ」
 なるほど、と短い言葉だけで納得したバクラが頷く。
 要するに、明後日のマラソン大会を休む口実を作ろうともくろんでいたわけだ。仮病ではなく実際に風邪を引こうとするところが獏良らしいといえばらしいが、ともかく理由は分かった。
「そんで風呂で水かぶって座ってやがったのか」
「うん」
「で、寒ィから心の部屋に逃げ込もうってか」
「うん」
「ところがコッチに降りてきても身体は濡れたままだった、結局寒いのは変わんねえって情けねえツラしてるわけだな」
「だって身体と心では受ける影響が違うってお前云ってたじゃないか。こっちで腰を痛めても傷をつくっても、身体には影響ないって。だから逆もそうなのかなって」
 もぐもぐと歯切れ悪く獏良は云う。そういえばそんなことを、かつて教えてやった気がする。だが逆もしかりというのは単に獏良の推測であって、お前の所為だと上目使いに睨まれる筋合いはない。
「そりゃあてめえの早合点だろ。オレ様は関係ねえ」
 すっぱりと切り捨てる。獏良は情けない顔を更に情けなくして、ぶる、と身体を震わせた。
「寒いよ」
 見るからに冷たい、白い手が二の腕をさする。
 先程とは違う意味をもった上目使いがバクラを見た。僅か甘えるような伺うような。無意識でやっているからたちが悪い。
「ねえ」
「何だよ」
「あっためて」
 青ざめそうな唇がそう強請った。ぱた、と、もう一滴が闇の上に落ちる。
 濡れた髪に頬を縁取らせた獏良の顔は、妙になまめかしく見えた。顔立ちが女性的な分余計になよやかに際立って見える、綺麗な顔。真っ黒な四方に囲まれ、輝いて見える青い瞳が燐光のようだ。
「……随分と色気のねえ誘い文句だな」
 予想通り、面倒くさいことになったとバクラは思う。だが不幸中の幸いとはこのこと、予想していた類の面倒さではなかった。現実世界で訳の分からないおふざけに引き込まれるのではなく、心の部屋でまぐわう方向に伸びるならそう手間のかかる話ではない。
 ぐいと顎を掴み、上向けてやると、獏良は素直にされるがまま。
「どっちにしろしようと思ってたんだから、いいんだ」
「何がいいんだ、だ。てめえの都合じゃねえか」
「じゃあバクラはしたくないの?」
 掴みあげた顎は細く尖っている。その先の唇が柔らかく動くのを、バクラはじっと見ていた。
 したくないかだって?
 こいつはオレ様を性欲の権化とでも勘違いしているのだろうか。と思う。「永遠の宿主サマ」は妙に相性がいいのか結果的に頻繁に手を出したりしてはいるが、それだって、彼が内側に抱えた闇やわだかまりを、交わることで汗や声や感情から、おいしく頂いて腹を満たしているに過ぎない。煽ったり擦ったり舐めたり噛んだり、稀にかわいがってやったり、そんな肉欲は美味なる精を引き出すための手管のひとつだ。
 喰らい尽くしてからっぽになった中身に自分の精という名の闇の種を注ぎ込んで、それがほどよく育ったら再び喰らうだけのこと。
 獏良の腹で負の感情はよく育つ。これだけ暗い心の部屋を作り上げているのだ、余程良い苗床なのだろう。
 バクラがしているのは、いわば自給自足の食生活。
 そして今現在、腹が減っているかというと――まあ、入らなくも、ない。
 応える代わりに唇に噛みついてやった。
「はふ」
 気の抜けた声を上げて、獏良が身を捩る。
 濡れた身体がバクラの乾いた服にぺっとりと張り付く。じわりと染みて常温になるその濡れた感触はやたらと気持ちが悪く、返ってバクラの熱を煽った。不快であるほど、悦い。
「ん、んん」
 頬に刺さるのは冷えた髪の先。
 猫が体温を求めて擦り寄る動きで、獏良がぴったりと肌を寄せてくる。
 いつになく乗り気な宿主サマは、自分で足を開いてバクラの膝に股間を押し付けた。湿って冷えた身体のそこだけがじんわりと熱い。ぐっと押すと、ぴくんと腰が跳ねた。
「ホントのところ、風邪ひきてえってのも口実なんじゃねえの」
 甘やかに擦る微熱をバクラはからかう。手をまわして、揺れる腰の起点、尾骨の辺りを撫ぜればそれこそ猫のような声が上がる。
「どう、かな、そうかも」
「してえならそう云やあいいじゃねえか。たまには宿主サマの本気のオネダリを拝見してみてえもんだ」
「何でそんな気持ち悪いことしなきゃいけないのさ」
「は、そりゃそうだ。男に強請られても楽しかねえな」
 顔立ちは女性的でも獏良の身体は高校生男子のそれで、骨ばって硬い。だが、特に性差を考えて相手を捕食しないバクラの口から出る言葉は、相手の揚げ足を取るだけの意地悪だ。そうだよ気持ち悪いよ。口を尖らせてそう云いながら獏良は腰を押し付けるのを止めない。
 戯れだ。遊んでいるだけ。
 食事と排欲。それ以外の意味など何もない交接。
 それでもきちんと、備わった欲求は育つ。獏良は性感を、バクラは性感に似た空腹を覚えて互いに視線を絡ませる。
「ねえ」
 甘えた声で獏良は云い、柳のようにしなやかな腕をバクラの首に巻き付けた。