【同人再録】ヤドリギの果-3
何日経っただろう。
何時間だろうか、あるいは何分程度のことなのかもしれない。心の部屋に時の流れは無く、刹那を無限に引き延ばした永遠が此処には有った。
辺りは既に真っ暗闇だ。光の気配は最早無く、煮詰めた暗雲がぐろぐろと渦を巻いている。獏良にとっては懐かしい心の風景だった。
仰向けの磔刑。
見上げる星空もない世界で、獏良は幽かな意識そのままの胡乱な視線をどこかへ投げかけていた。
しばらく前から、バクラは獏良の腹の上で、脆弱な呼吸すらせずただ肉の塊と化していた。
凌辱と侵食の最中でバクラは両の腕と足を失い、姿はさながら赤いぼろ布を纏った歪な卵だ。死んでしまったのかと怯えたこともあったけれど、どうやらそうではないらしい。獏良の内側にねじ込まれた触手はもう三本、これらはぬるぬるとした体液――恐らくこれこそが光の因子を犯し潰すウイルスのようなものなのだろう――を流し込み続けているし、時折激しく蠕動する。犯された光は新鮮な闇に代わり、それを吸い上げるのもまた、この触手の役目のようだった。
身体の内側でおぞましい変異が起こっている。体液をまったく違うものに無理やり変えられ、それを啜りあげられているのだ。とっくに麻痺したはずの脳内で偶に救難信号のアラートがなる。こわい。ボクはどうなってしまうのだろう――その恐怖はしかし、長く続かず微睡に似た感覚にゆるりと掻き消され、獏良の瞳が引き攣り見開かれることはなかった。それどころか、内側でぬちぬちと蠢く触手に快楽のポイントを擦られ、垂れ流すように射精してしまうことすらある。みっちりと密着した身体の上で押し潰された乳首がもどかしい。以前のように甘噛みして欲しい、尖らせた舌先でいやらしく舐め上げ、指でいたずらに苛めて欲しい。いっそもう、自分で弄繰り回してもいい。そうしてそれを見て、まったく宿主サマはいやらしいと甘い揶揄をされたい――もはや指先を動かすことすらできない獏良には、かなわないことなのだけれど。
ずぢゅる、と、また触手が腹の内側でこすれて、獏良は反射で濡れた悲鳴を上げる。
もう空になったはずの精がまた、はしたなく漏れた。爪先がぎゅっと跳ね上がり、首の裏までぞくぞく感じる。
そうしてまた、微睡の繰り返し。
稀の発作と不意の射精以外は、穏やかと言ってもいい侵食行為は続いた。闇を育てる木の苗床になった気分だった。
(そ うだ、まるで、木だ)
腹の上の大きな塊は静かに肥大化している。逆に獏良の意識は徐々に薄れて、薄い紗幕の向こうへ沈み込んでゆくかのようだ。
バクラがまだ、この身体を支配して我が物顔に生活していた時。
一緒に過ごした季節の中で見上げた、マンションのエントランス近くに生えていた木を思い出す。あれは何の木だったのだろう。あまり強くなさそうな細い幹に、薬玉のような塊が乗っかっていた。まず同じ植物には見えなかったのだけれど、つんとしらん顔でその木の一部だといわんばかりにそこに居るのが、隣のバクラを思い出させて少し笑えた。
秋ごろだったろうか、あの薬玉は実を付けていた。
熟れたらどんな色だったのだろう。見ることはもう出来なさそうだけれど。
(実、を、バクラも)
つけるように。
むしろ今のバクラこそ木であり実だった。静かにしずかに、赤い外套の内側で蠢きながら育っている。
だとしたら獏良は花だ。
役目を終えて、萎れ往く花。
育った実のふちにぶら下がり、乾いて、風に頼りなく揺れる。
実が育ちきった時、ぽとりと地面に落ちて終わり。
きっと、そうなるのだろう。
その時が楽しみだ。
「ね、育ったら、お前はもういっかい、ボクのすがたになってくれる?」
見慣れた姿を、見たかった。
折れそうな首を白い髪が覆い、それをうっとうしそうに払う手の仕草。剣呑に細めた瞳の奥は真意の読めない闇を纏わせ、唇の笑みは嘘を塗って甘く。 細い指で獏良の髪を梳いた。あの感触を、出来るならもう一度味わいたかった。
それに、できることなら接吻けも。
帰って来たバクラとまともに唇を合わせたことがなかった。薄く触れたことはあったけれど、口の中に舌のような触手をねじ込まれたことはあったけれど、交わす目的の接触はない。
考えてみれば、望みはいくつもあった。自愛という闇を取り戻した獏良は我ながらしっくりくる我儘さで思いつく限りを、うわごとのように口にした。聞こえているのかいないのか、蛹のバクラの白髪はぱさりとも揺れない。
願いはまだある。それから、い
ぱき ん
不意に――くらり。と。
天地がわからなくなった。
何かに罅が入る音だった。
その正体を獏良は知っている。
吐き気を催す浮遊感。同時にどこまでも落ちてゆくような無限の落下。
矛盾の不快感の中で、獏良は開いているだけだった瞳に意味を持たせて瞬いた。
この音が何なのか、わかる。
(――これは、ボクが枯れる音だ)
そして、バクラが実ったあかし。
獏良の全てを吸い取って、バクラが生まれる時の音。
ぱき ぱき
ぱきぱきぱきぱきぱきぱきぱきぱきめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめりめり
まるで自分自身をこじ開けられているかのような音が、心の部屋中に響いた。
この世のものとは思えない。なんておぞましくて、不吉な音色だろう。
そうして、なんて美しいのだろう――
「あ、ぁ、ああああ、ァ」
開いた口から勝手に、嗚咽とも嬌声とも取れる声が漏れた。開いた口からまっすぐに、天に向かって伸びる悲鳴だった。
悲鳴を絡ませ、育ちきったバクラの果実から、ぞるり、と白い手が生えてきた。体液の闇を滴らせて濡れた腕は獏良と同じ細く白く、そして、かつて見たあのマンション前の薬玉の枝にもよく似ていた。
(ああ、ボクのねがいもかなう)
腹を裂いて生まれてくるバクラを、獏良はうっとりと見上げていた。
いとおしいとさえ思う。
獏良了という自らの全てを吸い取って、もう一度生まれたバクラが愛しくてたまらなかった。彼が自分の預かり知らぬところで死ななかったことが嬉しかった。光に負けず闇を育てた、その苗床となれたことを喜ばしいと思った。
「ボク、のぜんぶ、で、お前はもう一度、やりなおした、たらい、いいよ」
舌がもつれてうまく喋れない。
そうしてもう一度やりなおす時、獏良は宿主ではないけれど、もう曖昧な関係ではなくなるのだ。バクラの一部であり続けたなら、共犯ですらない。同一だ。
もう逃げられないし、逃がさない。離さない。
あいしていたのだ、ずっと。
依存の実が弾けた中身は、ひどく純粋な愛があった。
「きみがすきだ、ばくら」
掠れた声で獏良は言った。
ずるん。腕は肩に、首につながり、そして遂に、白い裸体に闇を纏わせた、完全な形となって獏良の腹から這い出てきた。
獏良が自ずと思ったように、役目を終えた花は枯れて落ちた。かさかさに乾いた身体を闇に浸した獏良は、ふるえる唇でバクラを呼ぶ。
こっちをむいて。
最期に、その顔をみせて。
ボクがお前になる前に、まだ他人でいるうちに、あの冷えた瞳で見て欲しい。
もう動かせないと思っていたけれど、残った力で獏良は手を伸ばした。指は震え歯はかちかちと打ち鳴り、絶命寸前の小動物のように、今にも命を散らしそうになりながら――それでもなお、バクラを求めて、獏良は呼んだ。
声にならないその声は、貝のようにうつくしい耳に、届いただろうか。
僅か首を傾げるように、バクラは獏良へと、振り向いた。
歓喜に潤む獏良の瞳に、その横顔が映り込む。
瞳という名のまるく小さな鏡に映り込んだ色は――見慣れた青では、なく、
闇色の。
「ぇ……」
瞳に色はなかった。
ただただ一色の、黒。
闇がふたつ、頭蓋に嵌って、獏良を見ていた。
「ばくら……?」
まって。
ねえ、待って待って待ってよ、おかしいよ。
頭の中がばちばち焼き切れる音がする。泥の中でうっとりと微睡んでいた意識が強制的に覚醒させられ急激に回転しはじめる。軋むほど回る歯車の音が響く。
あれは誰だ。あんな瞳は知らない。
バクラの冷たい瞳は幾度も見たけれど、あそこまで冷えた目は――否、温度すらない目は見たことがない。バクラの全てを知っているわけでないことなど自覚しているけれど、それにしたって、あり得ない。
硬直する獏良から、バクラはすぐに視線を逸らした。ふいと向こうを向くと髪の先端から闇が滴る。
彼は獏良に興味などない素振りで、あたりを包む闇を指で撫ぜた。とぷんと指先が埋まり、瞬間、心そのものに潜り込まれた悪寒と快感に獏良はびくんと身体を跳ねあがらせる。
悶える獏良を足元で遊ばせたまま、バクラはもう片手も闇に差し込み、左右にめりめりとこじ開けはじめた。悲鳴が上がる。痛くないけれどつらい。苦しい。甘い、きもちがいい。こわい。
いやだ。
「ま……っ、てよ、ねぇ、ねえ…!」
――ほんとうに、
(生まれたのはバクラなの?)
言葉にするのも恐怖する言葉を、獏良は吐いた。
悲痛な問いに、答はなかった。
それこそが明確な、否定という回答だった。
「うそ……」
絶望がひたひたと染みてくる。伸ばした指が闇にぱしゃん、溶けた。
「うそ、うそだっていってよねえ、じゃあ、ボクはいままで、誰を、」
否、
l 何を、育てて。
異常なまでの献身と愛情を持って、全てを捧げた。傷ついたバクラを守りたかった。欲しいものは全部あげたかった。バクラが獏良の内側の光を厭うならば、犯し作り変え、養分にしたっていい。ただ隣にいるだけでは、心に住まわせるだけでは傷つけてしまう、だったらぜんぶあげよう、と。
出来ることはそれしかなかったから。
そうしてバクラの一部になれることが、残された唯一の幸福でもあったから。
だのに、捧げた相手はバクラではない。
バクラの形をした――それすら違う。獏良の姿を映したバクラをさらに模した、ただの「かたち」だ。
そこに、獏良の知るバクラはいなかった。
「あのとき、ないてたお前は、どこにいっちゃった の 」
再会の時、肩にすがって泣いたぬるい涙の主は誰だったのか。浮かび上がったのはあの幻の子供だった。紫の瞳をした少年、獏良の胸に縋りついて、光を欲しがった泣き虫のあの子、彼のふるえる両手の温度は、あの涙と同じではなかったか。
「あの子が、ほんとのお前だった……?」
ボクがまぼろしだと振り払った、ボクに似すぎて、ボクの投影だと思っていた、かわいそうな子が。
「お前を、消したのは……」
バクラ――否、バクラの形をした闇が、こじあける手を緩め、にたりと笑った。
明確な答え。
消したのは、
「……ボク?」
あたりが砕ける音がして、獏良は自分の心が砕かれ、闇に飲まれ、溶けていくことを知った。
バクラはもうどこにもいない。
ただ名前のない闇を、恐らくは友人たちの敵であった世界の害悪、その始祖となるべき『闇』。
最初の母体としてそれを育てた獏良了は、か細い慟哭も上げられないまま、深淵にふかくふかく、沈んで蕩けて、きえていった。
自らを失う最後に見えたのは、自分の姿。
胸に残った傷跡、その内側から何かがめりめりと這い出してくる。心臓を中心にして、皮膚を突き破って出てくる五指。
闇を滴らせた指先は、黄金の錐によく似ていた。
闇を煮詰めて産まれ出たそれは、まるで、千年輪のようだった。