【同人再録】シチュエイション・アクト-2a

サイトレスデイズの誤算と解決

 

 神か悪魔か千年アイテムの力か。
 そのどれかに当てはめて置けば外れはないだろう。バクラがかつてヒトだった時の肉体を取り戻し童実野町に立ったのは、最後のゲームから一年ほど経過してからのことだった。
 闇が破邪の光に打ちのめされ、その残り滓が肉体を得た。目覚めたバクラは身一つ以外の何も持っていなかった。行く場所もやることも無く、そうして思い浮かぶのは名ばかりの宿主の顔。ただの人形、ただの器だと思っていた相手に対する歪な感情がひどく恋情に近いものだったと気が付くのに、随分時間がかかったものだ。
 今更どの面などという慎ましさなど知ったことではない。久方ぶりの再会に、とりあえずシュークリームを手土産に見慣れた六〇一号室へ向かった。
 懐かしい青い瞳に――獏良の瞳に光は無かった。
 再会のごたごたを済ませた後に事情を聞けば、両親との旅行中に事故に遭ったという。車同士の衝突事故。割れた硝子で両目に傷を負った獏良は、永遠に視力を失った。バクラがいなくなってからすぐのことだったという。
 妹に次いで両親を亡くした獏良は、人の助けを借りながら一人で生きている、らしい。
『本当にバクラなの?』
 光なく、どこまでも透明な目はバクラの顔を見られない。バクラの浮かべる複雑な表情も、知ることはなかった。
『声、違うから分からないよ』
『疑うってんならこれまでのこと、全部お話してやってもいいぜ』
『ううん、いい』
 目の前に大好物があることすら、説明せねば分からない。シュークリームに手を伸ばさない獏良の姿はバクラに激しい違和を覚えさせた。ソファも間取りもあの頃のまま、同じなのに、目の前に座っている獏良だけが異質だ。
 変わってしまった。
 なのに、痩せた首を少し傾げて、獏良は云う。
『いいんだ。バクラがそこにいるなら』
 そう云って浮かべた笑みは、心の部屋で幾度も見た甘菓子のような狂気の依存。
 獏良了の時間は、一年前から秒針すら動いていなかった。

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 責任を感じたわけではなかった。
 獏良家の事故はバクラとは無関係だ。心のままに、面倒だと思うなら捨て置けばよい。獏良もきっと引き止めないだろう。それでもなお放置する気にならなかったのは、内側の闇がすっかり洗い流されて浮かび上がってきた、生前の人間らしさが為したことだったかもしれない。
 介護団体から派遣される人間の手伝いを断り、獏良はバクラと共同生活を送っている。今となっては盗賊だった頃の記憶などおぼろげだが、自分は面倒見のいい男だったのかもしれないとバクラは他人事のように思う。でなければ盲人の介護など、絶対にする気にはならないだろうから。
 或いはこれが、愛情というものか。
 忘れ去った陽の心を取り戻しかけている、バクラは己のらしくなさが気持ち悪くて仕方がない。変わり、変わらぬ獏良は依然雲の上に生きているかのようで――それがまだ、バクラがしている良く分からない行動を滑稽に思わせた。
 視力を失った獏良との生活は、半月が経過しても相変わらず溝のあちらとこちらだ。一年前は何とも思わなかった浮世離れの性質が、閉じた視界のおかげで際立っている。
 見る力はなくとも勝手知ったる自宅、ある程度のことは手探りでこなす姿は見事である反面、やはり異様だった。杖をつくのがお気に召さない獏良はあまり動かず、日がな一日ぼうっとしている。たまに音楽を聴いているようだが、それ以外はまるで日なたに咲く植物のように呆けている。眩しさすら感じない瞳はまっすぐに太陽を見上げ、見ているバクラの方が眩しさを感じるほどだった。
「宿主、メシ」
 そう呼び掛ければ、ああ、うん、と曖昧な返事をする。
 こちらを見ているのに視線は交わらない。テーブルとは別の見当違いな方向へ進もうとするので手首を掴む。
 ビク、と、細い手首が震え上がった。
「……ンだよ」
「ううん、なんでも」
 ないよ、と呟く獏良の表情に、憂い。
 そういえば半月、まともに触れたのはこれが初めてだった。バクラは手首を見、今の自分が獏良の記憶とは全く違っているものだということを認識する。肌の色は分からないだろうが、大きさは随分違う。きっと体温もそうだ。獏良の覚えているバクラという存在は鏡の現身で、温度も大きさも肌に馴染んだそれ。だから驚いたのだろう。
(面倒くせえな)
 バクラは舌打ちをし、そのまま手を引いて椅子に座らせた。
「ご飯なにかな?」
「炒飯。左にグラス。右に汁モン。てめえから見たら逆」
「わかった」
 淡々とした会話。獏良は手探りでテーブルの上のものを確認し、やがて食器を手に取り静かに食事をし始めた。
 食器の擦れる音が無音の室内に響く。
 こんなはずではなかった――と、バクラの頭の片隅で不機嫌な警鐘が鳴っていた。
 肉体を得て、帰ってきた。あの日、置いて行かないでと訴えた獏良に応じる形になった再会。会ったらどうしてやろうか、文字通り泣く程可愛がってやろうか。何も残っていない残りの人生をくれてやると云ったらどんな顔をするだろう。今思えば随分浮ついた足取りで六〇一号室を目指していた。
 まさかこんな形で、向かい合うことになるなんて。
(……面白くねえ)
 目が合わないという些細なことが、こんなにも地味な違和を生むとは知らなかった。
 獏良はバクラと喋る時、斜め上の中空あたりを向く。獏良にとってバクラの位置はそこなのだろう。肉体を持たず浮遊していた時はそうだったのだから仕方ない。
 砂色交じりの短い白髪も紫の瞳も日に焼けた色の肌も、硬く筋肉質な身体も知らない。今のバクラを知らない獏良は、向かい合っていてもなお、彼の中に生きる過去の虚像と喋っている。そこにいるのに無視されているような、些細な棘は小さく、しかし深くバクラの胸に食い込んだ。触る気にならないのもそのためだ。今何をしても、獏良は過去のバクラしか見ない。自分自身への嫉妬――にも満たないむかつきは、半月で随分大きく膨らんでいた。
(このオレ様が帰ってきてやったってのに)
 行くところもやることもないというのは棚に上げ、バクラは癖になりつつある舌打ちをする。視力が無い分聴覚が鋭いのか、獏良がぴくんと肩を震わせた。
「何だよ」
「ううん」
 このやり取りも飽きた。傍若無人だった獏良はどこに行ってしまったのか。お喋りだった彼は、宿主は、どこへ。
 ちなりと目をやれば、そこには悟りきったかのような、諦めきったかのような、透明な青い瞳。
 いっそもう出て行こうか。
 何度も考えた別離を、バクラは炒飯と一緒に飲み込んだ。どうしたらよいのか、得意の策略は何の役にも立たない。
 そんな中、れんげを手にしたまま、獏良がぽつりと呟いた。
「……あの、さ」
 視線を無意識に、中空に向けながら。
「面倒ならほっといてくれていいよ」
「あァ?」
「大変でしょ。介護って。仕事ならまだしも、気まぐれは長く続かないよ」
 乾いた唇を手探りで掴んだグラスの中身で潤し、獏良は続ける。
「半月もいろいろしてくれて悪いんだけどさ。ボクも辛いんだ。嫌々やってるの、気配で分かるしね。それに」
「それに、何だ」
「ボクの知ってるバクラは、ボクの面倒なんて絶対に見ないんだよ」
 云って笑う、表情は綺麗だった。
 綺麗で、痛々しかった。バクラの知らない、枯れた花のような笑顔だった。
 そして、光無い瞳は残酷な程に雄弁だ。
 あなたはバクラじゃない――
 そう、云っていた。
「ありがとう」
 誰だか知らないけど、バクラの振りしてくれて。
 そう――呟きを聞いた瞬間に、腹の内側で膨れ上がっていたものが爆ぜた。
 呆気なく、パチンと音を立てて切れたそこから噴き出した感情は名状しがたく渦巻き火を噴く。様々な思いが交じり合い、まるであの頃飲まれていた闇のようだ。その中にはきっと、意識したくない恋情が――それも多分に、含まれていた。
 ガタン。がしゃん、ぱりん。
「っ、なに!?」
 騒音。
 そして悲鳴に似た声を聞いて、バクラは一瞬飛んでいた間に何が起きていたかを知った。
 ひっくり返った椅子と倒れたグラス、中身をぶちまけたスープが滴り、フローリングに広がる白い髪が太陽光を反射する。押し倒し、振り上げた手は拳の形で、振り下ろさんばかりに漲って。
 無機質な瞳の鏡に映るバクラの表情は、憎しみのそれと紙一重だった。
「なに、するんだ…… 痛いよ」
 ねえ、と呼びかける声はバクラを見ない。
「何すんだじゃねえよ、こっちの台詞だ。何してくれてんだ。云いたい放題ご気分よろしくやってくれちまってよ、オイ」
 地の底を這いずる苛立ちの声は、耳が敏感な獏良を怯えさせるには十分だった。竦んだ肩は細く、押さえつけた手首も少し力を入れれば折れそうに脆い。
「いつまで一年前に縋ってんだ。本物がいんだぜ、ここに」
「でも」
「こっち見て喋れっつってんだよ」
 ぐいと顎を掴み、バクラは獏良を前向かせた。中空を見つめる癖は抜けない。そこには誰も居ない。
「ようく分かったぜ。てめえが未だにオレ様のことを疑ってんだってよ」
 半月。
 たった半月か。もう半月か。いずれにせよ間延びした長い一日を耐えるように過ごしてきたのは事実だった。
 こちらを見ない獏良に云うべき言葉を見つけられずなあなあで誤魔化してきた。もっと早く考えるべきだった。あの再会の日に見せた狂気の意味を。
『いいんだ。バクラがそこにいるなら』
 目の前にいる相手が誰なのかなど問題ではない。獏良は「バクラ」と名乗る存在がいればよかったのだ。本物かどうかなど関係なく。
 けれど半月を過ごし、それも駄目になった。獏良からすれば今のバクラはバクラの振りをする誰かであり、その相違は思いがけず苦しいものだった。そして想起は酷くなり、記憶どおりに行動しない相手に向けて獏良は遂に打ち明けた。そういうことだろう。
 苛立ちは止まない。バクラは顔を顰める。
「オレ様が誰か、てめえには分かってねえらしい」
 そう吐き捨てると、獏良はぽかんと口を開け――
「うるさい!」
 そう叫び、まるでドライフラワーがくしゃりと握りつぶされるように、表情を歪めた。
「ならどうやって信じればいいんだ!」
 綺麗な顔を台無しにして、唇を震わせて叫んだ声。それは、バクラのよく知る『宿主』の悲鳴だった。
「何も見えない、聞こえるだけの世界で何が信じられるんだ。バクラは居なくなったんだ、千年リングが埋まっていくのをボクはちゃんと見た、見送ったんだ。だから帰って来るはずがない。もし帰ってきてもボクのところに来るはずがない、万が一来たって、ボクの世話をするはずがない! でも!」
 上がる悲鳴は甲高い。ヒステリックな感情の逆流はとめどない。バクラが耐えていたように――獏良もまた、耐えていたのだ。
「知らない温度、知らない手、声、なのに喋り方や雰囲気はまるっきりバクラで、でも優しい、そんなのおかしい! ボクはそんな人知らない! 誰誰誰、だれなの、ねえ、どうして! どうして!」
「黙れ!」
 狂気の絶叫を、バクラの怒声が遮った。
 怒りで荒れ狂いながら胸を刺す痛みに顔をしかめる。歪んだ獏良。一年間ずっとバクラの亡霊と生きてきた。バクラをよく知るからこそ、自分の元に帰って来る理由がないと云う。
 そうだ、その理由を最初に云っていたら。
 みっともなく浮足立っていた理由を、バクラは自身のこととしてきちんと理解している。云いたくなくて云わなかっただけのそれをはじめのうちに伝えていたら、こんなことにはならなかった。己のプライドを優先して、結果、何も知らない獏良は混乱した。
 半月の苦痛の半分くらいは、自業自得だ。
 だからといって素直に唇を是と動かせるならば苦労はない。喉元までこみ上げた女々しい感情をバクラは奥歯で噛み殺し、ぎりぎりと歯軋りした。
「どうして」
 獏良は泣いている。一年分の涙を出し切るかのように、ぼろぼろとみっともなく。
「誰なんだ、教えてよ、ねえ」
「宿主――」
 その、表情は。
 うわべだけのうすら寒い笑みを浮かべているより、余程獏良らしい顔だった。何度も見た泣き顔、遊戯を陥れる為に利用されて泣き、快楽漬けにされて泣き、おいていかれた時もきっと、こんな風に泣いていた。
 バクラが焦がれた、無様な恋情。
 それを向けるに相応しい『宿主』に、やっと会えた瞬間だった。
「ボクは、バクラにあいたい」
 絞り出した悲痛な本音。
 バクラは溜息のような長い吐息を、吐き出して――
「ようく分かったぜ、宿主サマ」
 ふ、と笑った。
「え……」
「要はオレ様がオレ様だって、てめえが理解できりゃあいいんだろ」
「見えないんだよ、どうしようもない。ボクは信じられない。どんなことを云われても、嘘だとしか思えない」
「鈍ィな。オレ様とてめえのナカナオリの方法は昔っから一つしかねえじゃねえか」
 そこでバクラの云わんとしていることを察したらしい。獏良は力ない瞳を丸くし、嫌だ、と譫言のように呟いた。じりじりと肘を使って後ずさる、この逃げ方は変わっていない。
「嫌だ、そういうことはしたくない」
「てめえの知ってるオレ様は、ヤダっつったら止めてくれたかよ」
「触るな!」
 と、叫ぶ声が懐かしい。
 既視感の正体は出会ったばかりの頃。まだバクラが獏良に反抗していた頃に聞いた悲鳴だ。拒絶を甘い嘘で丸め込んで依存させた。その内に身体を交わすことにも慣れていった。あの時はどうしたんだったか。今はどうすべきか。
 バクラが考えている間にも、獏良は必死で逃げようともがいている。見えていないが為に闇雲に手を動かす様子は滑稽だ。振り回した腕を掴み、床に縫い付けると小動物のように喉で呻く。
(なんて様だ)
 これがあの宿主か――と、バクラは思う。
 自分をさんざ振り回し、マイペースで飄々としていた獏良了が、今や一人で生活もままならず、手探りと耳だけで這って生きる生物に成り果てて。綺麗な顔も青い瞳も何もかもを台無しにして。
 鏡を見られず、身ぎれいにすることも出来ない。伸ばしっぱなしの長い髪を振り乱して泣いている。
 なんと無様で滑稽なのだろう。
 その事実は微かな憐憫と、正体不明の性欲を刺激した。
「目を閉じてみな、宿主」
「ッ……え…?」
 バクラの顔がどこにあるか分からない獏良は、見当違いな方向を見て眉を寄せた。その顔を再度こちらに向けてやり、唇が触れそうな距離で、バクラは囁いてやる。
「心の部屋だと思えば訳ねえだろ」
「何云って……」
「てめえの世界が真っ暗なら、あそこだってそうだっただろうが。そうすりゃあじっくり思い出させてやる」
 そうだ、最初から決めていた。泣く程可愛がってやろうと。
 一年と半月分、溜まりに溜まった欲と感情が沸騰し出す音をバクラは聞いた。
 涙に濡れた頬をひと撫で。指先が痺れる。身体は獏良を欲している。
 最初の最初にやっておけばよかったことを、今するのだ。
 まだ遅くない。
(不安になんざ、なれると思うな)
 躾け直しの裏側に狂おしい恋情を隠して、バクラは笑った。
「てめえが二度と、オレ様に誰だなんて馬鹿馬鹿しい質問ができねえように――たっぷり可愛がってやるよ」

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