【同人再録】Coupies-2 フォレストグリーンは今日も雨降り

 もう走るのは諦めた、と、獏良は垂れてくる水滴を拭いもせずに言った。
 明日から天気予報を盲信することにすることにするよ、とも言った。
 その声は雨音にかき消されて、囁き声よりも小さくか細い。たとえ近くに歩く人間がいたとしても、独り言に気づくことすらないだろう――バクラだけが、聴覚ではない場所で聞き取ったその声を拾うことができる。
 梅雨の季節、傘を忘れた帰り道、夕方。
 わかりやすく濡れ鼠の獏良了は、水を吸って重たい鞄を手に歩く。

 

「身体代わってよ」
 何回目かになるお願いが、獏良の口から発された。
「いやだね」
 何回目かになる拒絶を、バクラは口にした。
 答えが分かりきっているのだ、特に落ち込んだ様子もなく獏良はふうと息を吐いた。その音も、激しい雨音にかき消けされてしまう――何せ数メートル先も見えない土砂降りだ。だが空の色は雨模様の割には明るいため、これが天の気まぐれだということがよくわかる。
 あと三十分ほど我慢してくれたなら無事に家に辿り着くことができたのに、全く自然現象は融通が利かない。そんなばかげたことを考えつつ、バクラは獏良のななめ後ろを浮遊して進んでいた。
 べしゃりべしゃりと情けない音を立てて、獏良は水っぽいスニーカーで歩いていく。衣替えも済んで夏服になったばかりの制服は、見るも無残にびしょ濡れだった。
 もともとあちこちの色素が薄い獏良の身体は、濡れるといっそう貧相に見える。張り付くシャツの色と透けて見える肌の色はほとんど同じで、癖のある髪もボリュームをなくして顔にまとわりつく。体温を奪われているせいで頬にも赤味が足りなく、哀れという表現の領域に片足を突っ込んでいた。
 これを見つけた一般人は思わず手を貸さずにはいられないだろう、そんな風に思う。だがあいにく帰路の付添人はバクラひとりで、そのバクラは一般的にはこう思われるであろうと思いつつも、自身では己の宿主に向ける憐憫の感情は全くないのだった。
 そして何より、獏良自体が既に諦めの境地に達しているのだから、手を貸す必要もまた、ないのである。
「梅雨時の雨ってさ、なんか柏餅みたいな匂いするよね」
「なんだそりゃあ」
「こう、甘いみたいな、青臭いみたいな、そんな感じ」
 歩くだけでは暇なのだろう、獏良が言葉を放ってくる。形のいい鼻をすんすんとうごめかせて、ほらね、と、バクラの方を振り返って言うのだ。
「花かなあ、なんだろうね。おいしそうじゃない甘い匂い」
「アジサイじゃねえの」
「アジサイは匂いしないよ」
「まったく匂わねえ花なんかあるのか」
「でもアジサイの匂いって言われても想像できないでしょ」
 ざあざあ、ざあざあ、雨音に紛れながら、そんな適当な会話が続く。
 濡れた足音もまた続き、見慣れたマンションのてっぺんが街並みの向こうにちらちらと見え始める頃、不意に獏良が、あ、と、声を上げて足を止めた。
「なんだよ」
「あれ」
 すい、と指さした先に導かれ、バクラは首だけでそちらを見た。
 煙る視界の先には、ささやかなつくりの児童公園があった。過保護が過ぎる風潮の波を受けて遊具が撤去された、ベンチと砂場しかないさびれた公園である。
 その植え込みの緑色が輪郭をぼかして、しかし色彩だけはやけにくっきりと浮かび上がっていた。ところどころの白い塊は花だろう。雲の向こうからのあやふやな光を浴びて、際立った色はまるで燃えるようだ。
「なんかすごいよちょっと! 綺麗かも!」
 言うが早いか、獏良はじゃぼじゃぼ音のするスニーカーで公園に向かって駆け出した。おい、と声をかける暇もなく、雨のカーテンの向こうに獏良の背中が突っ込んでいく。姿に朧がかかったところで――その背中が、盛大に、前方に向けてすっ転んだ。
彼の興味を引いた植え込みに、顔からまっすぐに突っ込んだのだった。
「………確かに綺麗かもな」
 その狙ったかのような転び方は。誰にともなく、バクラはつぶやいた。
 ばきぱきぺきりと枝を折る音が聞こえてくる。どうやら起き上がろうとしているらしいのだが、体重を乗せた先から枝と葉の間に手が沈むために難航しているようだ。
 浮遊しつつ近寄っていく。緑の色が濃く感じたのは錯覚ではなかったようで、水分を吸い取った紫陽花の葉は鮮やかな色で獏良の身体を包んでいる。どうにか仰向けにひっくり返ることに成功した獏良は、顔に泥と枝と葉と細かい擦り傷をこさえて呆然とした顔をしていた。
 覗き込むと、瞬きが二回。
 それから唐突に、けたけたと笑い出した。
「あー痛い! すごい痛い!」
「だったらとっとと起きろ。なにがおもしれんだよ」
 その笑い声に、今度はバクラが呆然とする番だった。呆れをそのまま音にした口調で言うと、笑う獏良が意味もなくぱちぱちと手を叩きながらだってねえ、と口を開く。
「ここまで間抜けなことをすると逆に笑えてくる感じだよ」
「馬鹿なこと言ってねえで立て」
「手もかしてくれないの?」
「触れもしねえのに意味がねえ」
「触れたら貸してくれた?」
「御免だな」
「お断りします」
 図らずとも同時に言ってしまった。再びきゃらきゃらと獏良が声を上げる。
 ここまでくるともう呆れだとかそういったものは通り越してしまう。バクラはがりがりと頭を掻いてそっぽを向いた。
 ざあざあ、ざあざあ、まだ雨は止まない。少しだけ雨足が弱まった気もするが、水滴を身体で感じられないバクラにははっきりとわかるものではなかった。ただ顔を天に向けている獏良が頬を打たれても痛そうな顔をしておらず、かえって気持ちよさそうに――開き直っているにせよ――しているので、そうじゃないかと思っただけだ。
「すごいね、綺麗な緑色」
 頭の上に乗った紫陽花の葉をつまんで翳して、獏良が言った。
 この水煙で全てがぼやける世界でもって、緑はやけにまばゆく濃く見えた。植物は水を吸って生きているのだから、これほどの栄養を与えられればそれは元気にもなるかろう、と思うが特に口に出すことでもないのでバクラは黙ったままだ。
「こんな風にしてたら、ボクの髪緑になっちゃうかも」
 言われて横目で見下ろすと、なるほどと思ってしまう色彩の渦。そこへ小さな頭が埋まっている。獏良の傍らには白い紫陽花の花――だが、その花弁は未発達で、端の方がまだうっすら黄緑色だ。
 雨で緑が溶けて、色を持たない髪に染み込んでいくイメージ。毛の先からじわじわと染まっていく。そのうちきっとまつ毛の先まで。
 鼻を鳴らして、バクラは吐き捨てた。
「青くせえ髪なんざ、それこそお断りだぜ」
「そうだよねえ、お前髪フェチだもんねえ」
「………」
 答えるつもりは毛頭ないので、沈黙してやり過ごした。
 というか黙るしか方法がない。こと獏良の髪に関しては、他ならぬバクラ自身がよく分かって居ないのだ。気に入っているということは自覚しているが、口にするのは御免であるしそもそもその髪フェチという呼び方自体が気に食わない。ではこの趣向をどう名称づけたらいいのか、それもまた誰にもわからない。
 もやついた気分のまま、横目でいまいましくも気に入りの髪を眺める。
 緑に真っ白い髪はよく映える。ほんものの花より余程。
 ふ、と、転ぶ前に獏良が言っていた言葉を思い出した。匂いがどうとか、そうだ、緑色に白い塊。
 思わずぼそりと呟いてしまった。
「…柏餅」
 言ってからしまった、と思う。雨音で掻き消えることを期待したが、やはり勢いは弱まっているようで、バクラの言葉はしっかり獏良の耳に届いてしまった。意を得たりという顔で獏良が手を叩く。
「あ、やっぱりそんな匂いするでしょ!」
 そうだよねーとやたら嬉しそうに言って、獏良はまた笑った。
 いやそういう意味ではなくて匂いじゃなくて、今まさにてめえ自身が柏餅に見えるわけだがと喉の奥まで持ち上がってきた言葉が、ぐっと詰まって、それから息に解けて霧散する。
 説明するのも面倒くさい。ああもうそういうことにしておこう。
 はいはいとおざなりな同意を口にしつつ、さてこの柏餅頭をどうやって立ち上がらせるべきか、バクラは心底かったるい気分で天を仰いだ。