【同人再録】Coupies-3 六畳間インディゴブルー

 水の中を泳ぐような感覚。
 心の部屋から現実の世界へと浮上する時は、そんな感じだ。
 身体を貸せとバクラに言われ、またぞろ何かよろしくない企みの為に使うんだろうなあと思いつつあっさりと所有権を手渡したのが、体内時計で半日ほど前。別に閉じ込められるわけではないから彼がすることを精神体でもって眺めていてもよかったのだけれど、なんとも眠い気分だったので自分の意思でひきこもったのも半日前。ながい眠りから覚めて、獏良は現実へと泳ぎだす。
 周りは濃い闇で、質量もないのに手を漕ぐと重たくかき分けているような錯覚を受ける。その中を上昇していくにつれ、酸素が濃くなる。太陽の光はないけれど、眩しいようなその水面、ボーダーラインを越えると、そこにあるのは日常だ。
 境を抜ける。一瞬の船酔いに似た眩暈に、瞼を閉じる。
 さてさてどこで何をしてくれていたのだろうか――わくわくと若干の不安を感じながら目を開けると、そこは心の部屋と同じ、真っ暗闇のまんなかだった。

 

「…あれ?」
 獏良は首をこきりと傾げて、両手で目を擦った。
 今、自分は心の部屋から出て現実へと足を踏み入れたはずなのだけれど、この暗さは一体どうしたことだろう。
 第一バクラが見当たらない。大抵、浮上した時には目の届く場所にいて何も言わないにしろちらりと視線くらいはよこしてくれるのだけれど、そもそも暗くているのかいないのかも分からない。急にぞわりと不安になって、獏良は無意識に二の腕をさすった。
 耳をよくすませてみる。聴覚が拾い上げたのは、こちこちという乾いた音。
 この音ならよく知っている。夜中に突然目が覚めた時に感じる、時計が一人勤勉に働く音だ。ということは、と獏良はもう一度目を擦り、落ち着いて辺りを見回してみた。
 うっすらぼんやりと、家具の輪郭が見える。
 全てが馴染んだ、見慣れたそれら。何のことはない、ここは自分の家だ。
(それにしても、暗くない?)
 謎は解けたが、ひねった首はまだもとに戻らなかった。
 目が慣れてくれば暗闇などではなく、青みを帯びた暗い色彩に景色のすべてが沈んでいただけだということが分かる。真っ暗な場所から真っ暗な場所へと移ったせいで分からなかっただけで、ここは自分の家、の、リビングである。
 半日経過しているなら、いまは夜だろう。だが深夜だとしても、こんなに暗くなるものだろうか? 家じゅうの灯りを落としたところで、外からのネオンや外廊下から差し込むライトの光で、ここまで色を落とすことはないはず。そう思って窓の向こうを眺めてみると、原因はすぐに解明した。
 六階から見下ろす辺り一帯が、月明かり以外の光を失っていた。
 ――停電だ。
 触れられない窓硝子の表面ちかくに半透明の指を滑らせて、獏良は思った。
 なるほど、合点が行った。つまり今はこのあたりの地域一体が停電状態になっているのだ。だからこんなにも暗く、月明かりが周囲を群青色に染めている。目を凝らせば向かいの建物のベランダで、隣人と話しているらしい住民の姿も見える。
 よかった、いきなり厄介なことに巻き込まれたんじゃなくって。
 ほっと胸をなでおろすが、しかし、もやもやとした不安はまだ健在だった。
 バクラはどこにいるのだろう――
 疑問を含んだ視線を左右に向けると、半開きになった自室の扉が目に留まった。
 獏良は部屋の扉の開閉については少しばかりうるさい。閉じている時は眠る時か何か集中したい時、不在の時。それ以外の時は大きく開いておくことにしている。バクラもまた、それに倣ってそうしている。
 このような、まるで爪の間に何か挟まったような気持ちの悪い半開きなど、普段はあり得ない。些細な変化すら今の獏良には不安に思えて、しばらくその扉をじっと眺めてしまった。
 何を危惧したところで、バクラ以外にこの精神体たる身体は見えないのだから緊張することはない。もしこの扉の奥にバクラ以外の誰か――泥棒だか何だかが居たとしても、いきなり何かされるということはないだろう。だが、喉に嫌な塊が詰まったような気持ち悪さはぬぐえない。
 それもこれもバクラが居ないせいだ、と、獏良は軽く責任転嫁してみた。
 自分が現実に浮上した時は必ず、視線か言葉を投げるべきだ。でないと落ち着かない。いつ終わるかもわからない関係なのだからそのくらい気を使ってくれたっていいじゃないか、お前の宿主サマは独りぼっちになりたくないんだぞ、まったく本当に無神経だ――そんなような文句をぶつぶつと言いながら、扉を抜ける。
 抜けた先で、すとん、と、肩に乗ってきた緊張が落ちた。
 群青に染まったベッドの上で、着の身着のままのバクラが寝息も立てずに眠っていた。
「…なんだ」
 ちゃんといるじゃないか。
 一瞬前までの不安が嘘のように霧散していく。同時にむかっ腹が立って、獏良はひと泳ぎに宙を泳いでバクラの横へと降り立った。
 横向きに身体を投げ出したバクラは長い睫を閉じていた。外出時に着て行ったのだろう、鴉色の真っ黒いコートを脱ぎもせず、夜は冷える初秋の室内で丸まって眠っている。
 そのコートの袖口が少しだけじっとりと、赤く染まっているように見えたのは知らない振りをした。どうせまたどこかで、性質の宜しくないことをしていたのだろう。心配などしない、するとしたら獏良了の身体で悪事を起こされることによる社会的なトラブルだけである。そのあたりはバクラ自身も気を使っているらしく、今まで問題になったことはない。ならば知らない振りが正解だろう。
 それよりも気になるのは、その寝顔だ。
「…変な顔」
 思わず呟いた言葉は囁きよりも小さく。無意識に、起こさないように声をひそめてしまった。
 幸せな寝顔など浮かべていたらたたき起こしてやれたのに。大声を出すことが憚られるほど、バクラの寝顔は難しいものだった。
 ぐっと寄せた眉間には皹のような皺。呼吸は乱れていないが、唇の向こうの歯列はきつく噛み締められているのが分かる。
 群青のシーツに散らばる白い髪は、死人の肌に似て青ざめた色。頬も同じ。
 己を守るように硬く手足を丸めて、黒いコートで身体を覆って、縮こまった姿など今まで見たことがなかった。寝顔なら幾度か遭遇したことはある――心の部屋で交わった後、獏良が先に目覚めた時にちらちらと拝見したことならあるが、こんな顔はしていなかった。
 まるで知らない人のようだ。見たことがない、無防備であるが故にひどく危うい、そう、いつかの右目と同じ、見てはいけないものを見てしまったような。
 結局獏良は、何も言えずにその傍らに高度を下げた。
 空中で膝を抱えて、眠るバクラと同じ目線を保てるようにして、上目使いにその顔を見つめる。
「…やな夢でも、見てるの?」
 響く時計の音よりなお小さな声。唇からこぼした呟きは、深い眠りを覚ますことはなかった。
 ほっとしたようなそうでないような。起こしてあげた方がいいのかもしれないが、こんな寝顔を見てしまったことを知られるのが嫌だ。
「お前でも、そういう顔するんだね」
 今まで考えたことなどない――バクラの、中身にある感情や思考など。
 正確には、考えたことなどなかった。数日前、ソーダ色で見つめあったあの暗闇で言葉を交わした時から、興味という棘がちくちくと獏良を突いてくるようになった。
 それまでは、人外である彼に人間的な部分を思うことがまずなかった。明らかに三次元の存在とかけ離れたものであって、それに寄生されている自分。獏良了とバクラの関係ということの延長線上で考えたことはあったが、個人としてのバクラという人物は一体何者で、どういったことを考えて、何をしたくてこんなことをしているのか。そういった詮索めいた疑問を、獏良は考えたことがなかった。
 否、考えたくなかった――のだろう。
 そんなことは関係ない、彼が何をしようとも、傍にいてくれさえすればいい。
 知ったらこのあやふやな共犯関係に何か亀裂が入るかもしれない、という危惧からか、それとも単にどうでもよいのか。自分自身のことすら分からない獏良に、他人についてどうこう述べる思考はない。
 理由は何でもいいのだ。漠然と、知りたくなかった。
「…ねえ?」
 知りたくなかったんだよ?
 呼びかけるのではない独り言が、群青に沈む。
「なのに、知りたくなったちゃったじゃないか。どうしてくれるのさ」
 バクラと共存するようになってから、獏良は夢を見なくなった。夜ごと見る嫌な夢を、失った妹や傷つけたクラスメイトがかわるがわる現れる恐ろしい夢を見なくなった。
 バクラがそれらを食べているのだと、獏良は本気で思っている。
 そんな相手が悪夢に魘されているのだとしたら、笑い話だ。
 人の苦しみを食べる前に、自分の分どうにかしろ、と言ってやりたい。
「ねえバクラ、」
 今度は呼びかける意味で、しかし起こさぬように声はひそやかに、呼びかける。
「悪夢って、どんな味?」
 性格が悪いお前だから、苦くてまずくてもおいしいとか感じるものなの?
 それとも、ボクの悪夢ならおいしいのかな。
 少なくとも今のお前は、ちっともおいしそうじゃないよ。
 お前の見てるそれは、ボクにとってもおいしくないのかな――
 連ねて問いかける。答えを待たない、一方的な質問。
「確かめてみたいな」
 くす、と、何故か小さな笑いが漏れた。
 楽しいことなど、おかしなことなど何もないのに、笑った。
 夢はどこで見るのだろう。ふと、そんなことを考えた。
 眠っている間に、脳が出来事を整頓している時に見るのが夢だったか。そんなつまらない解釈は好きではない。
 もっと深くてもっと隠匿めいた、物質的なものとは正反対の場所で広がっているのが夢の世界だと思うのだ。現実では一切触れられないところで、制御できずにひたすら展開されていくもの。
 たとえばそう、それは秘密の場所で。
 バクラが探られることを嫌がった、その――右目の瞼の内側に、無限に広がっている、宇宙。
 獏良では決して知ることのできない場所で上映されているもの、だとか。
 身体を共有しているのだから、形は全くの同一である瞳――いつか彼が、飴玉のようだと言った青い眼球を覆う瞼の内側で、バクラは夢を見ている。
 その場所にはきっと、いま知りたいと思ってしまったバクラという存在の全てが詰まっている。聞いても教えてくれない、見たいと思っても見られない、魂は右目の奥にある。
 ああ、なんだかしっくりとくる解釈だ。ひとり頷いて、獏良は緩く髪を揺らした。
「だったら、ねえ、やっぱり交換したかったよ」
 自分の右目の瞼を押えて、獏良は言った。
 たとえばこういうのはどうだろう。この右目を交換して、バクラの悪夢を獏良が食べてしまうのだ。もしかしたらおいしくないかもしれないが、それならたっぷりの上白糖をまぶしてカスタードクリームと混ぜて、シュークリームにでもしてしまえばいい。苦味が案外いい引き立て役になって、全体的にはおいしくなるかもしれない。獏良が見る夢はいつもどおり、バクラがその悪魔めいた長い舌先で掬い取って丸飲みしたら万事解決。
 そうしたら、二人とも、もう怖い夢にうなされることはない。
 こんな風に、身体を丸めて小さくなって眠る必要など、どこにもなくなる。
 寒い夜は一人で蹲らず、居心地のいい人肌の、心の部屋の闇の中で上下をなくして交わればいい。きっとそのうち肌が境界線をなくして溶け合うから、安心して目を閉じられる。
 口の端に悪夢のかすでもつけて、それをぺろりと舐めとって。
 どこまでも不安のない、安らぎだけで出来た眠りを、二人で。
「名案だと思うんだけどな」
 眠る横顔は応えない。ぎゅっと寄せられた眉間の皺は凝り固まって、解けることはなさそうだ。
「――なんて、ね」
 言ってみただけ。
 停電の六畳間、十五夜の月明かり差し込むベッドの住人の鼻をちょんとつついて、獏良は長く息を吐いた。
 群青色の密室はいつまで続くだろう。電気が復旧したら薄い瞼を人口の光が透かして、きっとバクラは目を覚ます。
 その前に、そっと頬に手のひらを寄せた。
 精神体では触れられない。触れられないからこそ、獏良はその手で、バクラの右の瞼をゆっくりと撫でた。
 目が覚めたら、いつもどおりの現実に戻る。
 灯りがないこの世界はいま、どこにも属していない。心の部屋でもない、日常でもない。それならば、彼をいとおしいと思うことも出来るかもしれない。
 悪夢に苦しむ彼を、まるで身を分けた恋人のような、扱いで。
「…あはは」
 苦笑を混ぜた声で、獏良は笑った。
 まるでおままごと。そんな錯覚、それこそ、言ってみただけ――だ。