セプテンバー・ジャーニー【2017獏良生誕SS】
※同人誌「金環蝕の終わり」とつながってますけどなんとなく読めます。藍神くんと宿主が劇場版後バクラについて理解を深めたのち、お友達になって文通してます。
なんとなくの気持ちで、エジプトにまで来てしまった。
卒業後の展望はあれど急ぐたちではない獏良は、進学の道を選ばず、ゆるゆると父の仕事の手伝いをしている。だからといって決して暇ではない日々の中で、確かその時はパソコンで何か調べものをしていた。
旅行会社の広告バナーが目について、なんとなくクリックして。
なんとなくプランを眺めて、なんとなくカレンダーを見たら何の予定もない時期が一週間ほど続いていて。普段なら気軽に泊まれないような良いホテルが珍しくキャンペーンを打っていて。そういえばついこの間、父にもたまには好きな所へ行っておいでとそれなりの額の旅行資金まで貰っていて。
なんとなく、そのままカイロへの切符を手に入れてしまった。
もしこの「なんとなく」の間にかけらほどの些細な妨害――例えば友人から電話がかかってきただとか、玄関のチャイムが鳴っただとか、希望日の予約が満席だっただとか――があれば、そうかじゃあ仕方がないなの一言で、獏良はブラウザを閉じていただろう。そのまま眠りについて翌朝にはすべて忘れているような、そんな流れだった。誰かにぽんと背中を押されて、ととんと進んだ数歩のままに惰性で歩いたら目的地に到着してしまった感覚である。曖昧模糊とした感覚が抜けないまま、獏良了はカイロ国際空港に単身降り立ち、最早見慣れて物珍しさもなくなった砂色の国を、まるで二駅先の身近な観光地にでも来たような気分でその景色を眺めていたのである。
父と共に訪れた数も両手の指を超した。日本ほど治安の良くないこの国では呆としているとスリやひったくりや恐喝に合うが、片言ながらも現地の言葉となんとか会話できなくもない程度の英語を頭に入れている獏良にさほどの恐怖感はない。「行ってはいけない場所」はいやというほど父に教えられていたし、だいいち服装も観光客に見えないラフな格好でテンションがきわめてニュートラルな状態で歩く獏良は、他の日本人に比べればはるかにおいしくない獲物だった。
それに今回は――
「キミは本当……なんていうか、唐突なんだな」
呆れ顔の、現地の友人も隣に居ることであるし。
「あはは。藍神くんが居なかったら来なかったよ」
思いつきのこの旅行のうち、一日だけつかまったこの新しい友人――藍神ディーヴァが居なければ、それこそ旅行を取りやめる、些細な妨害になりえただろう。流れるような「なんとなく」の内、大きな切欠が彼からの手紙だった。あの卒業式間近の騒動以来、和解した後に二人は良き友人となって、不定期の文通を続けている。ひとところに留まらないディーヴァがカイロに滞在していると告げた時期がそのまま、獏良の旅行の希望日と一致していた。そっかじゃあ行こうかな、と思わせたのは、その手紙の一言が一番大きな理由だった。
というような経緯を、カイロのごみごみとした繁華街の一角、差し込む強い陽の中、日本で言うところのオープンカフェ的な店のテーブルで獏良は話した。
「多分だけどね。すごい喋りたい気分だったんだろうなって思うんだ」
今になってだけれど――と、獏良が混ぜ物の多そうなオレンジのジュースを一口飲んだ。
話したい? と、ディーヴァは首を傾げる。金色の瞳を一つ瞬きする仕草に、理解不能の様子が見て取れる。
「日本じゃ出来ないんだよね、やっぱり、言いづらくて」
「何がだい」
「バクラのこと」
グラスを脇に除けて、ぺたん。獏良は磨いた石のテーブルに突っ伏した。遅れて白い髪が肩を流れ、形の良い貝のような耳を晒す。
交互に組んだ腕の真ん中に額を押し付けて伏せたまま、獏良は続けた。
「藍神くんに会ったら、話したい気持ちになったんだ。だから多分、なんとなくじゃなくて、そういうことだったんだろうなって」
「やっぱり、皆には……」
「聞いてくれるんだけどね、きっと。ボクの方が話したくない。申し訳なくなっちゃうから」
これは多分信頼なのだ――と、獏良は思う。ディーヴァもまた、そう感じていただろう。
かつてのバクラとの関係を、獏良はディーヴァに全て話した。ディーヴァの側から見たバクラと、獏良の知っているバクラを重ねた時、邪悪の化身だったかの男の中にあったであろう人間らしい慟哭が垣間見えた。それはほんの少しだけで、大の内のごく小さな部分だったかもしれないが、その一部分を知っただけでも、二人は彼をただ悪しざまに罵ることが出来なくなった。
そして、獏良は自分と共に過ごした、何でもないありふれた日常の中に居る時の、同居人としてのバクラを決して憎んではいなかった。
獏良の言う「バクラ」。それは恩師の敵としてのバクラとはまた別の一面で、どんなに憎い相手でも、思いを寄せる者がいることをディーヴァは知った。
だから、信頼なのだ。
誰にも言えないバクラの話を、ディーヴァにだけは、安心して打ち明けることが出来る。
「ボクさ、今日誕生日なんだ」
「へえ、それはおめでとう」
「ありがと。……だからかな、何か思い出すんだ、バクラのこと。いやーな奴でさ。でも、楽しかったこともあったんだって。皆、知らないけどさ」
伏せた顔を少し上げて、獏良は目だけで笑った。ディーヴァは穏やかな表情で、うん、とだけ返す。
「愚痴ってもいい? あいつのこと」
「それがプレゼントになるなら、いくらでも」
似合ってしまう苦笑を浮かべ、ディーヴァは頷く。
先ほどから青い瞳が潤んで仕方がないことを、その意味を、彼なりに察した上で応じたのだろう。誰にも吐き出せない痛苦の重さは獏良にしか分からない。塞がらない穴に砂を流し込み続ける悲しい行為でも、そのひと時だけ楽になれるなら、と。
「聞くよ。ボクでよければ、話して欲しい」
「ありがとう、藍神くん」
そうして獏良は語りだした。
時刻はまだ昼ちかい。それが少し傾き、気温が少しずつ下がり始め、隣接するテーブルがいくつか空いてまた埋まるまで、獏良は語ることを止めなかった。
呆れるほどに日常的な、獏良とバクラの非日常。一つの身体に二つの心があった時のこと。
他愛のない会話の隙間に感じたことを、文句の形で獏良は吐き出す。徐々にそれが文句ではなく、最早名前のつけられない感情に染まった一つの想いのそれになっても、言葉は続く。
つらつらと、とめどなく、ただただ浅い川の流れのように。
そして――ディーヴァは気づくのだ。
「酔っぱらってたんだね、キミは……」
――と。
獏良は半ば呆れられながら、急遽カフェのテーブルからホテルの部屋まで担ぎ込まれたのだった。
「えへへ~お酒だと思わなかった~」
白い頬をほの赤く染め、獏良はいそいそとベッドに転がった。そこそこ良いグレードのホテルである。日が落ち切る前にフロントに辿り着いた時点でボーイが気を利かせ、冷たいミネラルウォーターを用意してくれた。それを首の後ろに押し付け、火照りを覚ますのが気持ちいい。
言い訳にしかならないが、獏良は飲みたくて飲んだわけではなかった。
オレンジジュースだと思っていたそれにアルコールが入っているとは思わなかった。注文した時にウェイターも何も言わなかったし見た目は完全にジュースだった。ディーヴァが長い時間気が付かなかったのは、獏良が早々に突っ伏してしまったからで――これも物憂げな気分でそうした訳ではなく頭がふわふわしてきてそうしただけだった――潤んだ瞳の原因がまさか酒のせいであったなどと誰が思おう。
ろれつが回らなくなってきたあたりから訝しんだディーヴァが、鼻をスンとさせた時に微かにアルコールのにおいを嗅ぎ付け、髪の房から覗く耳が真っ赤になっていることに気付いた。それ酒じゃないのかい。恐る恐る彼が訪ねた時はすでに遅かった。未成年で酒に免疫のない獏良はすっかり酔っぱらってしまっていて、眠り落ちないうちにと、ディーヴァはあわててホテルの名前を聞き出したのだった。
「ごめんねえ、藍神くん」
ペットボトルを放り出し、大の字になった獏良がとろとろに蕩けた声で言った。
「でも、楽しかった。いっぱい話せて、よかったあ」
「それは……それなら、いいけど」
怒る気も失せたのだろう。溜息と共にお決まりの苦笑を浮かべ、ディーヴァは肩をすくめる。
「話したいことは全部吐き出せたかい?」
「どうかな、まだかも。だってねえ、ちっともなくならないよあいつへの文句なんて。ハッピーバースディ宿主サマって一言くらいさあ言ってもよくない?」
「……そうだね」
「誕生日だよ。たんじょうび。いますぐここにきてお祝いの言葉を述べるべきだよね!聞こえてんのかな、おーいバクラー宿主サマが呼んでるよー」
ぼふぼふと枕を叩く。獏良自身、むちゃくちゃなことを言っている冷静な部分がほんの少しだけ、酒に惑わされずに残っていた。その部分がばかだなあと自分自身に囁く。もう消えてしまった男がここになど来られる筈もない。
どこにもいないのだから。
世界の隅々までくまなく探したところで、決して会えはしないのだから。
第一居たとして、素直におめでとうなどと言うはずもない。いつだって天邪鬼で意地が悪い男だった。絶対に言うはずもない――いつの間にか、思考は言葉に漏れていた。
「分かってるよ、あいつが言うわけない。言ったってうそだからボクは信じない。ぜったい、絶対にね、もらえないんだ。一番欲しい相手からもらえないのに、諦め悪いよね、ばかみたいだ」
「そんなことない。馬鹿なんて言うなよ」
「ばかだよ。こんな風に喋っちゃってさ、結局、期待を捨てきれてないんだ。ボクは来年もその来年の誕生日もきっと、こうやってバクラに文句を言うんだよ」
ばかみたい。
もう一度呟いて、獏良は叩かれへこんだ枕に顔を埋めた。
「藍神くん、ボクね」
「うん?」
「誕生日は魔法の日だって、思ってたことがあるんだ」
ふらふわと揺れる頭の中で、紡ぎだされる言葉は荒唐無稽だった。きっと不思議そうな顔をしているディーヴァに申し訳ないという気持ちは、酔いのせいでまだ生まれてこない。巻き込まれても付き合い続けてくれる彼に礼を言えるのは明日になってからだ。乾いた唇を舐めてから、獏良はまだまだ言葉を吐き出す。
「こどもの頃は誕生日になると、なんでももらえて、みんな笑ってくれたから。なんでも叶う日だって思ってたんだ。でもねえ妹が居なくなってから、次の誕生日にさ……天音が帰ってきてほしいって言ったら、父さんが困った顔して。ああ、なんでも叶うんじゃないんだ、って、知ったんだ」
その時の父の顔は忘れられない。
何か欲しいものがあったらいってごらん。うんおとうさん、ボクねまた天音に会いたいんだ――笑顔でねだると、父の表情は凍りついた。幼いながらに、言ってはいけないことを言ったのだと気が付いた。魔法が解けた瞬間だった。
「それでもまだ、どっか根っこに残ってる。特別な日だって。お願いごとが叶うって。だから……バクラの話したり、したんだろうね。ボクは」
どうしても欲しかったから。
最後の方の言葉は、喉が渇いて掠れてしまった。
急激に眠気が襲ってきて、獏良は潤んだ瞳を閉じる。まだ何か、もっと何か、喋りたくて口は動くのに、形にならずに舌の上で消えてしまう。
黙ってしまったディーヴァがどんな表情を浮かべているのかも、もう分からない。
ただ、朦朧とした意識の中で、肩に掛けられた毛布がとても気持ちよくて。そのまま心地よさに身をゆだねたら、世界はあっという間に暗転した。
心の部屋に落ちるようなゆっくりとした落下感。
それが眠気なのだと、気づいた時にはもう、夢も見ない眠りの世界に沈んでいた。
獏良了の誕生日は、そんな風にしまらない、結わえた紐がそのままほどけるかのような緩さで、終わってしまった。
目覚めた時に、ディーヴァの姿はなかった。
カーテンを引いていない窓からは、日本ではついぞお目にかかれないほどの星がちかちかと瞬いている。黒い天鵞絨の上に金平糖をばらまいたようだと獏良は思った。月はこの角度からは見えないが、さぞかし見事な姿で浮かんでいるのだろう。
それらをあおむけのまま、つまり逆さまの景色で眺め、獏良は呟いた。
「ああ、やっちゃった」
アルコール一杯で記憶が飛ぶのならそれはそれでたいそうおめでたい頭だと思うが、泥酔していたわけではない獏良は今日のことをきちんと覚えていた。首を回してサイドテーブルを見ると、時計はもう夜の時間を指示し、傍には部屋のキーとミネラルウォーターのボトルと、紙が一枚置かれていた。手を伸ばしてその紙――メモを拾うと、走り書きでお大事にという、手紙で見慣れたディーヴァの筆跡がそこにあった。
「律儀だなあ……」
そして、優しい人だなあ。
今度手紙を書くときにお礼を言おう。のろのろと起き上がり、獏良はベッドの上で胡坐をかいた。
彼に話した言葉、ほぼバクラへの文句で構成されたそれをもう一度思い返してみる。ああされたこうされた、あのときこう思っていた、こうしたかったけどできなかった。そうしてほしかった。そして、あいつはどう思っていたのだろう――言われた方が困るであろうそれらを笑って聞いてくれた藍神には感謝してもし足りない。甘えている自覚はあったが、愚かな誕生日の魔法ということで大目に見てもらえたらありがたい。何せ本当に、こんな話が出来るのは彼しかいないのだ。
獏良の女々しい、憐れな胸の内を明かせる相手など。
「……お腹すいたな」
ろくなものを食べていないことに気が付いたのは、腹がくうと切なげに空腹を訴えたからだ。すっかり忘れていたけれど、贅沢にも、今朝がたフロントでルームサービスを頼んでいたのだった。誕生日だからというのが一つ、ホテルのレストランで食事していると、どうしても物珍しさで人の視線を浴びる――どう見てもティーンで、長い白い髪の日本人が食事をしていたら誰だって横目で見るだろう――のが億劫だったからだ。ディーヴァが獏良の酔っ払い状態に気づくのがもう少し遅ければ、このディナーの時刻にさえ間に合わなかったかもしれない。
メニューは何だったか、確かデスクの上に置いておいたメニュー表を探すべく獏良が立ち上がった所で、丁度チャイムの音がした。
迎え入れると、浅黒い肌をした真面目そうなボーイが一礼し、ワゴンに乗せた食事を、窓際の一番よい眺めのテーブルに並べ始めた。真っ白いクロスに真っ白い食器。湯気の立つスープにパン、メインの肉料理。外国語でのメニューの説明をつらつらと聞いていると、空腹はいよいよ元気に唸りだす。
そして、ボーイは最後に、デザートの皿をことりと置いた。
メニューには載っていない、一品だった。
「え、あの、これは」
日本語と同じようには喋れない。たどたどしく獏良が問うと、背中をしゃんと伸ばしたボーイは、聞き取りやすい声でもう一度、こちらが追加でご用命頂いたデザートになります、お気に召しませんでしたか――と、問うてきた。
「追加、ですか、えっと……」
頼んだ覚えはない。デスクの上のメニューを確認しても、デザートのことは書かれていない。何かの間違いだろうか、でもこれは、と、獏良が戸惑っているとボーイも訝しげな表情になってくる。
微妙なニュアンスを伝えることが出来ず、結局獏良はそのまま、問題ありませんと答えた。
ボーイが去ってゆくのをぼんやりと眺め、扉が閉まった音で我に返り、テーブルを見下ろす。
温かい食事が並ぶテーブル。灯されたキャンドルは仄明るく、夜空を眺めながら贅沢な時間を過ごせるよう丁寧にセッティングされている。
すとん。
膝が崩れるそのままに、獏良はハイバックのチェアに腰掛けた。
この席に座ると、ベッドからは見えなかったものがよく見える。金平糖の星空と、その真ん中でにんまりと笑っている下弦の三日月。見るたびにいつも、誰かの笑みを思い出させるそれが、ここから丁度、よく見えた。
彩られたシュークリームの小山。クロカンブッシュの皿の、向こうに――よく、見えた。
チョコレートのプレートに書かれたハッピーバースディの文字がやけに目立つ。頼んだ覚えのないデザート。獏良の大好物のシュークリームで出来たクロカンブッシュ。
追加でオーダーなんて、誰がした?
「ぼくは、してない……」
この日本から遠く離れた地で、獏良の誕生日にこんなことをする人間など、一人もいないはずなのに。
一番欲しい言葉を、甘いあまい、プレートに文字で書きつけて。
そんなこと――誰、が。
「っ、」
ぽたり。白いクロスに、大きな涙の粒が落ちる。
金箔を練り込んだ暗い色のチョコレートプレートの上、白く短い文字を獏良は何度も読んだ。
ハッピーバースディ。
欲しい言葉。言って欲しかった、もう手に入らない言葉――
「宿主サマ、が、足りないよ」
ふ、と息を吐いたら、もう一つ雫が落ちた。押しとどめていた本音と一緒に、獏良はぼろぼろと涙を零す。分かっていた。自分で蓋をしていただけだ。つらいから、手に入らないから思いたくなかったし願いたくなかった。
けれど、こんなものを贈られたら――圧し留めることなど、もうできない。
「ボクは、ほんとはただもう一回、呼んでほしかっただけなんだ」
本当は、本当の本当は、祝いの言葉なんていらなかった。
それよりもあの呼び名を。彼以外が呼ぶことのない、様とつく癖にちっとも敬う気持ちのない、慇懃無礼な言い方で。
誕生日の魔法で、一つだけ。
「もう一度、だけ」
言葉足らずのプレートを見て、獏良は目を細めた。
「でも、それでも、ありがとう」
此処で呟いても伝わらない言葉が、か細くキャンドルの炎を揺らす。
ああ、もう言葉が出てこない。胸が痛い。
ゆるり、項垂れた顎を持ち上げると頬に温い涙が伝った。濡れた瞳で見上げる空が滲む。
ぼやけた視界の先で意地の悪い月は変わらずに天で笑っていたが、獏良の口元もまた、震えながら、少しだけ笑っていた。
温かいスープに手を付けられるのは、もう少し後になりそうだった。