セプテンバー・ジャーニー 後日談【2017獏良生誕SS】

これの続きです。

 いまは夕方と夜の狭間、橙と藍に満ちた空に、昼間は隠れていた月がうっすらと姿を見せる時刻。
 建物に寄りかかり、その影の下に腰掛けていたディーヴァは、詰めていた息を少しだけ吐いた。彼の表情そのままの、複雑そのものの音で唇から洩れたそれは、砂っぽい風に混じってすぐに消える。
 手には封が切られた封筒。二枚の便箋。どちらも漂白したように真っ白いそれが、黄昏時の曖昧な空気の中で妙に浮いている。かさかさと風で揺れる音も、この無音の空間に紛れ込んだ異物そのもののようだった。
 遠い国からの、友からの手紙。
 金の瞳で筆致を見下ろす。獏良了からの、手紙だ。
「どうしたの、兄さん」
 今の今まで隣に座り、流れ変わる空の様子を眺めていたセラが問うた。いつの間にかこちらを向いていた彼女は心配げに眉を寄せ、兄の様子を伺っている。
「獏良さんに何かあったの」
「大丈夫。何も心配するようなことはないよ」
「本当に?」
「本当さ。あ、マニにそろそろ出発するって、伝えてきてくれるかい?」
 気遣う表情のセラにそう頼むと、彼女はまだ不安そうに、しかし言われた通りに小走りで駆けて行った。再びの静寂。視線の先の、手紙。
「何も……ないさ」
 ディーヴァは緩く首を振る。嘘ではない。何も起きてはいない。
 そう――今は、何も。
(既にもう起こって、終わっただけ、かもしれないけれど)

 

 獏良了からの手紙が届いたのは、彼の国の暦で言う所の秋頃、最近朝の空気が冷たくなってきたという書き出しのとおりの時節であった。ひとところの住所を持たないディーヴァは、たまにカイロに戻ってはマニの住居を訪ねることにしている。友に無事な姿を見せたいことと、獏良からの手紙を確認する為だ。
 そろそろだろうかと戻ったら、案の定手紙が来ていた。
 その手紙には、数か月前に突然来訪したことへの詫びと感謝が綴られていた。
(ありがとう、か)
 丁寧だが癖のある字で述べられる感謝をはじめに読んだ時、ディーヴァは少し笑った。
(やっぱりばれていたんだな、あれは)
 酔っぱらった獏良の愚痴と泣き言と、切望と。
 聞き流してあげた方がよさそうな内容だったけれど、あまりにも獏良の様子が寂しげで。魔法使いになれたなら――と、ディーヴァが仕掛けたからくりは、とっくに彼にばれていた。
 あの日、獏良の滞在する部屋から出、そのままセラの下へ戻ろうとした時、フロントの前で思いついた。出来るかどうかは不安だったが、どうやらホテル側は獏良に無事、ささやかな贈り物を届けてくれたようだ。
 あわよくば、それがディーヴァからではなく、獏良の望む男からの、魔法の贈り物だと思って欲しかった。
 誕生日は願いが叶う日だと思っていた――だなんて。
 亡くした妹を求めた時に解けてしまった魔法を、一日くらい取り戻したっていい。自分が同じ立場なら、無くした奇跡を何度も願ってしまうだろうから。
 だが、手紙にはありがとうと書かれていた。
 獏良は気が付いたのだ、おそらく、すぐに。
『藍神くんしか居ないなって、すぐに分かった。藍神くんが、あいつからの贈り物なんだって思わせようとしてくれたことも、分かった。嬉しかったよ。でもちょっと泣いちゃった』
 その下の行には何文字か書いて、消した後があった。きっと何か――語るべきではない本音を綴って、消したのだろう。甘えられる魔法の日はもう過ぎた。これを書いている獏良の表情を自然とディーヴァは思い浮かべた。彼は自分によく苦笑するねと言うけれど、獏良もまた、嬉しい意味ではない笑みをよく頬に乗せていた。唇を引き結んだ、言いたい言葉を言わないことを選んだ時の、表情だった。
 そして、手紙はこう終わった。

『クロカンブッシュ、美味しかった。ボクの好きなもの覚えていてくれて本当にありがとう。また手紙を書くね』

 最初は、クロカンブッシュが何だかぴんと来なかった。
 頭の中を検索していると――こういう時、プラナのつながりがあればとつい思ってしまう――シュークリームを積み上あげた洋菓子のことだと思いだした。昔どこかで見た記憶がある。
(おかしい)
 違和感が、じわり。
 と、つま先に沼の水のように浸み込んだ。
 ディーヴァがホテルのフロントで見せられた洋菓子のリストに、そんなものがあっただろうか。そこまでしっかりと覚えていない。あったかもしれない。だが、選んだのはショートケーキだ。ふつうの、子供が絵に描けるようなスタンダードな、生クリームと苺が乗った小さな三角形のショートケーキ。なんとなく好きそうだと思って、選んだ。
 第一ディーヴァは、獏良の好物がシュークリームだったこと自体が初耳なのだ。
(なら、どうして)
 訳もなく、背中がぞく、と、した。
 頭の中でホテルのフロントの像が浮かび上がる。カウンター越しにひそやかなオーダーをした自分。そしてホテルを出た。その後暫くして――ホテルの階段から、まるで滞在中の客のような気軽ないでたちで降りてくる男が一人。ベルを鳴らしてボーイを呼ぶ。すぐに現れたボーイと男は何か喋っている。ボーイの手にはディーヴァが注文した時の伝票。その上に斜線を引いて、新しく何かを書き込んでいる。
 よろしくというような意味合いで手を振って、男はエレベーターに乗った。
 扉が閉まる瞬間、見覚えのある、ありすぎる、忘れられない、あの、吊り上った三日月の口元と白い髪が――

 

 ぽた。
 垂れた汗が封筒に染みた。
「……あるわけない、そんなことが」
 白昼夢か、はたまた黄昏時が見せた幻か。いずれにせよ、今考えたところでどうにもならない、区分するなら妄想と呼ばれる考えだとディーヴァは唇を結ぶ。
 もしかしたら、ショートケーキが用意できなくて、急遽他のものに変わっただけかもしれない。それがたまたまクロカンブッシュで、獏良の好物のシュークリームの山であっただけで、誰かがオーダーを獏良のより好みのものに変更したなどと、考える方が自然ではない。
 その誰かはホテルの内部から現れて、また内部へ戻った、なんて。
 それこそ、魔法だ。
 或いは――呪い、と呼ぶものか。
 自分がそんな考えを持ってしまうこと、それ自体もまた――まだ。
「兄さん、マニが呼んでるわ」
 妹の声が、温い泥濘のような思考からディーヴァを引き戻した。はっとして瞬きをひとつ。それだけで妄想は消えて、馴れた砂の匂いと夕日の空が帰ってくる。空の天辺近くでは星が控えめに輝き出し、もう夜が近い。現実が実感を伴って、ディーヴァの足を立たせた。
 ひょこりと顔をのぞかせたセラが言う。もう今日は遅いから出発は明日にしたらどうかって、という言葉に、ディーヴァもそうだねと応じながら、尻についた砂を払った。
 手紙は――封筒の中に戻して。
 いつも通り、荷物の中に丁寧に仕舞った。
(有り得ないさ)
 言い聞かせるように頷いて、ディーヴァは空に背を向けた。
 天は群青、地は橙。混ざり合った中間地点に、昼間を引き摺ってまだ薄く白んだ月が見える。
 形は上弦。
 血のように真っ赤な大地と、じきに闇に代わる空の真ん中で、上弦の月はにんまりと、細めた瞳のように笑っていた。