獏とナイトメア
「獏が憑りついたんだと思ったんだ、最初は」
獏良は闇の向こうに真っ青な瞳を真っ直ぐに向けて、小さな声でそう呟いた。
話しかける対象が物理的に存在していない以上、これは独り言に分類されるだろう。けれど獏良はあたかもそこに相手が、バクラがいるつもりで口を開いた。目を凝らしてもそこにはずんぐりとした闇がうねっていて、目が慣れてくればうっすらと自室の天井の形が浮かんでくる。心の部屋と違ってどこまでも深く続く漆黒ではないから、耳を澄ませば時計が働く音や冷蔵庫の音が聞こえてきた。
物思いに耽るには些か煩すぎる午前二時。それでも獏良は再び、唇を開いた。
「お前が初めてボクに語りかけてきてから、ずっと、ボクは夢を見ないから」
毎晩見ていた夢はぷっつりと途切れて、その代わり、真っ暗な世界に滑り込んで同じ顔をした他人と接するようになった。苦しい思いも痛い思いもして、ついでに気持ちいい思いもした。苦痛と快楽を同時に覚えた精神はもうしっくりと獏良に馴染んで、そうして今もこうして生きている。
夢と引き換えに手に入れた心の同居人は全くの正体不明。だから当時、獏良は思ったのだ。あれは獏といういきものなのではないか、と。
獏。伝説上の動物で、人の夢を喰らう化物。身体が虎や牛やその他諸々のパーツを寄せ集めてできているということは後々になって調べて知った。だから最初に見えた時自分と同じ姿かたちをしていた時、ああ獏って憑りついた人間と同じ見た目になるんだ、と間違ったことを思ったものだ。悪夢を食べる、という通説も実際には違っていて、もともとは悪気を払う存在だったらしい。調べてゆけばゆくほど、バクラが獏そのものだという説は間違いであると知ったけれど、一度そうと思ってから現在に至るまで、獏良にとって彼は獏の特徴を持った何かであるという認識は揺るいでいない。
「ボクの夢は全部お前が食べちゃったんだって」
だって、悪夢以外見たことがなかったんだもの。
呟きは冷たい部屋にしんしんと降り積もる。答える唇は依然、無い。
妹が死んでからは、その夢を。学校を点々としている間は、次々と倒れていく友人の夢を。睡眠の中にも安息はなく、眠ることは苦痛だった。それが、バクラが現れたとたんにぱったりと無くなったのだ。
「だから本当は、少し感謝してた」
少し首を傾げると、耳元でしゃらしゃらと音がした。白い髪が冷えて頬に刺さる。ああ、この髪を彼はやけに気に入っていた。そう考えて指先で弄ってみても、何の感慨も湧きはしない。
バクラが夢を食べたおかげで、自分は夢を見なくなった。ベッドで眼を閉じれば闇の底でバクラと会うか、夢の欠片すら拾い上げずに目を開けたらもう朝か。そう考えると、獏良はもうずっと、眠りの中で孤独を感じたことはほとんど無かった。常にバクラが傍に居たのだから。
手を伸ばしてみる。掴む。勿論、指先に絡まる長い髪の主はどこにもいない。
「何で居ないんだろうね」
空虚だけが残った掌をぱたり。ベッドに落として獏良は言った。
ここ最近、ずっとそうだ。
ジオラマを作り始めたあたりから、彼の不在は回数を増した。今までもたまにふっといなくなることはあったけれど、それは獏良がうとうととしていて寝入る寸前に、ふっと気配が薄くなるのを感じただけで、明確な不在を認識することは少なかった。外出していることを、きっとバクラは隠していたのだろう、そう思う。
それがこうして、隠しもせずに挨拶もせずに居なくなるということは――
「隠す必要がなくなったってことかな」
ベッドに落とした手を持ち上げて、暗闇の中でぼんやり浮かぶ掌をまじまじと眺めてみる。ジオラマ作成が続いているせいで指の先は荒れている。短く切った爪は深爪が過ぎて寒い夜は少し痛む。そう訴えると、心の部屋でバクラがねっとりと舌で絡めて痛みを吸い上げてくれたのだけれど、今夜はそれを望むことはできなさそうだ。
何かが動いている。直感というには鈍く予感と呼ぶには朧すぎる、丁度、目が慣れ始めた夜の室内で家具の輪郭を視線でなぞるような感覚だった。
始まるのか、或いは終わるのか。いずれにせよきっと、バクラが腹の内側に抱えている魂胆はもう蠢き始めている。冷えた掌で胃のあたりをなぞって、獏良は小さく溜息をついた。
「どうでもいいんだけどさ」
そう、正直どうでもいい。彼のすることが何であろうと、共犯者の自分はそれについていくつもりだ。取引が――協力するかわりに一生傍にいろという交換条件が守られる限りは。つまりは、健やかな安眠とそこそこに楽しい生活を提供してくれさえすれば。高望みをしている気は全く、ない。
バクラは獏ではない。それよりももっとおぞましくて劣悪な何かだということは、もう理解している。
だが、それが何だというのだろう。例え彼が全世界の敵であったとしても、それこそゲームに登場する魔王のような存在だったとしても、獏良にとってのバクラは最初に感じたとおりの獏なのだ。悪夢を食べて自分とずっと一緒にいる、そういうものなのだ。
「どうでもいいよ、そんなの」
腹に当てた手をぎゅっと握って、獏良は眉を顰めた。
本当は眠くてたまらない。明日も学校があるのに、随分遅くまで図面とにらめっこしてしまった。だからすぐにでも眠ってしまいたいのが本音なのに、それが出来ない。バクラが居ない状態で眠ることが、恐い。
もしかしたらとびきり悪い夢を見るかもしれない。獏は居ないのだからその夢に喰らいつくされてしまうかもしれない。そう考えると、恐くて眼を閉じられない。バクラが現れる前は悪夢を見たらどうしていたか、どうやって身を守っていたか、そんなことはもう忘れてしまった。丸裸の状態で戦場に放り出されたような心地だ。背中に冷たい汗が溜まるのもひどく不快で気持ちが悪い。不愉快で不安で落ち着かない、そんな気分でシーツを掴む。
「全部お前のせいだよ」
そしてまた、呟く。あたかもその闇がそのまま、憎い憎いバクラそのものであるかのように睨みつけて。
「…さっさと帰ってきてよ、バクラ」
空が白み始める前に、どうか。
絶対に聞かせたくない。まるで乞うような切ない声で、獏良は今宵幾度目かも分からないままバクラの名を呼んだ。