Please, eat xxx.
崖の上で頭をさかさまにして、ひっくりかえった世界を眺めて揺れている、そんな感覚だった。
突き上げられる度に身体が揺れて、少しずつ絶壁へ身体が乗り出していく。落ちるときは一緒に、そう思ってしがみついた両手の爪は自分と同じ色をした白い肌、その背中に突き立てられて十個分の赤い傷跡を生んでいる。
揺すり上げられて悲鳴。同時に、鉄錆味の亀裂のなかへ、爪の先が更に深く潜り込む。
下半身を抉られながら背中を抉る、ああお互い痛いな、と、獏良は息切れする思考の隅でそう思った。
「余所見してんじゃねえよ」
仰け反った喉へ、牙ががぶりと噛み付いてくる。開きっぱなしの口から、あ、と、痛みへむけたものではない声が勝手に溢れた。
なんでこんなことしてるんだっけ。
その理由を思い出せないままに、首を振る。何か嫌なことがあったような気がしたのだけれど、忘れてしまった。むしゃくしゃして腹が立って部屋中をひっかきまわして暴れたくなって、でも全て終わったあとに片付けをしなければならないのも自分だということに気がついてやめて、そうだセックスしようと思い立ってバクラを自分の心の部屋に引っ張り込んだのだ。だのに肝心の原因を思い出せない。
思い出せないのに、耳の奥がつんと痛んだ。
あ、泣いてる? と他人事のように思った後に、がくんと再び揺さぶられて、闇の中でさらに深い場所に落ちるような錯覚を覚える。思わずしがみ付いて、そうして、獏良は涙で濡れた頬と汗にまみれた額を、バクラの肩口に擦り付けた。
「…いたい、よ」
「あァ?」
「いたい」
訴えると、何処が痛ぇんだよ、と、バクラは面倒臭そうに問いかけてきた。
面倒なら放っておけばいいのに。動きは止めないくせに少しばかり律動を緩める仕草に、頭の奥がおかしな風にずきりとする。
違う、痛いのはそこじゃない。獏良の口が小さく、なみだ、と単語の形に動いた。
「耳に入って、いたい」
擦れた声に、理解したらしいバクラの溜息が重なった。
「だったら泣かなきゃいいじゃねえか」
「勝手に出るんだよ」
「ガキか」
「いたいよ」
「ああそうかよ」
うるせえ宿主サマだ、とだるそうな声が響く。それから、温く温度をあげた掌に湿った髪ごと後頭部を掴まれて、しがみ付いた獏良はまるで犬猫を扱うように身体から引き剥がされた。
錯覚の崖の淵に押し付けられて、それからぬるりとした感触が耳朶を覆う。耳孔まで入り込んだ涙の粒を、舌の先が掬い上げていったのだ。
「っ…」
ひくりと爪先を震わせて、獏良は目を強く閉じる。なまぬるい舌は耳からこめかみへ、こめかみから目尻へと這い上がって、睫の先に溜まった雫を音もなく吸い上げた。
その瞬間に、腹の内側に溜まっていた古い油のような気持ちの悪い苛立ちの正体を思い出しそうになった。
(いやだ思い出したくない)
早く消えてねえ全部食べてしまってそんな嫌なものは全部!
言葉にも出来ない悲鳴を、バクラが感じ取っていたのかどうかは分からない。だが悪食の悪魔とも呼べる邪悪な同居人は、丁寧に涙の粒をすべて舐め取ってしまった。
同時に、腹の中の苛立ちもすっと消える。あとにはぽっかりとしたがらんどうが獏良の中に残された。
「これでいいだろ。ったく、水差すんじゃねえよ」
相変わらずかったるそうな声が響く。瞳を開いた獏良の目前で、バクラは心底呆れた表情を浮かべていた。
見慣れた顔。凶悪な瞳と皮肉に歪む唇。目の前にはそれしかない。
ああ、よかった――と、ほんの少しだけ、獏良は笑った。
「ねえ」
小さな声で呼びかける。何だよ、と、眉間に皺を寄せたバクラが応じる。
そうだ、この得体の知れない同居人だけがいればいいのだ。彼を収容するために、自分の中身は空っぽにしておかなければならない。厄介な苛立ちなんかを抱え込んでいる余裕は、細い身体のどこにもないのだ。
だから、そんな置き場所の無いものは、さっさとどこかへ片づけて。
「…次は、泣く前に食べちゃってよ」
――あふれ出す前に、零れ落ちる、その前に。