【♀】君が差し出すポメグラネイト
※メリバかもしれません。直接的ではないですが死ネタが含まれます。
一人暮らし。
が、長いもので。
キッチンから漂う料理の匂いというものを、嗅いだ記憶が殆どなかった。
自炊が基本の生活で、料理の匂いの中心にはそれを生み出す自分が必ず存在していた。タイマーをかけた炊飯器がアラートを鳴らす前に帰宅して、部屋に微かに良い匂いが漂っているのを感じたことはあるけれど、それを仕掛けたのは午前七時の了自身であったし、自分以外の誰かが作り出す料理の匂いも気配も、長いこと感じたことがなかった。遡れば幼少期の覚えくらいは残っているが、それこそ時間が経ちすぎている。だから今、ふと目覚めて瞼を開く前に鼻腔を刺激した気配にひどく驚いた。時間の経過と共に薄くなった記憶を無理矢理に引っ張り出された気分だった。
ソファで眠っていた。身体が痛い。起き上がる。六階から見える夜空は真っ暗だ。月が高い位置に出ているが、朧に霞んで光はぼやけている。ぼうっとしていると目が慣れて、キッチンの明かりだけが頼りなく光っているのを見つけた。ぺたぺたと裸足で歩いて、カウンター越しに覗き込む。シンクに食器とフライパンが散らかっている。菜箸と皿と包丁とまな板、調理の残骸がそのまま一人分、一式。料理馴れした了ならば絶対にやらかさないような雑然とした「やりっぱなし」を体現した姿が、薄い明かりに照らされていた。
了は腹をさすってみた。少しもたれている気がする。
「ねえ」
振り向かず、口だけを動かして、了は言った。
「何か作ったりしたの」
『冷蔵庫の片付けを手伝ってやっただけさ』
斜め後ろの空中から、バクラの声だけが答えた。
『昼にちゃんと食って下されば、オレ様もこんなことをしなくて済むんだけどなァ』
しっかりして下さいよ宿主サマ、と、嫌味な声がくつくつ笑う。
了は答えずに、廊下の明かりをぱんと叩いた。橙のLEDライトが玄関までを煌々と照らし、サンダルとスニーカーが一足ずつ出しっぱなしになっている様を、寝起きの瞳に見せつける。片方がひっくり返って転がった靴。夕方に了が学校から帰ってきた時には、きちんと揃えて置いたはずの靴だった。
「また勝手にボクの身体を使ったんだ」
『お前が困るようなことはしてねえよ。飯だって食っておいてやったじゃねえか』
ああ、それとも――と。
『とっといてやった方が良かったか? オレ様の手料理』
するり。存在しない掌に頬をさすられて、了は眉間に皺を寄せた。
「いらないよ、いるもんか。何が入ってるか分かったものじゃない」
『ヒャハハ、そうか、そうだよなァ!』
何がおかしいのか、バクラは不愉快な笑い声を撒き散らして、そして現れた時と同じように、気配を消した。
残ったのは残滓だけ。料理の、気配の、外出の。
いつだって終わった後のものが了に残され、了はその後始末を、暗澹たる気分で片付けなければならない。
それ以外の何も出来ない。何も許されていない。自分の身体、自分の部屋、自分の人生なのに、何一つ。
(誰が食べるもんか)
あんな、得体の知れないモノが作った、何だかわからない料理なんて。
そう思っているのに、この胃袋の中に既にソレが咀嚼されて居座っていることにぞっとした。
バクラが何か作って食べたというなら、単純に腹が減ったのだろう。腹が減ったということは、何か活動してきたのだろう。了の精神を一方的に封じ込めて、あの黒いコートを着て、外へ出て、了では及び知らない何かをして、帰ってきて靴を脱ぎ散らかして、そして、空腹を満たす為に適当に何か作って食べたのだ。そう推測は出来るが具体的なことは何ひとつ分からない。ただ身体だけが知っていて、雄弁に、足の疲労と満腹感を訴えてくる。
勝手に作って勝手に咀嚼し、勝手に血肉となったバクラの料理が気持ち悪かった。まるで砂を食べさせられたかのようだ。薄い皮膚を内側から押し上げる胃袋の膨らみを不快に抑えて、了は唇を噛む。
靴を揃えるのも散らかったシンクを片付けるのも、もう少しあとでいい。もう眠ってしまいたい――でも、眠ったその間にもしかしたら、また。
そういうことも何もかも考えないで、ただ静かに眠ってしまいたかった。
…
「バクラ、冷蔵庫の中身何か使ったら補充しといてよ」
冷蔵庫の前で訴えると、実体を持たない男がすぐ傍で、めんどくせえと吐き捨てた。
「こっちにだって予定ってものがあるんだよ。ボクが食べようと思って買っておいたもの、勝手に使われると困るんだ」
『知るかよ、名前でも書いとけばいいんじゃねえの』
「ネギに名前書けとかばかじゃないの。メモに書いても読まないし。識字やばいのお前?」
『うるせえな、倍買えば問題ねえだろうが』
「お前の気まぐれの料理に付き合うほど、財布は元気じゃないんだよ」
ばん、と音をたてて冷蔵庫を閉じる。中でかたかたと揺れた音がしたので、もしかしたら卵が割れたかもしれない。そうなったら誰が片付けるんだボクか、と了はため息をついて、恨みがましい目でバクラに向けて振り返った。
同じ顔で違う表情のバクラは、飄々とした様子で肩をすくめて見せるものだから不愉快だ。また、勝手に作って勝手に食べたらしい。何回も繰り返した問答に進歩は一つもなく、変わったことといったら二人の関係性がよりこじれて、より曖昧に、より近く――なってしまったことだけだ。
ただ正体不明の不快な幽霊だったバクラと了の間に徐々に生まれた交流が、今のなあなあな日常の中心になりつつある。これが馴れ合いで、にせもので、見たくないものから目を背け、臭いものに蓋をしただけの虚構だということは分かっていた。それでも了には、数か月前のあのちくちくとした不快で泣きたい日々よりも、今のぬるま湯の生活の方がましだと感じている。或いは、そう感じるように巧みに誘導されてきたのか。
どちらにせよ、それも背けたい現実につながる考えだ。だから見ないことにして、代わりに虚構の日々で発生する些細な出来事に目を向けることにする。
「洗い物もしないし包丁すらしまわないし、そもそも何作って食べてるの?」
『ご自身の胃袋がご存知じゃねえか、聞いてみろよ』
「胃袋が喋れたらね。何かいつももたれるんだよなあ…油っぽい…」
腹をさすると、明らかに何か重ためなものを食した感触があった。舌に塩辛い味が残っている気がする。さきほどまで了は昼寝をしていたので、その間にバクラが何かしたのは想像に難くない。料理だけなのか、それともまた何か外でしでかしてきたのか。薄暗い玄関を意図して見ないようにして、了はミネラルウォーターのボトルに口を付ける。
「次は取っておいてよ。食べたいからさ」
『だから食ってんじゃねえか、身体には入ってんだ、同じことだろうが』
「ボクが、食べたいって言ってるんだよ。寝てる間に入ってるものなんて認識できるわけないだろ。点滴じゃないんだから栄養だけ与えられても実感ないし」
『宿主サマのお口に入れて頂くような、大した飯じゃございませんよ』
「うーわ、むかつく言い方」
ボトルを冷蔵庫に戻し、あからさまに面倒くさそうな様子のバクラを見上げて了は思う。自慢ではないが了自身の料理の腕はちょっとしたものだ。上手い部類に入ると思う。それなのにバクラが作るとこうなるのだから、身体に染みついているであろう技術ではどうにもならない部分で、味がおかしくなっているのだろう。頭では分かっているのに不思議でならない。両手をまじまじと見てみる。この手で生まれる料理がおいしくないだなんて。
「ボクの身体で作る癖に下手なんだよね、何、お前ってひょっとしてボクのとこ来る前から料理したことない人だった?」
『ハイハイ、宿主サマの料理はいつも素晴らしい出来栄えでいらっしゃる』
「またはぐらかす。ねえ、本当にとっておいてよ。何が駄目なのか見てあげるからさ」
すると バクラは酷く面倒くさそうに目を細め、やなこった、と言った。
この問答も何回目だろうか。バクラの手料理を食べる機会が恐らく一生来ないであろうことは、了も承知している。きっとこのままごとのような日々が終わるまで、バクラの料理はまずいままだ。
あの日はあんなに、食べたくないと唇を噛んだのに。
あの日はあんな風に、とっておいてやろうかと言った癖に。
「……一度くらい食べさせてよ」
ぽつり、言ってしまった。
蓋がずれる幻聴が聞こえる。見たくないものが視界の隅に入ってくる。意図的に避けていたそれらが、隙間を見つけて入り込んでくる。
分かっている。いびつな日々も、いつか終わりが来る。
だからその前に、一口だけでも。
塩辛い唇が呟いた一言を、バクラはどんな顔で聞いていたのだろう。俯いていたせいで、表情は分からなかった。
…
油の匂いがする。
それと恐らく、濃口の醤油。鶏ガラ。生姜が少し。
(炒飯)
と、頭の中で唱えて、了は顔を上げた。何もかもが終わって、何もかもが億劫で、テレビをつけたままソファの座面に額を押し付けて眠っていた。昼間のニュースが遠い国の出来事を喋っている。耳に入って脳を通らずにすり抜けていく情報と一緒に、鼻に訴えてくる料理の匂い。食べ物の匂い。
首を回して、キッチンを見てみる。ことん、と、小さなダイニングテーブルに、皿が置かれた所だった。
バクラが、そこに居て。
皿を置いたところで、目があった。
「飯」
と、彼は一言そう言って、顎をしゃくって見せた。
できたての湯気をあげた一人分の炒飯が、了がいつも座る席に、ぽつんと置かれていた。
「ああ、うん」
寝起きの気分のまま、了はのろのろと起き上がり、惰性の動きで席に着いた。
おかしなことが起こっている。胸を探ると千年輪はそこになく、ただ傷跡だけが残っていた。あの重たい黄金の輪が砂礫の向こうに消えたことも、その後に起こった悲しい復讐者の胸を刺したことも、そして今度こそ本当にどこか手の届かない場所に消えたことも、ついこの間起こった全てを、忘れていない。忘れられるわけがない。覚えているから了はどうしてもこれから先の人生を進みあぐねて、しかし歩かないわけにもいかず、ちまちまと足を進める生活をしているのに――その全ての元凶が、向かい合ってテーブルについているなんて、あるわけがなかった。
(しかも、料理なんてして)
ここに了の身体があるのに、どうやって包丁を握ったんだろう。
考えて、考えて、何もわからなかった。ただすとんと、ああバクラが料理をしたんだと、そのことだけは腑に落ちて、呆とした表情のまま、炒飯とバクラの顔を見比べていた。
「炒飯、だったんだ」
つくってたの。
そういうと、ああ、とだけ彼は答えた。
「いつも炒飯だったの?」
「まあな。何でもブッ込めば炒飯になる」
「雑だなあ……」
「お前が作ったのは美味かったけどな」
「うわ、素直」
気持ち悪い。言うと、うるせえと返されて睨まれた。
あの温い日々そのものの、否、それよりも生ぬるい、夢のような、母胎のような空気だった。現実感がひどく希薄で、部屋が丸ごと一つ、薄布にくるまれているかのようだ。
バクラが居る。不機嫌そうな表情で、腕と足を組んでこちらを見ている。
了はレンゲを手に取り、それをもたもたともてあそびながら――問いかけた。
「ねえ、どうして作りに来てくれたの」
あんなに嫌がっていたくせに、どうして。
「お前が食いたいって言ったんじゃねえか」
平然と、しかし少々むっとした様子で、バクラは答える。質問にまともな答えが返ってくるのが不思議だった。いつだってはぐらかされてばかりだったから、望むものが手に入ることが喜びよりも戸惑いを運んでくる。暫くしてからじんわりと嬉しくなって、そう、そうなんだ。呟いて、了は黄金色の炒飯の山に、レンゲの先端を差し入れた。
「いいのかよ」
ぼそり。
低い声で言われて、手が止まった。
何が――なんて、問い返す必要もない。その意味はなんとなく、分かっている。
彼が現実のものではないことも、その彼が差し出した一皿の炒飯の意味も。
黄泉竈食くらい、幻想好きの了はとっくに知っている。黄泉の国のかまどの飯を食らったなら、もう二度と現世に戻ることはできない。古くから伝わるこのエピソードが炒飯であることが妙におかしくて笑えたが、別に煮炊きの種類など限定されていないだろうとも思う。
ここには櫛も、髪飾りも、魔除けの桃もありはしない。
誰も助けない。選ぶのは自分だけだ。
坂の向こうに、河の向こうに行ったバクラが、差し出してきた一皿を。
受け取る意味を、温かい湯気を最後に、水面へ足を入れる覚悟の有無を、彼は問うている。
ずっと拒否していた日々を。受け入れた日々を、背を向けた日々を、求めて、嘘で、崩れて、無くして、崩れた砂山の末に今ここにある、現在を、捨てて。
ここで「それ」を選んで、お前は構わないのかと。
バクラはそう、言っているんだ――理解できるからこそ、了は笑った。
「うん、いいよ」
躊躇いはなかった。
驚くほど。
この瞬間をずっと待っていたと、思えるほどに。
微睡みの中で口に入れた炒飯は、ぱらりと米がほどけて、胡麻油が効いていて、あの日々の中で気持ち悪く感じた古い油とは似ても似つかなかった。あちら側に行ってから練習したんだろうか。そんな風に考えたら、少し笑えた。
「美味しいよ、バクラ」
もう一口を口に運ぶ中で、了は言った。
バクラはそうかよ、とだけ答えて、少しだけ口の端を、持ち上げて見せた。
『――次のニュースです。…日…頃、童実野町………獏良了さんが自宅で亡くなっているのが発見され……外傷はなく、自殺と事故の両面から――――――