étreinte.
ずんぐりした闇がわだかまっている。あたりは相変わらず真っ暗な心の部屋で、その場所だけが明らかに重たい。
感じられる温度。音の無い細い呼吸。目を凝らしても何も見えない存在。
この場所に行き止まりなんてないのに、まるでそこは壁際で、かたまりは追い詰められて所在なく蹲っているように感じられた。
誰も居ないはずの静かな部屋の中で、獏良はそれと、歩数にして三歩分の距離をとって向かいあっていた。
全て終わって、ありふれた日常が戻ってきた今、同居人はもう居ないはずだった。何も覚えていないけれど現場に居合わせた友人達がそういうのだからそうなのだろう。胸に下がっていた重たいリングはもう太陽の届かない場所へ、砂と瓦礫の奥底へと吸い込まれて消えて行った。だからもう、心のなかには自分しか居ないと思っていた。
だから、期待もなにもせずに、ただ何となく下りた闇の底に、それはいた。
「…お前なの?」
口を突いた言葉は乾いていた。
呼称する名前をなくして、呼びかけたのはくちびるに慣れた呼び方。
気配は返事をしなかった。ただ、耳に届かない呼吸がひゅう、と音を立てたような気がした。
「ねえ、お前なの?そこにいるの?」
開いた距離を一歩、縮める。途端、それはまるで獣のように唸って何かをこちらへ訴えてきた。威嚇――手負いの獣があげる拒否と警戒の入り混じった波動がびりびりと暗闇を渡って獏良の頬を打つ。
いるわけがない。厄介な同居人はもういない。そのはずだ。
けれど部屋の中で響く早鐘の鼓動はふたつある。自分とそれの音が重なってまるでひとつなぎの連続音になってしまいそうなほど近くて、早くて、そうして熱い。
「…お前なんでしょう?」
拒絶の波動を肌に感じながら、もう一歩。手を伸ばせば届く距離になった。
間近でそれは再び唸った。声はなく、頭蓋に響くような何かの波が獏良の頭をぐらぐらさせる。今にも飛び掛ってきて喉笛を食いちぎられるのではないか、そんな危うい感覚が首のうしろに冷たい汗を浮かび上がらせる。
それでも手を伸ばせたのは、それの正体が分かっているからだ。
ゆっくりと差し出した掌に、かさかさに乾いた髪の感触があった。途端、手を払いのけられる。その勢いも痛みも、よく知っていた。昔まだ馴れ合う前のこと、獏良が意に歯向かった時によくこうして払われた。そのときのことを思い出して、ぐ、と胸が詰まる。
(ああ、)
やっぱりお前なんだね。
そう、思った。
思ったらもう、身体が勝手に動いていた。
冷たい闇に膝をつく。じんじんと痛む左手とぶらさげていただけの右手を持ち上げて、獏良はそれを、やわらかく抱きしめた。
腕の中でそれがもがく。思っていたよりもかたまりは大きくて、獏良が思っていた大きさ――己の写し身と同じ長い髪と細い体躯とは大きく違っていた。ただ、触れた髪の色は同じであると、視覚に頼れない暗闇の中で確信して思った。
かたまりは暴れる。両腕を振り上げてじたばたと不恰好にもがいて拒絶する。
それでもきつく抱きしめて、ただ、黙っていた。掌に伝わる温度はひどく冷たく、小刻みに震えてさえいた。
「――だいじょうぶだよ」
小さな声で、獏良は言った。
震えがぴたり、と止まる。
何が大丈夫なのかなど、獏良自身にも分かりはしない。消えたはずの存在が何故ここに戻ってきたのかもわからない。何もかもわからないけれど、それでも言った。一緒にいたときには一度も口に出したことの無いやわらかい声が勝手に出てきていた。
ふうふうと首筋に呼吸が当たる。触れてみれば、それはぼろぼろの姿だった。掌にあたる服と思われる部分はあちこちが擦り切れてところどころざらざらとする。吸い込んだ空気は砂の匂いがして、はるか遠いエジプトの地を思い出させた。さするように動かすと冷えた肌に触れて、傷にあたったのかぬるりとした感触。きっとそこには血が流れていて、ほんとうに手負いの獣だったのだと再確認した。
何があったのだろう。何かがあったのだろう。
問いただしたい気持ちを抑えて、もう一度言った。大丈夫だよ、と。
「恐がらなくていいよ」
囁くと、それはもう一度震えた。
もしかしたら人の形をしていないのかもしれない。明るみに出て姿を確認したら、恐ろしい異形のすがたかたちを、彼はしているのかもしれない。ごつごつとした背中や人としては随分いびつな輪郭を撫ぜて、それでも恐怖心は浮かばなかった。
これは彼で、かえってきたのだ。きっと、つらい目にあって。とても寂しくていくあてがどこにもなくて、溺れる寸前の人がわらにもすがるように、きっと、ここしか場所がなかった。
「ずっといていいよ」
ぼくのなかに。
囁くたびにそれは震える。鉄錆と砂の匂いのする身体をわななかせて、それが何か言った。擦れた気配で、音にならない波で。
きっとそれは、一度だってどこにも吐き出すことができなかった、歪んで傷ついた彼の本音だ。憎しみや恨み、どろどろしたもので覆い隠してきた弱い部分だ。
恐らくそこだろう、と思う場所に、獏良は唇を寄せた。肌になれた柔らかな感触はなく、かさかさに乾いた肉の隆起に少し触れただけだったけれど、それでも、ああ、と、自分自身のうちがわから安堵の声が漏れた。
帰ってきた。お前は、ここに。
涙は出なかった。ただ、何かが滲むような溢れるような、そんな気分だ。
「おつかれさま、ばくら」
歪んだ闇のかたまりを抱きしめて、獏良は小さく、甘く、囁いた。
答えるようにそれは震えて、そうしてようやっと、頭らしき場所を獏良の肩に押し付けて、泣いた。