八月、水底に沈む

蝉、が。
うるさいとかいうありきたりな感想が出てこなくなるくらい、耳に慣れた八月の日曜日、午前十時。獏良はぼんやりとベッドに転がったまま、窓の向こうの焼きついた一面の青を眺めていた。
四角く切り取られた空は雲一つなく、見ているだけで暑苦しい。皮膚の色が薄く強度ももろい獏良の身体では、この酷暑に日影のない場所へ行くのはさぞかし拷問じみていただろう。きっと後悔していただろう――だなんて言い訳をしながら、息を吐くと幻聴が聞こえてくる。
小さな滝から零れる涼しげな音色。たまに吹く風が木々を揺らし、ざあざあと雨のような音を立てる。クラスメイトの歓声。跳ね上がる水の、飛沫。
『行きゃあよかった、って顔してるぜ』
長方形の青の端が、白で欠けた。
寝転がる獏良を覗き込む形で、さかさまにバクラが、嫌味というのはこういうものですという顔つきでもってこちらを見ている。吊り上った唇がきのうの月とそっくりだ。猫の爪のかたち。少しだけ開いた隙間から嘘くさい色の舌が覗く。
『せっかくのお誘いを蹴って家でダラダラたァ、らしくもねえ。誘われたら二つ返事のオトモダチ依存症は完治したのかよ?』
「うるさいな、暑苦しいからあっち行けよ」
獏良が虫を払う仕草で手を振ると、ひゃははというこれもまた嫌味の音としてサンプリングされたかのような声で笑われた。不愉快なので毛布をかぶる。暑くなってすぐに剥いだ。
バクラは腕を組んだ姿で、背景をうすく透かせて獏良を眺めている。酷薄なくちもとに愉快犯の笑み。今一番見たくない顔だ。だがしつこく暴きたがる舌が滑らかに動いて、声は背中から這い上がってくる。
『実際どうなんだ、夏休みに皆で川遊びに行きましょう、なんて、宿主サマの大好きな王道のシチュエーションを蹴るなんてただごとじゃねえ。泳いではしゃいで肉食って、楽しそうで結構じゃねえか。仲良くしてえんだろ? なのにどうしちまったんだ』
オレ様は心配してるんだぜこれでもな――などと、向こうが透けて見える薄紙の言葉をとってつけられて、獏良はもう一つ溜息をついた。しつこいなあ、嫌だなあ。けれど、こうして嫌がっているのに暴こうとするしつこさを、百パーセントの不快としてはねのけられない自分の弱さも自覚済みだった。興味を持たれる喜び、知ろうと働きかけられる快感はぬるま湯の温度で、強張った心を溶かしてくる。たとえそれが悪意からの言葉でも、ただ獏良――否、宿主の全てを把握しておいて後からしっかり利用しようという下心があると分かっていても、流されてしまう。
だから、と。
真っ直ぐに結んだ口を開いてしまう、これが弱さなら獏良は永遠に弱者だった。
「川じゃなかったら、行ってた」
『へえ?』
背中を向けているので、表情は分からない。きっとバクラは片眉を上げていただろう。
「川遊びが好きじゃないってだけ。苦手なんだ」
『泳げねえってわけでもねえだろうに』
「だから、川が嫌なんだよ。昔溺れた事がるから。お前、ボクのことずっと見てたくせに知らないの?」
バクラにも知らないことがあるというのは、ちょっとした快感だった。何でも知ってますなんて顔している割に、獏良の中の大きなトラウマのひとつをご存知ないだなんて笑わせる。気をよくした唇で少し笑って、獏良はそのまま語り続けた。
幼い日のこと。前後はよく覚えていないのだけれど、川で溺れたことがある。
五体満足で生きているのだから大事には至らなかったことは分かる。それ以外の背景がひどく曖昧で、強烈に残っているのは恐怖感と死の匂い、味。
「きれいな川じゃなかったよ。泥っぽくて、水が苦くてぬるかった」
そんなに深い川ではなかったのかもしれない。暴れた手足で巻きあげたのは泥ばかりで、それが身体に絡みついて余計に動けなくなる感じがした。目を瞑っていればよかったのかもしれないが、死の恐怖に暗闇の恐怖まで追加することを、肉体が選ばなかったのだろう。見開いた世界は茶色くぼやけて、ごぼごぼと自分が吐き出す空気が歪んで水面に逃げていくのを見た。やけに遠く聞こえるのは跳ね上がる水のやかましい飛沫、助けてという意味合いのことを叫ぼうとしてくぐもった濁音にしかならないそんな音。
必死に手を伸ばしたら、何かを掴んだ。多分あれはぬかるんだ草だった。ぐっとつかむと鋭い葉に掌を裂かれて、それでも縋りつくけれど滑って離れてゆく。それでも握り締めていた、背中の方に向かって引っ張られてゆく。絶望。ここで終わるのかという恐怖と、どこからか湧いてくるのは怒りだった。どうして自分がこんな目に、どうして、と。
思い出してくると背中がぞわぞわしてくる。八月の、窓を開けただけの室内で異様な鳥肌を感じて、獏良は泡立つ二の腕をさすった。
「だから、恐かったんだよ。川で遊ぶなんて気が知れない。溺れた人ってどうなるか知ってる? 自分の身体なのに全然自由がきかなくてさ――人間、パニックになると当たり前のこともできなくなるんだ。そりゃもうまるで」
『誰かに押さえつけられてるみたいに?』
声が――耳からではなく、脳みそに。
直接滑り込んできたみたいだった。赤く裂けた唇から頭蓋骨の中の大事なところに、じかに差し込まれた、バクラの声、だった。
声で揺さぶられる。記憶。間延びした逆再生と早送りとザッピングが混ざり合う。五感が乱れた。口の中に泥の味と血の味が。酸素を求めて必死に暴れて、死にもの狂いで水面に顔を上げた一瞬見た空の色。ばかみたいに青い。白い光線のかたまりになった太陽。狂ったように暑い。派手に水を叩く音。そして声。何を言っているのかわからないのになぜか意味が分かる。あれは罵声だ、獏良のことを悪しざまに叫んでいる声。どうして。
『掌の痛みなんざすぐに忘れた。耳と鼻から入ってくる水の気持ち悪さもどうでもよかった。全部憎くてたまんなかったろう。そこで頭を、押さえられたな。せっかく上げた面をまた水に押し付けられた。今度こそ死ぬ。そん時に、手に持ってたモンを咄嗟に突き上げた』
そう――そうだ。
泥水の中でやけにはっきり見えた。溺れもがく自分の手に握られていたもの。それを、突き出した。自分を苦しめるにがくて憎い水を全部引き裂いてやろうと思って撥ね上げた。水の中のせいでやけに遠かったけれど何か悲鳴のようなものが聞こえて、急に自由が戻って。
『青空が、赤く見えた。一瞬』
いま言おうとしたことを、バクラが、言った。
冷たい刃を差し込まれた脳髄が覚醒する。いつの間にか止めていた息を獏良は大きく吐き出して、勢いのまま振り返った。翻った自分の長い髪越しにバクラが見える。なんで知ってるんだ。からからに乾いた喉から声がしぼり出た。いやそれより、なんで。どうして自分は殺されかけていたんだ。子供の頃にそんなことがあったなんて。溺れた事しか覚えていなかったのに、今、いきなり、どうして。バクラは。
バクラは――笑っていた。
長い首をすう、と、獏良の方へ伸ばして、顔を近づけて。
死の匂いがする口をわずかに歪ませた、その表情の上に激しく明滅するのは泥水の記憶。獏良は自分の手に目をやった。記憶がそのまま上に重なった。ベッドが無くなる。部屋が無くなる。憎いくらいの日差し。蝉の声は聞こえない。
水を吸って重たくなった衣類から、ぱたぱたと水滴が垂れた。前髪から雫が垂れて頬を伝う。すぐに乾く。川が濁った色の中に赤いものを混じらせて、すぐに溶けてわからなくなる。流れてゆくもの。布。何かの果物。草。それから、動かなくなった大人の、腹を見せた魚のような姿と。
フラッシュバックはバシバシと音を立てて獏良の頭の中を掻き乱す。川に立ち尽くした獏良の前に、バクラが立っていた。俯いて、同じようにびしょ濡れて。
「なんで、知って」
問いかけると、バクラはゆっくり、顔を上げた。
紫色の瞳、が。
ずぶ濡れた子供の姿だった。手にナイフを持って。
獏良の手に握ったままの、そのナイフと同じ形のものを持って、立っていた。
「よぉく、知ってるさ」
子供は言う。よく覚えのある声で。
紫の瞳は笑っていた。だのに憎しみと不愉快を足して、血の色のように濁っていた。
この記憶を、自分以外の者が知っているということに対する不快感と、何だろうか――そんなことはもうどうでもいいと思っているのに何を今更、という、忘れていた嫌な記憶を無理矢理穿り返された時に感じる特有の嫌悪感。古くなった油を舐めた時の感覚と似ている、そういう顔で、けれど、笑っていた。
(そうかあれは、ボクの)
じゃない、お前の。
言いかけたところで、子供が手を伸ばす。バクラが手を伸ばす。
距離という物理を乗り越えて、蜘蛛の足のように延ばした五指が、獏良の口を、塞いだ。もう何も言わせないと言う強い力。頬骨が痛い。黙れ、と、恫喝する意思を感じる。
間近に感じた死と憤怒の匂いが、覆いかぶさってくる。
ただ目を見開くしかない獏良の耳に、一言だけ、声が言った。
「お前こそ、何でそれを知ってる?」

 

 

 

 

 

 

 

「獏良くん大丈夫?」
は、と顔を上げると、心配そうな遊戯の顔があった。
世界が一気に、五感を通して飛び込んでくる。遊戯の顔。その後ろの木々の緑、光と影のコントラスト。蝉の声と水の音。背中をひとすじ流れた水滴の感触。
「城之内くんが、あっちのちょっと深い方まで行こうって。行ける?」
「え、あ、うん、だいじょうぶ。何かぼうっとしちゃった」
「あとから合流だったもんね。急いで来てくれたし」
そう言って、水着に夏らしい薄手のパーカーを羽織った遊戯が笑う。
そう――そうだ。
そうだった。何だか呆けてしまっていただけで、別におかしいことはなにもない。今日は皆と一緒に川に遊びに来ていたのだ。予定があって最初はいけないと断ったのだけれど、急に予定があいたのでおいかけていって、少し前に合流した。勢いで遊んでいたら疲れてしまって、こうして木陰のレジャーシートの上で休憩していたのだった。
ゆっくり立ち上がると、遊戯は浮き輪を小脇に抱えて、先に行くねと日なたの川に向かって走り出した。豆粒よりもう少し大きく見える城之内と本田が大きく手を振って、早くこっちにこいと促しているのが見えた。
獏良は自分の手を見下ろした。ぐー、ぱー。握って開いてみる。痺れもないし、眩暈もない。何も、持って、いない。
何か忘れているような気がするけれど、首をひねっても思い出せなかった。ということは、大したことではいのだろう。喉の奥にひっかかった魚の小骨だって、ふつうに生活しているといつの間にか消えてなくなっている。そんなものだ。遊んでいるうちにきっと、忘れたことさえ忘れてしまう。
『おい、早く行けよ。オトモダチがお待ちだぜ』
その声で完全に、捻った首を無理矢理元に戻させられる気分だった。自分にしか聞こえない声がおもしろくもなさそうに、獏良の耳に吐き捨てる。バクラの声だ。彼としては遊戯たちと一緒に過ごす時間が快くはないのだろう。解ってはいるが、遠慮をする気もない獏良はそれを無視して、サンダルを履いて立ち上がる。
「待ってよみんな、ボクも行く!」
砂利を蹴って、獏良はそのまま元気よく、透明な川の中に足を踏み入れた。
どこまでも澄んで、水底の石を透かす清純な流れ。足裏からふくらはぎに感じる冷たさが心地よい。
「お前も来ればいいのに」
『お気遣いなく。とっとと行っちまえ、宿主サマ』
バクラはうんざりとした表情で、まるで犬を払うかのように手を振ってくる。こんなに気持ちいいのになあ。そういうと、何故か口の端を曲げて笑われた。
「嫌な奴だな、相変わらず」
それだけ言って、獏良は照りつける太陽光から逃げるように、勢いよく川の流れに飛び込んだ。顔から頭から全てを優しく、水の流れに撫でられる。つい先ほどまでの呆けた気分も冷たい水で押し流されて、一気に気分が切り替わった。まったくどうして、あんな風にぼうっとしてしまっていたのだろう。ただでさえ途中参加で遊べる時間が短いのに。
一度顔を出して、空を見上げる。綺麗な青空だ。水の中にいると真夏の太陽の温度すら心地よい。
「やっぱり海より川がいいな、来てよかった」
『ああそうかい』
「興味なさそうな声だな。まあいいや、ボクいまから遊んでくるけど、邪魔しないでよね」
『しねえよ、ごゆっくり』
その言葉と共に、バクラの姿は?き消えた。
口元の嫌な笑みが少しだけ気にかかった。いつもの不機嫌や皮肉とは少し違っていたような気がした。こちらの気に障る、まるでばかを見るような、イデオットを嘲弄するような、殊更嫌な雰囲気の笑い方だった。何なんだ。眉間に皺を寄せてみるけれど、水の中にいるうちにどうでもよくなってくる。バクラの思わせぶりな態度など今更だ。どうせまた、良くないことを考えているに違いない。
それを許容しながら友人とも遊ぶバランスの悪さに、ほんの少し胸が痛んだけれど――ただこの場所は綺麗で、広くて、悩むことを許さない空気があった。楽しいことだけをする場なのだと背中を押されている気持ちで、獏良は逆らわず、暗い思考を文字通り、水に流すことにする。
背中を水面に預けて浮くと、自然と、感嘆の溜息が漏れた。
ああ、気持ちいい、と。
「このまま流れて行っちゃいたいくらい、最高の気分だよ」