埋まらない、生まれた日【2018獏良生誕SS】
『 夢を見たので、花を買いに行った。 』
蝉の声がなりをひそめて、少しずつ、秋の虫が奏でる高い音が耳に届くようになった。つまりそれだけ土から這い出て、生きて、そして死んだいのちがあるのだと獏良は思う。
秋の訪れを喜ぶよりも夏の終わりを感じさせる、そんな時期に、彼は生まれた。
実際、微妙な日取りだと思う。学生時代は、夏休みが明け、誰もが終わってしまった長期休暇を嘆くばかりで、明けてすぐの獏良の誕生日を忘れがちだった。誰に主張したいわけでもないから黙っていつも通りを過ごす間、何も感じないわけではなかったか、言わないから知らないのだ、気づかないのだというただそれだけの話で、それ以上に何もなかった。
幸い今年は日曜日で、誰に祝われなくてもおかしくはない。皆家にいるし、わざわざ声をかけてまでお祝いして欲しいなどと、言えるわけもなかった。
だから獏良にとっては、誕生日は夏の終わりで、蝉の死を感じさせる時期で、少しだけ寂しくなる、そんな類の一日だった。
その日曜日に、彼は花を買いに行った。
駅前、往復三十分。その程度の移動だけで汗が流れてくる。終わるならきっぱりさっぱりすぐに終わればいいのに。盛暑面する残暑を疎ましく感じながら、獏良は左手に握った花束を見た。
仏花、だ。
菊と竜胆、あとは名前のわからない濃い緑の葉を白い紙でくるんだ、シンプルな花束。
花瓶どこだっけ、と呟いても、答える人間は誰もいない。
靴も脱がずに少し考えて、結局、誰も使わないガラスのタンブラーに水を入れた。
夢を見た。
心の部屋と似た場所で立ち尽くしている自分を、正面から見る夢だった。
自分の現身なのか自分が現身なのか分からないが、目の前のそれは鏡に映った姿ではないようだった。
差異はただひとつ。見慣れたボーダーのシャツの真ん中に、どろどろと丸い雫を零す大穴が開いている。見覚えがあった。黒いコートの色。心の部屋で覗き込んだ、相手の瞳の奥にあった闇の色。タールに似た重たい質感で、それは真っ黒な孔から零れてくる。まあるい孔。ちょうどあの黄金の輪と同じ大きさの。
不意に誰かが獏良の傍に歩み寄って、胸の孔に、何かを差し入れた。
リボンが巻かれた箱だった。孔はそれを貪欲に飲み込む。彼が首を振る。
また誰かがやってきて、同じことを繰り返した。シュークリーム、ゲームブック、フィギュア。それらは獏良が好きなものばかりで、貰ったら嬉しいと感じるものばかりだった。
だが彼は首を振った。何回も何回も、目を伏せて。
そうして何人もの人が通り過ぎて行った後、残ったのは彼と、見ている獏良の二人だけになった。
彼が悲しげな、熟れた柿の色をした瞳で獏良を見る。
やがて手が、こちらに向けて伸ばされる。表情とは似つかわしくない、縋るような、求めるようなしぐさだった。
獏良はそれを、妙に冷めた気分でただ眺めていた。
ふと手を見下ろすと、菊の花が握られていた。
乞われるままにそれを差し出した。吸い込まれるように、真っ赤な菊の花は虚孔に差し込まれた。
黒い孔に大輪の花が咲く。
彩られた胸を晒して、彼は――獏良は、少しだけ笑った。
眉を下げて、諦めた表情で、甘くない薄い笑顔で。
またひとつ、黒い雫が溢れて垂れる。
埋まらない孔から大粒の涙をぼろぼろ零して、獏良はただ、そこに立ち尽くしていた。
だから花を買いに行った、のだった。
タンブラーの中で、窮屈そうな仏花はクーラーの風に揺れている。テーブルの真ん中に置いて、ダイニングチェアに腰掛ける。
向いの椅子には誰もいない。
使い込まれ、経年劣化も含めてひどく痛んだ黒いコートがただ、背もたれに、まるでそこに誰かが座っているかのような様子でかけられているだけだ。
「たぶんねえ」
独り言、が。
ぽつんと唇から零れ落ちる。
「いろんな事が重なって、あんな夢を見たんだろうね」
減ってゆく蝉。夏。盆。夏の終わり。誕生日。
生まれた日と、命が終わる日。
重なり合ったキーワードが、ただ一人を連想させた。まるで彼方で蝶が飛んだら此方で竜巻が起きたかのような、一見つながりの薄い連想ゲームだ。けれど思ってしまったのだから仕方がない。
「ボクが生まれたから、お前が死んだ」
――なんて。
思ってしまったから、夢を見たのだろう。
獏良が生まれてこなければ、少なくとも「まだ」あの男は生き長らえていたかもしれない、と。
永遠の宿主サマ。相応しい人間。肉の器として誰より適正のあった獏良了が生まれていなければ、雌伏の時を長く経ることになろうとも、少なくとも死んでしまうなんてことはなかったのではないか。聞けば彼はずいぶん長い間、肉体を失ってもなお、あの黄金の輪の中で生き続けていたという。三千年。途方もない時間だ。それこそ永遠と呼んでもおかしくない時間ではないか。二桁しか生きていない獏良にとっては途方もない。
だったら本当に、永遠に近い年月が真実永遠に変わったところで、さして問題なかったのではと思ってしまう。それどころか随分ましなのではないかとさえ――少なくとも、死なないのだから。
だから、考えてしまうのだ。
ボクがいなければ。ボクさえいなければ。
「ボクが生まれてこなければ」
と。
どうしようもない、たらればの妄想だった。
強い力を持った妄想だ。呪詛、そう感じた。一度根を張ってしまったら容易に解くことはできない。少なくともこれから先、獏良が自分の誕生日を心から嬉しいと、祝えるようになることはないだろう。自分自身でよく理解できる。
もし再び、幼子のような無邪気さで誕生日を祝える日が来るとしたら、それこそ奇跡だ。
真っ黒な闇を零して立ち尽くす自分の、暗い暗い胸の孔。何を貰っても受け取れない、その虚孔にぴったりはまる形のそれが――彼が、戻ってでも来ない限り、起こりえない奇跡。
何ひとつ、代わりになどならないのだから。
モノも、ヒトも、感情も、形が違う。この孔を埋めることは出来ない。
夢の中の獏良があんなにも諦めた顔をしているのは、期待するだけ無駄だと解っているからだろう。そうして瞳を伏せている。
だからせめて、手向けの花を。
喪ったモノの形を埋めることはできなくとも、せめて彩る美しい花を。
求めて、あんな夢を――きっと、表に出てこない、獏良自身の深層心理が、そう願ったから見た、夢だった。
「生まれてこなければよかったなんて、思わないんだけどさ」
生まれてきてよかったとは、もう思えない。
頬杖をついて吐いた、溜息が菊の花を揺らす。
花の向こうには黒いコート。主を無くしてからずっと、椅子にかけたままだ。たまに埃を叩いているけれど、客人が来ると怪訝な表情で、或いは痛ましげに獏良を見る。なんとなくそこにある方が落ち着くのでそうしているだけだが、こうして花を挟んで眺めていると、まるで墓前に供えているかのように見える。
以前遊戯と城之内が遊びに来た時の、妙な空気は忘れられない。分かる人間には分かってしまうからだ。かつて誰がそれを着て、何を為そうとして、そして、最期にどうなったかということさえも。
思い返したところで、深層心理はともかくとして、現実の獏良はさほど辛いと感じていない――どころか、あのコートの主のことを、ああ、終わってしまったんだな――くらいのことしか思っていないのだけれど、随分前に終わったことをまだしつこく「終わってしまった」と、まるで昨日にでも起きたことのように感じているあたり、長い麻痺の状態にあるのかもしれなかった。
これから先、この麻痺が解けて現実をきちんと認識した瞬間、どうなってしまうのかと考えると恐ろしい。寂寥にのた打ち回り、空っぽの胸を掻き毟って慟哭するだろうか。名を呼んで、喉を裂かんばかりに叫ぶだろうか。その日はいつ来るのだろう。
「いつ来て、くれるんだろう」
今の所、その瞬間が訪れる兆しはない。胸をさすり、その内側に獏良は言う。困ったな、という気分だった。
いつまで続くのだろう、この曖昧な時間は。曖昧な意味の誕生日は。
祝えない、埋まらない、嬉しくない、九月二日はあと数時間で終わる。その後の九月三日には、どんな顔をしているのかも想像できない。
黒いコートの中身があったら、こんな不安定もなくなるだろうに――はあ、と、獏良は二度目のため息をついた。菊の花弁が一枚、ひらりとテーブルクロスの上に散る。エアコンの風が吹き付けて、テーブルの向こうに落ちてゆく。外は相変わらず暑く、エアコンをつけていても薄く汗をかくほどに、残暑は厳しく、暑い。
落ちた花弁をぼんやりとそれを眺めて、獏良は小さく、呟いた。
「本当、終わるならきっぱりさっぱりすぐに終わればいいのにね」
きっと、夢の中の自分もそう思っているだろう。目を閉じるとあの虚孔から、またひとつ、ぼたりと涙が落ちる音がした。