焼き付きライアーズレッド

五月だというのに、南の方ではもう三十度越えを記録したらしい。
  今月末までは食べる機会もあるんじゃないかと思っていたコンビニの肉まんあんまんは一気に人気がなくなり、代わりに品切れが続出しだしたのは熱気払いのの救世主、アイスである。真夏日並みの熱光線と梅雨の前のうっすらとした湿気に体力を奪われて帰路につく高校生には、まさに救いのその一品。あやかるのは獏良了も例外ではなかった。

 

「くああああきーんとするー脳みそに効くー痛いー」
  と、獏良は呻いて汗をかいた額をぺしぺしと叩く。
  重たい髪をうなじで括った姿で歩きながらいちごかき氷アイスを食べる、その後ろ姿を斜め上から眺め、バクラは適当な声で相槌を打った。
「だったら食うなよ。つうかカップアイス歩き食いすんな、みっともねえ。しかも一気食い」
「わかってないなあ、こういうのはかき込んで食べるものなんだよ。かき氷だけに」
「うまくねえ。あとわけわかんねえ」
  湿気た空気に負けない重たい溜息を吐き出すバクラ、それを見上げて獏良は言う。視線がぶつかって、暑いくせにご機嫌らしい宿主サマはにこりと笑った。その頬に小さな汗の玉が一筋、つうと垂れて首筋のむこうへと滑り落ちていく。
  熱光線を透かすこの姿、身体を有していない状態では気温もなにも感じないが、白い肌に薄く汗をかいて学ランを脱いだ獏良の姿を見ていると、自然と空気が熱を持っているように感じられるから不思議だった。
「あちいんならちんたら歩いてねえでとっとと帰りゃいいだろうが」
  こんな場所でぶっ倒れられてしまっても困る。つとめて平静、かつかったるそうな声音でもって、バクラは親切にも進言して差し上げた。だが獏良は横に振る首の変わりに手の中の薄いスプーンをひらひらと動かしてみせる。
「家に付く前にアイス溶けちゃうよ。知らない?溶けたかき氷アイスは相当無惨なんだから」
「冷たきゃいいじゃねえか…」
「食感を楽しむんだよ。お前かき氷食べたこと無いの?」
「ねえな。あと先に言っとくが食いたくもねえから代わるとか言うな」
「え、やだよ。ボクのだもん。何でお前にあげなきゃいけないのさ」
「……」
  ああ言えばこう言われた。
  正直、火に焼かれてじわじわ熱されるよりもこの減らず口に腹の内側からいぶられる苛立ちの熱の方がよほど疎ましい。なんだってこんなに可愛くないのだろうか、いや可愛くてもどうというわけではないのだが。ゆるゆるてくてくと歩く獏良の横顔を、バクラはじろりと睨みつける。
  小さく口が開いて、木のスプーンですくった赤い氷の塊が吸い込まれていくのが見えた。色の薄い唇は水気で濡れて、きっと触れたらそこだけ冷たい。口を合わせたら心地よいに違いない――などと考えてしまうのは、昨晩の交わりの余韻がいまだに抜けていないからだ、と思いたい。
  やたら視線を占有したがるけしからん唇から目を離して、真っ青な空を見上げることにした。忌々しい太陽は光のかたまりになっていて、その中心点さえ見えはしない。
  ち、と舌打ちしたタイミングにあわせたかのように、獏良はこちらを向いた。
「ボクねえ、昔はブルーハワイ派だったんだけど」
「はァ?」
「かき氷のシロップ。ブルーハワイだよ、青い奴」
「ああ… あんなもん色が違うだけで味は同じだろ。メロン味とかわけわかんねえ」
「あはは、そうだね。でも青いのがね、好きだったんだ」
  でも今はいちご派なんだよ。
  再びスプーンをカップの中に突っ込み、獏良は口元をほころばせるように笑った。
「なんでだと思う?」
「知るか」
「ヒントは、お前とこんな関係になってからいちご派になりました、かな」
  当ててみてよ、と、お得意の、首を傾げる仕草つきで獏良は強請った。
  蝉が鳴いていないのがおかしいくらいのうだる熱気の中、白い髪が風も無いのに揺れるのがまるで幻かのように見えた。濃い青い空、灰色のコンクリ壁に五月の新緑、それらを背景にして煌いた真っ白な軌跡に、不覚にも目を奪われて、バクラは黙る。
  いつの間にか立ち止まっていた。道には誰もおらず、遠くから聞こえるはずの車の音さえ耳には届かない。鼓膜が閉じた、静かな空間だった。唐突に、瞬間に空間を切り取られた、そんな錯覚が起きる。
「わかんない?」
  目を細めた獏良の表情は、滲んだ微笑みを浮かべていた。
  答えられないバクラの目の前で、薄く開いた唇が更に開く。
  赤い舌が――シロップで染まった焼け付くような真っ赤な舌が、ちろりと唇を舐めた。

「うそつきの舌は、真っ赤じゃないといけないからだよ」

 ぴたん、と、小さな音がしてはっと意識を取り戻した。
  いつの間にか、肉体の支配権が交代している。だらりとぶら下げるだけになっていた両手、右手にはスプーン、左手には空になったアイスのカップ。足元には真っ赤な水溜りが出来ていて、カップの縁から同じ色をした水滴が一定の間隔で垂れていく。
  その音と共に閉じていた鼓膜が開き、あたりの音、気配、空気、熱、そんなものが一気に吹き込んでくる。
  左隣で、
「アイス、とけちゃったね」
  そう呟かれ、顔を向けるとそこには半透明の白い髪がふわりと翻ったところだった。
「宿主、」
「ん?」
  なあに、といつもどおりのふやけた声で、獏良は応じた。
  一瞬何か、違うものが見えた気がした。赤い舌を覗かせた白い綺麗な顔が、まるで蛇のような。ヒトでないものを見たような。長く薄い舌をちろちろと厭らしく蠢かせた白蛇のように――見えた。
「どうしたの?」
  呼びかけたきり黙るバクラを訝しがって、獏良も眉を寄せる。
  その表情はいつもどおりの獏良了だ。つかみ所のない、ふわふわしてゆらゆらしておぼつかないバランスで生きている、自分の宿主。普段と何一つ変わらない、人間。
「…なんでもねえよ」
  錯覚だ。そう思うことにした。
  手の中の残骸をアスファルトに放り捨てて、バクラはさっさと歩き出した。ゴミはちゃんとゴミ箱に捨ててよ、と背後からなじる声が聞こえてくるがおかまいなしだ。
  押し付けられた肉体の感覚は、やはり熱い。熱線を浴びてじりじりと肌が痛む。その中で一箇所だけきんと冷えているのは、口の中。特に舌の先は、痺れるほどに冷たい。
  その感覚は何かに似ていた。
  心の部屋で、天地もなく交じり合って互いに舌を吸ったあとの、あの感覚。
  人工的なシロップよりももっと悪質でもっとたちの悪い、胸焼けしそうなほど甘い唾液を絡めたときの麻痺を思い出させる、びりびりとした痺れ。
  矢張り帰ったら即、心の部屋で唇を奪ってやろうとバクラは思った。
  深い理由はない。本物の嘘の味でその赤い舌を更に赤く腫らせてやろう、そんなばかげたことを何故か思いながら、熱気にうだる帰り道を黙って歩んだ。