35.7℃のTreat
「コート貸してよ」
と、振り向きもせずに小さな声で獏良が言うので、バクラは最初、何と言われたのかよく聞こえなかった。
何だって、と問い返すと、短くコート、とだけ言葉が投げられる。キッチンに立って皿を洗っている薄い背中を眺めるだけでは、突拍子もない願いの真意は読み取れない。
コート、といったらあの黒いコートしかない。というかバクラが現在所有している物質などデッキとロングコートしか存在していない。その二つのうちの片方の貸与を、獏良は唐突に願い出てきた。
少し考えてから、バクラは肩をすくめ、ドウゾ、とだけ答えた。
「何でとか、聞かないんだね」
『もとはと言えば宿主サマの財布から支払って頂いたモンさ。オレ様に拒絶の権利があるとでも?」
「嘘吐き。全部自分のモノだと思ってる癖に」
喧嘩腰、ではなかった。かといって淡々としている様子でもない。声こそ小さいが様子は平素そのもので、軽口と表現するに差支えがない。キッチンで蛇口が捻られる音がし、ぴたん、と一滴水が落ちてから、獏良はバクラに向けて振り返った。
「じゃあ借りるね」
言うなり、クローゼットの奥にひっかけてあったコートを取り出し、鏡の前で羽織って見せる。バクラはそれを横目で眺めていたが、特に面白い様子もない。袖を通し、髪を背中に払い襟を正す。それはバクラが獏良の肉体権を奪い取った際に自分がいつもやっていることで、それこそ鏡を見ているような、見慣れた、しかしどこか違和感の残る様子だった。似合わない――と、ぼんやり思った。
視線を適当に戻すと、つけっぱなしのテレビが賑やかに平日の午後のバラエティを垂れ流している。けばけばしいスタジオの装飾。季節限定のスイーツ。賑やかに着飾った芸能人のオーバーリアクションが右耳から入り込んで、脳を通さず左耳から抜けていく。世界はどうでもいい情報が氾濫している。とっととこのやかましい番組のチャンネルを変えるか電源自体を落として欲しいが、今の姿では物質に触れることはできない。何がしたいのか分からないが、コートで遊んで気が済んだならとっととそう指示しよう。
眉間に皺を寄せたまま空中を遊んでいたバクラの前に、ぬ、と。
獏良の顔が迫ってきた。
『何の真似だよ』
「準備できたから。ちょっと話しよう」
『話ィ?』
何だというのか。薄笑いを浮かべた獏良が、リモコンを操作してテレビを消す。喧しい音が消えたのは幸いだが、これから何が始まるのか――分かっている、ろくなことではない。
しんと静まったリビングの真ん中で、獏良は大きな瞳でまっすぐに、バクラを見上げていた。
「仲間だよ、今のボクは」
お前の。
声は少し掠れていた。一度唾を飲んだ音が、今更ながら、笑みが虚勢であることも、その言葉を吐く為に喉が渇くほど緊張していたことも、全て物語っていた。
風があったら翻りそうな黒いコートに身を包んだ獏良は、白い髪がやけに目立って、生首のようにさえ見える。うすら寒い緊張の笑みを浮かべ、ねえ、と続けた唇もまた、渇いていた。今日は十月三十一日だよ。言葉がそう、続く。
「ハロウィンの仮装はね。この日にやってくる悪霊に悪さをされないように、人間がお化けのふりをするところから来てるんだって」
『へえ?』
「だから、今のボクはお化けなんだ。人間の獏良了じゃなくて、お前と同じ」
悪霊。悪魔。化物。得体の知れない、人ならざる、人に害を与えるもの。
「お前のコートを着たんだから、完璧な仮装だよ。ボクはお前以上に恐ろしい化物を知らないからね」
『お褒めに預かりどうも。……で、まァだ話が見えねえぜ。どうした宿主、お得意の奇行か? それとも何かご不安なことでも?』
「何もないよ。ただ、ボクが人じゃなくなれば、お前はもっとボクと話をしてくれるんじゃないかって思ってこうしてる。いつかお前も言ったよね、仲間だぜ、ってさ」
『また古い話を持ち出しやがるな、てめえは』
「獏良了に話せなくても、お仲間の悪魔としてなら、どうかなって」
思って――と。
喋りながら、獏良はだんだんと項垂れていった。
分かっているのだろう。こんな茶番が通用しないことも。何も話さず都合の良い時だけ肉体を奪い取り、夜ごと獏良の預かり知らぬ所で何かよからぬことをしては、朝きちんと目が覚めて、手足の疲労だけが残っている不安。その薄く、しかし重たい、何層にも重なったが故の苦しみに、ついに耐えきれなくなったのか。馬鹿馬鹿しいシチュエーションに便乗して、掴めない服の裾を掴もうと手を伸ばしてくる。
滑稽だった。笑えもしない。
仲間だなんて――例え話でも、虫唾が走る。
獏良は知らない。知る由もない。本当の悪霊というものが、死霊というものが、どういうものなのか。既に言語も個としての意識もなく、ただ怨嗟を吐き続けるだけのどす黒い塊は、目の前のコートを着た子供だましの仮装とは似ても似つかない。
だが、そう扱って欲しいというなら、話は別だ。
(いっそ全て話してやろうか)
魂の器としての獏良了にではなく、呪いの塊に為り果てた存在として。
遠い遠い砂礫の向こうの記憶を、思い出したくもない忌々しい思い出話を引っ提げて。どれだけの苦痛と辛酸を舐め、臥して待ち続けた日々の、一秒が間延びして永遠に感じられるような日々を。その果ての現在を。バクラがどれだけ、どれだけこの時を待ち続けていたかを。
きっと獏良は後悔して耳を塞ぐだろう。感受性が高すぎて麻痺しているような精神だ、生々しい歴史語りになぞ耐えられない。ああそれこそ、あまりのことに心が壊れてしまえばいいとバクラは思った。そうしたらからっぽの肉体が手に入り、魂は闇に喰われ、こんなままごとの仮装など足元にも及ばない、本当の死霊の一員に迎え入れてやれる。望みどおりに――
(なァんて、な)
未完成のジオラマが扉の向こうで眠っている以上、そんなことは出来はしない。
沈黙するバクラの様子に、最早獏良は旋毛を見せてうつむいている。何も言ってくれないんだね。乾いた声で言い、手がぶらん、と、腰のあたりに落ちた。
空気が抜けた風船のように、獏良の心が萎れてゆくのが分かる。バクラはひとつ溜息を吐いて、軽く唇を舐めた。乾いていたわけではない――甘い嘘を、唇に塗っただけのことだ。
『仕方ねえだろ、宿主サマ』
触れられない頬を軽く撫ぜ、バクラはつとめて切なげな声で言う。
『まだ言えねえ。約束したじゃねえか、その話はジオラマが完成してからだ』
「でも、」
『でもじゃねえ。オレ様は嘘吐きだがな、その約束だけは守るつもりだぜ。時が来たら全て話す。それじゃ不満か』
「不満……だけど」
『お前の為を思って言ってる。そん時になれば、お前もオレ様が言ってる意味が分かる。
分かったらとっととそのコート返しな。宿主サマにゃ似合わねえよ』
砂糖菓子と同じ甘さの声は、獏良によく効く。約束だなんてそれこそ嘘だ。分かっている癖に、獏良はもう抗えない。そうなるように時間をかけて刷り込んだ。未来に薄い希望を持たせて、今の不安を乗り越えさせる。そうやって、危うい綱渡りをしてきた。繊細な心が砕けぬよう、飴細工を編むように丁寧に、丹念にだ。
やがて獏良は長い息を吐くと、のろのろとした動きでコートを脱いだ。ソファに脱ぎ捨てられた裾がフローリングを這い、まるで影のように獏良の足元に広がる。
『そんな先の話じゃねえよ。いい子で待ってな』
獏良は何も答えなかった。ただ、僅か苦悩の残る眉間に皺を寄せて、目を閉じる。
そうしたら合図だ。獏良をまるで抱擁するかのように近づいた獏良が、その心を胸の奥底へと突き落して、鍵を掛ける。浮遊と落下を同時に味わいながら、水底で眠るような感覚を、獏良は味わっているだろう。
ソファの背もたれから滑り落ちたコートを拾い上げ、バクラは奪い取った肉体の感覚を、掌を二度、開いて握って確認する。問題はない。
これでいい。全部嘘だ。
この時代、最早魔も聖も力を無くした現代で、ごっこ遊びの魔除けなど何の力もない。ぬるい空気が籠った室内を疎んじ、バクラはひとつ舌打ちをしてから、玄関へと足を向けた。せめて夜の闇の中、あちらとこちらの認識がなくなるくらいに昏い場所で息を吸いたい。獏良が残した切なげな気配など、冷たい夜の空気で醒めて散ってしまえばいい。
スニーカーに足をひっかけ、バクラは玄関に立つ。扉を開け、入り込んでくる十月の冷気。心地よいが肉体は貧弱だ、ぶら下げたままの黒いコートを慣れた手つきで羽織る。袖を通し、髪を背に払い、襟を正し、外へ。
無機質な裏地の冷たさはなかった。たった今まで獏良が着ていた温度がまだ袖に残っている。
また舌を打ち、バクラは二の腕を擦る。
――どうあがいても消せない、ヒトの温度。
むき出しの不快感と、それ以外の何か、恐ろしく気持ちの悪い感触が残る。
「気持ち悪ィ」
そう、一言吐き捨てて。
ずるずると引きずられていた室内の生ぬるさは、ばたん、と、鉄の扉が閉じる音で断ち切られた。