【♀】Gameover/Continued 01

『バクラはいかにして宿主♀の元に戻ってきて、恋愛感情を自覚するか』をつらつら考えた末の話です。

 

 

 

逝く者のはなし

目を閉じた時の、白くも黒くもない世界。
真に色彩が失われた空間。
最後になる息を吸い込んで、吐き出し切るまでの時間はそんな色をしていた。どこでもない、どの時空にも存在しない、あらゆる現実から隔離されたかのような曖昧な世界の真ん中に、或いはその片隅に、バクラは仰向けに倒れていた。背中を預ける空間も無なのであるから寝そべっているのもおかしいが、肉体の感覚だけが残った残滓は倒れているという事象を彼に伝え、倒れているということは敗北したのだと悟る。勝者は愚かに地に伏せたりはしない。全てを見おろし高笑うものなのだから、倒れているのなら負けたのだ。
事実としてはそれだけで十分だった。手の中にある、千を三つ超えた先の結末の名前を、最早握ることも叶わない指先で転がす。
何一つ、力が入らない。あんなに漲っていた四肢が全部千切れてしまったかのようだ。鎌鼬の風のように、墓所の不穏な旋風のように、人々を切り刻めるほどに早く、速く、疾く、走っていた脚だったのに。
これではもう、走れない。走れないなら、
(終わっちまう)
そう、思ったところで乾いた唇が嗤った。違う、ことばを誤った。
(やっと、終われる)
そうだ、ずっと終わりたかった。
全て終わった後にようやく気付く。気づきたくなかったのかもしれない。
するりと滑ってすとんと落ち付く。納得する。本当はずっと終わりたかった。
走る為に忙しなく働く肺はとうの昔に限界を迎えていた。吸う息はいつだって毒をはらんで、内側からバクラを苛んだ。
身体の中身が全部腐食してどろどろと腐り落ちた。それでもまだ走っていた。何故そんなにも必死で走っていたのだろう。今だから分かる。走るのを止めたくて走っていたのだ。止めたくて、終わらせたくて、動かなくなるまで走っていた。
いつしか、その事実すら忘れた。走っていることそれ自体も忘れていた。
何を望んでいたのか、最初の切望も想いもすべて忘れて、何も願わずにただ――その後は、バクラを捕えた闇の意思が手足を動かしていた。走れ、走れ、走れ。命ぜられるままに、愚かな犬のように、人形のように。
愉しまなかった訳ではない。悪意でもって他人を害することを、踏みにじる行為を、命令されたからやっていたわけでは決してない。そこに確かな愉悦を感じていた。だが、いつからそうだったのかは、もう、分からない。
自分なんてものは早々に喪失した。いわば此れは混ざりものだ。
沢山のものが混ざり合ったら、原初の存在は限りなく無に近くなってゆく。摩り下ろされ微塵に刻まれ溶けてしまう。丁度あの、煮えたぎる窯の中身と同じに。其れ、と、此れ、と、在れ、の区別もなく、バクラは歪な塊になった。その塊は悪を愉悦と楽しんで、走って走って、飛んだ先で、撃ち落とされた。
手足を動かしていた闇が、影さえ生まない絶対の光によって消え去って、身体は、魂は、崩れ落ちた。
そうしてやっと行き着いたのだ、この終わりに。
本当は、ずっと、終わりたかったのだと。
(何が闇の錬金術だ)
首を動かすと、みちりと嫌な音がした。生の肉が裂ける音だ。
胡乱に霞む視界の先で、首から外れた千年輪が沈黙している。邪悪な波動の波ひとつも生み出せない。当然だ、あれは媒体なくして機能しない。手足となるバクラがこのありさまでは、ただの黄金の塊に他ならなかった。今の輪には、せいぜいが博物館に飾られて見世物にされる程度の価値しか残されていない。
鼻で笑いたい気分になった。塵屑に落ちぶれた邪神の末端たる己の末路と、ただのモノになり果てた千年の輪。どちらも等しく、みすぼらしい。
それが本来、途方もない力を帯びた魔器であることに間違いはない。人ならざる力を与え、その引き換えに闇の神の先兵となる定めを与えられる、正しく悪魔の道具。
結局の所、敗北の事実がある以上、その力もたかが知れている。なればやはり、鼻で笑ってよい事案だった。
(王の光に負けた惨めな闇)
その闇を纏わせた千年輪に従い続け、その身を同じ邪神の一部と化して三千年。
(たいしたことねえじゃ、ねえか)
吐き捨てた思いは誰に向けた言葉だったのか。
慣れたもので、皮肉な嗤いは簡単に口元を持ち上げた。それ以外の笑い方などもう覚えていない。
(みっともねえな、邪神サマ)
「――は」
辛うじて音になった、嘲笑は終わりゆく世界にぽつんと浮かんで、消える。
(さぞお悔しいことだろうよ、こんだけ時間かけて、こんだけ苦労して、手に入れた結果がこれだ。アンタの手先になったオレ様だって欠片も報われやしねえ、つまらねえ幕引きだ。そうだろう――)
沈黙する輪に向けて、バクラは目を細める。終わり間近の自暴自棄は、言葉にもならない。思念だけが波紋のように、閉じた世界を震わせる。
(次なんて真っ平御免だが、そうだな)
もし、次があったとしたら。
(次はもっと、上手くやれる)
あの気にくわない王の横顔を、一発いや二発、殴るために、バクラは思考を凝らすに違いない。アンタもそうだろう、と、バクラは息を吐いた。バクラという存在は個を保ちながらも、ゾーク・ネクロファデスという悪しき大樹が伸ばした枝葉の先端そのものである。であれば、自身に語りかけていることにもなる。矛盾をはらんだ存在が、つまらない遊びをしている。こんな茶番を、死に間際の戯れを――いま散々罵倒しているあの黄金の輪もまた、ゾークの一端、バクラそのもの、なのだから。
バクラはまだ生きている。終わりゆく中、こうして意識が継続している。あともう少しで吹き消される灯火だが、今この瞬間はまだ、消失していない。なればゾークもまた、消えてはいない。
――だったら。
最後に残った、人ならざる超越神、邪悪なる力を宿したこの、枝葉の先の、指先で。
(コンティニューを望んでみるか、邪神サマよ)
こんな、死にかけの屑になり果てた身体に、今一度、野望を託して。
ゲームを再び、続けようと足掻くか。全てを一度無に帰して、思い通りの闇に満ちた世界を築き上げる為に。あの憎い王の横っ面をひっぱたいて、細い首をへし折って、心臓を握りつぶして。
千年眼には所有者の願いを叶える力があった。本来、他の宝物にも備わっていてもおかしくない力だ。たかが人間一人の願いを叶えるくらい、闇の力が万全に備わっていれば造作もない。何せ神だ。邪悪を束ねた悪意の塊、悪の概念そのもの。それがゾーク・ネクロファデス。尤も、今はその残り滓、なのだけれど。
ともあれ、もしそんなことが出来たのなら。
それは胸のすくような結末だ。走り続けた長い年月が報われる。それもまた終わりだ。走らなくてよくなるのだから。
悪くない、未来だ。
そして――下らない、絶対に欲しくはない妄想、だった。
(なぁんてな)
在るという事実、それ自体を徐々に失ってゆく世界の中、ひとつだけ目立ついやらしいほどの黄金に向けて、バクラは唾を吐く。勿論、本気で願ったわけではない。終わる間際の悪趣味な戯れだ。頼まれたってもう二度とするものか、誰かの命令で永遠に近い年月を走り続けるなんて愚かに過ぎる。本来のバクラの性質は捕らわれることを良しとしなかった。終わりの間際に取り戻した原初の本質、その欠片は、操り人形の生き様を拒絶する。
皮肉な戯れに対して、輪は、邪神は、何も答えない――当然だ、あれは何もできない。今は無力なオブジェクトに過ぎないのだから。
(どうだ、できねえだろう――オレ様だって御免蒙る)
馬鹿馬鹿しい行為だった。己の滑稽さに、それでも言わずにいられない唇に、バクラは笑う。
ほら、結局何も、変わりはしない。
(ざまあみやがれ)
また笑う。嗤う。哂う。
(アンタもオレ様もみんな終わりだ、これでお終いだ)
ろくなもんじゃねえ。そう吐き捨てて。
最期の息がいま、終わる。
「全部――糞喰らえだ」
そして、瞑目。

「きみきみ、こんな所で何をしてるんだ。ここはお客さん立ち入り禁止だよ」
という声が目覚まし時計となって、バクラは閉じた瞼を開いた。
口を開く。というか勝手に開いた。開いてひとつ、まず、喉が勝手に息を吸った。途端に肺が埃っぽい酸素で満たされる。
最初に感じたのはそんな咽そうな空気の味で、次に開いた五感が嗅覚だった。古い紙のような匂い。カビ臭さを微かに感じる。次に触覚。指先が冷たく硬い床に爪を立てる。そして視覚――ただ開いただけで機能していなかった瞳は、人工の光に眩んでいただけだと理解する。長細い無機質な光は蛍光灯のそれだ。首を曲げる。頬に冷たい床の温度。目の前にはニッケルだろうか、銀色をしたテーブルの、脚。
無意識に身体が動いて、バクラは起き上がった。立ち上がる――足がある。もう千切れて吹き飛んで無くなったと思っていた両足がある。立ち上がるということは倒れていたということで、今まで伏せていたであろう場所を振り返ると、自分の影をぼんやり映したリノリウムの床があった。薄暗い、室内だ。そして、耳障りな目覚ましをしてきた人間の、革靴の爪先が見えた。
爪先から辿ってその人物に目をやると、腕にスタッフと書かれた腕章をつけた見知らぬ男が、驚いた顔でバクラを眺めていた。
「どこから入ってきたんだい? ……あれ、きみ、オーナーのお子さん? でも確か娘さんだっだような」
ぺらぺらと男はよく喋った。声はバクラの右耳から入り込んで、左耳にそのまま抜けていくので意味も内容も残らない。つまりは無視をして、バクラは目を瞬いた。何だこれは、何だったか、自分は何で、どうしてこうしているのだろうか。何もかもが希薄でよくわからない。長い夢を見た後の寝起きのようだ。少し、眩暈がする。緩く俯くと、耳から長い髪が零れて頬を擽った。爪先が見える。スニーカーだ。それと真っ黒いコートの裾。動くと、埃を僅かに巻き上げる。
不穏に揺れる不確かな世界を支えたくて、べたり。顔の半分を押さえると、慣れた感触と懐かしいと感じる感触が同時に訪れた。手の甲にかかる絹の糸のような柔らかい髪。耳を隠すほどに長い。掌には滑らかな肌の感触があり、よく知ったものだった。やどぬし、そう、了の、獏良了のそれだ。
だが、その白く滑る肌を縦断するこの引っ掛かりは何だ――右の瞼から頬にかけて、深く抉れて乾いて硬い、この跡は、
「――鏡」
「は?」
「鏡は」
バクラの低い問いに、男が間の抜けた声を返す。
役に立たない男に舌打ちを一つすると、バクラは顔を覆ったまま辺りを見回した。薄暗い部屋の隅にガラスケースがあり、壁と照明を映し込んでいる。大股で近づき覗き込むと、鏡代わりの表面には、眉間に皺を寄せた男の顔が浮かんでいた。
それは消滅を覚悟し、世界に唾を吐いて瞳を閉じた時と何ら変わらない、黒い外套を纏った男だ。バクラ、そう、これはバクラというモノの、自分の、顔である。
記憶と違っていたのは、頬の傷跡。
手で覆った頬、その指と指の隙間から覗いていたものは、その傷は、これが夢でも妄想でもないことを突きつける証だった。嫌味なまでの現実の証明であり、己がバクラという魂を持つ者だというあかし。生白く筋張った手指にそぐわない、金の指輪が人差し指と中指に、不格好なサイズ違いで嵌って、現実の後押しをしてくる。
覚えている、この指輪も傷も、全て。
それがここにある。その意味もまた――今のバクラには、疑いようもないほどに、理解できた。

『次はもっと、上手くやれる』

あんな――あんな言葉は、ただの嫌味で、皮肉で。

『コンティニューを望んでみるか、邪神サマよ』

そして捨て台詞で、ただそれだけのことであったはずなのに。断じて願いなどではなかったのに。
最悪の邪神、その力はどうやら、残り滓であっても足掻き続けるだけの胆力を持って居たらしい。バクラの戯れを拾い上げて、最早神としての意識もなくただただ醜いほどの妄執で、文字通り最後の力で、生き残った枝を折った。腐りゆく大樹から切り離し、死を免れようと、足掻いた。
すさまじい執着心だ。
だが、こんなことに何の意味がある?
折られた枝は大樹にはなれはしない。もともと違う枝を、接ぎ木のようにぶかっこうに、繋ぎ合わせてできただけのものだった。バクラはすでに邪神の一部としての自意識も、力も有してはいない。ついでに言えば傅く気もまた、欠片もない。もとから自分以外に膝を折る性質ではないのだ。邪神の誤算か――否、きっともう、策謀するだけの力も、あれには残されていなかった。
破れかぶれの愚行。その一言に尽きる。
でなければ、こんな無意味なことなど起こるものか。
ただの個として野に放たれて。終わりたかった、やっと終われたはずの長い長い三千年、その――続き、など。
(いや、違う)
続きではない。終わったのだ。バクラは確かに一度終わって、その後にもう一度、始まった。
「……マジかよ」
童実野美術館の奥の奥、恐らくは、かつてあの戦いを行ったその場所で。
バクラは二度目の生を得、そして、望んでもいない新しい始まりとやらが、勝手に今、幕を開けてしまった。