【♀】Gameover/Continued 02

生く者のはなし

 

獏良了の話

桜が咲いて、散った後。
花色一面だった世界は緩やかに、緑の衣に着替え始めた。新緑が春から初夏への移り変わりを、風の匂いと色彩でせっせと人々に伝える、温かい日が続いている。もうすっかり雨も温く、泥は温かく、冬の何もかもをさらい流した春は急ぎ足に、季節を次へ次へと押し出してゆく。
こんな日は窓を開いて、風をめいいっぱいに部屋に取り込んだ方がいい。マンションのすぐ近くにある桜並木のおかげで、六階の高さでも気分のいい風を感じられる。
一人暮らしではどうにも締め切りがちになる部屋の空気を一斉に入れ替えて、了は風に髪を遊ばせるまま、草葉の甘苦い匂いが満ちる自室でペンを取っていた。
天音へ、と、書き出す癖は大分直った。
それでも最初にペン先で便箋に触れる時、少しだけ意識する。それから息を吐いて、書かなくなって久しい、天の国への宛てた手紙ではなく、友人の名前を書き記した。
藍神くんへ、お元気ですか――こっちは相変わらずの毎日です、と。
あの卒業間近の、途方もない激しい戦いの一件以来、打ち解けた藍神との文通はこれで三回目になる。表現するならば和解、という言葉がいっとう正しいだろう。悲しい擦れ違いを正せば彼も了も被害者で、しかし了は、百パーセントのそれではなかったことを――ただ苦しめられただけではなかったこと、憎しみを感じるほどに彼の仇の男が好きだったということさえも、打ち明けた。ひどく勇気のいる行為だったけれど、人は変わり、受け入れることができる生き物でもある。不変を良しとしていた、死の匂いすらする停滞した今をだらだらと引き伸ばすことを続けるのが喜びだった了という歯車が、あの一件で動き出した時、藍神もまた変わったのだろう。人と人は否応なくかみ合うものなのだから、誰かが動けば何かが変わり、そうして時は廻ってゆく。知らない誰かとすら縁は繋がっている。生きている以上ヒトというものは変わるのだ。どんなに変わりたくなくても、変化は生命そのものについて回る。
だから、了も。
生きていたいなら、変わらなければならなかった。
藍神に伝えた真実を、了はかつてのクラスメイトにも同じように打ち明けた。彼らもまた受け入れてくれて、それで少し、楽になった。
バクラのことが好きだった。
本当は全て知っていた。
皆を騙していたことへの謝罪と、これからも好きで居続ける決意。
友人は咎めなかった。止めなかった。それだけでも了は嬉しかった。誰かにこの感情を吐き出して、この歪な形のままでいいと肯定して欲しかったのかもしれない。
こうして、起こった出来事を改めて思い返して、己の想いに納得して、頷けることが何より大きな変化だった。そして、自分が今きちんと前を向いていること、向けていること。バクラとのことを――少しずつ、処理出来ていることを実感する瞬間でもある。
バクラによって仕組まれた二人の関係。そうあるように引き寄せられた恋心。きっかけはそうだったとしても、了は未だ、今も、バクラを恋しいと感じている。
いなくなった相手に対して、枯れぬ恋心を抱く。それに蓋をするのはひどく難しい。苦しくて悲しいことだ。だから了は決めたのだ、封じ込めることを止めると決めた。
了は恋愛を至上とする主義では決してないし、愛好する個人的な趣味――ゲームだとかジオラマだとか――があれば、十分豊かに一人で生きていけると思っている。それは今も変わらない主張だが、愛や恋を主軸にして人生というものを考えた時、誰かを抱きしめる為にこの両手があるのだとするならば、自分はバクラを抱いていたいと思った。これから先他の誰かを恋しいと思うことが無くなるとしてもかまわない。死んだ男をずっと想って生きていく。死ぬまで生きて、そうして辿り着く死後の世界で、そこで沢山の文句を言えたなら最高だ。
お前のことが好きだった、と。
その証明を、この人生で示したのだと。
言葉を巧みに操る嘘吐きの悪魔には、これが一番説得力があるだろうと思った。好きだの愛してるだのずっとそばにいて欲しいだのは、舌の裏側に上手に真実を隠せば何とでも言える。とくにバクラはそれが巧かった。だとすればその信憑性がいくらでも疑えるたちのものであることもまた、熟知の上だろう。だったら命で、生き様でしか、了は真実を示せない。腹が立つくらい好きだったから、これだけは疑われたくなかった。こんなに強い意志が自分の中に存在するなど知らなかった。信じられないくらい穏やかに、そして強く、了はこの生き方を胸に刻んで生きていく決意をした。
バクラが自分をどう思っていようと関係ない。そんなことはどうでもいい。証明したいのは了自身で、その時どんな顔をされるかは楽しみだけれど、同じように愛情を返して欲しいわけではなかった。そもそもそんな感情を持ち合わせているのかすら、不明な相手を恋しいと思っているのだから。
ともあれ、つまりは仕返しだ。
獏良了という生き物は、終りの末に手に入れられるであろうバクラへの意趣返しを楽しみに生きている。
終わりの日が楽しみだった。その為に、きちんと前を向いて生きようと思った。
つとめて前向きな死への歩み。こんなことを、手紙に書いたら心配されてしまう。うっかりつらつらと書き綴ってしまった分をくしゃくしゃに丸めて、了はそれをゴミ箱に放り込んだ。これは秘密。誰にも教えない、了の胸の内にだけあってもいい想いなのだ。
ぽいと捨てた塊が、惜しくも壁に当たって転がってゆく。フローリングの上をころころと上手に滑ったそれは、こつんとクローゼットの扉にぶつかって止まった。
軌道を目で追い、扉の前で視線が止まる。その扉の向こうに何があるのかは知っていた。専用なのだ。あの黒いコートの、憎い男の置き土産の安置場所。ぽつんと一着のコートだけが吊るされたそこを、そういえば長いこと開いていないと、了は気がついた。
(あいつの忘れ形見にも、たまには綺麗な空気を吸わせてあげようかな)
そういうの逆に嫌がりそうだけれど。
だったらなおさらそうしたい。ふ、と笑って、了は椅子を立った。ペンを置いて数歩、冷たい金属のノブに手をかける。少し軋んだ音を立てて、扉は開いた。
黒いコートは、どこにもなかった。ただハンガーがひとつ、所在なくポールにぶら下がっている。
「え」
と、ひきつれた声が勝手に漏れた。
一気に背中が冷えた。もう初夏なのに、雪か氷の塊を背中にひとつ、滑らされたような衝撃と不安感だった。心臓が冷たくなる――物理的に、こんなにも。
前に開いたのがいつだったか覚えていない。いっときではあるが、了はバクラのことを全て忘れていたことがある。その間に何かしてしまっていたとしたら。覚えていないから捨ててしまったとか。そうしてずっとないものをあると思い込んで、大事に扉を閉じていたのだとしたらどうしよう。趣味の悪い喪服のようなコートでも、了にとってはそれがバクラの存在の証なのだ。どうして、どうしよう、指が震えてくる。頭の中が真っ白になる。
冷え切った背中にふ、と生ぬるい風が吹いた。
引き寄せられるように、引きつったままの顔で了は振り返る。視界の先で、黒いコートの裾が翻った。
そのコートは何故かぞんざいに丸められていて、誰かの手によって小脇に抱えられていた。適当すぎて袖と裾がだらんと垂れて、その部分が風に揺れている。
(――ああ、そう、だよね)
もうあのコートじゃ暑いもんね。
と、了はぽかん、と、思った。
あまりのことに脳がショートしたのかもしれない。本来あるべき思考も放つべき言葉も何も出てこない。
ただ、当たり前のように――絶対にそこに居てはいけない癖に、さも普通、至って当然という表情でそこにいるその男を、黒コートの主を、了はただ見ていた。
男は了を眺め、クローゼットの前で立ち尽くしている姿から、転がった紙屑に視線を移した。ひょいと拾い上げ、呆れた顔でそれと了を見比べる。
そして、
「ゴミくらいしっかり捨てろ、だらしねえ」
と。
懐かしい声と、憎たらしい言い方で、了に向かって吐き捨てた。
藍神に送る為に用意した便箋が、窓からの強い風に吹かれてはさはさと部屋の中を舞い踊る。風は、フローリングに足を付けて、姿は景色を透かすことなく、肉をもって存在している男の髪をも容赦なく乱した。鬱陶しそうに髪を背中に払う仕草があまりにも彼で、らしくて、でももう、胸が詰まって。何も――言えない。
「バ、」
クラ。
呼ぶ声すら、まともに発せられなかった。
一番似つかわしくない、日曜日の、昼間の、快晴の、初夏の爽やかな風と共に、バクラは了の元へと帰ってきた。
頬に大きな傷跡をひとつ、残して。

バクラの話

季節がいつだったかだとか、時間がどうだったかだとかは、よく分からない。
半ば呆然自失――今までの三千年間で忘我することなど一秒たりとも無かったというのに――のまま童実野美術館を後にし、バクラは重たい扉の向こう、つまりは街へと視線を向けた。
眼前に広がる人波と、道と、街と、昼間の真っ青な空を見る。
『――』
一瞬、世界が砂色に見えた。
幼い頃、まだ壊滅する前のクル・エルナ村の入り口で、外の世界を見た。その時の夕焼けを、熟れた橙色の果実が砂を金色に染め上げ、夜のとばりが落ちかけた藍色がその全てにゆるゆると覆い被さってゆく美しい光景を、バクラは思い出した。
まだ村の外を知らなかった少年のバクラは、その砂と、太陽と、夜で織りなされた一枚の絵のなかに、無限を見た。
こんなにも綺麗だ。
空がこんなに美しいだなんて知らなかった。世界には知らないものは沢山あり、どこへ行ってもいいのだと、高鳴りに胸が満ちた。
無限とは自由だった。
いつか自分もその無限大の世界に飛び込むのだと信じた。
その自由へときらきらしく足を踏み出す前に、幼い脚は復讐に絡みつかれ、最初の一歩を永遠に失くしてしまったのだけれど。

自由だ。

今また、そう、思った。
その幻視は一瞬のことで、瞬きをすればすぐに、ありきたりの風景に、童実野町の一角に戻った。鼓膜を否応なしに刺激するやかましいクラクションと呑気な人々のざわめき、会話。排気ガスの臭い、嘘くさい緑の街路樹と縦横無尽に伸びたアスファルト。
そんな中でも、ああ自由だ、と、感じたことを、バクラは強く覚えている。
何もすることがなかった。すべきこともなかった。
ここにはもう復讐も、闇の意思も、何もない。
ゾーク・ネクロファデスは真の意味で消滅した。ここにはバクラという存在が一つあるだけで、そのバクラを縛るものは最早何も無かった。
同時に喜びもまた、無かった。強烈な解放感だけが突き抜けて存在して、あまりにもそれが強すぎて、からっぽの身体を吹き抜けるものだから、何の使命も持たないバクラは、呆と目の前の景色を眺めているしかなかった。
空虚、だった。
悲しくも、嬉しくもない。
人らしい感情などとうの昔に忘れてしまって、こんな時生き物は何を思うのか分からない。やるべきことが無い状態というものはこんな風なのかと薄らぼんやりとした実感が手の内側でふわふわと覚束なく主張している。握りたいものは何もない。憎かったはずの仇の心臓も、刃も、黄金も、求めるものが、一つもない。今目の前に開けている、膨大な時間と選択肢に目が眩む。
終わって、始まってしまった。
この生に何一つ意味を見いだせないまま、バクラは意味もなく、一歩を踏み出した。
幼い頃に憧れた無限の可能性への第一歩。その期待とは裏腹に、アスファルトの感触はひどく味気なかった。

それから、その一歩を踏み出した惰性のまま、足の向くままにバクラは放浪した。
童実野町を離れたことは覚えている。もしかしたらその姿を誰かが目撃していたかもしれない。遊戯や城之内や、ひょっとしたら了も。しかし誰もが幻や白昼夢だと首を振るだろう。存在するわけがないものがふらふらと歩いていても、大抵誰も、信じない。首を振り、あの戦いの日々に思いを馳せて、それで終わりだ。
そうして町を出て、流れるままに流れた。
どれくらいの期間をそうして過ごしていたかは定かではない。バクラはすっかりと自分自身というものを喪失していたし、やるべきことが存在しない者の身の振り方も分からなかった。
――あの死に際の言葉。
『次はもっと、上手くやれる』
悪趣味な戯れだったが、それを本当に、新たなる自分の使命と定めても良かった。
もう一度千年アイテムを見つけ出し、この身に帯び、再び悪の化身となる生き方を選ぶ。王の所在は知れないが、やってできないことはない、時間がいくらかかっても自分になら出来るだろうとも思った。
だが、一度終わった物事を、自分の手でもう一度繰り返すことを選ぶほど、バクラは自意識というものを持ち合わせてはいなかった。それを選ぶことすら億劫で、好きにした――というより、ただ、流れた。
運が良ければ、否、悪ければ。どちらでも構いはしないが、ふらふらと放浪している最中に車にでも轢かれてしまえば、それはそれで終ったことだったろう。それでも良かった。そうならなかったというだけだった。自死を選ぶ、何をかを強い意志で選択することすら、バクラには出来なかったのだから。
流れるだけの放浪の生活だ。金もなく寝る場所もない。何回か手癖のように盗みを働いた気がするので、つまりはそうやって生きていたのだろう。腑抜けたこの国で、元盗賊のバクラが捕まるはずも、苦労を強いられるはずもない。
そんな無味乾燥な日々の中、ある出来事を記憶している。
あれは童実野町を離れる前だっただろうか。忘我のうちに放浪していたバクラは、自らの姿を隠すという理由を見つけられなかった。堂々と――というより何も考えずに、惰性のまま足を動かしていた。疲労を感じればどこかに座り、そのまま眠ったことも多い。補導されることが無かったのは奇跡に近かった。恐らく盗みの手際同様、追う者の視線を掻い潜り躱す術が知らず身に沁みついていたのだろう。人目につかない場所を身体が勝手に選び、そうやって生きていた。
だからこそ、裏路地に生きる者の目に止まってしまった。
『おいテメエ、止まれ』
買ったのだか盗んだのだか覚えていない、グレーのパーカーを頭に被ったままのろのろと歩いていたバクラを、ある夜、声が呼び止めた。立ち止まれと言われたのでバクラは止まった。抗う理由がないからだ。
億劫に振り向くと、人相の悪い若い男が三人、裏路地の薄暗いさなかでも分かるほどに、悪意をもってバクラを睨み付けている。見覚えのない顔、姿かたち。誰だろうと思い、誰でもいいともまた、思った。
呼び止められたことに何か用かと返すほど、唇に覇気はない。止められたまま立ち止まったバクラは、男たちが大股に近づいてきても、猫背にまるめた背中のまま、振り向く姿勢で動かなかった。
『やっぱりな、こいつあれだぜ、俺のカードを盗んだ奴だ』
何の話だろうか。半分ほどしか開かない瞳で、バクラは男を見る。
人相の悪さにやはり、覚えはない。だが三人はそうだそうだとかあの時はよくもだとか、がなりながらバクラを取り囲んできた。そのあたりでようやく思い当る。かつてバクラが目的をもって暗躍していた頃、夜な夜な、デュエリストからカードを奪った記憶があった。バトルシティの時だったかもしれないし、他の機会であったかもしれない。時期は定かではなくとも、そしてそれがどんなにバクラにとって取るに足らない記憶だったとしても、被害者は忘れないものだ。胸ぐらを掴んで唾を飛ばし、罵倒してくる男の目には新鮮な憎しみがあった。怒りが薄闇のなかで充血して、ぎらぎらとバクラを刺す。胸やけするような気分だった。生気漲るものが近くにあると気分が悪くなる。吐き気を催して、バクラは顔を背けた。その動きが、男の反感を買った。
『シレっとしてんじゃねえよ、クソ野郎が!』
頬に衝撃が走った。殴られたのだと、理解するのに時間がかかった。
胸ぐらを掴む力よりも殴る勢いが強かったのだろう。バクラは物理のままに後方によろけ、雑居ビルの壁に背中を打ちつけた。そのまま項垂れる。
痛い、と感じた。
生きている実感が否応なしに突き付けられる。
殴られたなら痛みを感じ、打たれた箇所は赤く腫れる。血が巡っているからじんじんと痺れるし、脳を揺さぶられる衝撃はやわい肉体の有り様をあからさまに露呈させる。
ああ、生きている。生きてしまっている。
痛感、した。
何もすることがないのに、生きている。
悲しいだとか腹が立つだとか、そういった感覚すらない。うっすらとした不快な気分が満ちる。それ以上の具体的な感情は無い。何も、なかった。
男たちはその後も痛烈に罵倒しながら、拳と足で散々バクラを痛めつけた。盗人野郎が、ぶち殺してやる。聞き覚えがあると感じたのは、かつて盗賊だった頃、へまをして同じ目にあったことがあるからだろう。その時はもっと熱い、黒々とした感情を耐えながら身を縮めてやり過ごしたものだけれど――今はそれも無い。殴られるがままに殴られて、蹴られるままに蹴られた。この身体のもとになっている、了の姿に似せた白い肌が泥と痣で台無しになってゆく。
最後に一番痛烈に腹を蹴り上げられて、バクラは遂に崩れ落ちた。
頬に泥が跳ねる。口の中が熱い。塩辛い。血の味だ。知っている。これは屈辱の味だったはずなのに、もう、何も――だ。
何一つ喋らない、反撃もしてこない相手を、男たちは次第に気味悪がった。殴って汚れた拳を後ろ手に拭うのは、バクラに触れた箇所から何かが感染しないかと恐れている風でもあった。
『何だよこいつ、前と全然違うじゃねえか』
薄気味悪そうに言って一歩下がる男を、バクラは目だけで見上げた。あれだけ勢いよく殴る蹴るしておきながら、今更怯えるだなんて滑稽だ。
『死人みたいな面しやがって、気持ち悪い』
ぼそりと別の男が言った。そのうち誰かが、おいもう行こうぜ、と乾いた声で言う。半ば逃げるようにして去ってゆく踵を、伏せたまま、バクラは見送った。
死人みたいな面しやがって。
『……は』
久方ぶりに、声が出た。こんな時でも哂うのかと、バクラ自身、そう思った。
だって、おかしかったのだ。死人。死人だなんて。
『生きてる、ン、だよ、これが』
生きて――いる。
痛みを感じ、耐えきれずに無様に伏せてしまうほど。
脆く柔らかい脆弱な、生き物なのだ。
痛感する。し続ける。あちこち痛む身体の軋みが、口の中の血の味が、バクラが生きていることを教え続ける。
だからといって、何もない。
薄墨を溶かした水の色をした、漠然とした不快感と不安定な感覚だけが、からっぽの中身にたぷたぷと揺れている。
しばらく倒れたままだったバクラだが、やがて、振り向いた時と同様にのろのろとした動きで起き上がった。どこも折れていない、怪我は打撲だけらしい。
ふうんとだけ思って、バクラは壁に手を付いた。泥濘に転んだせいでべったりと付着した泥が、手の跡を残す。
その跡を擦り、また、なんとなく、歩いた。
足を引き摺りながら、痛みが麻痺するまで、歩き続けた。二度目の生を得て一歩踏み出してしまったあの日から、止まる理由がないからずっと、歩いている。
童実野町を離れたのはこの後だった。バクラを恨んでいる人間がいる場所を、盗賊の経験から避けたのかもしれない。引きずる足が自然と完治した頃には、もう他の遠い街へと移っていた気がする。
それからは、それこそ本当に何も起こらなかった。恨みを持つ者が居ない、そもそもバクラのことを知っている者がいない場所では、空気と同じ程度の存在感だ。誰もバクラを省みない。
腹が減ったら食べ、疲れたら適当に宿をとるか、適当に眠る。
汚れた服を変え、伸びるに任せる髪もそのままに。
まともに他人と会話することすらないまま、こうして正しく野良猫のように、バクラはただ生きていた。漠然と生きて、漠然と流れて、そうして――此処へ、辿り着いた。
再び童実野町へと。
乗った電車がたまたま童実野町を目指したレールの上にあり、座りっぱなしだったシートに身体を預けていた。顔を上げたら見知った駅名で、終点だったので降りただけだ。そうして、最早これは癖だろうか――両足は見慣れたマンションを目指した。エントランスの前に立ち、惰性に背中を叩かれてエレベーターのボタンを押し、六階に降り立った。
六〇一号室。
不用心に鍵のかかっていない――これは以前からの了の悪癖だった。なんでも妹が存命だった頃の癖なのだとか――玄関を開き、勝手に入った。きちんと整えて置かれたスニーカーは一足。小さなサイズで、大分年季が入っている。
特に足音をひそめるつもりもなく、気づかせたいわけでも気づかれたくない理由もないのですたすたと歩いた。どうしてこんなことをしているのか、理由などない。全ては惰性で、けつまずいて転んだら終わる、ライフが一桁の状態で生きているようなものだ。どうとでもしてくれとすら思わない、何も、感じない――まま、風の通りが良いリビングを、バクラは越えた。部屋の主は何をしていたのか、クローゼットの前で固まっていて、その向こうからころころと紙屑が転がってきた。
拾い上げると目が合い、その時、するり――と。
『ゴミくらいしっかり捨てろ、だらしねえ』
言葉が、出てきた。
今まで会話を忘れていた喉が働いた。
息をするよりも自然に、だ。
放浪の間、ろくに動きもしなかった唇が皮肉で嫌味な形を作った。揶揄の言葉を吐いて、顔の筋肉が呆れの表情を作り上げる。何もかもが自然な流れで、軋みも、違和も欠片ほど見つからない。
それはただ流れて、流れて、流れるだけだった水が、急に器を得たかのようだった。
了の前に立った時、バクラという水に輪郭が与えられた。
了がいて、初めて、バクラはバクラに、ようやっと形を取り戻したのだった。