【♀】ヒキガネweb再録 EXTRA / Gang Gang Youngster. 01

暗闇の中を走っていた。
一歩踏み出すごとに、アスファルトは融解しどろりと粘って足裏に絡みつく。ゴムのような、タールのような、重たくて気持ちの悪いねばねばした地面では自慢の俊足も役に立たない。均衡が崩れた裏路地はピンクと緑のサイケデリックな煉瓦の渦となって視界を眩ませ、進もうとした道を瞬時に行き止まりに変える。
走る度に塞がる進路。背中で銃声が響く。避けきれずに被弾する。肩口に痛み。溢れる血液も黒くどろどろとした塊だ。
アスファルトの海はあちこちに隆起がある。欠けた頭蓋骨、ナイフを持った腕、指を無くしてトリガーが引けなくなった手、その全てがかつての同胞だ。亡骸だ。それらを踏み潰し、蹴散らさないと先に進めない。見慣れた眼帯をした生首が歯をカチカチと噛み合わせながら自分に助けを求めているのが見える。それとも怨嗟の声だろうか。
助けてくれ――どうしてお前だけ生きてる。
そう、聞こえた。
(嫌だ、オレ様は死にたくない)
涙などとうに枯れ果てたと思っていたのに、自然と、紫の瞳から滴が溢れていた。透明なそれではなく、血潮と同様、真っ黒な液体だったけれど。
行く道を塞ぐ生首をナイフの一振りで裂いて、粘る足裏に耐えて、走る。絶命の叫びが頭にこびりつく。やめてくれと叫んでも歪に反響してやまない。死者は聞きなれた声で自分の名前を呼んで、助けてくれと云いながらお前も死ねという。どうしたらいいのか、分かるわけもなかった。
不意に、はるか後方で笑い声がした。
ごりごりと骨を砕く音。ぐちゃぐちゃと肉を割く音。ぐつぐつと――これは何の音だろう、何かが煮えるような恐ろしい音がする。
笑い声の正体は分かっていた。
それは黄金色の影で、巨大で、いくつもの手足を持っている名状しがたい化け物だった。幾千幾万にも伸びたその手足の切っ先は小さなヒトガタになっていて、それらは手に武器を持って自分を追いかけてくる。
貴様らは死なねばならぬと黄金の影は云う。
そうあることが必然であり、必要な犠牲である。
我らの為に死ね。死ね、死ね。
耳を塞いで走り続けた。
振り向けない。振り向いたら追いつかれる。追いつかれたら殺される。皆のように。
楽になれるぞ。
アスファルトの水面から頭を覗かせた男が、そう云ったように聞こえた。
自分を拾い、育ててくれた恩ある男だった。
頭の半分を吹き飛ばされて、新鮮な肉色の脳を晒した彼は、まるで慈しむような声で云った。
楽になれるぞ。
声は、疲弊しきった心と身体に甘美な毒となって響く。
楽になれる。
走らなくていい。逃げなくていい。
黒い海で肉塊に成り果てれば、思考すらしなくていい。
(そんなのは御免だ)
唇を噛み、ナイフの切っ先を男の鼻先に突きつけた。
(オレ様は死にたくない。絶対に。あんたを見殺しにしてでも)
強く強くそう思った。だのに何故だ、刺し貫けない。
驚愕の中、背後から黄金の軍勢が迫ってくる。また背中を、足を、膝を、銃弾が突き抜ける。一撃ごとに絶望を誘う痛みが走った。口から吐き出す黒い塊。もう半分くらい、自分はこのアスファルトと同化してしまっているのだろうか。それならもういっそ。違う、死にたくない。まだ生きていたい。
手の中のナイフが、不意に向きを変えた。
進行方向は己の喉元。必死の拒絶も空しく、震える刃が押し付けられる。
ぷつん。
肌の弾力が負け、冷たさが食い込んだ。
楽になれるぞ。
黄金の影が覆いかぶさってくる。
(やめてくれ)
ナイフ重たく、されど軽い。黄金は自分の手に手を重ね、ぐっと力こめてきた。
そして遂に、物理に従った刃が頸動脈を――

 

 

ひやり、と。
冷たく滑らかな何かがこめかみに触れた時、盗賊王はそれを掴み、今しがた自分が寝そべっていた場所へ引きずり倒した。
「ッ!?」
冷たさの主が息を飲む。やられてたまるか、オレ様は絶対にてめえらに殺されたりなんざしねえ逆に殺してやる殺して殺してあいつらの分だけ何回も殺してやる。そう口の中で呟きながら、腰の後ろを探る。得物が無い。ならこの手で。ごきりと指の関節を鳴らし、細い首に手を掛ける。何だこんなちっぽけで細っこい奴だったのか。まるで枝か何かだ。そう、まるで女子供の柔らかい頸のように――
「っ……るし、くるしい、よ」
組み伏せられたそれ――が、了が、蚊の鳴くような悲鳴を上げた。
盗賊王は瞬きをする。二回。
すぐに暗順応が行われ、ここが暗闇ではないことを知る。オレンジ色の暖かなスタンドライトの灯り、群青を帯びた室内、落ち着いた色のソファとその上に散らばる白い髪、青い瞳がこちらを見上げて、苦しげに唇をぱくぱくさせている。
「りょ、う」
そうだ、了だ。
脳から指令を出すよりも先に、盗賊王は反射的に手を離していた。ひゅうっと息を吸い込む了の喉。それを今まで掴んでいた自分の手を交互に見比べ、漸く理解する。
ああ、夢だ。
嫌な汗がどっと噴き出てくる。こめかみで血がどくんどくんと激しく脈打ち、自分が生きていることを再認識させられた。この皮膚の下に流れている血液は、あの溶けた漆黒のアスファルトではない。現実の自分には、赤い血潮が流れている。
生きているのだから、当然だ。
生きて、拾われて、ここにいる。
自分はいのちを永らえた。目の前で咽ている了の片割れに拾われ、そうしてこうして、ここで、ゾークフ・ファミリーの一員として生きている。
クル・エルナはもう、なくなったのだ。
「……悪ィ、やっちまった」
決まりも始末も悪いこと極まりない。盗賊王は了の首を絞めた手――ものすごい量の汗をかいていた――をズボンの端でぐいぐいと拭い、その手で後ろ頭を掻いた。
了は息を乱しながらも、盗賊王を見上げてくる。青い瞳には恐怖の欠片があったが、怒りはさほどないようだった。
「またやっちゃった、の間違いでしょ」
「……おう」
了はそう訂正し、それから軽く首を振った。
「いいよ、いきなり触ったのはボクだし」
そう、また――なのだ。
悪夢と現実の境界を見誤り、了に手を上げたのは初めてではない。此度で遂に両手の指数を満たしてしまった。
クル・エルナの残党狩りから逃げ、ゴミ捨て場でバクラに拾われ三ヶ月が経過した。その間、了に手を上げたのと同じ回数だけ、盗賊王は夢を見ている。決まって同じ夢だ。金色の影に追われ、同胞に助けと死を求められ、ひたすら逃げるだけの夢。最後には喉を掻き切りそうになり、死亡の寸前で目が覚める。
覚醒した瞬間、毎回自分がどこにいるのか分からなくなる。あの夢と地続きの地獄にまだいるのではないかと、混乱した脳が盗賊王の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまう。そんな時に了が近くにいるともういけない。彼女は心配して声をかけてくれるのだが、対象を見誤った殺意を被ることもしばしばだった。
『だってうなされてたから』
が、了の言い分である。
うなされていたから、起こした。きっと悪い夢を見ているんだと思ったから。
その予測は確かに当たっている。了が起こしてくれなければ、きっと夢の中で幾度も自分は死んでいただろう。夢で命を落としたところで現実に関係はない。されど、好い気分がしないのも確かであるし、何より盗賊王自身が、たとい夢であっても死にたくないと思っているのも事実だった。
十回。
全ての悪夢を、了の声が寸でのところで幕を引く。
ありがたい反面、何回も危害を加えているというのは些か問題がありすぎると思う盗賊王だ。
「なあ了よォ、起こしてくれるのはありがてえけどよ、流石に気が引けるわ」
「あれ、キミでも申し訳ないとか思ったりするの?」
ソファから起き上がった了が、きょとんとした表情で問う。
「もう慣れちゃって気にしてないと思ってたよ」
「どんだけ悪党だと思われてんだ、オレ様は」
「最初のイメージが最悪だったからなあ、でも随分良くなったよ? だからこうして起こしてあげるんじゃないか」
そう笑う了に、棘はない。
出会いは確かに最悪だった。毛虫のように嫌われていた当初と比べれば、関係は随分ましになったと云える。
胸糞の悪い夢の記憶を振り払うように、盗賊王は三ヶ月前から現在に至るまでの、了との日々を思い出した。
彼女はファーストコンタクト時に性的な意味で襲い掛かられたことを根に持ち、暫くの間は盗賊王に対して硬い態度を取っていた。なればいっそのこと無視するなりしたらいいものの、扱いが中途半端であった為ひどくやりにくかったことをよく覚えている。食事も三人分用意するし、身一つで転がり込んできた盗賊王に使うならどうぞとバスタオルや歯ブラシを寄越してきたりした。たまにこちらを伺うように盗み見ている目には、正体不明の相手を警戒する意と微細なる好奇心。まるで兎だ。周りを飛び跳ねながら、しかし決して近くに寄ってきたりしない。
そんな風に落ち着かないまま、日常と非日常を行ったり来たりした日々。仕事がある日はバクラの相棒として街の暗部を駆けずりまわり、何もなければフラットで自堕落に過ごす。その自堕落の時間が思っていたよりも多かったことが、了との溝を浅くした最大の要因だった。
暇だったから、勝手に食事を作った。
暇だったから、観葉植物に水をやった。
暇だったから、話しかけてみた。
そんな些細な家事ひとつで、何故か了は頬のこわばりを解いて、ありがとうなどと云うのだから驚いた。継続して行ったことではないし、そもそも手伝ったつもりもなかった。気まぐれな、本当の意味での単なる手持無沙汰――上がり込んだ双子の住居は盗賊王にとってはまだ居心地が悪く居候の感を否めなかった為、何か身体を動かしていないと落ち着かなかった、ただそれだけだ。
何故か効果覿面だったそれらが緩衝剤になり、次第に了は心を開いていった。以前のようにつんけんすることも、もうない。今では会話も増え、友人でもない家族でもない、同居人として仲の良い関係を構築するに至る。流石にまだ名前で呼ぼうとはしないが――了にとって『バクラ』はボスただ一人らしい――他人行儀な『あなた』呼びから『キミ』になった分だけ進歩だ。
後からバクラに聞いた話だが、了が誰かをきっぱり嫌ったというのは非常に珍しいことだったらしい。当たらず障らず、ふわふわ浮かんだシャボン玉のようにつかみどころのない女なのだと。
そんな彼女だから、嫌う感情もすぐに弾けてなくなってしまったのではないかと盗賊王は思う。滅多に他人に牙を剥かない女、そんな彼女に烈火のごとく嫌われることは逆にレアリティがあって面白かったが、こうして気楽に笑うようになった了もまた悪いものではない。顔のつくりが良い分尚更だ。欲を云えばもう少し肉付きが欲しいのだけれど。主に乳と尻に。
そうやってゆるゆる歩み寄りを続ける中で、幾度も悪夢を見ては了に救われた。最初は手を上げられて怯え、三度目ほどになって恐よりも心配顔が増え、此度などさっぱり平然としている。ソファから足をぶらぶらさせ、水いる? と聞いてくる了は、絞殺されかけたことなど既に記憶の向こう側らしい。
親切を断り、盗賊王もソファに腰掛ける。手のひら二つ分ほどの空白を挟んで並んで座ると、了は足を引き上げ、膝の上に頬を乗せて盗賊王をじっと眺めた。
「何だよ」
「まだ悪い夢見てるんだなあと思ってさ」
首を傾げる彼女の表情は、とても十六、七歳に見えなかった。
薄闇の力も相俟って少女じみたあどけなさを見せる。その癖、妙な艶を垣間見せることがあるので油断ならない。伏せた睫の先が、半開きの唇が、決して無垢ではないことを主張している。ひどくアンバランスだ。
「いつも同じ夢なの?」
不思議な女は青い瞳で盗賊王を見つめ、言葉を投げかけてくる。
夢のことにはあまり触れられたくなかった。
あれは――己の心が未だにクル・エルナの壊滅事件から一歩も前に進んでいないという証明に他ならない。
黄金の影は掃討組織の長、ファラオ・ファミリーの化身であることなど容易に理解できる。こうして暖かい寝床を手に入れた今でも、心は未だ逃亡者のままだ。
忌々しいと思う。同じくらい、それでいいとも思った。
そうやって忘れないで居たい。死んでいった仲間のことを、煮えたぎる憎悪を、微温湯の生活に絆されてしまわないように。
その為の悪夢ならばいくらでも耐えて飲み込んで、腹の内の憎しみの燃料にしてみせる。唯一の問題は、了を巻き込んでしまっていることだ。救われているが、このままではいつか本当に細い首を折ってしまいそうな気がする。折を見てもう手を出さないように言い聞かせねばなるまい。
だが、今はその気も起きない。盗賊王は故意に意地悪い表情を浮かべると、無邪気極まりない了へ話題の転換を放った。
「ベッドで彼氏が寝てんのに、他の男とお喋りしてていいのかよ?」
そう、このフラットの住人は三人。家主とも云えるボス――バクラは扉の向こうの寝室だ。了の髪が乱れていること、寝間着代わりのシャツの釦が鎖骨のその向こうまで開きっぱなしなところを見ると、盗賊王がアスファルトの泥沼を逃げ回っていた時分、二人はシーツの海でまぐわっていたことだろう。全く羨ましい話だ。
しかし了はゆらゆら頭を揺らして、ご心配には及ばないよと云った。
「バクラならさっき出て行っちゃったから。仕事だって」
「てめえを可愛がってる最中にか?」
「そうだよ。失礼しちゃうよね」
「オレ様がここで寝てんのに毎晩飽きもしねえでハメ狂ってること自体、失礼な話だけどな」
お邪魔したら混ぜてもらえねえかと思ってたところさ。
意地悪ついでにもう一つ。下世話な冗談を追加してみる。
了は顔を真っ赤にして怒る――と思いきや、どうかなあとまるで他人事の様子で唸った。
「バクラに聞いてみてよ」
「てめえはいいのか?」
「いいも何も、もしボクが嫌だって云ってもバクラがオーケーしたらどうしようもないよ。だからどっちでも同じ。二人で決めればいいじゃないか」
「他人任せ極まりねえな、てめえの身体使うことだってのに」
「それも今更だよ。何、キミはボクとそういうことしたいの?」
じっ、と、了はまん丸の青い瞳が疑問の視線を投げかけてきた。問われて即答できたならば、二人の関係ももっと違ったものになっていたかもしれない。
女なんてものは抱いてなんぼの存在で、見た目が好みであれば充分手を出す理由になる。その点、了の容姿は盗賊王の好みとは対極だ。どうせ可愛がるなら乳房が大きく気の強い女がいい。女に飢えに飢えて最悪もう穴があれば何でもいいと思っていた頃ならいざ知らず、貧弱な身体に受動態の性格を持つ了は性欲の対象としては役不足である。青い瞳や長く豊かな髪、細い手足は悪くないと思うが、そそられるかと問われると頷けない。
ならば全く対象外、と、言い切れないから厄介なのだ。
あどけなさの上に一色刷いたような妙な色気――先程の、膝を抱えて見つめてきたあの様子に、気をそそられたのは事実だった。首を絞めてしまった時の肌の滑らかさや出会った当初に一度だけ奪った唇の柔らかさを思い出すと、未だに落ち着かない気分にさせられる。壁一枚向こうでバクラとまぐわう最中に漏れ聞こえる高い悲鳴も、嫌いではない。
ああ面倒くさいいっそ手を出してしまおうか、と思ったこともある。だが――
『ボクとそういうことしたいの?』
どうしても腹立たしいのだ。
この、何でもない一言が。その態度が。
イエスと答えたなら、いいよ別にさせてあげても、とでも頷きそうなこの感じが気に食わない。まるでこちらが、了に抱かせてくれと頼んでいるようではないか。
冗談ではない、そんなみっともない真似など誰がするか。するならそっちから抱いてくれと縋りついてきたらいいのだ、そうしたら相手にしてやらなくもない。男というのはそういうものだ――というのが、盗賊王の主張である。これが色狂いのビッチ相手であれば即足蹴にしてやるところだ。ところがどうもその単語に了は当てはまらないので、対応する術が思いつかない。有耶無耶になっておしまいになる。
単純な思考回路を持つ盗賊王にとって、これらは頭を悩ませる厄介な感情だった。それでも了を憎からず思っている時点で、なんというか、既に情けなくはあるのだけれども。
「冗談。もちっと肉つけてから出直してこいよ」
結局、憎まれ口を返すことになる。了はやはり怒らず、男の人ってわけわかんないねなどと向こうを向くのだった。
気まずくはないが不自然な沈黙が満ちる。落ち着かない――こういう妙な雰囲気は嫌いだ。悪夢で噴き出た嫌な寝汗で冷えたタンクトップが背中に張り付いているのも気持ちが悪い。
ひと風呂浴びて、寝なおそうか。
熱い湯のシャワーで気分も良くなるに違いない。膝を叩いて立ち上ったところで、ローテーブルの上の携帯電話が振動を始めた。
ちかちかとランプが点滅する。ボスの呼び出しは彼自身と同様、傍若無人にして無遠慮な赤色をしていた。

 

 

暗闇の中だからこそ、白い髪はよく目立つ。
そう知ったのはバクラに拾われた後のことで、逃亡者時代の盗賊王は、己を追う者が何を目印にしているのか全く気が付かなかった。泥だらけに汚れていてさえ見咎められていたのだから、相当に目につきやすかったのだろう。ただでさえ肌の色が異質であるところに白髪が乗っかっていれば、誰だって気が付く。自身が目立つ容姿をしていることを、彼は全く理解していなかったのだ。
共に仕事をするようになって、バクラはそのことを盗賊王に教えた。
『てめえはまだ手配中のクル・エルナの生き残りなんだぜ。弁えろ』
このボスはとにかく優しさが欠けていると盗賊王は思う。優しくされたいなどとは露程も望まないが、その差はクル・エルナのボス――盗賊王にとって真のボスとは彼ただ一人だ――は何だかんだで愛情を持って自分を育ててくれたものだと強く感じさせた。昔を懐かしがって涙するようなセンチメンタルとは無縁の盗賊王であるけれど、がむしゃらに逃げていた時には忘れていられた懐かしきクル・エルナの日々は、夢だけではなくこんな時にさえ、不意打ちでちくりと胸を刺す。
そんな感傷など無関係と云わんばかりに、バクラは聞いてんのかと容赦なく盗賊王の脛を蹴ってくる。力はそうない癖に的確に急所を突いてくるのが憎らしい。へいへい、と適当な返事をして、盗賊王は真っ赤なパーカーのフードを目深に被った。
それからは常に、外出時は頭を隠す。面倒くさくとも雇い主の命令である。部下となった以上、仕事に関わる命令ならば遵守するのがまっとうなマフィアというものだ。ロウを違えた瞬間に、それはただの野放しのアウトローに分類される。
故に今宵も――時間を問わない呼び出しに応じ了を残してフラットを後にした今も、盗賊王は目立つ髪をパーカーで、紫の瞳をサングラスで隠し、バクラの隣に立っていた。
物音は厳禁。気配も立てず。
なぜならば、そういう仕事だ。
幻だか幽霊だか、あやふやな都市伝説レベルで噂されるゾーク・ファミリー。その仕事ぶりたるやどれだけのものかと思えば、やることはどこも誰もそう変わらない。そればかりか木端マフィアのお使いのような仕事も多く、酷い時は身分を偽って他のファミリーの護衛までする。いずれも荒事の無い取引、多少の揉め事が起こったとしても軽い小競り合い程度。此度とて、金貸しの代理で多重債務者・別名駄目男の元へと強制的な取り立てをしに行く最中である。プライドはないのかと疑いたくなるほどだ。どんな派手な抗争に頭を突っ込めるのかと期待していた分、初めは反動で大層がっかりした。
それでも、盗賊王は大人しくバクラの仕事を手伝っている。
バクラが真っ黒な腹の内に抱えている計画、その準備期間なのだと、全ては下積みだと理解しているからだ。
バクラは内心を他人に開くような真似はしない。新入りにぺらぺらと喋るわけもないという理由があるにせよ、何も話さなさすぎる。仕事内容でさえ最低限の条件しか説明しないのだ。身体で覚えろと云いたいのか何だか知らないが、不親切極まりない。
しかし盗賊王とて馬鹿ではない。バクラは無意味な仕事をはした金で受けることなどない。背中を守り始めてまだ日は浅いものの、生来の野生の感がそう告げている。
全てに意味がある。張り巡らせた糸の真ん中に、彼はいる。
まるで猛毒を持つ蜘蛛だ。意図を絡めた糸を街中に張り巡らせて、つまりは巣作りの真っ最中。目的地である四階建のフラットを見上げる横顔に、ティーンエイジャーの可愛げなど小さじひとつ分すら見当たらないのがその証拠に他ならない。
ビルの隙間、街の中でも最も暗い部類に入る場所に身を隠し、青い瞳は了と同じ色で全く違う、幽魂のようなほの昏さを揺らめかせている。視線はある一室の窓へ。カーテンのない窓に揺れる人影は二つ、ターゲットとその恋人か、或いは風俗嬢か。どちらにしろ今夜はお楽しみのようだ。そのお楽しみは後ほどぶち壊しにされるのだけれど。
既に時刻は午前三時を過ぎている。部屋の灯りが落ちた時、バクラは無言で、寄りかかっていた壁から背を起こした。
エレベーターなどという上等な代物などない、錆びた鋼鉄製の階段を昇っていく。荒っぽい足音を立てるのは厳禁だ。自らの背負った借金に怯える人間は、草食動物並の警戒心と聴覚を発揮する。
五階建ての集合住宅、三階の一室。目的地にてまずは紳士的に、バクラが軽く扉を叩く。
返事はなし。
どうやら居留守を使うつもりらしい――ならば。
「おい」
「あいよ」
軽いやり取りで、荒事のお許しが出た。
盗賊王は狭い廊下で器用に腰を捩じり、反動を利用した破壊力重視の蹴りを扉にお見舞いしてやった。
古い扉が派手な音を立ててひしゃげ、見るからに痛んでいた蝶番の一つが根元の木材ごともげた。もう一度足で、今度は上から踵落としの要領で衝撃を与える。鉄板が仕込まれた靴底に踏みつけられた扉は、あっという間に床材の一部と化す。
すぐに目配せが送られ、盗賊王は室内に踏み入らずに上の階へ向かった。上がる悲鳴に交じって、バクラの夜分遅くに失礼などという慇懃な挨拶が聞こえてくる。これから愉快な取り立てが始まるのだろう。
その様子を眺めている暇はない。一階層分の階段を易々と登り切り、真上の部屋をこちらも足で蹴り開ける。この部屋に普段人がいないのは調査済みだ。どこかの誰かが隠れ家として使っているのか、明らかにきな臭い木箱や空になった銃弾の箱が散らかっている。
雑然としたワンルームを突っ切り、埃で曇った窓を開けて外へ。ファイヤーエスケープの心許ない足場へと躍り出る。
盗賊王の仕事は、ターゲットの逃走を阻むこと。
部屋に出入り口は二つ。一つは玄関、もう一つはこの避難用階段だ。腰ほどまでしかない細い手すりに薄い鋼鉄の床、そして急角度の階段というよりほぼ梯子。覚束なくても外へ直通するこの道を生かしておくと、恰好の逃げ道になる。さてさっさと降りて、というところで、階下で発砲音が弾けた。
(派手にやってるじゃねえの)
続いて高い悲鳴。何かが割れる音に、慌てた足音。これは悠長にしているわけにもいかなそうだ。
段を降りるのもまどろっこしい。盗賊王は油断すると踏み抜きそうな階段を跳躍で飛び降りようと手すりを掴んだ。そのままぐるんと勢いをつけ、急角度のステップを一息に越える。
と、絶妙のタイミングで、着地点に頭が覗いた。
「お」
小声と、振り向く男の顔は同時に。怯えた目をした黒髪の男――ターゲットと思われる優男の顔面に、盗賊王の靴裏という挨拶が贈られた。
男と金属が上げる悲鳴が響く。男は物理法則に従って頭から斜めに踊り場へと身体を転がし、半回転して手すりに後頭部を強打した。盗賊王が着地した、がうん、という鉄板の跳ねる音が遅れて重なる。
「いい頃合いに到着したみてえだな」
衝撃で伸びた男の前にしゃがみ込み、盗賊王はからからと笑った。男の左足は綺麗に一発撃ち抜かれ、血が溢れている。急所ではないので放っておいても問題ない。生け捕り必須の仕事が故に、優しいバクラは手心を加えて頭から遠い箇所を狙ってやったのだろう。
さてどうしたものか。とりあえず担ぎ上げてとっとと室内に――などと思っていると、横手にあたる窓からもう一つ銃声が響いた。盗賊王が窓を覗き込む。
金髪の女が仰け反るようにして、ベッドに倒れるところだった。
倒れ込む身体。裸の乳房が揺れ、はしばみ色の瞳がぐるんと盗賊王を逆さまに見る。派手な顔立ちをした盗賊王好みの美人だったが、眉間に穴を開けては三割減も良い所だった。
オートマチックを腰のホルスターに戻すバクラと目が合う。顔を見られた、と、ボスは感情を表に出さない声で云った。
「勿体無ぇなあ、結構な美人だってのに」
「持って帰ってもいいんぜ。てめえのベッドのお供によ」
「やめとくわ、またお姫さんに嫌われたくねえし」
軽く肩を竦めて交わすのは、この場に似つかわしい軽いやり取り。
ともあれ仕事はこれで大方済んだ。後は白目をむいて伸びている借金持ちの優男を依頼主にプレゼントするだけだ。それで小遣いが貰える。尤も、バクラがそんなはした金を目当てに仕事を引き受けたとは到底思えないが。
この木端仕事にも何か裏がある。例えば――
「その女、殺したのは顔を見られたからってだけか?」
本命はそちらの、絶命し切った女の殺害であったとか。
豊かに流れる金髪。その髪と髪の隙間から覗く首筋に、見覚えのある刺青を見つけた気がしたのだ。手を伸ばして掻き分ければ簡単に判断が付く。彼女がどこの組織に所属し、何者であるかも。
だが、盗賊王が深く詮索することはなかった。バクラが意味ありげに唇の端を吊り上げ、何も云わなかったからだ。
知るべきことだけを告げるバクラは、不要な情報を誰にも漏らさない。参入して日の浅い盗賊王が知る必要のないと彼が判断したならば、今はそれに従うのが部下、である。なに、じきに信頼を勝ち取って、その腹にたんまり溜め込んだ企みを把握してくれる。いつまでもルーキー待遇に甘んじている程、盗賊王の野心は小さくないのだ。
「そいつを車に放り込んどけ」
バクラが顎をしゃくって運搬を促す。つまりボスはこの部屋でまだやることがあるということで。
何を探って、もう一つ、いやさことによっては二つも三つもありそうな仕事を済ませてくるものか。盗賊王はフードを被り直し、了解を告げる代わりに男を背中に背負った。
作業は単純。荷物扱いの男をトランクに押し込め、運転席で待てばいい。バクラが引き渡しをしている間、お尋ね者の盗賊王は勿論車内でお留守番である。その時間、僅か十分もかかるまい。
車内でもパーカーを脱ぐと怒られるので扮装はそのままに。目深なフードの下でぺたんこに押しつぶされた前髪の先がサングラスの縁に引っかかって鬱陶しい。色硝子越しのモノクロの世界はやっぱり退屈だった。
(こうもぬるいと、身体がなまっちまう)
しかし真夏になってもこの恰好でいなければならないと云われたら困りものだ。いっそのこと目立たない色に染めてしまおうか――そんな益体の無いことを考えつつ、盗賊王は無言で帰還したバクラを目で追う。フィアットのハンドルを握って出発進行。
ごく短時間で済んだ取引で男がどんな目に合うか、こちら側としては何の興味もないので結果を確認することはない。彼の結末など瞬時に片手の指以上に思いつくし、事実、そのどれかになるはずだ。無論もう二度と会うこともない。
助手席のバクラは、退屈そうに窓の向こうを眺めている。深夜であるからこそ一層ネオンを輝かせるショッキングピンクの看板が、盗賊王の目についた。
「寄り道していくか?」
ひやかしにバクラがこちらを向く。何とも云えない、絶対零度の視線だった。
「間に合ってる」
「ああ、てめえにゃ可愛いお姫さんがいたか。こりゃあ失敬」
「そのオヒメサマってのやめろ。あれはそんな大層なモンじゃねえ」
「必死ンなって稼業隠して、大事じゃねえって? そりゃなんて冗談だ」
ボスが御不快らしい下品な風俗街を避け、盗賊王は車一台通るのがやっとな悪路を進んでいく。
「羨ましい限りだぜ。了の奴、てめえにべったりだもんなあ」
特に意味のない軽口の皮肉に、バクラがきゅっと眉根を寄せる。不快、というよりは意外とでも言いたげな表情だった。
「まだ揉めてんのかてめえら」
「いいや、仲良くさせてもらってるぜ? さっきも誰かさんにおいてけぼり食らったって話を聞いたところだ」
「だったらてめえが残飯処理してくりゃあよかったじゃねえか」
ふん、と鼻を鳴らすバクラに、女への心遣いなど欠片もなかった。
「わけわかんねえな、てめえら」
「何がだよ」
「オレ様だったら、稼業隠してまで可愛がる女を残飯とは云わねえけどなあ。あいつはあいつで、オレ様と寝ても構わねえって云わんばかりの態度だしよ。理解に苦しむぜ」
この言葉で少しでも苛立ちを浮かべれば、口で悪辣なことを云いながら結局了が大事なのだと分かる。そんなつもりで、盗賊王は軽くジャブを放ってみた。
しかしバクラは動じない。あまりにも無反応なので注視してしまい、運転を誤り道端のポリバケツをひっくり返してしまった。それこそ正真正銘の残飯を漁っていた野良犬が慌てて逃げていく。
相変わらず退屈そうなバクラは漸くこちらに目を向け、嫌味極まりない様子で盗賊王を一瞥した。
「寄り道してえのはてめえの方じゃねえのか? 下世話な勘繰りは溜まってる証拠だぜ」
「はぐらかすなよ。本音は見せたくありませんってか?」
「オレ様ほど隠し事のねえ男もそういねえよ。別に構わねえから黙ってるだけだ。宿主を犯りてえなら好きにしな」
にやりと笑う、バクラには全く容赦というものがない。数時間前のフラットにて、盗賊王は冗談まじりで了にバクラのことを彼氏だと云ってやったが――本当にそういう関係ではないのかもしれない。いいところセックスフレンド、或いは惰性の関係、そんなものか。受動態の了にとって、それはそれで楽な関係だろう。バクラの罵言はまだ続く。
「ま、あいつで愉しむのは至難の業だとは云っておくぜ。何せ宿主サマはとんでもないマグロでいらっしゃるからな」
「そのマグロ相手に毎晩頑張ってんのは誰だよ」
「金掛けずに発散してんだ、その程度は目ェ瞑るさ。躾の愉しみってもんもある。それでも嫌なら他の女を使えばいい」
そういうわけで、寄り道は一人でドウゾ。
こつこつと窓硝子を指で叩き示す先には、ビルとビルの間から覗く風俗の看板。偶然か否か、何度か世話になったことがある店である分笑えない。思わず舌打ちすると、バクラがニタアと嫌な笑みを浮かべた。
「何だ、てめえ本気で宿主相手にしてえのか?」
そのいかにも性格の悪い、見透かしたような口振りが妙に癪に触った。
したいかだと? そんなことはない。ないに決まっている。
女の尻を追いかけるなど男のすることではない。女なんて生物は愛されたがって男に縋って然るべきだ。手を伸ばさなくても手に入る。了が自ら抱いてくれと望めばまあ食ってやらなくもないが、何ゆえにこちらから欲しがらねばならない。あんな肉の薄いぺらぺらの身体、頼まれなければ抱きはしない。
確かに了は、隣に置いておいて気持ちのいい女ではある。囲われ者の癖に卑屈ではなく擦れてもおらず、喜怒哀楽がはっきりしている。適度に馬鹿なところも悪くない。だがそれは飽くまで身体の関係を抜いての話で、別に彼女が欲しいというわけでは――ああ、なんだこれは。つい数時間前に同じようなことを考えたではないか。何を躍起になっている?
みっともない思考極まりない。バクラの物言いよりも盗賊王は己の思考回路に腹が立った。いつからこんな鬱陶しい考え方をするようになったのだろうか。
二度目の舌打ちは鋭く響いた。助手席のバクラがひゃは、と、苛立ちを誘う笑い声を上げる。
「図星なら、オレ様は今晩外泊してやってもいいぜ。 てめえらには仲良くしてもらわなきゃあ困る。いざと云う時に甘やかして懐柔できるくらいにはなっといてくんねえとな。何せてめえは口と頭が軽い」
バクラは居丈高に顎を上げて言う。うっかり仕事をバラされちゃあ堪らないと笑って。
「あいつは快感に弱いからな。大抵のことは身体で誤魔化せる。てめえもそうなってくれるならオレ様も安心だ」
「……今日はやけによく喋るじゃねえか」
「下らねえ仕事の後で気分が悪いからな。てめえこそ歯切れが悪いぜ。あァ――ひょっとしてマジ惚れしちまったとか?」
その物言いに限界が来た。
盗賊王は思い切りブレーキペダルを踏みつけ、路地裏の片隅でフィアットを急停車させた。そのまま荒々しく扉を開き、明け方近くの夜へ滑り出る。
「お言葉に甘えるぜ。寄り道していいんだろ? ボス」
苛立ちも露わにバクラを見下ろして、盗賊王は云う。おっしゃる通り溜まってるみてえだわと続けると、バクラは露骨に面白がる顔で窓を開け、肘を引っ掻けて大仰に覗き込んできた。
「宿主じゃなくていいのかよ?」
「あんな貧相な女じゃ勃たねえよ。オレ様は乳のでかい女が好みなんだ」
我ながら剣呑が過ぎる声だ。しかしバクラは動じず、片眉を上げてどうぞとネオンを指さした。二倍腹立たしい。
(そうだ、別に了じゃなくていい)
女なんてそこらじゅうにいくらでもいる。
持て余しているのは性欲ではなく苛立ちだが、似たようなものだ。熱い肌と乳房で溶かせばすぐに消える。そうしてすっきり払拭してからでないと、とてもではないが了の顔を見る気になれなさそうだった。