【♀】ヒキガネweb再録 EXTRA / Gang Gang Youngster. 02
ファンが回る微細なモーター音。
勤勉に働く時計の針。
冷蔵庫の低い振動。
無機物が奏でる音ならば溢れているけれど、息をしているのは自分だけ。
留守番にはもう慣れた。一人フラットで夜明けを迎えることは日常と化している。了はソファに横向きに寝そべったまま、ぼんやりと明け方の空を眺めていた。
全てが緩慢な世界で、手だけが――少しだけ忙しなく、身体の上を動きまわっている。
「……駄目だぁ」
その左手も動きを止め、ぽとりとソファの座面に落下した。呟いた了は長い溜息を吐く。
一人で身体を弄って、気持ち良くなれるわけがない。
残滓のような熱だけが中途半端に身体を火照らせる。されど脳内は冷静だった。
バクラに中途でおいてけぼりにされた下肢を一人慰めてみたものの、不慣れな了では無駄なあがきであった。返って悪化した気さえする。
(せめて早く帰って来るとかすればいいのに)
ごろんごろんとソファ上を転がる。
誰も帰ってこない、何も変わらない。
了はもだもだと疼く下肢を丸め、憎くも愛しい男のことを考えた。
数時間前のことだ。噛み痕や鬱血を身体じゅうに刻まれ、気分は最高に高調していた。そうしてさあ繋がりますというタイミングでバクラは動きを止めてしまった。サイドテーブルで振動する携帯電話を手に取り、息を乱した了を差し置いて画面を確認。ぱちりと閉じて、やおら起き上がる。
仕事、と、彼は一言告げ、脱ぎ捨てていたシャツを拾い上げた。ぽかんとする了には目もくれず、さっさとベッドを降りて身支度を整えていく。ちょっと待ってよこんな状態で放っておくつもり――そう訴えたら、面倒くさそうに振り返ったバクラは、
『てめえでどうにかしろよ』
と、非道極まりない捨て台詞を残して、寝室を後にしてしまった。
分かっている。知っている。バクラはこういう嫌な奴だ。昔からそうだ。今更その悪辣な性格について文句を並べても始まらない。
悪魔みたいなこの男は自分の双子の片割れであり、自分はどうやらその男のことを好いている。燃え盛る炎のような恋情ではなく、空気や水と同じ、あって当然の感情。気が付いたらそういう関係になっていた――故に、仕方のないことなのだ。
(だったらせめて、一人で気持ち良くなれる方法くらい教えてよ)
冷たい手のひらの動かし方を、温度を、記憶しているバクラの全てを仮想できるような方法を伝授してもらえれば、こんな落ち着かない夜を耐える必要もなくなではないか。
(出来たら苦労しないんだから、さ)
思い出すことは出来ても手指の動きは拙い自分のそれで、その差異は熱に水を差す。昇華できずに持て余した性欲を処理するには、シャワーでも浴びて無理やり散らすかバクラが帰宅するまで悶えて耐えるかの二択しかない。
どちらも辛い。御免被りたい。
「うう」
誰にともなく不愉快の唸りを訴えてみる。無論、応えはなかった。
不意に了は、自分は何なのだろうかと考えた。
秘密だらけの男に云われるがまま家に引きこもり、同居人と彼の世話をして。同じことを延々繰り返して、了は生きている。平坦で穏やかな日々は愛すべきものだ。不変不動、平和なことは喜ばしい。世界中がどんな災いに満ちても、自分の周りだけがいつもどおりの平穏であれば充分だと了は思う。
それでも偶に過る、自身への疑問。
これが不安というものだろうか。
(幸せなのに不安だなんて、贅沢な悩みだな)
ごろん。再び寝返り――というより膝を抱えての反転行動――を行い、目を閉じる。
(ああ、そういえば少し前にも、こんな風に不安な気持ちになった)
とめどない思考はサイコロのように転がり、記憶を引き出していく。放っておけば火照るばかりの下半身に極力気持ちを引きずられないように、無意識は遠くの方へと思考の枝を伸ばしていった。
緩やかに自分の内側へと、了の意識は沈んでゆく。取りとめのない、思考の連鎖だった。
――しあわせで平坦で、少しだけ退屈な、箱庭の世界。
三ヶ月前に、それは一度壊された。
異国のならず者の登場によって――バクラと同じ名前の、彼がこのフラットに転がり込んだ時に。
彼はこともあろうに、下世話な理由でこちらに襲いかかってきた。ここへ住まわせるとバクラに聞いた時、了は珍しく反抗したのだ。あの人のことは好きじゃないと、一緒に居たくないとはっきり云った。訴えたところでバクラが願いを聞き入れてくれることはないと分かっていたのにだ。つまりそれほどに彼のことが嫌だった。
正確には、この閉じた双子の世界に他人を入れることを良しとしたバクラに腹が立った。
例えるなら、完璧に循環が行われた水槽の中に全く種類の違う水草を植え込むようなものだ。外来種のそれが無遠慮に根を張り栄養素を吸い込み毒素を吐き出し、生態系が崩れる。今までうまく回っていたものの全てが壊れ、了の愛する平坦な生活が脅かされる――堪らなく嫌でとんでもなく恐ろしかった。
了はバクラ以外に男を知らない。身体も、唇でさえも許したのはバクラだけだ。だのに見知らぬ男に襲われかけて、誰が歓迎などするものか。
唇に、他人が触れるのが嫌だった。バクラだけがそこに触れてもいいのだと、了のロジックは定められている。犯されるよりもずっと気持ちが悪い。どうしてかと問われても答えられないけれど、とにかく嫌なのだ。故に盗賊王への好感度は零を通り越してマイナスの区域に針を落としていた。
(でも、今は普通なんだよね――)
一度壊された箱庭。外来種を抱え込んだ世界。
けれど今は、平穏だ。
いつから彼を、盗賊王を厭わなくなったのだろう。
家事を手伝ってくれたこと、話し相手になってくれたこと、確かにそれはバクラ相手では望めない喜びとありがたさを与えてくれはしたけれど、決定打には成り得ない。
(ああ、そうだ)
彼の悪夢を、知ってからだ。
了は薄く目を開く。普段ならこの場所は、盗賊王が寝床に使っているソファだ。長い身体を窮屈に折り曲げて眠っているのをよく見かける。
その時の彼も丁度、今の了と同じように横を向いて眠っていた。喉が渇いてキッチンへ向かう途中で、苦しげなうめき声を聞いて歩み寄ったのだ。
そこに、厄介で大嫌いなアウトローはいなかった。
眠っていたのは、苦悶の表情で、脂汗をかいて歯を食いしばる、大きな身体をした子供だった。
驚いた了は、その姿に目を奪われた。普段目にする粗野な男とはあまりにもかけ離れていていたからだ。
喉の渇きも忘れて見入った。
傷のある頬を上側に、盗賊王は苦痛の唸り声を上げていた。覗き込むと、思っていたよりも長い睫と、高い鼻梁と、その隙間を汗が伝うのが見えた。
そして、食い締めた歯の隙間から漏れた、言葉。
『死にたくない』。
掠れて、本当にそう云ったのかも怪しいほどのあやふやな声だった。
けれど了の耳にはにそう聞こえた。
まるで、助けてくれと云われたようにも聞こえた。
瞬間、胸の内側で強張っていた盗賊王への感情が解けたのを、了は確かに感じたのだ。
それはきっと、共感と呼ばれる感情。
今まで了は、自分と彼はまったく別のものだと認識していた。極論、人間でないかもしれないくらいのことは思っていた。それほどまでにならず者だったのだから仕方がない。思考のパターンも行動の在り方も、自分と違いすぎて理解できる場所がない。まるで未知の怪獣だ、恐ろしいものだ――
そう、思っていたのに。
(ああ、この人もこうやって、怖い夢をみて魘されたりするんだ)
了が時折、バクラを喪失する夢を見て飛び起きることがあるように。
境界線を無くしたのは、そんな些細な切欠だった。
気が付いたら、了は彼の大きな傷の上に手のひらを乗せていた。次の瞬間には組み伏せられあわや殺され掛けたのだけれど、その時確かに怖かったけれど、心底恐怖したわけではなかった。圧し掛かる盗賊王の目には明らかな怯えがあり、依然、大きな子供のままだった。
だから微笑めた。
笑って見せたら、彼は自分を取り戻して飛びのいて、驚くべきことに了に謝った。
『悪かった』と。
彼はきっと無意識だったろう、闇の中でも爛々と輝く紫の瞳が、泣きだしそうに歪んでいた。怖い夢を見て魘された子供がそうなるように、強張った表情を解けないまま――現実の世界でもまだ不安で。きっと全てが無意識のうちにそうなっていて。
今鏡を見せたら、己の表情の情けなさに死にたくなるはずだ。
そんな彼を、了は確かに、可愛いと思った。
――助けてあげよう。
一度決めたら余程のことが無い限り揺るがない了である。魘された盗賊王を見つけたら手を差し伸べてやることが恒例になった。
助ければ助けるほど、彼が見た目ほど立派でも大人でもないことを知った。何度助けても同じように死にたくないと呻いている。きっと何かの呪縛に捕らわれているのだろう。その呪いを解くことは了には出来ないけれど、目覚めさせることならできる。冷たい手で額を、頬を撫ぜるだけでいい。毎回命の危険を感じるが、心底恐ろしくはない。どんなに獰猛に喉を鳴らしても、了の中での盗賊王は、情けなくちょっと可愛らしいもの、なのだ。恐怖の対象には成り得ない。
そうして、盗賊王が正体不明の怪獣から奇妙な同居人へと変貌を遂げるのに、時間はかからなかった。
(悪い人じゃない、んだよね)
数か月前に手に入れた結論を再確認した了は、すり、と、座面に頬を擦りつけて頷いた。
微かに、砂と汗の混じった匂い――自分のものでもバクラのものでもない体臭を感じた。
「ん……」
どうしてか、背中が落ち着かない。
伏せかけた瞼に浮かぶのは、つい先ほどまでここに座っていた盗賊王の横顔。今宵もまた怖い夢を見て、お決まりのやり取りをして、仕事に出かけてしまった。
ちょっくら行ってくるわ。
そう、いってらっしゃい。
別れ際の挨拶はそんなものだった。
扉を開けて夜の中へ出ていく盗賊王。パーカーを被った背中に一瞬、バクラの黒スーツの背中が重なったのは気のせいだろうか。
あの時、微かに感じたもの。
バクラが自分を置いて出掛ける時にいつも胸を刺す、爪の先ほどの大きさにも満たない棘――それを、盗賊王の背中からも感じた。
――ああ、行っちゃうんだ。
(ここに居てくれたらいいのに)
云い出せないのではなく、云う気のない本音だ。
了は孤独を自覚したことはない。どこに居ても、誰と居ても、バクラの存在が身体のどこかに巣食っている。だから寂しいのではなく、つまらないのだろうと思う。言葉を交わす為に開かない口。長いこと言葉を吐き出さないと上唇と下唇が縫いついてしまいそうになる。
仲良くなってから、盗賊王は良き話し相手になってくれる。彼は存外にお喋りで、外の世界のこともよく知っていた。了があまりにも世間を知らず調子外れたことを云うと指をさして笑い、そうじゃねえよてめえは馬鹿だなといじわるを云いながら、いろいろなことを教えてくれる。それは、バクラ相手では決して得ることのできない楽しさを含んでいた。
故に、思う。
盗賊王が居てくれたら。
バクラに捨て置かれたこの身体の隣に、彼が居てくれたら。そうしたらきっと、いつもみたいに、知らないことを教えてくれるように――
(――教えてくれる、ように?)
思考の海の中、急激に、了の意識がはっと目を覚ます。
居てくれたら、何だと云うのだ。
首をぶんぶんと振って、あり得ない思考を振り払う。思わず大きく息を吸いこんだら、彼の残り香をもっと深く感じてしまって余計に妙な気分になってしまった。
「ち、がう」
言葉は勝手に形になった。
違う違う違う、そうじゃない。
いくら仲良くなっても、話が楽しくても、そうじゃない。こんなことを考えてしまうのは彼がおかしなことを云い残していったせいだと了は己に言い聞かせた。
『お邪魔したら混ぜてもらえねえかと思ってたところさ』
あんな冗談を云うからいけない。それに了自身、正しい答えをちゃんと彼に教えたではないか。
――バクラに聞いて。
――バクラがいいって云うならどうぞ。
(そうだ、それが正しい)
この身体の貞操に、了の意思など最早介入する場所はない。全てがバクラのもの、自分で考える必要などない。判断もしない。どこまでも微温湯の受動態でいられる生活。全部バクラが決めること――そういう生を与えられ、生きて、望んでいるのは了自身だ。例え盗賊王がここに居ても、この熱を収めるのは彼ではない。
盗賊王自身、云っていたではないか。出直してこいと。そういう対象ではないのだからこんな妄想をすること自体が間違っている。らしくないにもほどがある。
――だのに何故、
(何で、何なんだ、どうしてボクは)
何故、先程から心音が鳴りやまないのか。
耳をそばだてなくても聞こえていた、電気が奏でる生活音が遠ざかっていく。こめかみ辺りで血の巡る音が煩い。上手くいかずに放り捨てた左手がぴくんと動く。
「……どうしちゃったんだ、ボク」
再び疼き出した下肢が落ち着かなさを訴えてくる。自然腿を擦り合わせて、そうして生まれる微細な快感に了は思わず喉を逸らした。いくら中途半端に燻った身体とはいえ、こんなことはありえない。
「っ……!」
ひどく怖くなり、了は全身の力を振り絞ってソファから起き上がった。
勢いよく立ち上がった所為で、ソファからクッションが転がり落ちる。冷えたフローリングに弾んで落ちたそれが辿り着く先に、盗賊王が脱ぎ捨てたタンクトップが丸まっているのを見つけて余計やるせなくなる。
原因不明の、悲しいくらいの苛立ち。
じりじりと焦げる下腹部を持てあまし、了は泣きそうになりながらバスルームへと駆け込んだ。熱い湯を浴びればきっとこんなやるせなさを払拭できる。バクラに置いてけぼりを食らった時はそうやって誤魔化しているのだから、今回だってそうすればいい。
(あの人は関係ない)
ボクはボクの意思で、誰かを選んだりしない。
そうだ、バクラが帰ってきたら相談しよう。そうしたらどうしたらいいのか教えてくれる――脱衣するのももどかしくシャワーを頭から浴び、了は縋る気持ちで、双子の片割れの帰宅を待った。
◆
朝帰りをこんなにも億劫に感じたことはない。
盗賊王は決まり悪い気分のまま、フラットの前で扉を開くのを躊躇っていた。
いやこれは違う、別に躊躇っている訳ではなくて気が進まないだけだ。という脳内での呟きが滑稽で泣けてくる。
後ろめたい。気が進まない。
それは何故か。単純な筈の答えが付きつけられるのを嫌がって、ここまでの道のり、無意識に遠回りをしたくらいだ。いつもより足取りは遅く、ぶらぶら、うだうだ、そんなオノマトペが相応しい。バクラにフィアットのハンドルを押し付けたのも役に立った。足があったらすぐに到着してしまう。
何処に――了のいる部屋に。
「……あークソ!」
がりがりがり、と頭を掻いて、己に舌打ち。
気分は最悪だ。バクラと別れた時よりむしろ悪化している。
煮えくり返る苛立ちを女の体温で溶かしてしまおうと思っていたのに。了の面影をきれいさっぱり洗い落としてしまおうと思っていたのに。
何と云うことだ。
(とんでもなく厄介な結果になって返ってきやがった)
馴染みの店は今宵も快く客を迎え、そこで盗賊王は何度か世話になった好みの女――豊満な肉体に気持ちのいいさばさばとした性格をした相手を買った。女の尻を追わない主義の盗賊王だが、商売女は別である。金を払って致す以上、それは飽くまでビジネスであって、買うなら選んでいい女を抱く。惚れた腫れたとは縁遠い単純な売買行為。尤も、過去商売女に本気で惚れられ駆け落ちを望まれたことはあるが、そうなると切って捨てるのが当然だった。
故に此度も楽しい一夜を過ごすべく、ベッド以外のものが必要ない小さな部屋で、いつもどおりに性欲を発散した。
した――はず、だった。
できていないのは、現在こうしてもやもやしている自身の心の内が証明している。
(何で思い出すんだ、こんちくしょう)
燃えるように熱い女の体温。
黒い巻き髪がうねってシーツに散らばる。
男を誘う為の甘い嬌声。
淫らな赤に塗られた唇。
健康的に焼けた肌。
目にする、感じる、それらが苛立ちの種を生んだ。
熱い体温に、ああ、あいつの肌はえらく冷たかっただとか、癖のある白い髪を背中に払う後ろ姿だとか、壁一枚向こうから聞こえたか細い悲鳴だとか――
一度だけ触れた、とろけるような唇の柔らかさだとか。
何を見ても感じても、了を思った。
かつてない勢いで了に関する妄想が広がっていくのを止められず、同時に、己の雄もいつも以上に昂った。好ましいはずの豊かな乳房が気に食わなくて背中から犯しても、肉付きの良すぎる腰に違和感を覚えた。しどけなく、あられもなく腰を振る商売女に重なりそうで重ならない、白い裸体が目の裏でちらつく。
触れたのは一度きり。
なのに肌が覚えている。
何だこれは違ェだろ――振り払っても振り払っても消えず、仕舞いにはバクラの笑い声まで幻聴した。
『あァ――ひょっとしてマジ惚れしちまったとか?』
違うと云った。
違わなければならない。
惚れられてなんぼのこのオレ様が、こともあろうにちんちんくりんの小娘に片思いだなんてあるわけがない。性的にも足りなさすぎる。こんな気分になるのはあれだ、フラットを出る前に了とそういう話をしてしまったからだ。それだけだと盗賊王は言い聞かせた。
なのに、なのに、と、何回も否定して変換して。
そうやって女を抱いても、ちっとも気持ち良くなかった。
性欲はかつてないほど昂っているのに、射精に至らない気持ちの悪さ。女の方も不機嫌に此方を振り返り、盗賊王の下半身を詰ってくる。云いたいことをはっきり云うところが彼女の好ましいところだと思っていたが、今ばかりは腹が立った。結局、金を叩き付けて早々に部屋を出てしまった。それが三〇分ほど前のことだ。
欲しいのはこの女ではないと、本能が求めている。
どうしても認めたくなく、さりとて帰る場所は一つしかない。他の店で女を試しても同じ結果になるだろう。身分を隠す追われ人の身ではろくな夜遊びも出来ない。了の待つフラットへ爪先は向き、遠回りをしてようやっとたどり着いた時には夜が明けていた。
寝不足も相俟って機嫌は最高に悪い。了の顔を見たくない。触れでもしたらなお悪い。多分、終わる。いろいろと終わる。己の男としての在り方やプライドが崩壊し、敗北を認めることになる。
皮肉なものだ。他の女を抱いて忘れようとしたのに、返って色濃く際立たせてしまった。
思っていたよりも、ずっと――了という存在は、盗賊王の中に深く居ついていた。
ほんの小さな、こんな日常の間に挟まっているような些細な切欠が引鉄になるなど誰が思っただろう。あんな女は好みじゃない、そういう対象ではないと本気で思っていたのに、今は落ち着かなく揺らいでいる。笑った顔を思う。壁一枚向こうの悲鳴を思う。貞操観念を他人に委ねるような、どこまでもバクラのものである女。
或いは、だからこそ――か。
あの嬌声を上げさせている男がバクラではなく自分であったらと、そんな妄想を一度もしたことがなかったかと問われたら否定できない。例え恋情を一切含まない、単なる雄としての健全な思考だったとしても、了をそういった目で見たことが無いと言い切れない。性的な対象ではないと判断した時点で、既に一度は思考しているのだから。
試しただろう。頭の中で、白い裸身が己の腕の中で悶える様を。
証拠は既に並べられた。あとは認めるだけ。
どんな否定も詭弁に過ぎない。正しく詰んだ、そんな状況だった。
脳裏にちらつく形にならない感情。その単語を思った瞬間、盗賊王は了の前に膝を折ることになる。
認めれば楽になる。
あの悪夢で、恩ある男――クル・エルナのボスが云った言葉を思い出した。
楽になれるぞ。
「……分かってんだよ、そんなこたァ」
あの夢とは状況も意味も違う。その両方に唾を吐く心算で、盗賊王は呟いた。
もうどうにでもなれ。
いつまでも立ち往生している訳にもいかない。了が既に眠り落ちていることを願い、盗賊王は真鍮のドアノブに手を掛けた。
回して、開く。
チョコレート色の扉の隙間から見慣れた室内が覗く。
「バクラ……?」
冷たい廊下のその隅に、濡れた髪の了が膝を抱えて座っていた。
◆
双子の片割れの名を呼んで、それがすぐに間違っていたことに了は気が付いた。
白い髪は短く、赤いパーカーを被って、サングラスをして。外出時はスーツを纏うバクラとは似ても似つかない体格差と身長。今会うには得策ではない盗賊王が、ぎょっとした顔で了を見下ろしていた。
彼の背後で、ばたん。玄関の扉が閉じる。
殊の外大きくその音が響いて、了はびくりと肩を震わせた。
「ご、めん、間違えちゃった」
「……おう」
努めて平素の声を出せただろうか? 盗賊王は低い声で応じ、サングラスを外す。異国の紫が何だかやけにぎらついて見えた。
「バクラは一緒じゃ、ないの?」
立ち上り、当然の疑問を口にすると、盗賊王の視線がより剣呑なものに変わった。思わずきゅっと首を竦める。
何だか機嫌が悪そうだ。
ひょっとしたら仕事で何かあったのかもしれない。バクラが一緒じゃないとなると、喧嘩でもしたのか。もしそうならバクラはいつ帰るのだろう。今は盗賊王と二人きりにはなりたくないのに。どうしたらいいのかわからないのに――了の心中は不穏に波打つ。
シャワーを浴びても収まらなかった熱は、不安と混じって下腹部に重たく蟠っている。最早性欲とは呼べない正体不明のそいつが、盗賊王の帰宅と共に再び疼き出した。
バクラに会いたい、会いたくて堪らない。
そう思っている紛れもない本心があるのに、盗賊王を目で追ってしまう。
盗賊王も了を見ていた。張り詰めたような目をして、じっとこちらを睨んでいる。
何かを耐える様子で、そうして舌打ちをされた。
「とっとと寝とけよ、てめえはよ」
ついぞ聞かない冷たい声だった。
押し殺した苛立ちが漏れて辺りに重たげな空気を漏らしている、そんな声だ。
盗賊王は大股に了の前を横切り、己が領地であるソファに向かって突き進んで行った。
その時――だ。
ふわりと、甘い匂いが了の鼻腔を擽ったのは。
(――あ)
この匂いを知っている。
厳密には同じではないけれど、こういう匂いを了は知っていた。バクラも偶に身体に纏わりつかせて帰ってくることがある。
香水と化粧と、他人の匂いが混ざった強い香り。
(女の人の、匂いだ)
自分以外の、女性の匂い。
了がいくら世間知らずであり、バクラ曰く『五感が鈍い』としても察することは出来る。或いは了もまた雌と云う性別を持っているが故か、本能がそう告げるのかもしれない。
他人の匂いを肌につけているその意味を。
「あ――の、ねえ、」
口が勝手に動いていた。
他人の声のように遠くに響く。
何故こんなに衝撃を受けているのだろう。了自身も理解できない感情が、下腹部に蟠るあの感情を更に重たくさせる。
呼ばれたことに気が付き、盗賊王が振り返った。
廊下に立ち尽くした了を、彼は眇めた目で見た。
「何だよ」
何だ、だって? こちらが聞きたい。
やるせない気持ちになる理由を、知っているなら教えて欲しい。
もう止めることは出来ない。了は瞬きも忘れ、盗賊王に向けて掠れた言葉を投げかけた。
「――どうして、キミが女の人とセックスしたからって、ボクがこんなにショックを受けなきゃいけないの?」
「……はァ?」
「ねえ、なんで? 分かんないよ、だって別に、キミは、ボクとは、そんなんじゃないのに」
シャツの裾をぎゅっと握る。理解不明の感情が徐々に嵩を上げ、やがて喉を、瞳を、脳を支配した。何もかもが理性と意識を突破して、かさかさの唇が剥き出しの言葉を喋り出す。
「バクラがそうやって女の人の匂いさせても、ボクは何も感じないのに」
「何云ってんだ、てめえ」
「嫌だ、何でだろう――すごくいや」
息が詰まる。盗賊王の姿がぼやける。ぎゅっと自分の胸元を掴んで、了は俯いた。
バクラが了以外の女性を相手にすることに、了は悲哀を感じることはない。別にそうしたっていい、朝帰りだって構わない。仕事とやらで必要なのかもしれないし、第一やめてくれと云ったとしても聞く男ではない。
けれど一番の理由は、揺るぎない確信を持っていたからだった。
誰のところへ行ってもバクラはここへ帰ってくると、了はきちんと知っていた。母親の胎内からずっと一緒だったのだ。別々になっては生きていけない。了がそうであるように、バクラもまたそうだ。
バクラ本人は決して頷かないけれど、本当の意味で帰る場所はただ一つ、この狭いフラットだけ。
愛されている、否、それよりももっと、始末に負えない、どうしようもなくどろどろとした感情。名前の付けられない強い結びつきが、バクラと了の間には存在している。
だから平気だ。
(けれど、この人は?)
出会ったばかりの、同居人。
彼がここに居る理由など、風が吹けば飛んで行ってしまうのではないか。
唐突に訪れた喪失の恐怖は、足元に奈落を出現させた。落とした視線の先には見慣れたタイルの床があるのに、まるでどこまでも深い闇に繋がっているように見える。
いなくなってほしくないなんて、おかしかった。
彼はただの同居人なのに。
(ちがう)
(もう、ただの同居人――じゃない)
競り上がった全てが吐き出し口を求めて暴走するのを、了は感じた。
悪夢にうなされていた盗賊王。
可愛いと思ったこと。
助けてあげよう。話し相手。一緒に居てくれた。あんなに大きな身体をしている癖に子供みたいで。笑って、喋って――この三ヶ月で、たった三ヶ月で、大嫌いだったはずが、そうじゃなくなって。
ソファの残り香で身体が疼いて。
分からなくて怖くて、バクラに会いたかった。
自分で決めることが出来ない。やり方を忘れてしまった。楽しいことも嬉しいことも悲しいことも腹の立つことも、全部バクラからもらっていたのに。
この三ヶ月で、バクラ以外の人を知った。
バクラとは違うやり方で、バクラとは違うことを教えてくれる人を。
その人を、その人が、
「ボクは――」
ねえ、
この感情の名前は、何て云うの?
見つからないまま立ち尽くす了の身体を、盗賊王の腕が攫っていた。