discord/acordの残響【*】

 【注意!】
・八割がた暴力描写です。
・ばくばくですがバク>獏に向けた甘ったるい感情は一切はありません。

 さらさらと砂が落ちる音が聞こえる。
  何処からと辺りを見回しても、辺りは灯りひとつない暗闇で何も見えはしない。心の内側、静止した空間では時の経過を告げるものなどありはしないし、バクラ自身、如何程の間瞑目していたのかすら定かではない。
  それでも確かに耳にした流砂の気配は、己の内側から発せられたものだ。
  瓢箪の形に括れた硝子の管から粒が零れていくイメージ。忌まわしくも懐かしい砂漠の匂いを孕んで、乾いた空気が絡んだ砂が落ちる。砂時計は今までずっと砂を零し続けていた。それこそ、獏良了の肉体を間借りし始めた時から。ただ音もたてずにひっそりと動き続けていただけだ――生温い生活と接触を繰り返していたのは、その気配が遠かったから。
  そして今、明確に感じ始めた。意味するものは何なのか、それはきちんと把握してる。

 ――飯事はこれでお終いだ。

 幕落の音色を鼓膜の奥に感じながら、バクラは閉じて久しい瞳を、開いた。

 

 

 浮上した現実で最初に目にした光景は、巨大なジオラマを前にぺったりと座り込み、細かく手を動かしている獏良の細い背中と明るい部屋だった。
  心の部屋から此方側に意識を移動させた時、いつも一瞬だけ目が眩む。明暗という区切りが存在しない世界に慣れた眼球に人口の光は明るすぎる。獏良が細かい作業のためにデスクライトを傾けている所為で、余計に眩い。
  秒にも満たない明暗順応を経て、質量のない身体でもって滑るように移動する。集中しているらしい獏良は気付かず、鬱陶しいのかうなじで乱暴にくくった髪がこぼれてくるのを払いながら、手元を凝視してデザインナイフを動かしていた。
  バクラが指示したとおりの形でもって、彼は砂礫の大地に並ぶ町並みを作り上げていく。精巧に作り上げられた建物がまるでビーズのような細かさで仮止めされているのを俯瞰で眺めて、バクラは満足げに息を吐いた。見事な記憶の再現、箱庭の世界だ。
  作り始めのある時に、バクラは言った。大したもんだ、流石はオレの宿主サマだ、と。
  その時に獏良は少しばかりぽかんとした顔でバクラを見て、それからにんまりと満面の笑みを浮かべて見せた。もっと褒めてくれてもいいんだよと嬉しそうに言って、そうしてバクラも緩く口元を吊り上げてやった。
  それらは全て過去の話となった。ぬるま湯のような生活はもう終いだ。
  共犯関係、依存、接触、執着。奔放な獏良の性分に振り回され、らしくない思考に落ちて有り得ない快楽を共にした。絡めた沢山の糸はほつれて絡まってもう解けないほどに一個のどす黒い塊になっている。それらの所為で線引きをなくしておざなりになりつつあった関係性を正す方法は、最初から用意していた。全ての終わりの始まりの時には、そうすると決めていた。砂音が聞こえたのはその合図だ。
  息を吐き出す音が聞こえた。詰めていた呼吸を一気に吐き出し、獏良がゆっくりと伸びをする。
「あれ、いたの」
  ようやく気配に気付いたのか、獏良は瞬きを二回してからそう言った。髪を括っていた輪ゴムを引っ張り、柔らかく癖のある髪がふわりと肩に落ちる。目で追ってしまう、その長い髪を弄るのは嫌いじゃない。
「疲れちゃった。ねえバクラ、身体代わってよ。お夕飯作って欲しいな」
  おどけた口調でそんなことを言い、握って開く掌。
  何も答えずにバクラは獏良を見ていた。その姿がどのように目に映ったのか、それはバクラには知りえない。獏良の青い目が少しばかり不思議そうな色を過ぎらせて、それから無邪気に、ねえいいでしょ。そう強請る。
「お前の頼みどおりに作ってあげてるんだからさ」
  軽々しく口にした言葉に、バクラの眉がぴくりと持ち上がった。表情の変化に気がついて、何だよ、と、獏良もまた頬を膨らませる。
「ヤな顔するなあ。そんな風にするんなら、もうジオラマ作ってあーげない」
  口に出した言葉は――砂の音と同じ引き金だった。
  何気ない軽い会話、そのつもりで吐き出した言葉が終わるか終わらぬかの間に、バクラの手が獏良の胸元を掴む。現実世界で物に触れられない手指は肉体を通り越して、彼自身の精神に直接触れた。あるようでないようなあやふやな感触を掴み上げ、勢いよく、闇色へ共に沈む。直ぐに見つかる心の部屋の扉を足で蹴り開けると、バクラは引きずり込んだ獏良の身体を、墨を塗ったかのような漆黒の床に容赦なく叩き付けた。
「ッ!?」
  音を立て、左肩を強かに打ちつけた獏良が喉の奥で悲鳴を上げた。白い髪が闇に映える確かな輪郭でもって翻り、バクラの裸足の足元に散らばる。
  信じられないものを見る目で、獏良がバクラを見た。
「何、なんでいきなりこんなことするの…!?」
「てめえが立場をわきまえてねえからだ」
  たかが器が。
  冷徹な口調よりもなお冷たい眼光で、バクラは青い視線を真っ向から弾き返してみせる。
  しばらくの間、目と目は互いを見つめたまま、微動だにしなかった。やがて獏良の方が、耐え切れずにくしゃりと表情を歪ませる。まるで幼子が親に叱られた時のような幼児性を含ませた涙を、ぼろりと零して首を振った。
「っ…何なんだよ、いきなり、ひどいよ、ねえ」
「何期待した目で見てやがる。そうやって面歪ませて泣きゃあオレ様が言う事を聞くとでも思ってんのか?」
  連ねた言葉に、獏良の目が更に大きく見開かれる。
「甘ったれてんじゃねえよ。大体なんだ、ジオラマを作ってやってる、だ? それ以外何の能もねえガキが、偉そうに鼻の穴広げてんじゃねえ」
てめえが特別だとでも思ってんのか? そう続けて吐き捨てると、青い目は大きく見開かれた。握った拳が、やりどころなく固まっているのが見える。
「なんで…?」
「解ってんだろ、てめえもよ」
  飯事はもうお終いなんだぜ――酷薄に唇を吊り上げて、バクラは言い放った。
「てめえと仲良しごっこを続けてやったのも、くだらねえ我侭を聞いてやったのも、全ては計画の為だって事位、理解してんだろ? それとも忘れちまったのか、宿主サマ?」
「忘、れ、」
「オレ様が嘘吐きだって事は、誰よりてめえ自身がようく解ってる筈だぜ」
「でも、だって、それはもっとずっと先の、あとのことじゃ…」
「つくづく御目出度ぇな、誰がいつ、そんな事言った?」
  生温い発想を聞いて、バクラはひゃは、と声を上げて笑った。永遠に続くとでも思っていたのか、何の為にこんな面倒くさい真似をしてきたのか、全ては至上の目的の為、獏良の慰み者になってやる為では、断じて、ない。
「そりゃあ宿主サマの健気な願望って奴だろう? ジオラマは差し詰め、てめえの最後の大仕事ってやつさ」
「っ、ひ、ひとりに、しないって、お前…!」
  言ったじゃないか。恐らくそう続くであろう言葉を、バクラの爪先が遮断する。頬を蹴り上げられ、獏良は高い悲鳴を上げた。ぞくぞくと――過虐心を煽るような、それは悲痛な音だった。
  ぐり、と肩口を踏んで闇に縫い付け、バクラは嘲りと共に鼻を鳴らす。
「ここいらできっちり線引きしようや、なァ、宿主」
「線、引き…?」
「今までなあなあになっちまってた部分があるじゃねえか。随分と温い、平和ボケした日常って奴に腰まで浸かっちまってたからな。立場ってもんを再認識しなくちゃなんねえだろ?」
「っ…お前が、元はといえばお前がボクの身体に勝手に住み着いたんじゃないか…!立場なんてそんなの、ボクの方が上じゃないか!」
「は、随分と上からものを言ってくれるじゃねえか。何なら出てってやってもいいんだぜ」
  あっさりと離別を匂わせると、獏良の表情に色濃い恐怖が満ちた。一人になる、それは彼の一番恐れていることだとバクラは理解しきっている。その孤独を作り出したのも、依存の道筋を作ったのも、バクラ自身なのだから。
  だからこそ脅迫出来る。肉体の持ち主が獏良であろうと、支配者はあくまでもバクラなのだ。
「今ここで千年リングを手放してみな、すぐにサヨナラしてやるよ」
  小刻みに震えて、獏良は反射で首を振った。その必死の形相に、懐かしいものがこみ上げる。邂逅のあの時の怯えた顔――そして、緩く形成されていった『平和ボケした日常』の中身までも。
  突拍子もない言動に振り回された日々。それも悪くないと思ったことが一度もない、と言えば嘘になるかもしれない。この邪念の塊である真っ黒な中身のうち、ごく微細な一部が、人間だった頃の部分が、満たされたこともあったかもしれない。
  しかし、それは不要なものに他ならないのだ。不必要の烙印を押して丸めて捨てるべきもの。そうすることに何の抵抗もなく、バクラは既に、その部分を切り捨てている。
  捨てた部分にしがみついているのは、獏良了ただ一人だ。
「…なんで、いまなの」
  辛辣な言葉の雨に刺されて傷ついた、そんな声で、獏良が呻く。
「なんで、いきなり、今、こんな風になるの…?」
「あァ?」
「ジオラマ、作って、お前とこまかいこととか打ち合わせしながら、ご飯食べて、そんな風にしようって思ってたのに、なんでそんなこと、言うの」
  泣き崩れていた顔が、ゆるゆると持ち上がる。闇の中で燐光のように浮かび上がって見える青い瞳は涙で濡れて、そうして奥の内側に、恐ろしく狂おしいものを秘めていた。
「お前がそんなこと言うなら、ボクだって、もうしない」
  冗談じゃなく本当に、ジオラマなんて作らない――震える唇が、そう言った。
「絶対に作らない。作ってお前がいなくなるなら、あんなもの壊してやる。もう二度と作れないように、指だってぐちゃぐちゃにしてやる。困るよね、そんなことになったら、お前の計画とかいうのもかなえられなくなっちゃうもんね。ボクのこと、ボクの身体、大事にしなくちゃいけないんだ。
  だから、ねえ、優しくしてよ。いつもどおりにしてよ。いつもみたいに楽しくしてようよ。お前だって楽しそうだったじゃないか、だから――」
  高速再生で開花する花のように動いていた唇、しかし言葉は最後まで続かなかった。肩口を踏みつける右足、その膝にぐっと体重をかけて上半身を落としていたバクラの長い髪を掴んで縋ろうとした、獏良の頭の方が先に掴まれる。足を除けざまに思い切り引き剥がした身体はひどい音を立てて闇の上を転がり、それでもなお起き上がろうともがいた。
  バクラの足にぱさりと降りかかる、少し冷たく柔らかい感触。手で詰り遊んだ記憶が蘇る。
  ああ、嫌いじゃない。この髪の感触は今だって嫌いじゃない。好ましいものは好ましい。
  だからこそ、その甘ったるい思い出ごと、バクラは髪の束を思い切り踏みつけた。
「いッ…いた、痛い!」
  丁度起き上がろうとしていたところを踏みつけられて、頭皮が引きつれ獏良が声を上げた。後ろ髪を拘束され暴れる様はひどく滑稽だ。自然と唇が釣りあがる。首を捻ってバクラを見上げるその両目は、突然の出来事についていけていない混乱と痛みが混ざり合った色を浮かべていた。
「放して、痛い、やだ、いたい!」
  生意気な口が叫ぶ。ぐらり、と腹の内側で頭をもたげた苛立ちと共に、バクラは残りの右足で、白い頬を再び蹴り飛ばしてやった。此度は悲鳴も上げずに、しかし髪を踏まれていては身体を逃がすことができず、獏良は不恰好に体勢を崩す。蹴り抜かれた頬の痛みと勢いで幾筋か引き抜かれた髪のぶちぶちとした痛みの両方が、細い身体を襲う。獏良にとっては全く理不尽極まりないと感じるであろう突然の暴力に、肩が震えていた。
「放して、じゃねえよ。口の利き方に気をつけな」
  蹴り終えた足の先でこめかみをさらに小突いて、バクラは言った。足裏で髪を軽く詰る。しゃりしゃりと擦れる感覚が肌に響く。ああ、やはり嫌いじゃない。甘く梳いて弄ぶよりもこうした方がよほど、気持いい。
  軽い溜息と共に唇を曲げて見せてやる。身体を折って横たわった獏良が、涙目でその視線を受けた。
「まァだ躾が足りねえようだな、ええ?」
  ぎり、と、下向きの力が加わる。身体を捻って獏良が声を上げる。引き連れる痛みに涙が散った。
  踏み付けたまま、バクラは億劫そうにしゃがみ込んだ。散々にじられて艶を無くした髪を此度は掴み上げ、歪んだ顔を引き上げて顔を近づける。唇を寄せれば触れ合うような距離で、与えるのは快楽ではなく嘲りだ。
「鬱陶しいんだよガキが、調子に乗りやがって」
「っ……」
「作るのをやめるってんなら好きにしな。代わりなんざいくらでも居るんだよ」
  嘲笑を交えて吐き出した言葉に、獏良の目が更に大きく、開いた。そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。代わりなど居ないと、自分だけが宿主になれるのだと、信じて疑っていなかったのだ――青ざめた唇が、うそ、と、かすれた声で呟く。
「獏良了、てめえは相当都合のいい宿主だ。だが、唯一無二だと言った覚えはねえ」
  獏良の腕は確かなものだ。それはバクラもよく理解している。己の宿主がこうした技能を持ち、そして王とその器たる遊戯の近くにいて問題のない立場の人間だということはまさしく僥倖であった。しかし、そうでなければ、彼でなければ計画が立ち行かなかったという訳ではない。もし獏良に手先の能力がなかったとしたらそれはそれで別の方法を考えただろうし、言うとおり、ジオラマを作るのを止めたとしても同様だ。そんなことはこの終局近い段階では、駆け引きの材料にはならない。
  勘違いしているらしい獏良が滑稽でならなかった。鬱陶しさと愉悦が混ざり合っていい具合に腹の中で踊っている。
  舌先が、残酷な言葉を探して唇を舐めた。
「まぁ、この局面でてめえが協力しねえとなりゃあちィっとばかし遠回りにはなるが、ここまで事が進めばそう困ることでもねえ」
「そ――どういう、意味、それ、」
「解りやすく言ってやろうか?」
  バクラは笑いさえ含まない、侮蔑の表情でもって獏良を見下ろした。
  ゆるりと唇を、開く。

「てめえがどうなろうとどうでもいいんだよ、オレ様の計画としちゃあ、な」

 ぴしり、と、明確に、獏良の表情に亀裂が入った。
  否、この場所は心の部屋なのだ。だとしたら亀裂が入ったのは表情ではなく心そのものだろう。獏良了を構成する一等大切な部分に、形のない心という器官に、致命的な傷が走る。葉脈のようにびしびしと、鋭角な皹が、深く――それは致命傷と呼ばれるほど、深く。
「さァて、ここでひとつ質問だ、『宿主サマ』よ」
  一人になりたくない宿主サマ、寂しくて仕方がない宿主サマ。そう繰り返し呼んでやると、その度にびくりと肩が震えた。天敵に睨まれた小動物のように、引き倒された全身が跳ねる。
  意図して温く、引きつった頬を撫でてやった。蹴り上げた所為で腫れ上がった白いその場所の痛みを、形だけでは労わるように。相手に解るほどの慇懃な嘘を塗り込めた指先で、辿る。
  拒否した獏良が顔を振って逃げ、そうして、逃げたことに獏良自身が愕然としていた。優しくされたがる身体と怯える精神がちぐはぐにぶれて、軸の重ならない不穏な心が軋んでいるのが見ていて解る。
  心躍るような光景だった。己の本質が歓喜の声を上げるほど、気持のいい顔だった。
  だからバクラは、嫌がる顎を頬ごと覆うように掴んで近づけて口にしてやったのだ。
  甘い声で、酷く残酷な、問いかけを。
「今ここで用無しになるのと、最後の大仕事をやり遂げてオレ様に可愛がってもらってから捨てられるのと――どっちがいい?」
  選ばせてやるよ。
  答えは解り切っていた。言わせることに、選ばせることに、意味がある。
  獏良の開いた唇は、言葉を発せないほど唾液で錆付いていた。喉の奥まで競りあがっている答えを吐き出せない、呼吸も満足にままならない、しかし答えなければ捨てられる――そう、初めから選択肢など、ない。
  苦しむ顔を間近で見ても、バクラの内心は冷え切った笑みを浮かべていた。昨日なら、否、砂の音を聞くほんの数時間前だったなら、何か感じるものもあったかもしれない。ああ面倒くさいと言いながら有耶無耶にして頭を抱き寄せていたのかもしれない。そして獏良は今も、それを望んでいる。愚かにも、今すぐに悪夢から覚められるのではないかという、期待を。
  だが、その可能性はもう零となった。
  今まで結びついていた共犯関係。依存と執着。解けないほど絡み合った互いへの関心や、想いや、そういったもの。培ってしまった厄介な代物。
  解けないのならば断ち切ってしまえばいい。鋭利な刃物に似せた言葉で、一方的に断絶させてしまえばいい。かつて馴れ合っていた頃、せがまれて切り落としたあの長い髪の一部のように。断たれてしまえばそれはもう、価値のないもの、屑そのものだった。
  今の獏良はその髪と同じだ。バクラにとっては、彼がどちらを選んでも問題など欠片もない。もっとも、選択肢など最初からないに等しいのだけれど。
「どうする、なァ?」
  あんまり待たせるんじゃねえよ。そう吐き捨てると、獏良は顎まで震えて首を振った。小さな声で、ゆるして、もういやだ、もどりたい、そんな甘ったれた言葉を吐く。無事な方の頬を張ると、呟きは途切れた。
「てめえと遊んでる暇はねえんだよ」
  バクラは手を離し、闇の上に獏良の身体を落とすように捨てた。踵を返し、さっさと現実に浮上すべく意識を持ち上げる。獏良の心が崩壊し、ジオラマを作らなくなるのならば新しい手足を用意しなければならないのだ。何、そう難しいことでもない。
  頭の中で新しい算段を練り始める。そうしてふわりと浮きかけた足、ジーンズの裾を、不意にくいと掴まれた。
  生白い腕が伸びている。腹ばいに倒れた惨めな姿の『宿主』が、うな垂れたまま手を伸ばして裾を捕まえていた。
「……って」
  か細い声が、闇に響いて直ぐに散る。聞き返さず、バクラは視線だけを与えた。
  乱れた髪に縁取られた小さな頭が、ゆるり、と、持ち上がった。涙が腫れた頬を伝い、漆黒の床に垂れる。続けてぼたぼたと零れた雫は染み込んで見えなくなり、伝った分は頬を経由して細い喉へ、鎖骨の谷へと落ちていく。
  襤褸屑のような痛々しい姿で、壊れた人形のような惨めな声で、獏良は言った。
  震える唇を、開いて、
「ひとりに、しないで」
  ――そう、それでいい。
  一つしかない選択肢を、獏良は自ら選んだ。
  それは、嘘の続行。真実の上に塗りつける上辺だけの幸せと予め決められた絶望そのものだった。
  そんなものでも獏良は望んだ。カウントダウンの音を聞きながらでもいい、最後まで、出来る限り長く続く薄っぺらな日常を。自己愛の為の、ただそれだけの、選択を。
  浮きかけた足裏を闇の元へと下ろして、バクラは身体ごと、哀れな『宿主』へと向き直った。
  身体を折って、涙の染み込む床へ額を押し付けて、獏良は泣いている。自身が望んだ答えがどのような結末を迎えるか理解しているからこそ、彼は泣くのだ。こんなことをしたって何も変わらない、ただほんの刹那、苦しくなくなるだけ。解っている。解っていても、お願いだから――嗚咽がそう訴えているのが、鼓膜以外の場所で聞き取れた。
  愛に似た、恋に似た、どろどろの執着で首を絞められながら、獏良は咽び泣く。その細首を苛む糸はバクラの首にもかかっている筈だった。今はもう断ち切られて、残骸すら残っていないのに。片割れだけで、たった一人で、獏良は苦しんでいた。
  その首を、見えない糸が食い込む喉を爪先で上げさせて、バクラは笑った。
  仰ぎ見る形になる哀れな青い目玉を見下ろし、笑みは更に深くなる。
  開く唇は笑みの形に。不可避の毒を伴って、甘く。
「承ったぜ、宿主サマ」

  さあ――最後のその時まで、せいぜい役に立ってもらおうか。