Air.
ぴ。
電子音がした直後、ごうんごうんと威勢のいい音がリビングの片隅で唸りだした。
音の発生源は、テレビボードの脇。窓と壁の隙間にすっぽり収まるサイズの空気清浄器があたりの空気を吸い込んでいる。その正面に体育座りで丸まった獏良は、電源ボタンを押した姿勢のまま、無表情で髪を揺らせて沈黙中。
背中を向ける形で、ソファの上に半透明の姿でバクラが浮遊する。
ごうごうごう。
室内で大きく響く清浄機の音は、他の音――時計の働くこちこちとしたそれ、冷蔵庫が唸るような起動音、窓ガラスの向こうの車の排気音――をかき消して、部屋全体を、まるでひとつの渦の中に落としたかのようだった。
一辺倒の音色が不穏に響く中、センサーが室内の状況を感知する。
空気の汚れのレベルを現すランプは、四段階のうちの最高、オレンジのランプをつけていた。
ごうごうごう。
そのうずまきの中で、獏良が小さく何かを云った。
バクラの耳には届いていたが、今はそれに返事をするような状況ではない。
口を利きたくないのだ。
顔を見たくないのだ。
だって相手が悪いのだから。
同じことを、同じように、お互いが思っている。
だから、獏良が開いて口にした言葉は、語りかけたのではなく独り言だ。
「ボクねえ」
独り言は続く。嵐の夜に似た音の洪水の中で。
「昔ね、まだ家族で暮らしてた頃だけど」
「父さんと母さんが喧嘩してるのを見たことがあってね」
雨粒程度の言葉が実って落ちる。バクラは背中を向けたままだ。
「どうしたらいいのかわかんなくって、部屋中の空気がね、重たくて、息が出来なくなりそうで」
「ぎゅっとする胸を押えてさ、黙ってたら、天音がね」
「走ってきて、空気清浄器をつけたんだ」
獏良は目を閉じていなかった。開いたままだったが、目の前にあるものを見てはいなかった。
懐かしい家族暮らしの家の中、妹と両親と、幼い自分を俯瞰の意識で眺めていた。
「天音はその時、空気清浄器が何の役に立つ機会かはよくわかってなかったと思う」
「ボクは小さい頃、身体が弱かったから。埃とかも全然だめで」
「だからボクが苦しくなると、それを付けてた」
「天音は、ボクが苦しそうだからって、喧嘩してる父さんと母さんの間をすり抜けて、スイッチを入れてくれたんだ」
ごうごうごう。
風を巻き込む音がする。
空気中の悪いものを吸い込んで、フィルターに通して、清浄なものに変える音。
「そうしたらさ、父さんと母さんがボクらを見て、ちょっと気まずそうな顔になってさ」
「仲直りしたんだ」
「びっくりしたよ。空気清浄器って、埃とかそういう空気の悪さだけじゃなくて、こういうのもきれいにできるんだなって」
「本当はそんな効果なんてなくて、天音がいたから、そうだったんだって、いなくなってから気が付いた」
スイッチを押したままだった指が、ぽとん。音を立ててラグの上に落ちた。
「本当に、そんな機能があったらいいのにね」
「…長ぇ独り言だな」
不意にそんな声が、独り言を独り言でなく会話に変えた。
ゆっくりと振り向いた獏良の目に、不機嫌そうなバクラの顔が映る。
ソファにいたはずがいつの間にか、背後のすぐ間近にまで来ていた。見上げる形になる同じ顔を、獏良はぐっと唇を噛んで睨み付けた。
バクラがしゃがみ込む。
獏良がじりじりと、身体の向きを変える。
――触れられない。決して。
それでも、近づいて、縋り付いた。
「…謝んねぇぞ」
重なるだけですり抜ける、決して触れ合えない身体を、バクラは抱き留めはしなかった。
獏良の白い手――服を掴んでしがみ付きたい手のひらが、形だけの抱擁を真似る。
唇は、いいよ、と、呟いた。
「ボクだって謝らないから」
「そうかよ」
「だからお前も、謝らなくていいよ」
「そりゃどうも」
短い言葉がぽつぽつ実る。実って、今度は落ちずに互いの胸に宿る。
ばか、と、獏良が云った。
てめえのほうがばかだ、と、バクラが云った。
それきりもう、二人は重なり合ったまま何も言わなかった。
二人が喧嘩した部屋の片隅で、オレンジ色のランプが点滅して、そうして、消えた。