時間差心中
「お、獏良なんか聴いてる」
という声がメロディの隙間、少し穏やかになった演奏の一瞬のうちにイヤホンの外から聞こえた気がして顔を上げると、クラスメイトが机の前に立っていた。
クラスメイトなんて呼び方は妥当ではない。彼は何かと気をかけてくれる貴重かつありがたい友人で、例えば自分が学校を休んだ時には心配してメールをくれるし、仲間うち――というクラスタに自身を含めてもいいのか分からないけれど――で出かけた時にも何かと一人になりがちな獏良を気遣ってくれる大変心優しい相手だ。
ほんだくん、と口を動かした。
唇から出たはずの声は、爆音にかき消されて聞こえなかった。
耳からイヤホンを外し音楽プレイヤーを停止させた獏良は、いつものように緩く笑う。
本田はわりい邪魔したか? と後ろ頭を掻きつつ、前の席の椅子を勝手に拝借して腰かけた。
「ううん、何となく聞いてただけ」
「そっか。いやな、昼休み中ずっと突っ伏してっからよ、何かあったのかと思ったぜ」
「お昼買ってくるの忘れちゃって。そんでちょっと寝不足だったから、寝ちゃえば空腹も忘れちゃうかなーと思ったんだけどね」
眠るにはあまりにも、教室じゅうの人間が奏でる不協和音がうるさくて、それで耳を塞いだんだ――とはいえず、獏良は曖昧な表情で言葉の尻を濁した。
本田の後ろを、名前もおぼろげなクラスメイトがすり抜けていくのが見える。
彼の目には、この目の下にくっきりと浮かんだ隈が見えているのだろう。痛ましげな表情で獏良を見、そして視線を逸らした。
「その、何だ、何か溜め込んだりしてんならよ、オレとか城之内の奴とかにさ、話せよな」
不器用な気遣いで本田は云って、気まり悪げに頭を掻いた。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。ほんとに眠かっただけ」
唇は自動的に言葉を紡ぐ。思っていることは、表には決して出てこない白い肌と目と口、これは便利だ。悟られずにすむ。知られたくないことを隠していられる。
言えるわけがない。邪魔しないで、雑音をボクに聞かせないで――だなんて。
本田は優しい。もちろん、その他の、友人というくくりで縛られた彼らも。
すべてが済んだ今、もうバクラが居ない今、彼らはどこか空虚になりがちな獏良を何かと気にして遊びに誘い、こうして声をかける。
その優しさとありがたいと思うことが、できないわけではない。
その反面、正直鬱陶しいとも、思う。
『キミたちには何も云わない。だからキミたちも何も云わないで』
友人たちのどんな言葉を以てしても、決して獏良の空虚が埋まることはない。
このがらんどうを埋められるのはただ一人だけ。もともとその場所は、心の同居人という傲慢にして膨大な量の狂気の塊を収容するために作った空白だ。彼が消失した今、その場所に収まるものは獏良の中のどこを探しても手に入らない。
肌の傷は癒えても、心の空洞は闇の住人のためだけに口を開いたまま。
ならば孤独を、彼を失ったことを悲しく切なく思っているのかと云えば、そうとも言えない。悲しめたならもっと楽だったろう、空洞を涙で埋めることもできたかもしれない。それすら不可能で、ただぽっかりとしたままなのだ。
そんな大穴を、本田くん、キミは埋めてくれるの?
できないでしょう?
誰にもできないんだから、ほっておいて。
云えずに、表情は微笑みを維持する。ただぐっと手に力がこもって、握りしめていた音楽プレイヤーの再生ボタンを指が押してしまった。
「あ……」
はっと見開いた瞳は、本田にはきっと見られていた。
会話の雑音にかき消されそうな音楽が、イヤホンから微かに漏れる。
――この曲は、偶にバクラが聞いていたもの。
獏良の趣味では全くないのに、勝手に借りてきて勝手にプレイヤーに入れたもの。
そうだそんな人間らしいこともしていたんだ。あの狂気の塊は、ヒトの形を模した狂気は、獏良を演じるでもなく稀にそういうことをした。それがおかしくて、獏良もその曲を聴くようになって、いつの間にかそのアーティストごとすっかり好きになって、そして――ああ、そして。
「獏良?」
訝しげな声が邪魔だ。少し黙って。
いなくなってからずっと、聴かなかった。意識的にしていたつもりはない、ただ勝手に、身体が避けていた。そんな気がした。
リストを辿る時、指が勝手にそのアーティストを避けていた。
戻ってくるわけじゃないと知っている。だから――思い出す、懐かしむ要素があるものを、獏良の意識よりも余程気のまわる本能とかいうものが、きっとずっと蓋をしていたのだ。
ならば自分は、本当は寂しいのだろうか。悲しいのだろうか。
彼を想えず、ただ思うしかできない。悲しめない。惜しいと思えない自分を腹立たしく思っているのだろうか。
それは違う。
だって今、あの曲を聴いた時、自分は確かにほっとしたのだから。
虚穴が疼く感覚を、心地よいと、そう思ったのだから。
「獏良、おい大丈夫か、すげえ顔んなってるぞ」
「っ……」
肩を掴まれて揺さぶられ、獏良の目の前に現実が舞い戻った。
咄嗟に手を振り払わなかったのは奇跡に近い。跳ね上がりかけた手を押えて、止めていた息を吸った。
深呼吸。二回。
長く息を吐き出して、獏良は、形だけでも笑って見せる。
「ごめん。ちょっと眩暈がしただけ」
「具合悪いなら保健室行った方がいいんじゃねえか?」
「ベッド借りられるならそれもいいかもね。うん、じゃあお言葉に甘えて行ってくるよ」
「一人で大丈夫か? オレもついていって――」
「あは、大げさだなあ。平気だよ。でもありがとね」
心配顔で席を立ちかける本田を制して、獏良はひらひら手を振りながら立ち上がった。
ついてこられるだなんてとんでもない。キミたちはボクにそんな風に気を使うべきじゃないし、ボクもそうされるいわれはない。
(ボクは共犯者)
(あいつがいなくなったって、それは変わらない)
そんな思考はおくびにも出さずに、獏良はポケットに音楽プレイヤーを仕舞い込んで廊下に出た。
保健室に行くならそれもいい。少なくとも、他人が吐き出した空気を過度に吸わないですむ場所にいられるのは良いことだ。顔色が悪いのも好都合である。保険医がいないとなおいいのだけれど。
そうして首尾よく無人のベッドを拝借できたら、シーツにくるまって、さっきの曲を何度も聴くのだ。
耳に滑り込む音はきっと、獏良の虚穴を疼かせて、呼応するように風の音を立ててごうごうと唸り、そしてじわじわと拡がっていくだろう。もう訪れない相手を受け入れる穴は肥大して、そのうち獏良を内側から食いつぶすかもしれない。
獏良が虚穴そのものになり、いつか闇に溶けて消えてゆく。
そうしたら闇そのものだと嘯いたあいつそのものになれるのかもしれない。失った彼を待つのではなく、彼そのものになってしまうという結末は悪いものではないと思った。
爪先が躍った。チャイムの鳴る廊下で、急ぎ足に教室へ駆け込む生徒と一人反対方向に歩みながら、獏良はポケットの音楽プレイヤーを握りしめる。
(もしそうなれるなら、)
(こんなに幸せな心中は、ほかにない)