real

とにかく身体が重たくて、眠たくて。一刻も早くベッドの上に倒れこんで眠ってしまいたい気分だった。
 旅行というのは、滞在先がどんなに心地よくも楽しい場所だったとしても、帰宅した瞬間にああやっぱり家が一番だ、と思うものらしい。あまり旅行に興味のない獏良でさえそう思うのだから、多分その大多数の意見は正しいのだろう。
 ずっしりとのしかかるボストンバッグのベルトが肩に食い込んで痛い。エレベーターの中でいっときだけでも降ろしてしまいたかったけれど、一度手放したらもう二度と持ち上げたくなくなる気がしてやめた。半ば引きずって持っていって、そうして、見慣れた表札の前で立ち止まる。鍵を取り出す。開錠。がちゃり。
 しん、とした空気が、無人の部屋から玄関に向かって溢れて来た。
 夕方のオレンジに染まったフローリング、白いテーブル、ソファ。エジプトの太陽を目にしてすぐの青い瞳には、それらが随分と生温い、ぼんやりとした橙色に見えた。
「ただいま」
 誰もいないと分かっていても、口が勝手に帰宅を告げる。
「あー…重たかった…」
 引きずってきた荷物を廊下にあげることすら億劫で、玄関に放置することにする。長時間のフライトの後遺症で、まだ身体が縮まっているようだ。靴を脱ぎ捨てて、歩きながらうんと強く腕を伸ばして一呼吸。吸い込む匂いは、慣れ親しんだ自宅のそれだ。ぐうっと胸をそらしてみると、違和感。身体中重たいのに、胸の真ん中が軽い。
 あれ、と思って視線を落として、獏良はああ、と小さく呟いた。
(もう、ないんだっけ)
 あまりにも日常的に身に着けすぎて、重さも忘れていた金色の輪。それが繋がるコードも、リングそのものも、もうここには無いのだった。
 ここではない場所に。あの亀裂の向こう側に、吸い込まれて消えた。
「…実感、沸かないなあ」
 すかすかする胸の辺りをさすって、獏良はいつの間にか止めていた歩みを再び進めた。短い廊下を通って、リビングへ。脇にあるダイニングに寄り道して、ここ数日使われなかった冷蔵庫に目をやった。果たしてこの中身、入れっぱなしだった牛乳や野菜は大丈夫だろうか。開けたとたんに嫌な臭気を発して、半分解けたレタスがこんにちはしてきたりはしないだろうか。そんな危惧を思う。
 沈黙は五秒ほど。意を決して開けた中身は、特に異常なしだった。取り出した牛乳パックの賞味期限は、奇跡的に今日までの日付。ラッキー。
 ああよかった。グラスを取り出して注ぎ込む。軽く一口。次いで二口。喉を潤しながら、部屋を見渡す。
 オフホワイトのソファは橙に染まって、ローテーブルの上には雑誌とリモコン。ラグがフローリングを埋めて延びて、それを追いかけて視線は一周。ダイニングテーブルに辿り着く。一人用の狭いテーブルとチェアも、オレンジに変わっていた。
 一人暮らしの部屋。今までと同じ、これからだって、そうだ。
 だって全部終わったのだから。
 傍若無人なうそつきの同居人との生活は、別れの挨拶もなしに終止符を打たれた。バクラは何も残さずにいなくなって、少しばかり違和の残る首と胸の軽さだけが、あの日々は夢ではなかったのだと獏良に静かに訴えている。
 ぽりぽりと頭を掻いた。なんだかなあ。呟いて、ダイニングチェアに座る。ふと思って、テーブルの上のクロスの下をめくってみた。何かあいつ隠していったりしてないかな、と、半ばふざけた気持ちで。勿論、そんなものは残っていなかった。
「手紙とか、書くようなヤツじゃないしなあ」
 拝啓宿主サマ、なんて書き出しでお別れの手紙があったらおもしろかったのに。
 我ながらシュールで悪くない笑い話だと、獏良は一人くすくす笑った。
 残っているわけがない。何一つ。
 それを寂しいと思えたら、悲しいと泣けたら、二人の関係はもっと分かり易いのもだったのかもしれない。
 取り戻した日常は今までの生活とは随分とかけはなれてまともで、そうしてつまらないものだと知ってしまった。バクラが居た非日常は、全く退屈しなかった。トラブルも戦いも痛いこともたくさんあったけれど、楽しいことも気持ちいいことも同時にたくさんあったのだ。
 それらを惜しく思う。もう、心の部屋で気持ちよくなったり自我を失うほど重なり合ったりすることも、同じ姿で違う汗を交換することもない。夕食のメニューを話し合うのもテレビのチャンネルを争うのも、TRPGのシナリオに文句をつけられることも、一切合財ない、のだ。
 寂しくない、悲しくない。けれど、つまらないと思う。
 そして、彼を思って泣けない自分に、ほんの少しだけ、落胆する気分にもなった。
「あーあ」
 きしり。椅子の背をきしませて、獏良は天井を見る。
「つまんないなあ」
 と、溜息を乗せて吐き出してみた。
 頭の向こうから、辛気臭ぇ声出してんじゃねえよ、と呆れた声で言ってくれる目つきの悪い奴は居ない。このまま椅子ごと倒れて頭をしたたかにぶつけたって、誰も突っ込んでくれさえしない。
 再び背中を元に戻して、今度は机に突っ伏した。テーブルの上は散らかっている。元気のないサボテン、いつのものかも分からない新聞、口が開いたシリアルの袋にインスタントのコーンスープの箱…
「あれ?」
 食べかけのシリアルとスープの箱を引き寄せて、獏良は首を傾げた。特に好きじゃないメーカーの二品。間違えて買ってそのままにしているだけなら開封もされていないはず。何でかなあと逆方向に首を捻って、そうしてすぐに思い出した。
「あいつのだ」
 そうだ、バクラが買ってきた朝食メニューだった。
 朝から身体を明け渡した時に食べていたのを、寝ぼけ眼で見た記憶がある。獏良自身は朝は食べない派なのだが、バクラはそうではなかったらしい。勝手に買って食べていた。最後の朝も確か、この椅子に座ってさしておいしくもなさそうに咀嚼して、スープを飲んでいた。
 とたんに、ふ、と何かがこみ上げてきて、獏良は笑った。
「残ってるのって、これだけ?」
 よりにもよって、こんな所帯じみた置き土産だなんて。
 手紙でも贈り物でも別れの言葉でもない、ただの食べ残しだなんて、 なんて絵にならない。噴き出した笑い声は、バクラがよくする喉笑いに似ていた。
「物語みたいには、ならないなあ」
 格好のつかない現実に、苦笑。
 せめて演出してみたくて試しに目元を擦ってみたけれど、やっぱり、涙は一粒も零れてこなかった。