境界より、親愛なる君へ

お前は笑うだろうか、それとも呆れるだろうか。
 出来ることなら、未練がましいと笑って欲しい。
 どうかいつものあの耳障りな高笑いで、立ち止まったままのボクの背中を押してくれないか。

 手の中には手紙があった。
 真っ白い封筒は内側から膨らんで、折畳まれた便箋が何枚も押し込められているのが分かる。
 膨れ上がった封筒は不恰好で、まだ温かい。
 先程までずっと、この手紙にペンを走らせていた。
 パソコンが普及した現代、手紙を書く習慣はゆっくりと、確実に廃れていっている。読めるけれど書けない漢字が増えた。ヒトが文化を持ち靴を履いて歩くようになった時、徐々に足裏の皮膚が弱くなったように、ペンを持つ掌も文字を書くには特化しない柔らかさになったと思う。これは退化だろうか、進化だろうか、そんなことを昔、考えた。
 彼にそのことをどう思うか問うた。彼は鼻で笑って、
『どうでもいいことばっかり考えてやがるな、てめえは』
 と、灰色の答えを以てして、この問答を終わらせた。
 正解は分からないままだ。それでもずっと、幼い頃から妹へ向けた手紙を書き続けていたから、獏良の掌は同年代の若者よりも硬いし字も綺麗だ。ペンだこの痕が残る指がそれを物語る。
 その掌で、手紙を書いた。
 妹へではなく、彼に向けた手紙を、一通だけと決めて。
「思ったよりいっぱい書いちゃったよ」
 封筒を指先でつまみ、ひらひらと動かして、獏良は言った。
「何だろうね、云いたいことが沢山あったんだ。迷惑もいっぱいかけられたしね」
 本当は、一言だけでいいと思っていた。その一言が何なのか獏良自身にも分からず試行錯誤しているうちに、二人ともに生活していた頃のあれこれを思い出して、書き連ねていったらとんでもない量になってしまった。
 恨み言もある。感謝もある。決して口に出せなかった感情もある。
 彼を妬ましいと思ったことさえあった。目的を持って――それがどんな悪事だったか獏良には計り知れないけれど、友人から伝え聞いた分だけでもとんでもないパブリックエネミーだったと驚いたものだ――生きられる彼を羨ましいと思った。獏良には、人生の目標も目指したいものもなかったからだ。
 明日のささやかな楽しみの為に生きた。例えばそれは限定品のシュークリームであったり、友達と呼んでいいのかいまいち分からないけれど、仲良くなりたいクラスメイトとの外出であったり、そんな小さなかけらが、獏良の毎日を繋ぎ止めていた。
 彼と共に過ごすようになってからは、彼の為に生きていたと云ってもいい。
 とんでもない事件に巻き込まれつつも、彼がいる間、獏良は退屈しなかった。明日の小さな楽しみも忘れて彼のすることに引きずり回された。傷もつけられた、身体にも、心にも。それでも協力し続けたのは、彼が獏良を必要としていたから。
 獏良でないと出来ないことを、彼は獏良に教え、実行させた。
 自分にしかできないことなどこの世にひとつもないと、卑屈でもなく当然のことだと思っていたのだけれど――そうではないと彼は云った。あのジオラマはお前にしか作れない。オレ様の声を聞けるのはお前しかいない。オレ様が身体を借りられるのは、世界中でたったひとり、お前だけだと。
 嬉しかった。もしかしたらそれは獏良をうまく操る為の詭弁だったのかもしれないけれど、彼にとって自分は不可欠なのだと信じたかった。だから、云われるままに全て差し出した。
 宿主サマ。皮肉な呼び名だと自分でも思う。
 どちらが主だったのだろう。肉体は獏良のものだったけれど、心はとうに、主従を違えてはいなかったか。
 鎖につながれていたのは自分だ、と、獏良は今も思っている。
 厄介なことに、その鎖はまだ解かれていない。彼が解いて行かなかった――逝かなかったからだ。
 だから、手紙にはそのことも書かれている。
 お前はもういないんだから、この鎖をどうにかしてくれないか、と。
「……本当にね」
 すごく重たいんだよ。
 そう呟いてため息をつく。黄昏色の風が、白い頬を撫でて通り過ぎていく。
「手紙もね、多分、お前には届かないんだろうって思うよ」
 千年リングも、もうないしね――という言葉も、空気に溶けて消える。
 不思議な力を持つあの金色の輪がここにあったら、何かの奇跡が起きて、手紙は彼に届くかもしれない。けれど残っているのは五つの傷痕だけで、肝心のそいつはもうここにはないのだ。
 砂礫の地の、闇色をした亀裂に、吸い込まれた。
 それを見たからか知らないけれど、空を見上げても彼はそこにいない気がする。
 真逆の場所、もっと深くもっと暗い、地の底。彼に似合いの漆黒の国で、不機嫌な顔をして獏良のことを見上げているのではないか。今もこの首を繋ぐ鎖は空にではなく地へ、真っ直ぐに伸びているのではないか、と。
 地面を見て歩く癖は、彼が居なくなってから身についた。
 水たまりを見つけると何故か覗き込んでしまう。鏡映る世界に、彼がいるのではないかと期待して。
 そんな夢物語は現実となることなく、そして獏良は、手紙を胸に立ち上がった。
 いつまでたっても彼を忘れられず、されど悲しいとも思えず、ただ漂白されたこの心。彼を匿うために開けておいた心の空白が凍えている。
 立ち止まったままなのだ。一歩も前に進んでいない。
 こんなのは駄目だと、自分でも分かっている。
 だからこの手紙は、届かないこの手紙は、決別の手紙なのだ。
 彼との決別ではなく、昨日までの自分との。
 一歩も前に踏み出せない、停滞した獏良了との、別れのパスポートのつもりで書いた。
 首の鎖は恐らくもう、解かれることはない。今も地の底から首を引っ張って、あのいつもの呼び方で獏良を呼んで、しみったれた面してやがるなと嫌味な声で彼は云うのだ。
「お前を切り離すことなんて、できないよ」
 手紙を、無くさぬように制服の内ポケットに収めて、呟く。
「だからボクは、昨日のボクを切り離すんだ」
 黄昏が宵闇に変わる。世界中に、彼の時間が訪れる。
 黒いコートの内側に抱かれる錯覚を、獏良は確かに感じた。心地よい。目を閉じる。
 まるで、自室よりも居心地のよい心の部屋にいるようだ。手を伸ばせば彼がそこにいて、また悪巧みを含んだ唇を歪ませて云う。宿主サマ、ちょっとお願いがあるんだけどよ。それに対して自分はまた悪いことをするんだなと軽く睨んで、それでも云うことを聞いてやるのだ。
 幸せだった?
 ああ、幸せだった。
 楽しかった。気持ちよかった。ずっとああしていたかった。
 そんなすべての思い出に、背中を向ける。
 黒い風が、獏良の手を取った。風はあの笑い声のように耳障りに、見下ろした童実野の町中に響いた。
「――さよなら」
 さあ、バクラ。
 ずっとこの一歩を踏み出せなかった、
 立ち止まったままのボクの背中を、強く強く、押してくれ。