冷蔵庫のハンプティ・ダンプティ

十二の窪みは、そのうちの一つだけを除いて空いていた。
そのことに気が付いたのはバクラが、朝――眠い起きれないでもお腹は空いた朝ごはん作ってよ、という、己が宿主の情けない訴えをしぶしぶ聞き入れ、動きたがらない精神の代わりに獏良の身体へ滑り込んだその数分後のことだった。
腹を押さえてみれば肉体は確かに空腹を訴えていて、着替えよりも先に冷蔵庫を開ける。
適当に何か作って差し出してやれば満足するだろう、と扉側の棚を見ると、卵はその窪みのいっとう奥に一つだけ、ちょこんと収まっているのみだった。
ひょいと手に取ったなら、背後からまだ眠たげな声。
「あ、その卵使わないで」
振り向くと、半透明の寝間着姿が指でバッテンを作っていた。
バクラはあぁ?と語尾を持ち上げつつ、手に取った卵をしげしげと眺める。フライパン一つで調理できる非常に手軽な朝食を提供してやろうと思ったのに――バクラだって眠いのだ。さっさと居心地のいい心の部屋に戻って惰眠を貪りたい。
「帰りに買ってくりゃあ問題ねえだろ。それとも賞味期限の問題か?」
「確かに賞味期限は怖いかもね。長いことそこに置いておいてあるやつだから」
「ハァ?」
思いきり眉を顰め、バクラは云う。
「何だそりゃあ」
「云ったまんまの意味だよ。半年以上は経ってるんだ」
「……捨てろよ」
「だめ」
指のバッテンはほどけない。半分寝ている表情で、それでも頑なに獏良は首を振る。
「それはボクの分身みたいなものだから、捨てちゃ駄目だ」
「……宿主サマ、ひょっとしてまだ夢ン中か?」
「失礼だな、起きてるよ」
たぶんね、と付け加えると共に、大きな欠伸。
バクラは手に持った卵を、再びしげしげと眺めてみる。先程獏良は何と云ったか。分身? どこからどう見たってパックで百六十八円程度の、何の変哲もないL卵だ。ひょっとして鶏卵ではなく珍しい卵なのだろうか。それにしたって半年以上冷蔵庫に保管する意味が分からない。いっそ食物ではないという答えはどうだろうか、お得意のフィギュア制作で冷やす必要があっただとか、そういう。
そんなバクラの疑問を見透かしたかのように、ただのトリのタマゴだよ、と獏良は云った。
「意味わかんない?」
「これで分かるヤツがいたらお目に掛かりたいもんだ」
「じゃあヒント。お前とこういう関係になって、だいたい半年くらい」
ふわ、と髪を揺らして、獏良は首を傾げた。
精神だけの姿になっていると、肌の色も髪の色も、色素を薄くして真っ白に見える。細めた瞳はまだ眠たげ。余程寝転がっていたいのか、空中でも膝を抱えて、ふわふわと丸くなって首だけこちらを向いていた。
卵と獏良を見比べる。白くて、形状的には今はまあ、丸いと云えなくもないけれど。
それにしたって、やっぱり理解不能だった。
「鈍感だなあ、バクラは」
無言で卵を睨むバクラを見て、獏良は興を削がれたらしい。丸まったままふわふわと、寝室へと移動してゆく。寝室に向かったところで身体はこちらなのだから眠れるわけがないのに。きっと獏良の中では睡眠=自室のベッド、ということになっているのだろう。
「おい宿主」
と、呼びとめると、逆さまの頭がぐるんとバクラに向けて振り向いた。
重力がないはずのその身体でも、逆さになれば髪は地面に向けて流れる。はさりと靡いた白い滝は綺麗だった。朝日を浴びて真っ白に透けるその様は、とても卵とは似つかない。
されど本人いわく卵の化身?らしい彼は、尖った唇をつい、と、意味ありげな笑みの形に変えた。
「見た目は変わらなくても、中身は変わってるって云ってるんだよ」
だから朝ごはんは、卵じゃなくて他のにしてね。
云って、獏良はバクラの目の届かない場所へと姿を消していった。
髪の端が扉の向こうに引っ込んでいくその隙間で、バクラのは微かに、小さな声の鼻歌を――何かが落っこちただとかどうとか――聞いた気がした。