トラジック・バースの仮面役者【2011獏良生誕SS】

「……何がお望みで?」
 ぐったりと、うんざりと。それはもうかったるそうなバクラの問いかけに、獏良はきょとんとした顔で振り返った。
「何のこと?」
「何のこと、じゃねえよ。これ見よがしにカレンダーに印つけやがって」
 肉体の支配権は獏良にある。それ故に半透明の指先でもってバクラが指さした先には、九月二日にでかでかと丸印がつけられたカレンダーがあった。
 赤いマーカーで日付が分からなくなるほどくっきりとつけられたそれは、印と云うよりも塗りつぶしと表現した方が正しい。油性ペン特有の滲みも相俟って、まるで血痕だ。
 親指で指されるままにそちらを眺める獏良の手の中には、夕食用のパスタ一〇〇グラム。丁度、鍋の中に投入しようとした矢先のことである。ぐらぐらと高温で茹る水面はまるで急かすように、大小の泡を浮かべては弾かせ――そして、獏良の思考も同じように、浮かんで弾けている様子。バクラにはそれが、すっ呆けて知らない振りをしている下手糞な演技に見えた。
「しらばっくれんな。てめえがの仕業だろうが」
「えー…… あ、そうだボクが書いたんだった」
 パスタの束を握ったまま器用に手を叩いて、了は納得の表情を浮かべた。
「うぜえ演技してんじゃねえ。何だ、オレ様にお祝いして欲しいですってかァ? そういうのはオトモダチ連中にお願いしな」
「嫌な云い方するなあ。確かにお前にあてて書いたものなんだけどさ。今はもう違うよ」
「はァ?」
「随分前に書いたんだ。すっかり忘れてた」
 ばらん、と、パスタを軽く捩じってから鍋に投入する獏良。捩れが戻る力で、細い乾麺は鍋の縁で放射状に広がる。花が咲くように散らばったそれは、茹でられる毎に支えを無くして鍋の底に沈んでいった。
 渦巻ながら沈みゆく夕食を眺める獏良はバクラを見ようとしない。カレンダーとキッチンの真ん中にバクラは存在しているのに、まるで目に見えていないかのように。
 ただ、唇だけはバクラとの対話を望んでいた。
「昔ね。お前がボクにひどいことしまくってた時くらいかな」
 どのあたりの昔を語っているかはすぐに分かる、共犯関係が成立する前のことだ。それ以降の性交渉は基本的に同意の上であるので、「ひどいこと」と称されない。やっている内容はそう変わらないのだけれど、獏良にとっては明確な線引きがあるのだろう。
「勘違いしててさ。やだなあ、思い出させないでよ」
「……ちっとも話が見えねえぞ」
「だから、勘違いだってば」
 獏良の口振りは平坦だった。口に出す言葉は嫌がる素振りを見せているのに、ちぐはぐに喋る様はバクラに奇妙な違和を感じさせる。教えたくないのか教えたいのか――またいつもの意味不明な展開に巻き込まれるのかと溜息をつきたくなる。そして悲しいことに、巻き込まれたくなくて姿を消せば、その後もっと面倒になるという事実もまた、いやというほど理解していた。
 それ故の憂鬱。何故話題に出してしまったのか後悔しきりである。
「聞いてやるから、分かるように喋れよ。宿主語はオレ様には難解過ぎんだ」
 仕方なしに聞く姿勢をとってやる。獏良の横顔は矢張り、口振りと同様に平素だ。
「笑わないでよ?」
「まァ善処してやらなくもねえ」
「お前がどんな奴か、ボクはあんまりよく分かってなかったんだ」
 ぐらぐらぐら。鍋の煮える音が響く。
「いつか、ボクとお前の間に違うものが生まれるんじゃないか。ボクにひどいことをするばっかりじゃない、笑ったり、遊んだり、そういうことを出来るようになると思ってた」
「……へえ?」
「思ってた、じゃないな。望んでた。願望だよ」
 くだらない願望でしょ?
 パスタ鍋をかき混ぜながら、言葉は更に続く。
「その頃に、お前に知って欲しくて、カレンダー捲って。ぐりぐりに印つけてやったんだ。お前が絶対に気が付くように」
「何だ、結局祝って欲しかったんじゃねえか」
「その時は、だよ。しばらくしてからお前の本性を理解したからね」
「今はよく理解してますとでも言いたげだな」
「理解してるよ。少なくとも、あの頃よりはね」
 そこで漸く、獏良は唇を薄く持ち上げて、バクラに向けて笑って見せた。
 膨らんでは弾けて消えるような、煮え湯に似た会話。詮無いと云えばそれまでの、パスタが茹で上がるまでの時間の暇つぶし。獏良はそんな風に語って見せる。
「お前はそういうことをしてくれる奴じゃない」
「ならどういう奴だってんだ?」
「ひどい奴」
 くすり。小さな笑い声が漏れる。
「もう諦めてるから安心しなよ。それにお前の本性を知った今じゃ、お祝いされたって気持ち悪いだけだし」
 だからいいんだ、忘れてね――と、言葉を締めた獏良はコンロの火を切った。
 手際よくトマトソースとパスタを絡める姿を、バクラはじっと見る。
 妙に腹立たしい気分だった。
 何もかも分かった顔をして諦めている顔。ああ、そういえば最近こいつはずっと同じ顔をしていたと気づく。夜ごとの交わりの時さえ、偶に空虚な表情をする。平坦な声で冗談を云い、平坦な声で笑い、稀に泣く時さえ――
 バクラにとって、それは非常に好都合だった。昔のように躁鬱激しく逆らったり暴れたりされるより余程いい。云うことだって基本的には聞く。
 良いことだ。このままうまく事が進めばいい。
 なのに何故、こんなに腹立たしい気分に陥るのだろう。思い通りに動く都合のいい人形を手に入れたというのに。
 バクラの視線は獏良からカレンダーへと移っていく。そこに、やつれた顔で赤い油性マーカーを握って立っている獏良の幻覚を見た。
 力ない肩。神経質そうな瞳。乾いたくちびる。何もかもが懐かしい――抵抗者だった頃の獏良。
 痩せた指がカレンダーを捲り、何か月も先の未来の日付に印をつける。唇を噛んで、泣きだしそうな表情で、それでも何か祈るようにぐるぐるとマーカーを擦りつける姿は憐憫すら誘った。紙とマーカーが擦れる高い音が、まるで悲鳴のようだった。
 瞬きひとつで幻覚は消える。視線を戻すと、穏やかと云ってもいい様子でパスタを皿に盛っている現在の獏良了がそこにいた。
『もう諦めてるから安心しなよ』
『忘れてね』
 確かにそれは本意だろう。嘘の匂いは欠片もしない。獏良は何もバクラに期待していない。虚穴を晒しあう心の部屋での交わりで、進めている計画の端々から覗く悪意で、バクラと己はそういう関係にはなれないのだと知った。
 だからそれは、みっともない過去。
 忘れてね、ではない。忘れたいのは獏良の方だ。
 甘い夢を見ていた己を厭んで、蓋をしたがっている。
(気持ち悪いほど健気じゃねえか)
 喉元にこみ上げてきたのは嘲笑と、それ以外の何かよく分からないもやもやとした感情。
 だったらこじ開けてやろう――と思ったのは、単なる気まぐれだった。
「宿主」
「なに?」
「祝ってやろうか、誕生日おめでとう、ってよ」
 云うなり、がしゃん。
 鍋を洗おうとしていた手から、取っ手が外れてシンクに激しくぶつかる音が響いた。
「……何云ってるの」
「祝って欲しくてやったんだろ? オレ様だってそこまでケチじゃねえ。欲しいモンがあるなら云ってみな」
 振り向いた獏良には、あの平素の影などどこにもなかった。目を真ん丸に開いて、ハトが豆鉄砲を食らったという表現がよく似合う間抜けな表情を浮かべている。瞳と口で三つの円をつくり、呆然とバクラを凝視していた。
 翻った表情の変化に、それこそ驚くほど胸が空いた気分になるのがおかしかった。自分でも気が付かなかったが、あの能面みたいな穏やかな顔が相当気に入っていなかったらしい。
 おもしろがって、身体ごと接近してみる。獏良は大袈裟な動きでキッチンの奥へと逃げた。
「何か企んでるでしょう。じゃなきゃそういうことをお前が云う訳ない」
「オレ様だって多少の戯れくらいするさ。諦めてた望みを叶えてやろうっていうんだ、素直におねだりしてみろよ」
「いらない。もう忘れてって云ってるんだけど」
「いやァ、他ならない宿主サマのご希望じゃねえか。宿賃代わりに叶えてやるって。ほら――」
「いらないって云ってるだろ!!」
 唐突に獏良が叫んだ。
 先程の鍋とシンクの衝突よりもなおやかましい声で、そして鋭く。床に叩き付けるような短い絶叫の真ん中で、獏良は顔を覆っている。
 突然のことにバクラもまた沈黙し、立ち尽くすしかなかった。今の軽いからかいのどこに、彼をそこまで叫ばせる要因があったものかさっぱり理解できない。
「……やめてよ、そういうの」
 掠れた声がぽとりと落ちる。微か過ぎて、外から漏れ聞こえる車の排気音にすら掻き消されてしまいそうだ。
「折角うまくいってるんだから、ぶち壊すような真似しないでよ」
 その言葉ひとつで、十分だった。
 バクラは全てを理解する。獏良の平坦な姿勢の理由も、忘れろと云ったその意味も。
『うまくいってるんだから』。
 そう、自分達は上手くいっていた。あれほど反発した過去などきれいさっぱり存在しない、平坦で平和で、お互いの深いところに踏み込まない関係性。身体を交えても心は遠く冷えて、そしてそれで、上手くいっていた。
 上手く回っていたのだ。赤いマーカーを見つけなければ。バクラが気まぐれを起こしたりしなければ。
 些細なきっかけで、危うい平衡が崩れた。
 獏良が傷つかない為に作り上げた、それはかりそめの平穏だった。
「ごめん、一人にして」
 くぐもった声で獏良は云う。
 顔を覆う姿はまるで、剥がれ落ちそうになる仮面を必死に抑えているかのようだった。
 バクラの中から、こいつをからかって遊んでやろうと云う趣味の悪い目的が霧散していく。萎えた、白けた、そういった感情と一緒に、余計なことをしたと己への舌打ちが混ざる。
 掛ける言葉も無かった。家族でも恋人でもないただの共犯者。他人。そうあろうとする獏良の意思は強くバクラを拒絶する。
 他者を虐げることはバクラの楽しみだったが、今のこの獏良を更に詰って楽しむ気にはなれなかった。どう弄っても面白い結果は望めまい。またぞろ心を閉ざされてはかなわないし、それに、
(それに?)
 それに何だというのだろう。まさか気遣っているとでも?
 触れたら壊れそうなほどに張り詰めている獏良をこれ以上傷つけないように、だなんて。(馬鹿馬鹿しい)
 そんな気色の悪い感情などとうに忘れた。そもそも、現世で行動するために必要なだけの肉の器を思いやってやるなどあり得ないのだ。人形が何を思おうと、繰り主には関係ない。
 放っておけばいい。獏良もそれを望んでいる。
「――お邪魔様」
 バクラはひとつ舌打ちをしてから、無言のまま現実世界から姿を消してやった。
 覆った手のひらの隙間で動いた唇の意味など知らない。見ていない。
 俯く獏良の傍らで漂う、出来たての夕食の暖かな湯気が酷く滑稽だった。