AM2:00のオノマトペ
獏良の部屋にあるベッドは、二段ベッドである。
本とゲームが大半を占める、獏良了の部屋。散らかっているわけではなく、しかし混然、という表現がいっとうしっくりくるまばらなレイアウトの部屋の片隅で、ベッドはひときわ強い異彩を放っている。
それが妹のいた名残であることは誰に問わずとも理解できよう。彼の妹が既に死去していることを知っている友人は、そのベッド――部屋の半分を埋める、高校生が寝るには些か狭い子供用の寝具について何も云わず、また知らぬ友人も、何だか触れてはいけないような圧迫感を感じて、見ないふりをするのが通例であった。
だから、初めてだったのだ。
「宿主、てめえいつまでそのベッド使ってんだ」
――言及、されたのは。
手足を縮め、横向きになって眠りにつこうとした獏良へと、バクラの声が投げかけられた。
生成色の肌寒い寝間着の馬力不足をカバーすべく羽毛布団で簀巻きになった獏良は、丸まったまま寝返りを打ち、声のした方に目を向けた。
相変わらずの半透明。いるかいないかわからない、自分にしか見ることのできない不可思議な心の同居人が、空中で腕を組んでこちらを見下ろしている。どうやら彼は眠いだの腹が減っただのという物理的な現象に悩まされることはないようで、深夜二時のこの時刻でさえ、眠そうな目ひとつしない。普段から眠たがりの獏良から見れば、全く羨ましい存在である。
「どういう意味?」
羽毛布団の端っこで目を擦りながら問うと、バクラはつい、とこちらを指さした。
「ベッドだ、ベッド」
「何、お前も寝たいの」
「違ぇよ。いつまでそのボロいベッドをお使いになっていらっしゃるんですか、って聞いてンだ」
適当に慇懃に言い放ったバクラは、何故か不機嫌な顔をしている。何か嫌なことでもあったんだろうか、当たられているのだろうか、獏良はミノムシのまま首を傾げた。
「なんでそんなこと、お前に追及されなきゃなんないんだ」
「てめえの身体はオレ様の身体だぜ? 腰だの肩だの、痛んでんのがわかんねえのか」
「ああ、ひょっとしてボクの身体を心配してくれてるのかな」
「オレ様がその身体に入った時に不愉快だっつってんだよ」
あからさまに人を小馬鹿にした溜息をついて、バクラは空中で足を組み替えた。
「別に金に困ってるわけでもねえだろ。とっととソイツ処分して、まともなのに替えやがれ」
「んー……」
獏良は小さく唸り、もう一度、今度は手を出して目を擦った。眠い。
何だって寝入りばなにこんな話を持ちかけるのだろう。もっと早い時間に云ってくれればまともに会話ができたのに、と獏良は思う。もう二時なのだ。眠いのだ。何故こんな時間まで起きていたのかと問われればそれは単に趣味の時間を長く設けすぎて、つまりは自分の所為なのだけれど。ついでに云えば夕食あとの時間を全てTRPGのシナリオを書くのに費やしていたので、バクラが何か話しかけてきていたのを無視していたのはこちらの方である。
理路整然。あ、ボクのせいか。
「……だからといって眠いのが収まるわけではありません…」
「何云ってんだてめえ」
話にならないと踏んだのか、バクラは面倒くさそうに頭を掻き、もういいわとお決まりの仕草で手を振った。獏良に何かを期待して、そして諦めた時によく見せる様子である。
眠気まなこの獏良には、何だかそれが妙に気に障った。なんだよまるでボクが悪いみたいに。いや実際悪いのだけど。いや悪いっていうのはおかしいな、そもそも何の話をしてたんだっけ。良く分からなくなる。
すう、と霞のように掻き消えそうなバクラの、その背中に手を伸ばして、獏良は云った。
「待ってよ、バクラ」
その声に、獏良と同じ生成りの寝間着――恐ろしく似合わない――姿のバクラが振り返る。
目には明らかな呆れ。寝ぼけてんじゃねえよくそが、と顔に書いてあった。
「ンだよ、まともに喋れるようになってから出直してきやがれ」
「喋れるよ。ベッドでしょ」
そう、ベッドだ。
バクラはベッドのことを聞いてきたのだ。何でいつまでも、このベッドを使っているか。
友人は決して触れようとしないこの二段ベッドの、下の段に眠り続ける自分に向かって――上の段に誰が寝ていたのか、知っている癖に聞いてきた。誰もが敬遠する妹というキーワードに、無遠慮な手で触れてくるのはバクラしかいない。
「知りたいの?」
「別に。ただ、そのせまっ苦しいベッドに何の価値を見出してるのか分かんねえってだけだ」
去るのを止めたバクラは再びこちらを向いて、不愉快半分、面白がる半分の非常に憎たらしい表情でもって獏良を眺めていた。
「妹と使ってたモンだから捨てられねえ、ってなら、見上げたシスコン野郎だけどなァ」
「ちょっと近い。でも違う」
からかうバクラにきっぱり答えて、獏良は一つ瞬きをする。何だそりゃあ、と、バクラ。
「口で説明するより、早いと思うんだよね」
「何が」
「だから、どうぞ」
獏良は狭いベッドの壁際に背中をつけ、一人分――にもならないスペースを、己の脇に作って云った。
「お前も寝てみなよ。そしたらわかるから」
ボクが今もこのベッドを使い続けている理由が。
正直、喋って説明するのが面倒くさかったというのもあるのだけれど。というのは飲み込んで、獏良は寝ぼけた顔のまま、バクラを同じベッドに誘ってやった。
あからさまに不審がるバクラの目には猜疑。だったら身体よこせばいいじゃねえか、何が楽しくて野郎の隣に寝るんだよ。しかもオレ様身体ねえから寝転がれねえよ。などとつらつら文句を垂れる。それでもしぶしぶこちらに来たと云うことは、興味はあるのだろう。
獏良と、バクラ。背中を向けあい、ベッドに横になる。
形だけだが寝そべる姿勢を取るバクラはわりと付き合いがいい。そんなに気になるのだろうか――からかってやりたかったが、あえてそれは言葉にせず、獏良は目も口も瞑った。
二段ベッドを使う理由。
死んだ妹と一緒に使っていたベッドで、今も眠る理由。
(別に秘密にしているわけじゃない)
その訳を。
聞かれれば隠さずに答えた。友人にだって。
誰にも云わなかったのは、ただ、誰も聞いてこなかっただけだ。
バクラだけだ。
無遠慮に、べたべたと指紋をつけるように触れてくるのは。
誰もが一歩引いて、身近な距離を作らない――意識的に、あるいは無意識に――深い仲になろうとしない周囲の人々の中で、バクラだけが心の深淵に触れてくる。
嬉しいとも悲しいとも思わなかった。
ただ、妹の話が出来ることは、少しだけ、悪くないなと思えた。
ぎち り 。
ぴくん、と。
バクラの肩が跳ねたのが、気配で分かった。
豆電球の、橙色をした薄い暗闇。その中で、息をしているのは獏良だけ。肉体を持たないバクラは呼吸も無ければ物体に触れることもできない。だから、物音を立てられるのは一人しかいない。
その一人はバクラと背中合わせに寝ているわけで、ならどうして、木の撓る音――ベッドの上段の底、下段から見れば天井のそのベニヤ板が、軋むなんてことが起こるだろう。
そう、まるで小さな身体が寝返りを打った時のような、小さな小さな軋み音が。
「……宿主」
「うん?」
「今のが、理由か」
「うん」
背中を向けあったまま淡々と投げられる問いかけに、獏良は胡乱に頷いた。
この音が初めて聞こえた時――もうずいぶん昔の話だけれど、その時は妹が帰ってきたのかと思い、慌てて飛び起き上段を確認したものだ。
しかし、既にフレームだけになった寝台は冷たく冷え、無機質な木目を晒すのみで誰も居ない。霊感のない獏良には、そこに幽霊と呼ばれるものが存在しているか否かすら分からなかった。
初めは悲しかった。父に頼んで、天音が寝るからベッドをもとに戻してと願った。父は困った顔をして、幼い獏良に妹はもう帰ってこないということを云って聞かせた。
それから現在に至るまで、ベッドは今も剥き出しのままだ。
冷たく硬いベッド。そこで妹が寒そうに寝返りをうっていたら可哀想だとは思う――けど。
「……妹が、寝てると思ってんのか?」
バクラは低い声で問いかけた。
「うん。ううん」
眠たげな声で、獏良は答えた。
「どっちだよ」
「わかんない」
「じゃ、今の音は何だってんだ」
「ボクの願望、かな」
「はァ?」
「天音が帰って来ると良いな、っていう、ボクの願望が、あんな音出させてるのかも」
ポルターガイストって奴? と、獏良はくすくす笑った。
「だからわかんないんだ。分かんない内は、このベッド使ってようかなって思って」
「結局ただのシスコン野郎じゃねえか」
「可愛い妹だったよ。ボクに似て」
「云ってろ」
捨て台詞を残して、しゅるん。
バクラの気配が霞となって消える。ベッド購入のお願いがかなわないと悟って、さっさと心の内側に戻ってしまったらしい。
(短気な奴だな)
一緒に寝てあげても良かったのに。否、寝て欲しかった、だろうか。
一人で眠るのは寂しい。誰でもいいわけじゃない、自分を否定しない誰かとなら、肌を寄せ合って眠れる。いやらしい意味なんて一つもなく、ただ穏やかな寝息の為だけに手を繋いで眠れたら、きっと素敵な夢が見られることだろう。
それが出来るのは妹だけだった。良く似た性格の二人は、自愛の為に親愛を示した。とてもさみしがりで、とても面倒くさい性格をしていたのだ――彼女も、自分も。
妹はもういない。バクラもまた、繋げる手を持たない。
残されたのは橙の薄闇と、獏良一人分の、か細く小さなの息遣い。
仰向けになった獏良は手を伸ばして、とん、とベニヤの天井に触れてみた。そこにあって欲しい温もりはなく、やっぱりあの音はボクの願望なんだろうな、そう思った。