夏枕に、月影【2012獏良生誕SS】

今日の月は不安顔だ。
きっと、満ちることが怖いんだ。

 

 月夜の真ん中を歩く、手の中の荷物は幸せの重みだった。
  限定品とろふわシュークリームの箱、テーブルゲームのルールブック、フィギュア。
  獏良了が好きだと思うもの、手にすると笑うもの、そんなものが両手にいっぱい抱きしめられている。
  これらは皆、送り主が獏良の為に選んだものだ。
  何がいいかな、喜んでくれるかな。そうやって皆が皆、獏良のことを考えて贈ってくれた。そのことが何より嬉しいと獏良は思う。品がどうこうではなく――そりゃあ自分の趣味に合ったものを送られた方が嬉しいけれど――その時だけ、友人は獏良のことで頭を一杯にしてくれる。誕生日会なんてくすぐったい言葉を恥ずかしがらずに、満面の笑顔で云わってくれる。その事実が何よりうれしかった。
  物語の主役になれなかった獏良だからこそ、一層。
  もう遠い日のこと。目まぐるしいあの高校生の日々の中で、獏良は最後まで物語の外側に居た。
  そのことをもう、悲しいとは思わない。
  既に過去に語られるにふさわしくなった年月が流れ、皆、新しい道を新しい意思でもって歩んでいる。それでも裂けない友情はこうして度々集まって再確認され、誰かの祝い日には獏良も呼ばれる。
  仲間、だからだ。
  少なくとも彼らにとっては。
「……あ」
  満月、と、獏良は呟いた。
  顎を持ち上げ、進行方向の真っ直ぐ上空に黄色い光を放つ月が見える。取り囲む綿のような雲が月光で濃淡の影を浮かべ、複雑な模様を浮かべている。
  何となく足を止め、長いこと見つめていた。
  満月ではなく一歩欠けた月だと気が付いた時、そういえば満月は一昨日だったなと思い出す。一ヶ月に二回満月が見える珍しい月だからとニュースやら何やらで小さく取り上げられていたのだ。ならばこの月は、満月から欠け行く途中の月である。
  満ちてゆく途中ではなく。
「あのときも、確か」
  手の中の幸せの重みが、不意に遠くなってゆくのを獏良は感じた。
  月を宿す青い瞳に、懐かしい記憶が再生されていく。

***

「月に面なんかあるかよ。ただの天体じゃねえか」
「風情がないなあ、もうちょっと想像力つけなよ」
  六〇一号室のベランダで、獏良はバクラと並んで月を見ていた。
  コンクリートの床に尻をつき、三角座りをした獏良の傍らにはコンビニで買ってきた巨大シュークリームにロウソクを一本突き立てられた即席バースデーケーキの皿。バクラは中空でふわふわと漂って、互いに互いを見ていない。視線は夜の天幕の中心に向けられている。
  皿を膝の上に持ち上げ、ロウソクの炎をふっと消して、獏良は云う。
「本とかさ、読めばいいよ。日本語は美しいんだってさ」
「はいはいそうですか」
「知らないの? 有名じゃないか、『月が綺麗ですね』とか『私、死んでもいいわ』とか」
「知っちゃいるが、そうやっててめえの口から吐き出されると安っぽさが丸見えだな」
「失礼な」
  呆れ声で吐かれても、あまり獏良は気を害さない。今更だからだ。
  軽口を云いあう日常。一枚裏側には狂気と策略。知らない振りをいつまで通せるか分からない。部外者で居られるのはいつまでだろう、いさせてくれるのはいつまでだろう――不安なまま迎えた誕生日は形だけで、隣のバクラは相変わらず飄々としている。
  月見をしようと思ったのは、なんとなくだった。
  洗濯物を取り込んでいる夕方の時分、まだら群青の空に白い月が見え始めていた。ちょっと早い十五夜と自分の誕生日を合算させただけのことだ。
  お前もおいでよと云ったら珍しく付き合ってくれたので、二人で月を見ている。
  おめでとう、も、プレゼント、も、何もない誕生日。
  シュークリームは普段と同じ味だった。
「満月じゃなかったね」
  呟くと、明後日かしあさってくらいじゃねえの、と、やる気のない答えが帰ってきた。
  だから不安顔なのかなという続けた言葉にバクラは胡散臭そうな顔で冒頭の言葉を吐いた。そうしてまた無言が漂う。シュークリームを咀嚼する音と地上の喧騒、車の音だけが遠い音楽のように耳を掠める。
  あの月は足りないのだ、と、獏良は思う。
  今の自分のように。
  不安で、不満で、欲しくて、怖い。
  肉欲を知った。秘密の甘さも知っている。無知だった頃より、この身は遥かに満たされている。されど完全なる円、満たされた完璧な形になった自分を誰が想像できるだろう。何の不満もない状況というのはどういった状況を指すのだろう。
  それすら分からず、けれど求めている。足りない、足りない、いつだって一つだけ、足りない。完成しないパズルのピースは絶対に手の届かない場所にある。
  それは、曖昧な関係を形にする、客観的な関係性。
  それは、どろどろと渦巻く執着の名前。
  そして、今宵に限って云えば――今日という日を完璧にするためのたった一言。
  そんなものが手に入るとは獏良自身思っていない。遡ってみれば自分が生まれなければバクラという悪もきっと顕現しなかったのだから、祝う日どころか唾棄すべき呪いの日なのではないかとさえ思う。火を消したロウソクを皿に捨て、残りのシュークリームをぺろりと平らげる――こんなささやかな祝いでさえ、間違っているのかもしれない。
  されど心はざわついて、欲しいほしいと、喚く。
  恋でない依存を、愛でない執着を向けた鏡写しの姿の悪魔から、ひとつの言葉贈られたい。
  綺麗な言葉でなくてもいい、文学史の中の遠回しな云い方でなくともいい。そうしたらきっと満たされる。鍵は、バクラの舌の上にしかない。
  物欲しげな目を、隣の現身にそっと向けてしまった。
  相手は気が付いていないのか、あえて無視しているのか。獏良と同じ色の瞳に月を映して、ただ黙っていた。
  零時の針がこちりと時を押し出すまで、沈黙は沈黙のままだった。

***

 ――何の違いがあるだろう。
  あの日、満たされゆく中で一歩たりなかった獏良。
  今、欠け行く中で一歩離れてゆく獏良。
「結局、満月にはなれなかったなあ」
  手の中の現実を、幸せを取りこぼさないように抱え直して、獏良は小さく呟いた。
  多分、きっと、一生、無理なのだろう。
  欲しいものは失われてしまった。瓦礫と砂礫の向こう側に消えていった金色の影は、そういえば正円だったなと気が付いた。飾られた錐は星のようにきらきらと輝いて、闇と云う夜に消えた。
  満月を首に掛けていたのに、あの頃、ずっと満たされない気持ちで生きていた。
「おめでとう、って、云って欲しかったなあ」
  求める相手がいないからこそ口にできる言葉を、夜気に溶かして獏良は目を細めた。
「三日月の方が、ボクは好きだけどね」
  猫の爪みたいな細い月は、お前が笑った口元みたいだったから。
  これも何十年か先になったら、文学的な言い回しとして伝わるだろうか。皮肉な想い人に向けた愛の言葉だと、誰かの心を打てるだろうか。
「――なんてね」
  ふ、と笑って、妄言は取り消し。
  明日も明後日も、日常は続く。獏良は一人暮らしの帰路を再開する。足跡にぽとりぽとり、思い出を零して。
  そうして歩む度に、獏良了は欠けてゆくのだろう。いつか新月になり消え果るまで。
  想い人を飲み込んだ闇の向こうに、溶けてしまえるまで。