ルナ・アンリミテッド【!】

【発情期】ハツジョウキ
哺乳類を代表とする動物が、交尾することが可能である状態を指す。
または、性交を好むようになる一定の周期。

 

 甘く気怠い匂い。
糖分のように舌に絡みつく鬱陶しさではなく、どこか愚鈍な感覚を覚えさせる、それ。
ひと嗅ぎで脳の真ん中がじんと痺れる。爪の間に柔らかなものが詰まって指が動かせなくなるような、あまり摂取しすぎると身体機能に悪い影響を与えそうな――色があるならきっと頭の悪い桃色だ。
と、原因の臭気の只中でバクラは瞑目する。
「んー……」
甘い匂いの発生源が、しゃらしゃらと音を立てる羽根布団にくるまって呻き声を上げた。
いっとう匂いが濃い場所はどこかと思う。背中を向けて丸くなる獏良の耳元あたりに鼻先を押し付けると、ああここだとすぐに分かった。白く豊かな髪が寝乱れてほつれたその隙間、髪に負けないくらい白いうなじをべろりと舐めると、舌が痺れる。
すんすんと鼻をうごめかせ、嗅ぎ取って、嘆息。
日常を生きる為に必要な器官がダウナーに陥り、脳の一カ所だけがえらく興奮していくのが分かる。
そもそも何故こんなことになっているのかと思い出すのももう不可能になり、鋭敏な一角は匂いの元凶に手を伸ばせとせっついてくる。夜、満月、ベッド、眠る獏良、四つ揃った上ですることなど他にないだろうとバクラの背中を押す。
逆らう理由もなく、当然と、陶然と、硬い指先で獏良の髪を掻きわけた。
布団を引き剥がすのも忘れて、ふかふかのそれごと抱きすくめつつ、のしりと細い身体の上へ。横向きに寝そべる獏良がううんと唸って眉間にしわを寄せるのを、夜目の効く紫の瞳の端で捕える。
「了」
全く意図せずに掠れた己の声を聞いて、喉がからからに乾いていることに気が付く。
同様に水分の足りなくなっていた唇を舐めて、もう一度、りょう、と呼ぶ。眠りの中にいても聞こえるように、息ごと吹き込んだ呼び名は睡眠の海に沈む獏良の鼓膜を震わせて、震えは瞼に表れた。細い睫がちりちりと揺れる。
長い上睫と下睫が交差して瞬き。夜の闇で燐光のように目立つ、青い瞳がバクラを見る。
「なぁに……」
普段より三割ほど舌足らずな声で、獏良が云った。
「ねむ、や……」
眠い、いやだ、と云ったらしい。迷惑そうだった眉が更にきゅっと寄り、身体は圧しかかる体重を拒んでうつ伏せに逃げようとする。
そんな風に拒まれて、はいそうですかと身を引けるならばこのように丑三つ時に乗っかったりはしない。ふんと鼻を鳴らしたバクラは拒否に構わず、布団を肩口までべろりと剥ぐ。寒がりの癖に暖かい寝間着を着ない獏良の、グレーの布一枚向こうの肌が強烈な磁力を放っているように感じられた。
セックスなら、昨日もした。一昨日を挟んでその前の晩も。
だから性的に不満があるわけではない。骨ばってはいるがバクラに比べればよほど柔らかい身体はいつ抱いても褐色の指を難なく受け入れたし喜んでもいた。最近は手加減の仕方も大分分かってきたし、互いに痛みを覚えず気持ち良くなる術も覚えた。
不満はない、文句もない。獏良了はバクラにとって掛け値なく極上である。
(そういうんじゃ、ねえんだ)
うなじに鼻先を擦りつけ、柔らかい髪に額を押し付けて、バクラは瞑目する。
そういうことが理由ではない。いま、わからないけれど、欲しくてたまらないのだ。
一緒に眠ろうと思っただけなのに、いつものように同じベッドで眠ろうと近づいただけなのに、なぜかこうなった。ふわりと漂った匂いのせいで、性が激しく掻き立てられた。
「了、りょう」
他の言葉が思いつかない。名前をぽつぽつと呼びながら、バクラは布団越しでもわかる細い腰――うつ伏せているので恐らく尾骨か尻のあたり――に、恥もなく股間を押し付ける。
さすがにこれには違和感を覚えたらしく、獏良は再びううんと唸って、枕の間からこちらを振り返った。
「なに、もう…… 何してるのさ」
さむいしねむいし、と、文句を口にしながら、白い手が目を擦る。
半分眠っていた青い瞳は瞬きと目を擦ることでようやく通常運転を開始しらしい。そのタイミングにばっちりと合わせて、ごり、と、尻の狭間に熱を擦りつける。
「………? え!?」
はじめは何事か理解できなかった、獏良の声が綺麗に裏返った。
そりゃあそうだろう、寝起きにこの状況では驚くに決まっている。バクラでさえそう思うのだから当たり前だ。そう冷静に思考する部分は残っていても、止めるつもりにはまったくならない。それどころかようやっと覚醒した青い瞳のその色にさえ欲情して、生唾まで出る始末だ。
「ちょ、何、なにしてるの」
「おう」
「おうじゃないよ! いま何時……っ、や、どうしたのいきなり!」
どうしたのかだって? こちらが聞きたい。
そちらこそそんな甘ったるい匂いを平気な顔で発生させて、何があったというのか。うなじから、布一枚向こうの肌から耐えきれないほどたまらない匂いを振りまいておいてどうしたも何もない。
言葉に応じる舌すらまともに機能しない。この舌はいま、喋るためにあるのではないと身体が云う。
本能に命ぜられるまま、バクラは目の前のうなじをべろりと舐めた。うひゃあと甲高い声で驚く獏良を置いて、邪魔な衣類と布団を引っ張る。そう力を込めていないのに、どこかに引っかかったのか寝間着の釦がぶちんぶちんと音を立ててシーツの上に転がる。縫製がなっていないのだろう、多分。咄嗟に這って逃げようとする手首を上から押さえつけて、バクラは思う。
「やだ、乱暴にしないで、よ、バクラっ……!」
「してねえよ、ふつうだ」
「普通こんな風にしない! その、したいなら、わかったから、こんなのやだ!」
今までこんなにも激しく抗ったことはない、と思うほどに獏良は身体を捩って、どうにかバクラの下から逃れようと足掻いた。
その足掻きが、今は余計に興奮に匙を加える。目の前で振り乱れる白い髪が頬を掠め、布団越しに暴れる細い腰のうねりに背筋がぞくぞくと昂る――絶対に逃がす気になどなれない、ならない。
「了」
「ひっ……」
つとめて優しく呼んだ筈が、何故か獏良は怯えた声で目を見開いた。
振り向いた青い瞳が鏡になって、己の顔を見る。笑っているが、随分と凶暴な顔になっていた。そんなつもりもないのに、ああこれは捕食者の顔だと自分で思うのだから相当だ。獏良が怯えるのも頷ける。
「逃げンな」
囁く声すら恐喝を帯びる。脳でこしらえた思考と言葉は、口に出る前に何かおかしなフィルターを通して変換されてしまうのか。いたずらに獏良を怯えさせる声色に作り替えられてしまう。
初めて見つけた大事なもの。大事にしたいと思うのに、可愛がり方を違えて動く手がぐっと強く手首を掴む。
びくんと竦む裸の肩に唇を押し当て、そのまま舌で肌を辿る。
「バクラ、ぁ、」
怯えの中に慣れた感触を拾い上げたのか、獏良が恐怖の中に快感の成分を足したあやふやな声を上げた。
またひとつ傾けられた匙から、甘い匂いが立ち上る。堪らず肩に齧りつくと、布団越しでも分かるほどに肌が硬直した。
「了、なあ、りょう」
ああもう堪らない。なんだってこいつはこんなにも美味そうでならないのか。
憎たらしい布団を力任せに剥ぎ切るのは用意だった。ふくふくと弾む羽のかたまりを握りつぶさんばかりに掴んで引っ張ればいい。急に外気にさらされた獏良はぶるりと一瞬震えたが、熱い身体を重ねてしまえばそんなものはすぐに忘れてしまうはずだ。
名前ばかりを呼んで、一方的に欲を押し付けてくるバクラをどう思ったのか。獏良は戸惑って枕を抱きしめるばかりだったが、うわごとのように呼ぶその声の中に潜む熱のただごとではなさに気が付いたらしい。振り向き伺う青い瞳に疑問の色を浮かべて、そうして唇を開くと、
「し、したいの?」
「おう」
「……そんなにしたい? いきなり? 昨日もしたのに」
「今してえ。滅茶苦茶してえ」
ついでにてめえも滅茶苦茶にしてやりてえ気分だ。と、バクラは素直に告げた。めちゃくちゃ、と口の中で繰り返した獏良は複雑な顔をして黙り、それからやはりびくびくと――ついぞ見せなくなった警戒の表情でもって続きを口にした。
「何で?」
「してえのに理由がいんのか」
「別に、いらないけど……」
「じゃあする。させろ」
端的でも問答をすることで落ち着いたのだろう。獏良はまだ怯えた顔を見せていたが、逃げようとする動きはなくなった。機嫌をよくしたバクラは、しかし手首を抑える力を緩めずにもう片手を皮膚の薄い腹に回していく。行為を了承した証に獏良は仰向けに寝転がろうとしたけれど、そういう気分でもなかった。
綺麗な顔を眺めて、いとおしんで、唇を交わすような手緩い性交を、この身体は望んでいない。
もういっそ逃げようとしてくれた方がいいくらいだ。脱出を試みる手首を捕え、細いうなじに歯を立てて動きを封じて、強直に犯してしまいたい。そうさせるだけの匂いが触れあった肌から直接染み込んでくる。
獰猛にぐるぐると唸って、抑えきれない欲求をそのままぶつけることにする。歯型のついた肩から口を離すと唾液の糸が細く繋がり、途切れる前に再び噛みついた。首裏の柔らかい髪ごと噛みついて、舌に触る髪まで味わう。ここからもきっと、例の桃色の何かがあふれているに違いない。
「もう、なんか動物みたいだよおまえ」
物理的な痛みに悶えながら獏良が云う。
動物? そうかもしれない。気分はけだもののそれに近い。それもひどく飢えて手におえない厄介な獣だ。
草食獣の喉笛を噛み千切るように尖った犬歯に力を込めると、薄い皮膚はすぐに裂けた。滲む血の塩辛さが、今夜はやけに甘い。痛いよと上げる悲鳴すら心地よく感じてしまう。
腹側に回した手で、自然と獏良の下腹を撫ぜていた。
雄では持ち合わせていない器官を手が勝手に探す。身体の内側に胤を打ちこみたい欲求は全く収まることなく嵩ばかりが増えていくようだ。
いくら身体を重ねても二人は自然の摂理に沿った交わりを行うことはできないし、雄同士で生命を作り上げることもできない。
そんな願望などこれまでに一度も持ったことが無いのに、何故かそれを惜しく思った。
開いた口から、熱い溜息。心なしか獣の匂いがした。
「ば、くら?」
「ン」
「……したくないわけじゃ、ないんだからね」
ボクだって。
と、唐突に、獏良は小さな声でそう云った。
腰を引っ張り上げられ、腹と背中とを密着させた獏良には、もうバクラの表情を伺うことは出来ない。同時にバクラもその顔を見ることは出来ないけれど、想像は容易に出来た。
ただ枕を抱きしめ、早急に下肢を弄ってくる荒っぽい手に翻弄されつつもたまらない顔をしている筈。探った下肢も熱を持っていた。いやだのやめてだの言った癖に、身体の方はきちんと反応している。
「ただ、その、ちょっとびっくりしただけだから。誤解したら嫌だよ」
そうしてか細い声でしゃべっていると、本当に性別の境界線が危うく見えて――もともと細い身体と長い髪がいっそうそう見せる幻覚だと分かっていても、バクラは思うのだ。
(こいつは)
(今は、オレ様の女だ)
女でいて欲しいなどと思ったこともない。本当に今夜はどこか狂っている。
ふと視線を持ち上げると、半開きのカーテンからやけに大きな満月が空を覆っていた。まるで大口を開けて笑うような禍々しいそれが、またバクラの背中を押す。
押されるまま擦り寄った肌から嗅ぐ濃い匂いはまるで誘うようで、始末に負えない。
乱暴にして、滅茶苦茶にして、好きなように食べてと云う。獏良自身は何も云わず、ただ戸惑いつつも受け入れる心持ちになっているそれだけなのに。
これは男による男の為の都合のいい妄想か。いや、そんな筈はない。誘う声は幻聴でも、この匂いは幻などではない。獏良了の身体は間違いなく、バクラに向かって手招いている。無意識だろうと何だろうと、間違いなく。
(ああ、もうどうでもいい)
ひと嗅ぎで焦点しそうな極上の匂いを深く吸いこんで、思考を放棄。
代わりにまた、了、と呼ぶ。
なに? と、掠れた声がまたぞろたまらない。
もうやってしまえ、云ってしまえ。安全弁の無くなった脳が性欲以外の全ての電源を落とす。性器ではない入口に既に猛った先端を押し付けて、バクラは熱い息ごと囁いた。
「……孕ませてえ」