【同人再録】レッドマンと青びいどろの約束(盗獏)

発行: 2011/05/04
3ばくプチオンリー【BKR】記念アンソロジー。
【B】Blue…青  【K】Key…黒 【R】Red…赤 の3色のいずれかをテーマにした3ばくら関連の漫画8作品・小説3作品をご寄稿頂きました!そのうちの西尾ぶんです。


ただの興味、それだけだ。
はじまりは。きっかけは。
至極単純で明快なものだった。
あの青い眼をした人形みたいな少年は
自分のことを何と呼ぶのか、

ただ、それだけだった。

 ままならない存在だと知っていた。
 自由などない。縛られているわけではなく手足も動かせる、しかしこの暗闇から出ることはできない。いくら試しても出来なかったのだから、腹立たしいことに自分の自由は奪われているのだろう。
 曰く、駒。
 そんな不愉快な役柄を押し付けられている事実を、何故バクラが――盗賊の王たる彼自身が、それこそ彼らしくもなく不本意な事実に首肯せざるを得ない理由は、同じ名前をした男にそう云われたからだ。
 意識を得たその瞬間に、男は云った。
 お前は死者で、オレ様の駒だと。
 忌々しそうな顔で、そう云った。
 ここはどこだと問うたら、心の部屋さと訳の分からない答が返された。
 云っている意味がさっぱり分からない。何故ここは砂礫の町でも金色の王宮でもなく、天地左右すらない暗闇の世界なのか。どうしてこんな場所にいるのか。そして、目の前の白い肌の男――見たこともない異国の服をまとって黒い外套の裾を空間に同化させている男が何者なのか。
 何も分からない。精霊獣の気配すらない。
 不愉快だった。この上なく気分が悪い。この盗賊王を見下ろして薄笑い、嘲るような目で見てくる男の存在も何もかもが。
 ――てめえは何者だ。
 盗賊は問うた。腰の後ろの得物に手を掛けながら。
 ――このオレを誰だと思ってやがる。生意気な口きいてやがると、首ごとへし折って黙らせるぜ。
 そうして脅した文句に対して、男はまた笑った。
 ――てめえが誰かだって? 知ってるさ、盗賊王。ふざけた二つ名だ。
 男は侮蔑のまなざしと、それ以外の何か――よく分からない、郷愁にも似た憂いと苛立ちを綯交ぜに、それでも口元は皮肉に持ち上げると云うひどく複雑な顔をして見せた。
 その表情に、腑の内側が苛立ちで熱を持つ。
 バクラは再び問うた。
 ――てめえは何者だって云ってんだ。ガキが、さっさと答えな。
 ――オレ様はてめえさ。否、違う、お前がオレ様の一部なのさ。
 男はおかしそうに、憎々しげにひゃははと笑った。
 ――不愉快そうなツラしてんじゃねえよ、気分が悪いのはこっちの方だ。何だっててめえがここに居やがる。何だって現れた。出番はまだずっと先のはずだ。
 云っている言葉は、バクラの理解できる範囲を超えていた。
 自分という存在は一つしかない。なのに男は、己もバクラだと云う。その上出番がどうだの、何故ここにいるだの――こちらが問うているのに男は確かなことなど何一つ口にせずに眉間にしわを寄せている。
 ――とにかく、ここで大人しくしてな。余計なことをするな。
 がりがりと頭を掻き、男は吐き捨てた。そして独り言のように呟く。
 ――てめえが出来ることなんざ、今は何一つねえ。図体ばかりでかくて邪魔くせえ。宿主の心ン中だって無制限じゃねえんだ。負担を掛ければ壊れちまう、もろいもんだ。
 ――いいな、弁えろ。
 そう云うなり、黒衣の男は溶けるように消えた。
 雲か霞のように、存在の残滓をうっすら残して、そうして空間から消え失せた。
 取り残されたバクラは、その影が不意打ちでも仕掛けてくるものかとしばし身構えていたが――呼吸を十数えても何事も起こらないので、得物から手を離した。
 冷静になる。どうやら厄介な場所に迷い込んだらしい。
 求めた闇の力の影響か、何なのか。分からないが無関係とは思えない。今怒りにまかせて動くのは得策ではないと、煮えてやまない気分を落ち着けていく。
 まずは状況の把握。そして、脱出の手口を考える。
 糸口は男の物言い。気分は悪いが、彼奴の云った言葉を思い返して推論を立てていくほか無い。
 駒。出番。宿主という単語。心の部屋。
 反芻しても意味不明。分からない内は不用意に動くべきではない。腕っぷしこそバクラの自慢だが、決して命知らずでも無鉄砲でもないと自身では思っている彼だ。
 まずは思考。そして様子をうかがうこと。
 苦々しいことに、考える時間だけはたっぷりとあることが――その後、長い間闇の中で過ごすうちに分かった。

 変化が訪れたのはどれほど経過した頃だったか。
 時間の流れの一切が、この真っ黒な空間……男曰く「心の部屋」とかいう場所では感じ取れない。喉も乾かず、腹も減らない。気分的に酒が欲しいと思うことはあったが、肉体が欲しているのではなく単に舌がアルコールを摂取したがったからだ。
 そんな黒塗りの箱の中に、白い塊を見つけた。
 数は、二つ。
 咄嗟に身を隠し、状況を伺う。ここに居座るうちに、四方を囲むものは闇そのものだということは理解した。闇とは彼にとって友人ともいえる身近な存在であった。壁に成れと思えばそうなるし、水面に成れと念じればそうなる。精霊獣を扱いなれたバクラにとって、自分の身の回りの闇をまとうことなど簡単だった。
 姿を隠す。白い塊は真っ暗闇にぽつんと浮かぶようで、どこにいても窺い知れた。
 一つはあの気にくわない男。
 もう一つは、男によく似た、されど違う空気をまとった少年だった。
 男は少年の頭を掴み、闇の床に叩き付けて笑っていた。
「手こずらせるんじゃねえよ。大人しく云うことを聞きゃあ、痛い目見ずに済むんだぜ」
 男は嘲笑う。少年が顔を顰めるのが、バクラの位置からよく見えた。
 人形のような少年だった。
 白い髪に肌、青い瞳は男と全く瓜二つであるのに、全く違う風貌をしている。ただ綺麗な顔をしていることは分かった。ともすれば女と見間違う、整った顔立ち。それが、男に組み伏せられて呻いている。
「てめえだって、こんなところに閉じ込められたくねえだろ?」
「ッ……」
 少年が唇を噛む。誰がお前に、と、嗄れた声で云った。
「オレ様の邪魔さえしなきゃあ、一緒につれていってやってもいいんだ。身体から追い出したてめえを連れて、見せてやってもいい。オレ様がすることを全部、な」
 知りたいんだろう、オレ様が何をするか。
 男はにたりと笑ったようだった。
「こんな真っ暗闇で蹲ってるより、余程楽しいショーをお約束するぜ?」
「お、ことわり、だ、見たくもない、そんなの」
 少年ははっきりと云った。見た目よりも意志の力はあるらしい。ぎりぎりと押さえつけられていても、闇に浮かぶ青い二つの目玉は男を睨んでいたからだ。
「お前の企みなんて、知ったら余計嫌な気分になる――バクラ」
 バクラ。
 それはオレの名前だ、と、盗賊は思った。
 だがすぐに、それは少年が男の名を呼んだのだと気が付いた。オレはお前、と云われたことを思いだす。同じ名前。存在自体がそうだとは思わないが、それでも第三者が男をバクラと呼ぶのを見ていると、奇妙な相似を感じずにはいられない。
 男はちらりと、こちらを見た。
 闇に紛れているにも関わらず、男にはバクラの存在が見えているらしい。全く、気にくわないにもほどがある。
 睨み付ける瞳の色は青。少年と同じ、されど病毒を秘めた青だった。
『見てんじゃねえよ』
 そんな風に睨み付けられる。バクラでさえ一瞬、ぞくりとするほど冷たい目だった。
 男はやがて、芝居がかった仕草でやれやれ、と、肩を竦めて見せた。
「頑固な宿主サマだぜ。仕方ねえ、ならここで大人しくしてな。
 ……余計なことは、するんじゃねえぞ」
 最後の一言は、明らかに、バクラへ向けた言葉だった。
 少年を押さえつける手が離れ、指先から腕へ、すうと姿が透けていく。それに取りすがるように少年――宿主、と呼ばれた彼は起き上がり、手を伸ばした。
「バクラ! お前っ、またボクの身体で……!」
 叫ぶ声に応えるのは、ひゃははというあの哄笑。
 渦を巻いてやがて消えていく笑声は、それでもしばらく耳に残った。真空と見まごう世界で音が響くのが不思議だった。取り残された宿主、とやらは、それでもしばらく、厳しい顔で中空を睨みつけていたけれど――やがて、こときれたようにぺたん、と、闇の上にへたり込む。
 そして、何なんだよ、もうやめてよ、と、先程の抗いぶりとは打って変わった頼りない声で呟いた。
(あれが)
 あれが、宿主。
 その存在自体は知っていた。初めて男と出会ったあの時、独り言のように呟いた言葉の中にあったものだ。
『宿主の心ン中だって無制限じゃねえんだ』
 心の中、とは、この場所、すなわち心の部屋とかいうものと関係がありそうだとバクラは踏んでいる。ならばここは宿主の心の中なのか。だが彼は今ここにいるではないか。どういうことなのか、矢張りバクラには分からなかった。
 只、あの男にとって宿主という少年が、重要な位置づけに置かれているであろうことは想像に難くない。証拠など何もないが、直感がそう告げている。
「やめてよ、もう、ねえ、バクラ……」
 痛切な声で宿主は云う。青い目を潤ませて。
「皆にひどいことしないで。嫌だよ、友達なんだ、嫌われたくないんだ」
 もう誰も聞いている者がいないのに、宿主はなおも縋り云う。
 否、誰も居なくはない。バクラは聴いていた。聴いて、見ていた。
 綺麗な顔をした人形が切なる声で泣いている。目玉ごと零れてしまいそうな大粒の涙をぼろぼろと零して、みっともなく泣いている。男の癖に情けない――と思う反面、綺麗な顔は泣きじゃくっていても綺麗だった。線の細い、折れそうな首にまで涙の滴は伝い落ちて、そうして鎖骨の隙間に滑り込んで消えていく様は、何だかひどく危ういものに見えた。
 ばくら、ばくら、と、宿主は呼ぶ。
 まるで自分が呼ばれているような気がして、バクラは妙な気分になる。彼が呼んでいるのは忌々しい男であり、自分ではない。
 それなら、彼は自分のことを何と呼ぶのだろう――と。
 ふと、そんなことを思った。
 名前は一つしかない。宿主にとってバクラとは男のことだ。
 ではこの盗賊王のことを、何と呼ぶのか。
 それは只々単純な興味だった。単調な闇の生活に飽きていたこともあり、新しい刺激が欲しいと思っていたのも事実だった。
 あの時のように、呼吸を十数える。男が戻る気配はない。
 見計らって――バクラは、
「なァに泣いてんだ、ガキ」
 そんな軽い口調を以てして、宿主たる少年の背後に、音もなく歩み寄っていた。
「!?」
 ビク、と、細い肩が揺れた。
 発条仕掛けの人形のように振り返った青い瞳に、バクラの姿が映りこむ。
 近くで見ると一層分かる。本当に綺麗な顔立ちをしていた。
 泣き腫らした目は如何ともしがたいが、外見的には申し分ない。男にしておくのがもったいないくらいだ。
 涙を矯めた目がぱちんと瞬きをする。滴がまた一筋伝う。
 長い睫が濡れてきらきらと光った。
 振り返ったまま、泣きぬれた少年は、だれ、と、掠れた声で問う。
「誰だろうなァ?」
 てめえはどう思う?
 揶揄を絡めた口調が自然と零れてきた。何故か口元が笑う。
 単調な生活に見つけた久々の遊び道具、くらいの感覚だ。初対面であるにも関わらず、バクラの野生とも呼べるべき直感が囁いている。こいつは、使える、取り込むべきものだと。
 だから笑ったのか。にい、と、唇を吊り上げて。
 そして、笑みを向けられた宿主は、ぽかん、と、先程の涙が嘘のような魔の抜けた顔をして、バクラを爪先から頭のてっぺんまで眺めた。
 てめえはどう思う?
 ――その問いに、唇が開く。

「赤い、ひと」

 少年は。
 男が宿主と呼ぶ少年は、硝子玉のような青い瞳をバクラにまっすぐ向けて、そんな風に、呟いた。

 名前が付いた。
 正確にはバクラはバクラという名の盗賊だれけれど、宿主――否、名乗るところである了、という名の彼の前では、バクラは『赤い人』という固有名詞を得た。
 了が呼ぶバクラというのはあくまであの男のことであるらしいし、名乗るのも何だか面倒くさいと思ったのだ。あまり頭がよくないらしい了は混乱するだろう、だったらそのまま、その認識で構わない。
 名前以外のことは教えた。盗賊の王であることも伝えた。何故ここにいるのかという問いには正直に分からないと答えた。そうやってコミュニケーションを交わすうちに、了はたくさんのことをバクラに教えてくれた。この場所が何なのか、了が何者なのか、そしてあの男のことも。
 了自身にもあの男のことは理解の外にあるらしく、二人の間でそれは謎のままだ。だが了が男をどう思っているかくらいは、話を聞いていれば分かる。随分と近しい関係だということも、強く憎みながらも、切り離せないほど依存しているらしいということも。
 そして、逆説的に知り得たのは、どうやら男にとっても、了は貴重な存在だということ。余計なことはするなと睨み付けてきた、あの目が雄弁に物語っていた。
 初めに了を見た時に、こいつは使えると思った直感は間違いではなかった。
 男を出し抜く為に、この空間から抜け出す為に、きっと了は役に立つ。ならばせいぜい、利用させて頂こうではないか。了は決定的なことは何も知らないようだけれど、彼が愚痴るその中に、推測の種は溢れている。
 まずはこいつを奪うこと。こちとら盗賊の王、盗むのはお手の物だ。それが財宝であっても、人の心であっても。
「オレ様と会ったことは、あいつには秘密だぜ」
 言葉を交わしたその日のうちに、そんな約束を取り付けることに成功した。
「どうして秘密なの?」
「バレたらもう会えなくなっちまう。オレ様はてめえが気に入ったんだ、これっきりってのは面白くねえ」
 だから秘密さ。
 そう云って笑うと、了は不思議そうに首を傾げ、ふと笑い返してきた。
「いいよ。バクラもボクにたくさん隠し事してるし、ボクだって秘密、つくってもいいよね。仕返し」
「そいつは気分がいいな。なら絶対悟られるなよ。あいつがいない時ってのはいつだか分かるか?」
「うん。バクラがボクの身体を使ってる時、ここにはいないみたい。だから今は大丈夫だよ。あいつが戻ってくるのも、感覚でわかるし」
「なら、戻ってきたらすぐに云いな。オレ様は隠れるようにするからよ」
「分かった。何だかドキドキするね、いけないことしてるみたいだ」
 了は悪戯をする子供のように笑った。
 こいつはいくつもの顔を持っている――と、バクラは思う。
 目の色が変わるのだ。青は青なのだけれど、奥に秘める感情の色が変わる。
 男を睨んだ時の、憎しみと依存が混ざった青。
 酷いことをしないでくれと縋った時の青。
 初めてバクラと出会った時の、まん丸の目をした青。
 そして今、話し相手を見つけて喜んでいる、無邪気な青。
 どれも青だ。そして、自分は赤なのだ。
 了はバクラを赤い人と呼ぶ。まとった外套の色をしてそう呼ぶのだが、不思議と悪い気はしなかった。
 ――損得抜きで了を気に入っていると気が付くのにも、時間はかからなかった。
 無論、了の相手をし話し相手になり、じゃらすように構ってやる理由は男を出し抜く為だけれど、それを抜きにしても気に入っている。赤い人という呼び名も嫌いではないが、本当の名前を――呼ばせたいとも、思った。
 了にとってバクラとは男の名だ。
 それを覆してやりたいと、漫然と思う。
 そうしたら男が黒い人――あの悪趣味な真っ黒い外套のことだ――とでも呼ばれたらいいのだ。成り代わって、バクラになりたい。了にとってのバクラになりたい。
 バクラの生きる目的はただ一つ。復讐の為に彼は生きている。
 その復讐を遂行し終えた後のことを、彼は考えたことがなかった。憎き王宮を崩壊させ、クル・エルナの同胞の悲願を叶え、そうしたらどうするか、考えたことがなかった。
 そう、その後は、隣にこいつを置いたらいいと、そう思ったのだ。
 こんな闇など抜け出して、あの男を蹴落とし、復讐を遂行し、了を連れて。
 それは案外楽しいのではないかと思った。綺麗な顔で、どこかつかみどころのない、それでいて妙に憎めぬ了。心を奪って、いっそ身体も奪って、連れて行ってしまいたい。
 そうできないわけがないと盗賊は信じていた。己ならそうできると、疑いもなく思っていた。
 だから、云ったのだ。秘密の逢瀬を重ねるごとにすっかり馴染み、よく笑うようになった了を背中から抱えて。
「なあ、了」
「ん?」
「オレ様はよ、やンなきゃなんねえことがあるんだ」
 了はあの青い目をくるくるとさせて、バクラを見る。
「それが終わったら、了、オレ様と一緒に来な」
「いっしょ?」
「ああ。退屈はさせねえぜ」
 相手が女だったら、これはまごうことなく求婚だ。もう性別などどうでもよくなっていた――了なら抱ける、とまで思っていたバクラである。さして抵抗もなくするりと言葉が滑り出てきた。
 だが了は薄く瞼を伏せて、でも、と云う。
「……ボク、分んないんだ。ボクがどうなるのか」
 ぎゅ、と握る拳は、白くて薄い。
「云ったでしょう、バクラは僕の身体を使って何か悪いことをしようとしてる。止めさせたいけど、出来ないんだ」
 それに、逃げられない。
 小さな声から感情は読めなかった。
 逃げたいのかと問うても、了は答えない。恐らく本人にも分からないのだ。
 捕えられているのか、捕らわれたままでいたいのか。
 了の心はあの男の手の中にある。盗めていないと、バクラは己の自惚れを知り内心舌を打った。随分懐いていたから、とっくに了は自分のものだと思っていた。
 ――あの男が邪魔をする。
「関係ねえよ」
 ふと、そんな言葉が勝手に口をついて出た。
「オレ様は盗賊だぜ? てめえが嫌がったって、盗んで連れて行くさ」
「でも」
「でもじゃねえ、もう決まってんだ。あいつからてめえを盗む」
 抱きしめる腕の力はどこから湧いてくるのだろう。両の腕の中に閉じ込めて、言葉は囁きに変わっていた。
 了の表情は分からない。困っていたのか泣いていたのか、笑っていたのか。
 それでも、伺えぬ表情の向こうから、小さな笑い声が聞こえて。
「……盗む前に、名前を教えてからにしてよ、赤いひと」
 聞き慣れ、呼び慣れた名前を、口にされた。
 赤い人。了が呼ぶバクラの名前。
 復讐者でも盗賊の王でもない、ここにいるバクラ自体しか知らぬ者が呼ぶ名前。
 本当のことは何も知らない了。
 盗むと云った、連れて行くと云った台詞に、彼は明確な答を返さなかった。
 否、返せなかったのだろう。
 ――ならば、
(今はそれでいい)
 いつかここを抜け出して、全てを終わらせて。その時に。
「盗む時に、教えてやるよ」
 そう云うと、了はうん、と小さく頷いてから、もう何も言わなかった。
 きっと、今日の逢瀬の終わりは近い。男が戻れば了は心の部屋から解き放たれ、現実の世界とやらに浮上する。逆に男がここへ来ることは滅多にない。バクラと顔を合わせたくないのか、その理由は定かではないが――好都合である。バクラとて、男の顔を見たくはない。何せ恋敵だ。
 或いは、男はバクラとの邂逅の瞬間に、その可能性を考えていたのやもしれぬ。男にとって重要なファクターである了を奪われることを、多少なりとも危惧していた可能性はある。
 あの冷たい瞳は、牽制の意味合いがあったのか。
 もしそうなら、
(俄然燃えるってもんだ)
 バクラは笑う。閉じ込めた了をぐっと抱え込んで。
「待ってな、了」
 唇のすぐ近くにある白い耳に囁くと、了はまたあやふやな声で、うん、と云った。
 了の中で、天秤が揺れている様を思う。男と、バクラと。
 それもいつか傾く。力づくで。
 何、そう遠い日ではない。

 全て終わったら教えよう。この綺麗な青色人形に。

 その時が来るまで――バクラは、了の中では赤い人でいてやるのだ。